スイートピーの花束前編
いい人なのだろうと、思う。
新名陽康は、器用に煮魚を食べ進めていく『父』の様子をぼうっと観察した。
すっと筋の通った高い鼻に、意志の強そうな一文字の眉。少なくとも自分の、頼りなさそうな顔よりも余程男前だろう。がっしりした男らしい体躯も、正直に羨ましい。物腰も柔らかく、どこか品があって育ちのよさが窺えた。
新名聡――旧姓吉沢聡は、新名の母である文香の再婚相手だ。
出産後、はやくに離婚した文香は、女手一つで新名を育ててきた。
そんな彼女がようやく掴んだ幸せが、聡だった。
今まで苦労を掛けてきた母の再婚を、新名は応援したいと思っている。思ってはいるのだが。
「陽康、どうしたの? ぼーっとして」
文香の声に新名はびくりと身体を固くした。お箸が滑り落ちそうになるのを堪えて顔を上げると、聡と目が合った。
新名が笑ってみせると、聡は僅かに口角を上げる。その横で、文香もニコニコしていた。
聡は、いい人なんだと、思う。
しかし、新名の胸の中に渦巻くもやもやは、どうしても消えなかった。
いい人なのだ。真面目で優しく、連れ子の新名にも親切だ。家事も一通り出来、今食卓に並んでいる料理も半分は聡が作った物だった。うらやむ人もいるであろう、理想の結婚相手だ。ただ、
――どうして二十六歳なんだろうなあ……。
母の幸せそうな顔を見ながら、新名は心の中で呟いた。
何気なく見たカレンダーの十二月二十四日には、赤いペンで丸が付いていた。
湯気に眼鏡が曇る。
「結婚詐欺って、滅多にある事じゃないですよね……?」
入れ立てのコーヒーに息を吹きかけながら新名が言うと、八島譲は「さあねえ」と首を傾げた。
特に用が無くても事務所を訪れるようになった譲に、所長の美籐杏子は少し不機嫌そうにしてみせるが、世話になっているだけに何も言えないようだった。客人は新名に任せっきりで、テレビゲームに勤しんでいる。
新名はここ美籐探偵事務所のアルバイトだ。杏子の助手という名目で雇われてはいるが実際はただの雑用係で、こうして杏子が面倒だと投げた事を代わりに引き受けている。といっても、新名としては譲のことを歓迎しているのだが。
「もしそんな事する人が居たとしても、きっとジョーさんみたいに口の達者な人ですよねえ」
「……それ、褒められているのかな?」
整った顔を複雑そうに歪めて、譲はコーヒーを啜った。
彼は杏子の協力者で、情報屋をしている。杏子の父と仲が良いと言うが、何故か杏子は譲に対しそっけない態度をとってばかりいる。
新名は頬を両手で包んで床を見つめた。
「一年ほど前に母が再婚したんですよ」
「それはそれは、おめでとう」
「ありがとうございます。僕も、とっても嬉しいです。ただ、相手が二十六歳なんですよ」
譲は目をぱちぱちさせた。
「ニーナ君のお母さんっていくつ?」
「四十三です」
わお、と譲はおどけてみせて、頬を押さえたせいで唇が突き出ている新名にほんの少し凄まれる。
「十七歳差かあ。お母さん、やるねえ」
「……年の差を気にするなんて、僕が小さいんですかね……」
「それで、結婚詐欺の話?」
「相手の方にも母にも失礼だって、わかってはいるんですけど」
顔をどんどん掌に沈めて潰していく新名に、譲は「男前が台無しだよ」と笑った。
赤くなった頬を膨らませて、新名は手持ちぶさたにセーターの袖を引っ張る。
「二十六って、僕と七個しか変わりませんよ」
「まあ、歳をとればとるほど、一年や二年の差って大したものじゃ無くなっていくから」
「つまりビトーさんとさほど歳が変わらない、ってことですよ」
「それに、やっぱり大切なのって年齢じゃ無いんじゃないかな」
「ビトーさんが結婚してるとこなんて想像つかないですもん」
「全然人の話聞いてないねニーナ君」
譲は肩を竦めてソファにもたれた。すると背後に気配を感じ、首だけで振り返る。
