恋する紫陽花
雨粒が窓を叩く音が響いている。
行き交う色とりどりの傘を眺めていると背後から声がして、新名陽康は首を傾けた。
「ニーナ君これ、なに?」
振り返ると、上司である美藤杏子がテーブルの上に置かれたダンボール箱を指先で突いている。
新名は銀縁眼鏡の奥で茶色っぽい瞳をきらきらと輝かせた。黙って静かにしていると大人びて見られる新名だが、笑うと八重歯が覗いて十八歳の子どもらしい顔つきになる。
「あ、おはようございますビトーさん! 流石目ざといですね!」
頬を高潮させる新名に、杏子は一瞬だけしまった、と顔を歪めた。
杏子は新名の雇い主である。童顔のために年齢が読み取れず(新名が何度尋ねても「二十代」としか答えてくれなかった)、ひょろ長い新名と対照的に小柄でその身長差は三十センチにも及ぶ。短く切った濡れたように艶やかな黒髪が特徴的だった。
「ビトー、じゃなくて美藤ね、砂糖の量みたいに呼ばないように」
「ネットで安くなってたんですよ~これ」
静かな声で杏子が諭すが、新名は意に介さず満面の笑みを浮かべたままダンボールを開けていく。
中から出てきたのは鹿撃帽――所謂探偵帽である――と長いマントに虫眼鏡。それらを手際よく身に付けると、新名はマントを翻して腰に手を当てた。
「じゃーん! 名探偵セットです!」
「……私、新しいゲームやらなきゃ」
「わー! 待って下さいよう」
新名はくるりと回れ右をしてテレビへ向かう杏子の前に立ちふさがった。
「ビトーさん、そんな普通の服装は止めて僕と共にこれを着ましょう! ぜひとも!」
「パーカーとショートパンツのなにが悪い」
「パーカーに罪はありません、ただ」
杏子の肩を掴み、新名は至極真面目な表情を浮かべた。
雨音はずっと続いている。
「ここ、探偵事務所なんですよ?」
「……知ってる。私の事務所だもの」
新名がここ『美藤探偵事務所』でアルバイトとして働きだしてもう二ヶ月になる。古いビルの二階にひっそりと構えてはいるものの滅多に依頼人は来ず、出勤しても新名がする事といえば掃除やお使いくらいで、つまりは雑用係だ。
「名目上は助手なのになあ」
マントを脱いだ新名は、ソファに腰掛けると探偵帽をぱたぱたと振りながら唇を尖らせた。
大学生になり、バイトを探していた時に見つけた『探偵事務所、助手求む』というビラは新名の心を鷲掴みにした。探偵という言葉の響きは彼にとって魅惑であった。一体全体、どんな驚くべき大冒険が待ち構えているものかと胸を高鳴らしたものだ。それが、この二ヶ月の主な依頼といえば浮気調査くらいである。
「暇ですねえ……」
杏子の方を見ると、ゲーム機をテレビに接続している最中でこちらを顧みもしなかった。この探偵はいつ来てもゲームばかりしていて、仕事らしい事をしている所はほとんど見た事がない。
「ビトーさんだってお仕事ないと困るでしょう?」
「……別に。本業があるからへーき」
「えっ! 探偵以外にも何かしてらっしゃるのですか?」
新名が目を丸くすると、杏子は一つ頷いた。
「マンションの大家さん。――家賃収入おいしい」
首だけで新名を見て、杏子は親指と人差し指で丸を作った。新名は思わず口をぽっかりと開ける。探偵のイメージが脳内で盛大な音と共に崩れ去っていく。
「やちんしゅうにゅう……」
「ニーナ君。暇ならコーヒー、ブラックで」
「はあい」
杏子の要望を受け新名が立ち上がるのとほぼ同時、控えめにドアをノックする音がした。
二人の視線がドアへ注がれる。杏子は釣り上がり気味の目をほんの少しだけ細めた。
「珍しいお客さん」
「――珍しいなんて自分で言わないで下さいよう。どうぞ、こんにちは~」
