100 バルバトフ 2
Ж
ほどなく、赤い月の所在が判明した。
トラオレはすぐに腕利きのスイーパーと共に、少女を取り返すためにメラー・ストリートにあるレストランへと向かった。
そのことを知ったバルバトフは、密かに、たった一人でそのあとを追った。
護衛もつけずに外に出るのはずいぶんと久しぶりのことだった。
トラオレか、それともルーナか。
俺は一体、どちらに死んで欲しいと思っているのか。
それとも、どちらにも消えて欲しいのか。
尾行をしながら頭の中でずっと考えていた。
だが結局、最後まで自分でも判然としなかった。
そして、“あの事件”が起きた。
惨劇の現場で、バルバトフの頭は不思議と冷え切っていた。
父親の死体を見てさえも、何の感情も沸かなかった。
目を剥いたその躯の瞳を閉じてやった時も、ああ死んでいると思っただけだった。
だが――気を失ったルーナを見た瞬間。
一転して、バルバトフは激しい感情に襲われた。
バルバトフは赤い月が憎かった。
父を殺したからではない。
父を――変えたからだ。
この女があの偉大な男を堕落させた。
一族の父を。
俺の父さんを。
この女が俺から――この俺から父を奪ったんだ。
そのことが、全身の血が沸騰するほど腹立たしかった。
こいつがいなければ、きっとすべてがもっと上手くいったのに。
父もあの負け惜しみのような惨めな“嘘”を吐くこともなかったのに。
激しい衝動に駆られて、バルバトフはデイジーの傷を捏造した。
気を失ったルーナの手からナイフをとり、それでデイジーの亡骸の首筋を刺した。
ナイフの技術は叩きこまれていたが、実際に人間を刺したのは生れてはじめてのことだった。
刺した瞬間、驚くほど手応えがなかった。
だが、すぐに骨に当たって、そこから血が噴き出した。
彼は驚いて、ナイフを刺したまま後ろに飛びのいた。
腕まで血だらけになっていた。
その手で頬を擦ってしまい、今度は顔中が血まみれになった。
ああ――俺もまた、狂ってしまっていたんだ。
バルバトフは血の海の真ん中で、体を震わせた。
精霊や巫術などにはてんで無関心だったが、その時、彼の頭には幼いころに祖国で聞いた冥界の話が過ぎっていた。
メメント・モリ。
アーレア・ヤクタ・エスト。
ネーモー・フォルトゥーナム・ユーレ・アックーサト。
熱にうなされたようにブツブツと呟きながら、バルバトフはよろりとよろめいた。
それからしばらくの間、バルバトフの意識は朦朧としていた。
その場を誰かに目撃されていたら厄介なことになるのは必定であった。
だが幸いなことに、その後、頭の一部は急速に冷えていった。
未だ身体は火照っていたものの、なんとか心が落ち着き冷静になれた。
その頃にはすでに、後悔や呵責はなくなっていた。
彼は空を見上げて、一瞬だけ顔を顰めてズッと鼻をすすったあと、逃げ帰る様にその場を後にした。
Ж
月日が経ち、バーギトは新しい局面を迎えた。
ある日、フリジアのど真ん中を、大きな幹線道路が造られるという噂がバルバトフの耳に届いた。
彼は直感的に組織をさらに大きくするチャンスだと感じた。
それは、貧困層から選出された議員が力をつけた証拠であった。
奴らは市長に働きかけ、きっとこちら側にも金を回すように画策する。
そして将来的には、フリジアを二分する境界はなくなるはず。
その時までにゲットーを牛耳っていれば、リヴァプール商会やヴェルザー家にも負けない力をつけられるはず――。
彼の胸は野心に燃えていた。
バルバトフはまず、富裕層地域から最も近い、第一地区から第二地区の土地に目を付けた。
将来的に最も土地の値段が高騰するのは間違いなくここだ。
とはいえ、情報を握っている組合は皆目をつけている。
特に在来の地元商工業者が協力して競りに参加すれば、資金的にこちらに勝ち目はない。
その点、第三地区ならかなりコストは安くつく。
だが――こちらの展望は明らかに弱い。
組織の運命を担保にかけ、バーギトそのものを賭して第二地区を狙うか。
それとも、安全策をとって第三地区で妥協するか。
バルバトフは悩んでいた。
バルバトフは部下を連れて第三地区を現地視察に出向いた。
実際に足を運んでみると、思っていたよりもずっと活気があり悪くない土地だった。
確かに間に大きな河川があり、有事の際の懸念はあったものの無駄な空き家は少なく経費は抑えられそうだった。
旧街道筋にはいくつも裏路地があり、そこから第5地区や第7地区へと波状するように裏道が伸びていた。
もっと長い目で見た場合、下手をするとこちらの方が繁栄する可能性もある。
バルバトフはそのように見立てた。
この時すでに、バルバトフの中では半ば第3地区に心は決まりかけていた。
そして、ここで計画を決定づける出来事が起こった。
バルバトフ自身も全く意想外のことであった。
メラー通りの裏路地を歩いているとき。
バルバトフは赤い髪の少女を見かけたのだ。
酷く痩せこけていたが、それは紛れもなく“赤い月”だった。
そうだった。
そう言えば――この街は、奴の働いていたレストランがある区域だった。
Ж
バルバトフは部下を先に帰らせて、一人で彼女を追った。
ルーナは相変わらず、デイジーの店で働いていた。
ずいぶんと明るく振舞っていたが、バルバトフには分かった。
彼女が決して幸福ではないことに。
その姿を見ても、もう怒りの感情は微塵も沸いてこなかった。
哀れなルーナを見て、バルバトフは、自らの復讐が成ったことを認識した。
……復讐?
バルバトフはその時、得も知れぬ違和感を覚えた。
月日が経ち、改めて見るルーナはあの時の彼女とはまた別物に見えた。
俺が変わったのか。
ルーナが変わったのか。
――いいや、きっとどちらも違う。
あの衝動に駆られた時の俺が、狂っていただけだ。
長い間俺が“赤い月”に抱いていた感情は、最初から憎しみなどではなかったのではないんだ。
父が殺された瞬間、湧いてきたあの感情は――
嫉妬だ。
思えば、俺はずっとルーナを妬ましく思っていた。
父が自分を見ず、彼女ばかり見るから。
どんなに努力しても、俺を見てくれないから。
あの少女が羨ましかったんだ。
俺は、自分より優れた存在を認めたくなかっただけだったのだ。
その瞬間。
バルバトフの記憶の中で、かつての殺し屋“赤い月”の姿が瞬いた。
あれは何年前になるだろうか。
若いバルバトフは、彼女の仕事をこの目で見たことがあった。
その姿を一目見た瞬間、憧れを抱いた。
均整のとれた体躯。
無駄のない完全なる機能美。
豹のようにしなやかで強靭だった。
偉大なる父が愛した、優秀なルーナ。
ああそうか。
かつての俺は、畏れながら妬みながら。
同時にどうしようもなくあの少女に惹かれてもいたのだ。
――もう一度、ルーナが欲しい。
唐突に、バルバトフはそのような感情に襲われた。
このような反転が起ころうとは、自分でも予想だにしていなかった。
しかしそのとき確かに、彼の心はルーナに奪われた。
我が“バーギト”の隆盛と破滅の象徴。
狂気と殺戮の女神。
毒と蜜の混在する禁断の果実。
彼女をもう一度、自分たちの手元に置いておきたい。
だが。
俺は――父の様に、ルーナを悲しませることはしない。