パーカーの上にストールを被った杏子が不服そうな表情を浮かべて立っていた。
「私には失礼だと思わないの」
急に口を開いた杏子に、新名は垂れた目を丸くする。
「わ! ビトーさん聞いてたんですか」
「ビトーじゃなくて美籐ね。丁度良さそうに言わない。そりゃ、事務所の真ん中で話してれば聞こえるわよ」
「すみません。――あ、ちなみに僕の推理ではビトーさんは二十四歳なのですが、あってますか?」
「……ニーナ君、最近無邪気を拗らせてるわね」
杏子が眉間の皺を深くしたが、新名は照れくさそうにくせ毛頭を掻いた。
二人のやりとりを見ていた譲が、ふと手を叩いた。
「そうだ、ニーナ君。その再婚相手のこと、調査してみたらどうかな。せっかく探偵事務所で働いてるんだし。疑うとかじゃなくてさ、ニーナ君が納得するために」
「調査……」
新名は譲の提案に目を輝かせた。推理小説好きが高じて探偵の助手になった新名は、探偵っぽい言葉に弱かった。
「譲さん、ニーナ君の扱い上手くなりましたね」
皮肉っぽく言ってため息を吐く杏子に、譲はまあね、と片目を閉じた。
「あ、そういえばジョーさんはおいくつなんですか?」
元気を取り戻した新名が訊ねると、譲はにやりと笑った。
「んー、二十九だよ」
「ええっ!」
見たところ三十代後半くらいだが、そんなに若かったのか。それとも、今の姿は変装かなにかで、本当の姿は見せないようにしている、とか。かのシャーロック・ホームズも、変装で老人に化けた事さえあるのだから、探偵なんかの世界では変装も常識なのかもしれない。
新名が真剣に悩み始めると、譲は口元を覆った。
杏子は助手の将来を案じた。
「ニーナ君。譲さんが本当の事言ってる訳ないでしょ」
「えっ! だ、騙したんですか!」
新名は譲の顔を覗き込んだが、譲は涼しい顔でコーヒーを飲み下して片手を上げた。
「年齢なんてさ、意外とわかんないもんでしょ? じゃ、俺はこの辺で。今日は二人の顔見たかっただけだからさ」
さらりと告げて、譲は立ち上がるとドアへ向かった。あまりに自然で新名は「はい、また」と手を振ってしまう。
「またね。――おっと」
ドアを開けた譲が驚いて足を止めた。新名と杏子は揃って首を傾げる。
譲がその長身をずらすと、小さな男の子が姿を現した。いつからそこに居たのか、赤い鼻をしている。
男の子はあちこち目を泳がせて、赤い顔をもっと赤くした。
「あの、獏を捕まえて欲しいんです!」
そわそわしている男の子を部屋に入れてソファに座らせると、冷気も一緒に入ってきた。
小学校の低学年くらいだろうか。利発的な顔立ちをしていて、上等なコートを着ていた。手足をきちんと揃えて行儀良く座っている。
「ずっとあそこに居たの?」
しゃがんで視線を合わせ新名が訊ねると、男の子は小さく頷いた。
「気が付かなくてごめんね。何か温かいもの持ってくるからちょっと待ってて」
「ありがとうございます」
恐縮した様子の男の子に笑いかけてから、新名はキッチンへ向かった。何を出そうか考え込む。
コーヒー、は駄目だろう。ハーブティー……は杏子に不評だ。他に用意出来そうなものと言えば、ホットミルクくらいか。
うーん、と唸りながら冷蔵庫を開け中身を物色すると、杏子のおやつのチョコレートを見つけた。ちょっと借りますよ、と心の中で杏子に謝っておく。
牛乳を火にかけ、チョコレートを刻む。
杏子は新名がキッチンへ立つ間にタブレットを用意し、男の子へ話しかけた。
「私が所長の美籐です。名前は?」
「も、森野晃です」
「年齢と職業は」
「七歳です。えと、職業?」
「小学生?」
「あ、はい」
しばらく沈黙が流れた。
ぶっきらぼうな杏子に、晃は少し怯えているようだ。二人の会話に耳を傾けていた新名は苦笑いを浮かべた。杏子はどうにも子供が苦手らしい。