言いながら新名がドアを開ける。立っていたのは高校生くらいの女の子だった。長い黒髪を腰まで垂らし、薄青色をした膝丈のワンピースを着ている。手にはワンピースと同じ淡い色の傘が握られて、落ちた雫が小さな水溜りを作っていた。
女の子は新名と目が合うと華奢な体を硬直させ目を泳がせた。
「ご依頼ですよね? 中へどうぞ」
口元に笑顔を浮かべて新名が促す。すると女の子はぎこちない動きで事務所内へ足を踏み入れた。
きょろきょろと物珍しそうに室内を見回す女の子をソファに座らせて、新名は簡易キッチンへ。低いテーブルを挟んで、女の子の向かいに杏子が座った。
「私が所長の美藤です。本日のご用件は」
「あ、あの、えっと。頼みたい事があって……」
「承りました。ではまずお名前をお願いします」
杏子はタブレットを開き女の子を見つめた。女の子はうーん、と考え込んでしまう。
流れる沈黙を破ったのは、コーヒーを淹れ終えキッチンから戻った新名の間延びした声だった。
「あ~! タブレット使うのやめましょうよ~。探偵っぽくないですよ」
「……タブレット最高」
「かのシャーロック・ホームズもタブレットは使ってませんよ!」
「時代は変わったから」
淡々とした口ぶりの杏子に新名は頬を膨らました。それから、はっとして女の子に笑いかける。
「ごめんなさい、お話の邪魔してしまって。――コーヒーでよかったかな?」
問いかけると女の子は首を縦に振ったので、新名はコーヒーを置いて杏子の横へ腰を下ろした。自分の分のコーヒーへ砂糖とミルクを入れる。
女の子はコーヒーをまじまじと見ていたが、やがて意を決したように面を上げた。緑がかった瞳は僅かに潤んでいる。
「あたし、紫陽花です。初恋の相手に会いたいの。一緒に探してください」
新名は思わず首を捻った。しかし女の子は真剣な面持ちで二人を見据えたまま。
「えっと、アジサイちゃん……っていうの?」
近頃は変わった名前を持つ人も多いから、紫陽花という名前もあるのかもしれない。しかし女の子は新名の質問に今度は首を横に振った。
「初恋の相手、とは?」
不意に杏子が口を開いた。女の子は照れくさそうに頬を染め俯く。
「カタツムリさんなんです。何度も会いに来て「いつも綺麗だね」って言ってくれたんです。あたしを優しく撫でてくれた事もあるんですよ。……なのに、最近姿を見せなくなっちゃって」
「なるほど。最後に会ったのは?」
「んーと、三ヶ月前くらいです。その時はあたし、まだ全然咲いてなかったんですけど「今年も綺麗だろうな、楽しみだ」って言ってくれて!」
「じゃあ――」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
目の前で繰り広げられる会話に耐えかね、新名が叫んだ。杏子はマスカラがたっぷり塗られた睫毛を瞬かせる。
「なあに、ニーナ君」
「な、なにって……」
ちらりと女の子を見ると、小首を傾げて微笑んでいる。新名は何をどう突っ込むべきなのかわからなくなり、黙り込むしかなくなった。
杏子はタブレットで何か打ち込みつつ、女の子に向き合いなおした。
「そのカタツムリの特徴は?」
女の子は杏子と新名をそれぞれ一瞥してから胸の前で手を組み、うっとりと破顔した。
「すらっとして、笑顔が素敵です。ぱっと見は少し冴え無い感じなんですけど、よく見ると結構整った顔立ちなんです。それに優しくて、まっすぐで、穏やかな方です。でもお茶目な所もあって……」
「あ、もう十分です」
女の子の話にじっと耳を傾けていた杏子だが、突然タブレットから手を離すと新名の肩を叩いた。
「ニーナ君、この依頼貴方に任せる。――紫陽花さん、依頼料は後払いでいいですか?」
「え? ええっ?」
想像もしえなかった提案に新名の声が裏返る。
