番外編 パニーニ 1
Ж
「すいません、何か食わせてくれませんか。腹減って死にそうなんです」
店外で閉店作業をしていると、少年が声をかけて来た。
パニーニは小さな黒板を手にしたまま、眉根を寄せた。
見たことのある男だ。
確か、有名な海賊の一味だった。
あのやたら偉そうな女船長から「ポチ」と呼ばれていたか。
何をやって来たのか、体中泥だらけで、よく見ると手足には擦過傷も多くみられた。
「あんた、白木綿さんのとこの」
「そ、そうです」
「悪いけど、もう閉店なの」
「それは承知してるんすけど――そこをなんとか」
「でも、もう食べるものほとんど残ってないよ」
「ほとんどってことは、ちょっとは残ってるってことすか?」
「……多分」
少年はお願いします、と顔の前で手を合わせた。
「それでいいんで! もうどこも開いてないんです」
半泣きの状態。
情けない顔。
「……ちょっと待ってて」
パニーニは踵を返して店内へと戻った。
勝手に店に入れてやることは憚られた。
店長は、そういうところは結構うるさい。
しかし――この子は今すぐにでも食べないと死んでしまいそうだ。
パニーニは店内に戻ると、厨房に入ってこっそりパンと干し肉、それから果実ジュース一本を持ち出した。
「はい、これ」
差し出すと、少年――ポチは涎を垂らして目を丸くした。
「あ、ありがと!」
そしてひったくるように手に取ると、その場に座り込んでガツガツと食べ始めた。
急ぐあまり喉に詰まったようなので、今度はジュースを差し出した。
ポチは胸をドンドンと叩き、それから瓶を煽った。
プハーっと、息を吐き、また食事を再開する。
本当にお腹が減っていたのね。
パニーニはポチの横にしゃがみ込み、頬杖をつきながら、くすくすと笑った。
「ありがとう。生き返った」
すっかり食べ終わると、ポチはにっこりと笑って礼を言った。
「えっと、いくらになるかな」
「別にいいわよ。残り物だし」
「そうは行かないよ。無理も言っちゃったしさ」
「良いってば」
パニーニは立ち上がり、踵を返した。
「ちょっと待って」
店内に戻ろうと短い階段を登っていると、背中から呼び止められた。
「なに?」
「えっと、ちょっと待って」
ポチはポケットをごそごそと弄った。
そして、何やらペンと紙切れを取り出して書き込んだ。
「これ、俺の住んでるところ」
「住んでるところ?」
「何か困ったことがあったら、いつでもきてよ」
「どういう意味?」
パニーニは怪訝そうに顔を曇らせた。
「上司に言われてるんだ。借りを作ったら必ず返せって」
「だから、借りなんて大げさなもんじゃないってば」
「そんなことないよ。すげー助かったし」
ポチはニコニコと笑いながら、お腹をぽんぽんと叩いた。
「まあ、必要ないならゴミ箱に捨てといてよ」
じゃあねと言うと、彼は踵を返して駆け出した。
パニーニはその背中を見ながら、変な奴、と呟いた。
Ж
パニーニは安いバーの給仕として働いていた。
給料は安いが、仕事量は多い。
開店から閉店まで、ずっと動きっぱなしだ。
客はほとんどが酔っ払いのおじさん。
品がなく、節操もない。
毎日毎日お尻を触られて、胸を揉まれることさえある。
今さら別にいいけど、対価を払ってほしい。
“そういうこと”がしたいなら、別料金を払えって感じ。
そういった有様だから、この前に知り合ったポチという少年はパニーニにとって少々特別だった。
まず、この店には若い子があまり来ない。
来たとしても、いかにも下品で粗野で、女を性の相手としかみていないような輩ばかり。
だがあの少年。
あの子からは、そこはかとない品性を感じた。
身なりは変わらないのに。
不思議だけど、すごく上品に思えた。
きっと、育ちが良いんだろう。
あの日から、ポチは何度か店に来た。
ほとんどは乗組員の付き添いだったが、時々一人で来ることもあった。
彼と接している内、彼女はそのように想うようになった。
パニーニは知らず知らず、彼を目で追っていた。
この辺りではあまり見ない平べったい顔の造作をしているが、よく見ると、なかなかハンサムだということに気付いた。
へらへらしているように見えて、目の奥には揺らぎない力強さがあることも。
「第一地区の港、か」
休憩に入り、パニーニはおもむろにいつか受け取ったメモを取り出した。
いつしか、それを眺めることが彼女の癖になっていた。
Ж
ある晴れた日のこと。
パニーニは思い切って、ポチからもらった紙に書かれてあった場所へ向かった。
特別、彼に用事があるわけではなかった。
恩を返せ、という気もない。
ただ――一度、ポチとじっくり話がしてみたかった。
あの少年からは、どこか異国の香りがした。
生まれてから一度もこの街から出たこともなかった彼女は、そこにどうしようもなく惹かれていた。
昼前には彼が住んでいる『白木綿海賊船』の停泊している波止場へ着いた。
ここは第一地区の中でも特別に隔離されていて、この船しか停められないようになっているという。
彼の居住船は思ったよりずっと小さかった。
この中に、彼がいる。
そう思うと胸がソワソワした。
本当に行くべきか、それとも帰るべきか。
どうしても決心がつかず、埠頭の近くにある倉庫前をウロウロしていた。
――困ったら、いつでも来てよ。
ポチはそう語った。
だが、別に自分は今困っているわけではない。
それなのに、いきなり押しかけたら、嫌な顔をされるんじゃないか。
「あ、パニーニじゃん」
突然、背後から声をかけられて、パニーニは危うく声が出そうになった。
振り返えると、そこには荷物を抱えたポチが立っていた。
「あ、ああ、ポチ」
パニーニはあたふたした。
自分でもみっともないと感じて、顔が赤らんだ。
「どうしたの、わざわざ」
「いや別に。用事は無いんだけど」
「用事無いの?」
「ああいや、あるといえばあるんだけど、無いと言えば無いって言うか」
「どういうことよ」
ポチはケラケラ笑った。
「とりあえず、うちに入る? 中でお茶でも」
「いいの?」
「いいよ」
ポチは両手が塞がったまま、器用に親指を立てた。
今日の彼の服装は、いつもと違ってとても綺麗で新鮮だった。
店に来るときはいつも泥だらけだから。
「じゃ、じゃあ、お邪魔……しようかな」
「オッケ。決まり」
ポチは白い歯を見せて、屈託なく笑った
沖から吹いた潮風が彼の前髪を吹き上げる。
ニャアニャアと、頭の上でうみねこが鳴いた。
パニーニは「うん」と頷いた。
日差しのせいだろうか。
それとも、海に反射した光のせいだろうか。
今日の彼は、いつもより少しキラキラして見えた。
この番外編は、時系列的には2章と3章の間の話です。
もう一話つづきます。