ホットチョコレートを手に新名が戻ると、晃だけでなく杏子も僅かにほっとした表情をしていた。杏子は何も言わないが、目で新名に助けを求めている。
「おまたせ。僕は新名っていうんだ。晃君、チョコレートは好き?」
晃は何度か瞬きをしてマグカップを受け取った。カカオの香りがふわりと広がる。
「……美味しい!」
一口飲んで、晃は目を輝かせた。よかった、と新名は晃の頭を撫でてから杏子の横へ腰を下ろした。すると杏子の目配せが飛んでくる。代わりに晃の話を聞き出してくれ、と訴えているようだ。
こんな風に彼女に頼られる事は滅多に無く、新名は少し嬉しくなった。
「さっき「獏を捕まえて欲しい」って言ってたけど、そのバクっていうのは夢を食べるバクのこと?」
新名の問いかけに、晃は大きく頷いた。
「本で見たことあるのと、同じ獏だよ! でもぼくが捕まえて欲しい獏は、夢以外の物も食べちゃうみたいなんです」
「夢以外の物?」
「そう。ぼくの記憶を食べちゃうんです」
晃は小さな両手で湯気の上がるマグカップを包み込んだ。
新名と杏子は目を見合わせる。
「記憶?」
「獏がぼくの夢に現れて、何かもこもこした雲みたいなのを食べるの。そうしたら、起きた時に少しずつ何かを忘れちゃう」
「……それは毎日?」
「毎日じゃないけど、しょっちゅうだよ」
自分のつま先を見つめて、晃は続けた。
「最初はほんのちょっと、忘れ物が増えたぐらいだったんだ。どうしてかな、って考えて、あの獏がいたずらしてるんだ! って思ったの。でも最近、友達に「同じこと前も言ってた」って言われるようになったりして、困ってるんだ」
「そうなんだ。覚えてないことが多くなってきた、ってことかな」
「うん。友達との約束も忘れちゃったりして、怒られるんだ。このままじゃ嫌われちゃう」
晃は丸い目を悲しそうに揺らした。
新名は顎に拳を当て、どうしたものかと思案した。指示を仰ぐために杏子の様子を窺うと、彼女は瞬き一つせずにじっと晃を見つめていた。
「ビトーさん、どうされますか」
動く気配の無い杏子に新名が声を掛ける。すると杏子は屈んで晃に顔を近づけた。
「……私がその獏、捕まえてあげる。食べちゃった君の記憶も返して貰うわ」
杏子の言葉に、晃は顔を上げて笑った。
「ほ、ほんとに! ありがとう! ……あ、お金はあの、今まで貯めたお年玉があるんだけど、足りますか」
晃はポケットから小さな財布を取り出し開いて見せた。杏子はそれを見て、大きく首肯した。
「じゅうぶん」
獏――中国で生まれた伝説の生物。胴体はクマで脚はトラ、尾は牛、目はサイ、鼻はゾウに似ている。日本では「悪夢を食べる」とされている。
「悪夢、かあ。……記憶を食べる、とは書いてませんねえ」
スマートフォンの画面を見ていた新名は眼鏡を押さえて眉根を寄せた。
オカルト系のサイトをいくつか見て回ったが、獏が記憶を食べる、といった話は見つからなかった。
「なんだか、僕もよく知らなかったんですが、獏って良い生き物みたいです。悪さをするどころか、悪い夢から人を守ってくれる」
「――そう」
杏子は、晃が帰ってからというもの、何かのファイルを読み耽っていた。晃の依頼に関係しているのかと新名は手伝おうとしたが、「ニーナ君は見ないで」とはっきり言われてしまった。
「獏を捕まえる、ってどうなさるんですか」
「今考えてるわ」
「……本当に獏の仕業だとお考えですか?」
「当然」
さっきの晃とのやりとり以来、杏子はどこからしくない、と新名は思った。
何か考えている事があるのだろうか。訊ねてみるか新名が悩んでいると、手元のスマートフォンのバイブが鳴った。見るとメールの着信だった。相手は新名の母である文香だ。
『二十四日の夜、空いていたら三人で一緒に食事しませんか。私も聡くんも仕事が早めに終わりそうなの』