女の子は「わあ」と歓声じみた声を上げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる女の子に、混乱がとけない新名は縋る様に杏子へ視線を送った。しかし杏子は顔色一つ変えずにぐっと親指を突き立てる。
「頑張って、平成のシャーロック・ホームズ」
それだけ言うと、杏子はタブレットとコーヒーを持って自分のデスクへ行ってしまった。その小柄な背中をこれほど恨めしく思ったのは今日のほか無い。
女の子からは絶えず期待に満ちた空気をひしひしと感じる。新名は眼鏡の縁を押さえ、腹をくくった。
「えっと、じゃああの、紫陽花さんじゃ呼びにくいからあだ名決めましょう。――アジサイ、の最初と最後をとってアイちゃんはどうかな」
「アイちゃん……」
「だめ、かな」
安直過ぎたかと上目遣いに見やると、女の子はぶんぶんと頭を振った。
「すっごく可愛いです! 嬉しい!」
女の子――もといアイは花が綻ぶみたいに笑った。どこからともなく、雨の匂いがした。
探偵事務所でのバイトを終え、新名が携帯電話を開くと留守番電話が入っていた。相手は母親からで、要約すると「貴方宛の封筒が届いたから取りに来なさい。というより、近いんだからそろそろ顔を出しなさい」との事だった。そういえば、大学が始まってからまだ一度も実家に帰っていない。
進学を機に新名が一人暮らしを始めた理由は母親の再婚だった。合格した大学は実家から一時間の所で、十分通える距離ではあったが「自立したい」を口実に大学近くのアパートを借りた。再婚相手の事は嫌いではないが、一緒に暮らすとなると違和感があるしそれは恐らくお互い様だろう。
時刻を確認するとまだ夕方だった。今から行っても夕飯時には着く。新名は僅かに重い足取りで駅へ歩みを進めた。
電車に揺られ、実家の最寄り駅まで四十分。駅からは徒歩二十分くらいだ。
雨は強まる一方で、傘で跳ねては大きな音を立て脳に響いてきた。
足を進めていくと公園に差しかかった。広い公園で遊具も多く、幼い頃はよく遊んだものだ。家に一人でいるよりもずっと気が紛れた。
成長して遊びはしなくなっても、駅までの道のりにあるため毎日のように通る場所だった。
来なくなってまだ数ヶ月だというのに懐かしく感じる。
「あ、紫陽花」
新名は無意識に呟き、立ち止まった。公園の片隅で紫陽花が咲きほこっている。雨粒を被ってきらきら輝いていた。
「笑顔が素敵で優しくてお茶目なカタツムリかあ……」
『初恋の相手』について語るアイの熱っぽい瞳を思い出し、新名は溜息を吐いた。引き受けてしまったが、正直な所カタツムリを探す方法などまるで思いつかなかった。
「ビトーさんも何も言ってくれないし……」
自分を紫陽花だという少女。見た所十五、六といった所だが、どこまで本気なのだろうか。
まだまだ雨は止みそうにない。傘を傾けて見上げた空はどこまでも雲が広がっていた。
「ビトーさん、これ、なんでしょう」
宅配便の受け取りを済ませた新名は、小包を胸に抱えて首を傾げた。杏子は携帯ゲーム機から目を離そうとしない。
「ビトーじゃなくて美籐。またニーナ君が変なの頼んだんじゃないの」
「違いますよう。だってこれ、宛名が変なんです。――美籐裕司さんってご存じですか?」
瞬間、杏子は振り返り、新名に手を差し出した。
「それ、私の偽名。ゲームの懸賞、当てるために色んな名前で出してるの」
杏子の瞳が必死そうに揺れた。珍しさに目を丸くしながら小包を渡すと、彼女はすぐに引き出しへしまって、またゲームを手に取った。『ゲームオーバー』の文字が画面に映っている。
「ビトーさん、あの」
「ニーナ君、カタツムリの件はいいの?」
言われて、新名は作業途中で宅配便を取りに行ったことを思い出した。
「ああ、そうでした。えっと……」
