105 エリーの家2
Ж
不用心にも、門扉は施錠されることなく開いていた。
俺はどうしましょうかとポラの方を見たが、ポラは「どうもこうもないでしょう」と言って、ズカズカと敷地内に侵入していった。
綺麗に芝生の整備された前庭を抜けると、背の高い玄関へとやってきた。
俺は「エリーさん、いますか」と大きな声を上げた。
返事はない。
しょうがなくドアノブに手をやると――驚いたことに、こちらにも鍵がかかっていなかった。
「あ、開いてますよ」
俺は目を丸くして、ポラを見た。
「開いてますね」
ポラはふむ、と唸った。
「何か様子が変ですね」
「入ってみますか?」
「そうしましょう」
「あの、でも」
「なんですか」
「怒られませんかね。勝手に入って」
「怒られるかもしれませんね。そしたら謝りましょう」
ポラは事も無げに言うと、無遠慮に玄関へと入っていった。
なんというか、この人って、意外と怖いもの知らずなんだよな。
俺は少し躊躇った後、昼寝を始めたシーシーを背負ったまま、こそこそとポラについて行った。
エントランスは吹き抜けになっており、すぐ右手に2階へと至る螺旋状の階段が設えてあった。
奥にはまた別の部屋進む廊下があり、それがまた右に左に分岐している。
一体、いくつ部屋があるんだろう。
ポラは迷わず階段を登っていった。
階上に上がると廊下が直進と右の二手に分かれていた。
ポラは真っすぐ進んだ。
廊下は長かった。
左側はバルコニーのようになっており、そこから小さな光庭が見えた。
右側の壁には高級そうな絵画がいくつも飾られてあり、高そうな大きな甕や円錐のようなよく分からない形のモニュメントが置かれていた。
「おかしいわね」
歩きながら、ポラが呟いた。
「前に来た時と位置が微妙に違う」
先ほどから迷いなく進んでいるからそうだろうと思っていたが、やはり、彼女はここに来たことがあるようだった。
「位置ってのは、この置き物とかの位置ですか」
「うん。前に比べると、大甕の位置が少しだけズレてる」
「模様替えしたんじゃないですか」
「いや、エリーさんはそういうことには全く興味ないから」
「そんなことないでしょう。そもそも、この調度品はエリーさんが買ったものなんでしょ?」
「いえ。エリーさんは前の所有者から全て居抜きで購入しているから。この家にあるもの、庭にあるものはすべて、前の人の趣味です」
ポラはそこで少し声音を落とした。
「私はエリーさんの家に初めて来たときから、調度品や絵画は一ミリたりとも動いたことはなかった。インテリアとか芸術とか宝石とか、そんなことには頓着がない人だし。この広い部屋でも、あの人が使っていたのはこの奥にある寝室だけ。家には寝に帰るだけで、住居には興味がない人だったから」
「それって――どういうことでしょうか」
「つまり今日、エリーさん以外の人がこの家に入った可能性がある」
「エリーさん以外の人って――友達でしょうか」
「私たちに友達なんていません」
ポラはそう言い切り、首を傾げた。
「まあいいでしょう。とにかく、寝室に行けば何かわかるかもしれません」
そう言って、彼女は少し足を速めた。
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「おかしいっすね。全然、開きません」
廊下の一番突き当りの部屋、寝室の扉は開かなかった。
俺が引いても押してもうんともすんともしない。
「玄関は開けているのに、寝室は施錠してるってのも変ですよね」
俺は首を傾げた。
おかしいのはそれだけではなかった。
普通、鍵の掛けられた部屋でも、遊びの部分のおかげで前後に動かせば少しは動くものだ。
しかし、この扉はまるで接着剤か何かで固めているかのように、文字通り一ミリも動かない。
「ふむ」
そのことを伝えると、ポラはそう唸ってから、俺の代わりに扉の前に立った。
それからドアノブに手をかざすと――
バチッ、と火花のようなものが散った。
「い、今のは」
俺はごくりと息を吞んだ。
「簡易魔法陣による光気錠ですね」
ポラは言い、もう一度ノブを握った。
「光気錠?」
「一言でいうと魔法を使った鍵のことです」
「魔法を使った鍵、ですか」
よく分からない。
俺は首をひねると、ポラは「簡潔に説明しましょう」と言った。
「人にはどんな人間にも“魔力”というものがあります。そして魔力には魔力痕というものがあり、それは人それぞれ千差万別で、二人として同じ魔力痕の持ち主はいません。それを応用し、特定の人間が触れたときにのみ開錠できる仕組みの魔法陣があり、それが魔法による錠前として活用されているわけです」
「なるほど。そんなものがあるんですね。では今回、その“特定の人間”だった人物が――」
「私だった、ということです」
ポラはそう言うと、先ほどまでビクともしなかった扉を、がちゃりと開けたのだった。
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中にエリーの姿はなかった。
寝室にはほとんど物が置いていない。
やや大きめのベッドの他にはもう本と本棚しかない。
ただ――その本の数が異常だった。
駄々広い部屋には、びっしりとおびただしい数の本が本棚にビッチリと収まっている。
ベランダへ出る掃き出し窓以外は、全て本棚で埋まっていた。
何にしても、生活感はゼロだ。
「……ポラさん、何かおかしいところはありますかね」
俺は部屋の中央辺りまで進んだところで聞いた。