新名は返信メールを作成して、しかし一文字も書かずに保存して画面を消した。暗くなった液晶に、眼鏡を掛けたぼうっとした顔が映っている。
彼女は『一緒に』という言葉をよく使う。昔からそうだった。文香は仕事に忙しく、新名と別々にご飯を食べるのも、別々に寝るのも出掛けるのも日常的なことだった。だからだろうと新名は思う。普通の親子は当たり前だから口にしない『一緒に』は新名達親子には特別な事だったのだ。
クリスマスイブの夜を一緒に過ごすのも特別な事だ。それは文香と聡の夫婦にも言えることだろう。
「一緒に……かあ」
新名は三人で過ごす事を想像して、頬杖を付いた。
予定が無いわけではない。大学の友達でのパーティーの話が出ているし、二十四日は普段ならアルバイトにここへ来る曜日だ。ただ、どちらも一言断れば日をずらしたり休ませてくれると分かっていた。
メールをもう一度開き、新名は『予定がわかったら連絡するよ』と返信した。
「ビトーさん」
「……ビトーじゃなくて美籐ね、発音を大切に」
「ビトーさんはクリスマス、何かご予定があるんですか?」
「ケーキは食べると思う」
杏子は黒い瞳をファイルに向けたままで言った。
考えれば、新名は杏子の家族についてほとんど知らない。交友関係に関しては「友達は三人くらい居る」と言っていたが、家族については誤魔化されたままだった。
「誰かとご一緒に?」
「ここで食べると思うし、たぶん一人ね。ニーナ君、休み取るでしょ」
「あ、はい」
反射的に返事をしたが、いつもと変わらない無感動そうな声色に、ほんの少し寂しさが覗いているように新名は感じた。
ふと見やった窓の外は風が強く、耳を澄ませると風の音がした。
数日後、新名はニット帽を深く被りマスクをしてコンビニで立ち読みをしながら、母の再婚相手である聡を待ち伏せしていた。このために滅多にしないコンタクトを用意し、コートや靴なども新品を下ろした。ぱっと見ただけでは新名であると気が付かない……筈だ。
会社へ電車通勤している聡は、残業が無ければこの時間に駅前のコンビニの前を通る。健康のために駅から家までは歩いている、というのもリサーチ済みだ。
長時間の立ち読みで居心地が悪くなった頃、黒いスーツにネイビーのコートを着た聡の姿が見えた。新名は立ち読みを止め、尾行を開始する。調査を行うと決めたものの、一端の大学生である新名に実現可能な調査方法は限られていた。下手な聞き込みは聡に気付かれてしまうし、譲のような情報網ももっていない。
距離を保ちながら聡の後ろを歩く。彼が真っ直ぐ帰るなら、二十分もすれば着く。こんな事で人となりがわかるとは新名も思っていないが、自分が納得するために調査する、という譲の言葉が新名を動かしていた。
公園を通る最短ルートとは違う道を聡は進んでいった。不思議に思っていると聡はスーパーへ入ったので、後を付ける。迷いの無い足取りで聡は二階に向かい、本屋へ入った。真っ直ぐと実用系のコーナー行き本を物色し始めたため、遠目から様子を観察する。しばらくすると彼は緑色の表紙の本を手にレジへ。その隙に新名は聡が買った本を確認した。
「美味しいクリスマスディナー……」
新名は未だにきちんと返事をしていなかったクリスマスイブの誘いを思い出した。
料理が決して得意では無い文香に代わって、聡がキッチンへ立つことはよくあった。ご馳走になるとどれも美味しく、新名は料理が得意なのか聞いた事がある。すると聡は「これから得意になる予定だ」と答えた。
新名はそっと本を置いた。
聡は口数が少なく、何を考えているのかよくわからない。
ずっと父親の居なかった新名には、父という存在もよくわからない。
だから、今自分の胸の奥が温かくなったのも、どうしてかわからなかった。
「あ」
はっと気が付いて辺りを見回したが、聡の姿はもう見つからなかった。