番外編3 キース
キース=シリングは鏡の前で身嗜みを整えていた。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、酷く薄いその髪の毛を鼈甲櫛で後ろに撫でつけている。
少ない割に癖っ毛で跳ねる毛髪を整えたら、最後に髭をちょいちょいとひっぱり、完璧。
今日のために仕立てたド派手な臙脂色の高級スーツに身を包み、短い脚を広げてポージングをした。
うーん。
渋い。
我ながら渋すぎるぜ。
あとは香水を手首につけ、それで首筋をこすってから、軽くコロンを振って終了だ。
キースは姿見の中の自分に親指を立てた。
「キース様。本当に一人でよろしいんですか」
横で控えていた男が心配そうに聞いた。
キースの直属の部下の男――ムンベアである。
「当たり前だろうが。せっかくのデートにお前みたいな大男がいたらむさ苦しくてしょうがない」
「しかし、最近はプリメーラでも移民系の組織が派手に動いているそうで」
「黙ってろ。俺は一人で行く」
「どうしてそんなに拘るんですか」
「ポラさんが嫌がるんだよ、そういうの」
キースはそう言って肩を竦めた。
全く、これだから軍人崩れは駄目なんだ。
恋愛の情緒というものが分かってねぇ。
「マジでついてくるなよ。ついて来たら、親父に言って下っ端に降格させるぞ」
「……了解しました」
ムンベアは納得していない様子で顎を引いた。
「よーし、それじゃあ行って来る。ママに言っとけ。今日は晩飯はいらねえぞってな。きっと今夜は泊まりだ」
キースはガハハと豪快に笑うと、洗面台の上に置いてあった薔薇の花束を担いで部屋を出た。
Ж
外は生憎の曇り空だった。
キースは蒸気自動車から貧困層区域第一地区に降り立ち、空を仰いだ。
ここに彼女の住む海賊船が停泊している。
天気はあまりよくないが、それでも素晴らしい一日になる予感に胸が躍っていた。
人気の少ない港内をピーピーと口笛を吹きながら歩いていると、タナカの姿が目に入った。
臨港道で、何やら棒を一心不乱にブンブンと振っている。
何やってんだこいつ。
「よう、タナカ」
キースは話しかけた。
「あ、キースさん」
タナカは棒を振るのを止め、キースを見た。
「珍しいですね。何やってるんですか、こんなところで」
息を整えながら、腰に携帯していた雑巾のようなぼろぼろのタオルで額の汗を拭う。
「お前こそ何やってんだ。珍妙なことしやがって」
「これ、野球ってスポーツなんです」
「ヤキュー?」
「はい。俺の愛している競技です。あ、キースさんもよかったらどうです? 俺、今第5地区辺りの子供たちとチーム作ってて。いい運動になりますよ」
「馬鹿野郎。俺は運動が大嫌いなんだよ。それに、マフィアの若頭がガキに混じってそんな間抜けな動きが出来るか」
「間抜けじゃないっすよ」
タナカは少しムッとしたように言い、ブン、ともう一度棒を振った。
何度見ても変な動きだ。
棒を横に水平に振るだけなんて、どういう競技なのか想像もつかない。
「とにかく、大人は忙しいんだよ。お前らなんかと遊んでる暇はねぇの」
「そう言えば、今日はまた随分とおめかししてますね」
タナカはそこで改めて顎に手を当て、マジマジとキースを見た。
ようやく気付きやがったか。
キースはふふんと鼻を鳴らした。
「今日はポラさんとデートなんだ」
「え? マジすか」
「そうだ。要するにてめぇなんて、俺たちの間に入り込む余地はねえんだよ」
キースは右の眉をぴくりと上げ、ドヤった。
一度、ビシッと言っておかないといけないと思っていたのだ。
このタナカ。
あろうことかポラさんと同じ部屋で寝泊まりしてやがるのだ。
つまり、この俺の恋敵なのである。
だが、どうやらまだ一線は超えていない。
というか、ポラさんがこんなクソガキなんかに体を許すはずもないんだが。
恋人の第一候補はあくまでこの俺。
キース様なのだ。
……とはいえしかし。
同居というのは油断できない。
キースは、正直に言うと今でも疑っている。
二人の仲がどこまで進んでいるのか。
「マジですか! よかったじゃないですか」
だっていうのに、タナカは心から嬉しそうにそう言い、キースの手を握った。
「ははーん、その薔薇はプレゼントっすね。カッコいいなあ」
屈託のない、キラキラした目でキースを見る。
「そ、そうだろ」
キースはごほんと空咳をした。
……こいつ、悪い奴ではねーな。
「あら、キースさん」
と、その時。
いきなり背中から天使の声がした。
キースは喜び勇んで振り向いた。
紙袋を抱えたポラが立っていた。
「ポ、ポラさん!」
キースは大好きなご主人様が帰ってきた時の飼い犬のように目を輝かせた。
「あらら、もう来ちゃったんですか。ごめんなさい。ちょっと買い物に出てまして」
「いやいや、俺が早く来てしまっただけのこと。今日は何故か目が早く覚めちまって」
あははと笑いながら、改めてポラを見た。
髪を下ろし、質素なシャツに柄のないスカート。
所帯じみた生活感あふれる服装だった。
化粧っけもなく、ちょいとそこまで出かけるようなラフな感じだが――しかし!