ベッドの上には、読みかけていたのだろう本が一冊だけ置かれてあった。
「いえ。この部屋は前と全く同じです」
室内を眺めながら、ポラが言った。
「異常なし、か。それじゃあ、やっぱりエリーさんと入れ違いになってしまったってことでしょうか」
「逆です。私は今、確信しました。エリーさんには、やはり何かあったんでしょう」
「どういうことです?」
つまりですね、とポラは説明を始めた。
「玄関の鍵はかけているのに、寝室には簡易魔法陣まで使って施錠している。私以外には部屋を見せたくないのに、室内にはなんのメッセージもない。要するにこれは――この“異常のない状態”こそ、エリーさんからのメッセージなわけです。何らかのトラブルに見舞われたが、中に入ってメッセージを遺す暇がなかった。だから外から私が来ると発動するギミックを仕掛けた。恐らくはそういうことでしょう」
ポラはそこで言葉を止め、俺をちらと見た。
「その、何らかのトラブル、というのは」
と、俺は聞いた。
「そこまでは分かりません。しかし――こうなると、外にあった大甕の位置のズレが気になりますね」
「あれが何か」
「あれがエリーさんの仕業でないなら、第三者がこの家に侵入したということになります。そしてその時、あの甕が倒れた。さらにここが重要なんですが、その侵入者は、“律義にも甕を元に戻した”ということになる」
「それってつまり――」
俺はごくりと息を吞んだ。
ポラは「ええ」と頷いた。
「その侵入者は強盗や空巣などの類ではない、ということです。いくら几帳面な性格だったとしても、わざわざ倒れた調度品を戻す犯罪者はいませんからね。明らかに侵入を隠そうと工作している」
「強盗や空巣ではない。遺された光気錠から、友人や知人とも考えにくい。では、その侵入者というのは一体、どんな人物だったんでしょう」
「考えられるものはいくつかあります。その内で一番ありえそうなのは――」
ポラが説明を始めようとしたとき「ンゴォ」という声が室内に響いた。
俺は一瞬、身を固くしたが、すぐに背中のシーシーのいびきだと気づいた。
しがみついたまま熟睡している。
「……まあ、今はまだ何もわかりません。とりあえず、この部屋をもう少し調べてみましょう」
ポラはそう言うと、ベッドの上の本を手に取った。
『魔術体系の歴史』と表題に書かれてある。
装丁の古そうな本だ。
俺ははい、と頷いて、イビキをかき続けるシーシーを背負ったまま、本棚を調べた。
だが、やはり一見したときと同じく、まるでおかしいところはなかった。
きっちりしているだけに、調べるところもほとんどない。
念のためベッドの下まだ攫ってみたが、何もなかった。
「あら」
つと、ポラの声がして振り返った。
すると、一枚の紙片が彼女の手元からひらひら舞い落ちるところだった。
「なんでしょう、これ」
ポラはそれを拾い上げて見つめた。
どうやら、ポラが調べていた学術書『魔術体系の歴史』に何か挟まっていたようだ。
俺は彼女の方へと移動し、横からその紙を覗いた。
『マイアム・バイヤーズ・クラブ』
一辺10センチほどの紙切れにはそのように書いてあった。
どうやら店舗の名刺のようである。
しかし、名前以外には何も書かれていない。
「マイアム・バイヤーズ・クラブ、か。ポラさん、聞き覚えあります?」
「いえ。エリーさんの口からも一度も聞いたことがないです」
「クラブ、ということは、飲み屋か何かでしょうかね」
「さて……私はどちらかと言えば、ドラッグ関係の匂いがしますが」
「ドラッグ?」
「麻薬や覚せい剤を取り扱う地下組織です。“バイヤーズ”というのは、恐らく海外からの直仕入れ、つまり仲介業者やシンジゲートを介さない卸売り専門の店、という意味ではないでしょうか」
「なるほど。地下組織だというのは、どうしてそう思うんです?」
「住所が書かれていないからです。名刺というのは広告です。普通、店舗の広告を打つのに、住所を書かないなんてありえないですからね」
なるほど、と俺は頷いた。
全く、この人の洞察力には恐れ入る。
「これはなにか、エリーさんからのメッセージでしょうか」
「いえ、そうではないでしょう。仮にメッセージを遺すなら、もっとはっきりとしたものを示すはず」
「じゃあ、あまり関係ないんでしょうか」
「そうとも言えません。メッセージではないにしろ、最後に読んだ本に挟まっていたということは、エリーさんは直近にこの場所へ赴いた、或いはこれから赴く予定だった、ということですから」
「手掛かりには変わりないということですね」
何でもいい。
手がかりがあったのは幸いだ。
「なんだか胸騒ぎがします」
ポラはそう言うと、いかにも真剣な面持ちで眉を顰めた。
「これはいよいよ怪しいですね。そもそも、うちの副船長を説得してどこかへ連れて行く、なんて芸当はおいそれとは出来ません。彼女を強引に拉致するなんてのはもっと難しいでしょう」
ポラは紙片をカバンに入れ、本をぱたん、と閉じた。
たしかに。
言われれみればその通りだ。
白木綿の副船長をどうこうできる人間。
それはまさに化け物だ。
少なくとも、うちの師匠クラスの戦闘力は必要だ。
「ど、どうします、これから」
「とりかえず、近辺の家に聞き取りを行いましょう。今日の朝、この家の周りで何か変わったことはなかったか。それを確認しておきたい」
分かりました、と俺は顎を引いた。
ポラの真剣な表情に、緊張が増していく。
そのように感じて、俺は手のひらにじっとりと汗をかいた。
ことは、俺が思っているよりずっとヤバイのかもしれない。