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ぎっと軋んだ音を立てて扉を開けたシェリーは、本に埋もれている背中を探して首を巡らせる。
すると、まだ部屋の端まで目が行く前に思わずわあと声を上げてしまった。
机と椅子と本棚しかないこの部屋は、ほとんどが本と書類で埋まっている。ぎゅうぎゅうに詰められた本棚からあふれたものが床や机に高く積み上げられ、隙間には書類やら図面やらが乱雑に挟まっていた。
窓を開けると飛んで行ってしまうからと、部屋の主人はこの埃っぽい部屋を保ち続けている。
そんな壮絶な部屋に、似つかわしくないものがあってシェリーは驚いた。
本の山を崩さないように避けながら窓際に行くと、本と本の間に薔薇の鉢植えがあったのだ。
春の穏やかな日差しを受けて、赤い花弁が淡く透きとおっている。素焼きの鉢に、赤い薔薇。手のひらよりも小さな花は、深緑の葉から頭を伸ばすように咲き誇っていた。
みずみずしく、やわらかそうなそれは本当にきれいな赤色だ。
「アル、これどうしたの?」
なんてきれいなんだろう。シェリーはほうとため息をついてから、ゆっくりと首をかしげた。
すると、奥の本棚から淡々とした声が返される。
「もうすぐ春祭りの仕度だろう。課題の見本に用意した」
「ああ、もうそんな時期ね。そっか、春祭りかあ」
唐突に押しかけたはずなのに、返ってきた声は平然としていた。いつものことなのでシェリーは気にせずになるほどと相槌を打つ。
花の盛りに学園で行われる春祭り。クラスごとに中庭のスペースを飾り、全員で評価し合う学園祭だ。
花の種に魔力を注いでうまく育てなくてはならないため、二ヶ月前になると授業でその魔法が扱われる。
自分に合った種を選ぶところから、培土の配合、芽吹かせるための水と光の混合魔法、双葉や差し芽から花を咲かせるための時魔法の演唱まで。学年関係なく、みんながこぞって花を咲かせることに躍起になる時期だ。
魔力を持つ子どもが通うこの学園は、そんな可愛らしい魔法から召喚魔法や攻撃魔法に治癒魔法など、多岐にわたって体に覚えさせる場所である。家柄は関係なく、魔力を持つ者ならば入学する資格があるため、様々な生徒が在籍した。
卒業すると魔導師として王宮に仕えたり、研究職に就いたり、薬師や呪師として生計を立てたりと道を選択することになる。なかには、魔導騎士を目指して騎士になるための学校へ編入する者だっている。
シェリーやアルフェリアのように、そんな生徒たちへ教える立場になる者だってもちろんだ。
養護室に詰めているシェリーとはちがい、アルフェリアは教鞭を執っているから、これが見本の花ということにうなずけた。この部屋からも想像できるように、彼には植物を育てる趣味はない。
ささやかで健気な赤色を覗き込んで、シェリーは瞳を細める。
「わたしも久しぶりに咲かせてみようかなあ」
治癒師として学園に勤めたのは一年前のこと。薬草は薬草学の教師が温室で育ててくれるので、シェリーが普段こういう魔法を使うことはない。たまにはやってみるのもおもしろそうだ。
腕をまくろうとしたところで、のそりと近づいてきた気配がかすかに空気を揺らした。
「優秀な生徒に笑われてもいいならお好きにどうぞ」
「アルっ」
背中からかけられた低い声に眉を寄せると、ひょろりとした長身がシェリーの横から薔薇を見下ろす。
ぼさぼさした鳶色の髪が野暮ったい眼鏡にかかっている。うるさそうに払った手が、つんと赤い花弁を弾いてみせた。
「マーベル先生がしばらく休養だろう」
「もうお年ですものね」
温室に毎日こもっている薬草学の教師が、ぎっくり腰になったのは昨日のことだ。本来なら彼が担当する授業だが、急遽アルフェリアが務めることになった。
ぐぬぬぬとしわくちゃの顔を、もっとしわくちゃにして悔しそうにしていたマーベルを思い出してシェリーは苦笑した。
まだ若い! 年寄り扱いするな! が口癖の教師にとって、ぎっくりとはいえ体が動かなくて休むことは許しがたいのだろう。
代行はアルフェリア、と指名したのも彼だった。ものぐさなアルフェリアへの嫌がらせも兼ねているように見えたが、さすがに分野外の授業だから、この薔薇はもしかしたらマーベルが用意して渡したのかもしれない。
もともとアルフェリアは魔法陣を書いたり呪文を演唱したりする陣譜学が専門だ。
興味を持ったら極める質なのか、新しい魔法陣を編み出すなんてこともしている。だからこそこの有様な部屋だ。窓際を飾るこの鉢植えが、悲しくも違和感でしかない。
授業が増えるなんて面倒だとぼやくアルフェリアだが、きちんとこなしているようでよかったとシェリーは思った。
「こんなきれいな花、どんなことを思い浮かべて咲かせたんだろう。愛情をたくさん注げば、こうやって見事に咲いてくれるのかしら」
紅ではなく、赤。
やわらかな春の日差しで透けた色も、花弁のみずみずしさも、艶やかな葉も、どれをとっても見事だった。
お祖母様の薔薇みたい。シェリーはそっと微笑む。
祖母が丹精込めて手入れしていた庭に、これとそっくりな薔薇が咲き誇っていたからこんなにもうれしくなるのだろうか。
湿った土のかおり、肌をなでる風、立ち込める薔薇の匂い。
小さなころから大好きな場所が鮮やかに脳裏に浮かんだ。
シェリーは薔薇の花がとても好きだ。けれども、薔薇の花束をもらうことに憧れているわけではなくて、祖母を思い起こさせるからだろう。
「……きみの夢見がちなところは相変わらずだな」
「もう。本当のことでしょう」
「そんなに言うなら持っていくといい。ここだと、いつまで私の記憶に残ってくれるかわからないからね」
そのまま置いておくと存在を忘れてしまうとため息をこぼしたアルフェリアは、足元で崩れそうになっていた本をひょいと手に取り鉢植えの横に置き直す。本と書類に薔薇の花が埋もれるのも時間の問題だ。
「いいの?」
シェリーが期待のこもった声を上げると、アルフェリアはなんてことなくうなずく。
「好きだろう、これ」
気をつけて持つように言いながら、両手で鉢を差し出す。
眼鏡越しにオリーブ色の瞳がまっすぐと見下ろしてくるのに、シェリーはありがとうと素直に礼を言った。