これはこれで死ぬほど可愛い。
「ああ、今日もなんて美しいんだ」
キースは眩しそうに眼を細め、よろりとよろめいた。
「見てください、この青空で輝く太陽。あの太陽でさえも、ポラさん、あなたの美貌には敵わない」
ポラは空を見上げた。
それから「今日は曇りですけど」と呟いた。
「比喩ですよ、比喩」
キースはうほんと咳をした。
「これは心ばかりのプレゼントです。あなたの美しさには劣りますが、綺麗だったので」
そう言って薔薇の花束を差し出した。
わあ、とポラは目を大きくした。
「ありがとうございます。とても素敵。生花の薔薇なんて久々に見ました。高かったでしょう」
そう言って、嬉しそうに微笑む。
それだけでキースはとろけてしまいそうだった。
好きな人が喜んでくれるというのは、なんて快感なんだろうか。
「いやいや。見ての通り、金ならありますから」
キースはなははと笑いながら、腕時計をちらりと見せた。
露骨に宝石が埋め込まれた螺子式細工時計だ。
子供のような仕草に、ポラは思わずくすりと笑った。
「それじゃ、ちょっと待っててくださいね。急いで用意しますから」
「いえいえ。ごゆっくり。このキース、レディの支度なら何時間でも待てますよ」
「ふふ。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、ポラは歩き出した。
だが、数歩進んだところでつと足を止め、踵を返し、こちらに向かってきた。
どういうことかと、キースは眉根を寄せた。
すると。
訝るキースを通り越し、ポラはタナカの方へ近づいた。
「ポチ君。なんですか、このだらしない髪は。はやく散髪に行きなさいって言ったでしょ」
ポラはそう言いながら、タナカの頭に手を置いた。
そして、わしゃわしゃと髪の毛を乱した。
「あ、すいません。なんか面倒くさくなっちゃって」
「んもう、明後日にはメラー区役所の人事局次長と会食があるんですからね」
「覚えてます。でも、まあ明日で良いかなって」
「駄目です。今日中に、その伸び放題な頭髪を短くしてきなさい」
そう言って、今度はよしよしをするようにタナカの前髪を撫でつける。
タナカはちょっと口を尖らせながら、すいません、と頭を下げた。
「分かりました。今すぐに切ってきます」
「分かればよろしい」
ポラはにこりと笑った。
「じゃ、キースさん、ちょっと待っててくださいね」
ポラはもう一度キースにそう言うと、今度こそ停泊した居住船へと向かった。
「ったく、小言が多いんだから。最近、本当のお姉ちゃんみたいになってきて困ってるんですよね。ねえ、キースさんはどう見えま――ひっ!」
独り言を言っていたタナカは、殺気を感じてそこで言葉を止めた。
キースが――無言でタナカを睨みつけていた。
カップルがお互いの髪の毛に触れ合う、という行為は、実は二人が性行為を経験した後にする親密度の高い行動なのである。
彼が定期購読しているファッション学報にそのように書かれてあるのを思い出した。
……まさかこの野郎。
いつの間にか、ポラさんとそういう仲になったのか?
前言撤回だ。
俺の本能が言っている。
やはりこの野郎は――敵だ。
「な、なんすか、キースさん」
タナカは怯えたようにキースを見た。
キースは無言のまま。
ギリギリと下唇を噛みながら、いつまでも恨めしそうにタナカを睨みつけていたのだった。
Ж
坊ちゃん、大丈夫だろうか。
その様子を、少し離れた海産物倉庫から眺めている男がいた。
キースのことが心配で、結局ついて来てしまったムンベアである。
元ラングレー陸軍の伍長であったムンベアは、5年前に軍隊を追放された。
部下に理不尽に暴力を振るい、死に追いやった上官を殴って病院送りにしたのだ。
ついでにその事件を隠蔽し誤魔化そうと動いていたその一派も全員タコ殴りにした。
上官に殺されたその部下は、ムンベアが可愛がっていた男だった。
即座に軍法会議にかけられた彼に言い渡された判決は禁錮2年。
暴行罪及び抗命罪としては随分とぬるい判決だが、それは裁判が長引くことによって、当該上官の不祥事が外に流出することを恐れた陸軍将官どもの根回しのおかげであった。
皮肉にも、上官が想像以上のクズであったおかげでムンベアは軽い罰で済んだのである。
刑期があけて、行くところのなかった彼を拾ったのがリヴァプール商会だった。
自分が正義だと信じ込んでいたものが、実はゴキブリのクソ以下のゴミ溜めだった。
幼いころから正義を信じ、正道を歩くことを誓っていたムンベアは酷くショックを受けた。
心が荒み、酒を飲んでは街のアラクレどもと喧嘩していた。
生きる意味をなくし、彷徨うように生きていた彼に光をあてたのが会長であるジノだった。
マフィアは悪。
警察は善。
安易な二元論に囚われていたムンベアはここでまた衝撃を受けた。
裏社会を知れば知るほど、公僕どもがいかに汚れているのかを知った。
そして、自らがいかに無知であったかを悟った。
ムンベアにとっては、マフィアは軍隊よりよっぽど仁義がある様に思えた。
同じ悪でも、正義面していないところが気に入った。
彼はジノ会長に心酔していた。
この組織に命を賭ける覚悟だった。
彼がキースについてもう3年になる。
ムンベアは身の回りの世話から身辺警護まで全てを任されていた。
故に、キースのことなら何でも知っている。
だから心配で尾行しているのだ。
もちろん、“ゲットーが危ないから”という理由だけではない。
もう一つ、最大の懸念事項があるのだった。
坊ちゃんは。
致命的に女性にモテないのだ。