テーブルに戻り、広げたままだった作業を再開する。
『カタツムリ探しています。すらっとしてよく見ると整った顔立ち。笑顔が素敵。男性』
ここまで書いて新名はペンを持つ手を止めた。
「あれ、カタツムリって性別あるんですかね?」
「さあ」
ゲームに興じている杏子の小柄な体躯は、思えば今日来てから一歩も動いていない。
「ビトーさん、少しは考えて答えてくださいよう」
「ビトーじゃなくて美藤ね。美味しそうに呼ばない」
「――ナメクジとカタツムリって殻があるかどうかだけの違いでしたっけ」
「さあ」
あんまりな杏子の受け答えに、新名は唇をへの字に歪める。
思考が行き詰りすぎて『探し人』ならぬ『探しカタツムリ』の張り紙作りを始めたものの、それすら難航してしまっていた。
「こんにちは」
頭を抱えているとノックの音がして、挨拶と共にアイが入ってきた。昨日と同じ裾が広がった形で、色だけがほんの少し違うワンピースを着ている。
杏子はいらっしゃい、と言うだけでゲームを止めようとしない。どうやら本当に全て新名に任せる気らしい。
「ニーナさん、調子はいかがですか?」
無邪気な笑みで尋ねるアイに新名はぎくりとした。
「いや、色々考えてはみたんだけどまだ……」
「そうですかあ。よろしくおねがいしますね」
そんなに期待していなかったのかアイは案外あっさりとしていて、新名はほっと胸を撫で下ろした。
「コーヒー淹れるよ、そこ座ってて」
「――あ、それ張り紙ですか?」
新名が腰を上げると同時にアイが張り紙を指差した。恥ずかしいものを見られたような気がして、新名は頭を掻いた。
「ごめんね、これくらいしか思いつかなくて……」
「いえ、頑張ってくれていて嬉しいです!」
アイは新名の描いた下手なカタツムリの絵を指の腹で優しく撫でている。新名は、どこか彼女の真意にもやが掛かっているように感じた。この広い世界から一匹のカタツムリを探し出そうなんて。かといって、アイが冗談でこんな事をしているとも思えない。
「アイちゃんは……紫陽花なんだったよね」
「はい!」
「そのカタツムリさんのどこが好きなの?」
「――わかりません」
「へ?」
昨日の様子からして色んなエピソードが聞ける、と思っていただけに意外な返答だった。
きょとんとしてしまった新名に、アイはいたずらっぽく笑った。
「恋って、理屈じゃないんですよニーナさん。紫陽花もカタツムリも人間もきっと、恋の前にはどうしようもないのです」
翌日、新名はカタツムリ捜索のためにアイを呼び出した。おそらく高校生であろうアイを慮っての夕方の約束だったが、アイが事務所にやってきたのは午後の三時過ぎだった。講義が昼までしかなかったため早くに出勤していた新名は、現れたアイに目を丸くした。
杏子は今日もゲームに夢中になっている。
「あれ、アイちゃん学校は?」
「いいんです」
また同じワンピースの色違い姿で、アイはきっぱりと言った。
新名が踏み込むべきかと思案しているうちに、何を思ったのか杏子が口を開いた。
「いいなら、いいじゃない」
「はい! いいです。そんなことより早く行きましょうよ」
アイは新名の手首を引いた。掴まれた手は驚くほど冷たい。彼女の手の感触を、新名はどこかで触れたことがあるような気がした。
ひらひらと手を振る杏子に見送られ、アイと新名は事務所を後にした。
ビルの階段を降り通りへ出る。外は相変わらずの雨模様だった。
「とりあえず、近所の公園とかとにかくカタツムリがいそうな所を虱潰しに探していこう」
新名が言うとアイは大きく頷いた。
傘を片手に町中を歩き回り、カタツムリを捜索する。見つけたカタツムリはアイに見せて判定してもらった。
アイは何故かスキップでもするように浮き足立っていた。かくれんぼの鬼みたいに茂みを掻き分けては笑う。彼女が笑うたび、新名はどこか懐かしくなった。
探してみるとカタツムリは案外いない。それでも、二人は励ましあって雨の中を歩いた。
「この方も違います」
二時間程探し続け、五匹ものカタツムリを発見したが、アイは首を横に振るばかりだった。
やっぱり無謀な挑戦だったかもしれない。新名はこっそりと肩を落とした。
アイはというと、力なくしゃがみ込んで、じっと水溜りを見つめていた。疲れさせてしまっただろうか。
「事務所に戻って休憩しようか。雨も強くなってきたし」
「……はい」
立ち上がったアイは俯いて傘を回した。青に紫がかかった淡い色のワンピースと傘は、梅雨と彼女によく似合っていた。
カタツムリ捜索は難航を極めることとなった。打開策は見つからぬまま、アイが始めて事務所を訪れてから、もう六日が経過していた。
あししげく通うようになったアイが帰り、杏子と新名だけになった事務所で新名は盛大に嘆息した。
「ビトーさん、僕もうどうすればいいか」
靴を脱ぎ、ソファの上で膝を抱える。
自分に出来る事の少なさに、新名は半ば唖然としていた。手当たり次第に探すだけでは、アイ一人でも出来る。日に日に積もっていく無力感に苛まれるばかりだった。
「ビトーじゃなくて美藤ね、缶コーヒーみたいに呼ばない。――あ、ニーナ君コーヒー淹れて」
「どうして僕に、この依頼を任せたんですか」
新名を信頼して笑顔を向けるアイを見るたび、胸が痛んだ。「カタツムリなんか見つかりっこない」と告げる勇気すら新名には無かった。
額を膝頭に押し当てる。眼鏡が邪魔だった。
杏子はゲームのコントローラーを置き、新名を顧みた。テレビからは、戦闘中の激しい音楽が鳴り響いている。
「ニーナ君が適任だから」
「……あの子、何者なんですか。どうして紫陽花なんて名乗るんですか」
「本人に聞けばいいじゃない」
「そんなの、だって」
「どう答えるかは彼女次第だもの」
言い終えると、杏子はゲームを再開してしまった。
靴を履き、立ち上がってキッチンへ向かう。コーヒーを淹れて、カップへ落ちる最後の一滴を見守った。苦い香りと共に雫は波紋になって、刹那に消えていく。ぴちゃん、という音は窓を打つ雨音と混ざって溶けてしまった。
次の日、事務所へ姿を現したアイは晴れやかな笑顔で頭を下げた。
「今日までありがとうございました。カタツムリさんのことは、もう諦めます。お世話になりました」
大切なお話がある、とアイに言われ、最初の日のように並んで座っていた新名と杏子は顔を見合わせた。
もう諦める? 昨日まであんなに頑張っていたのに?
新名は、様々な思いが脳内で交錯して何も言葉が出てこなかった。その代わりのように、杏子がそっと開口した。
「どうしてですか」
「最初から、駄目もとだったんです。ニーナさんに一緒に探してもらって、見つからなくて、諦めがつきました。……ニーナさん、あの――」
アイは新名の顔を覗きこんだ。長い黒髪がさらりと揺れる。
「君は、何者なの? どうして紫陽花なんて名乗っていたの?」
アイの言葉を遮るようにして新名が問いかけた。すると、アイは可笑しそうに微笑む。
「あたし、紫陽花ですよ」
信じてなかったんですか、とアイは唇を尖らせてから続けた。
「ニーナさんあたし、この一週間本当に楽しかった。一つだけお願いがあるんです。あたしのこと、忘れないでいてくれませんか? 頭が可笑しい子に会ったな、くらいの記憶でいいです。どうか、片隅に置いていてくれませんか?」
「……忘れないよ。でも」
「お礼はまた送りますね。ありがとうございました」
膝の上で手を合わせて、アイは深々と頭を下げた。その手が震えているのに、新名はようやく気が付いた。
「これでいいの?」
杏子の声色は、凛としてよく通る。アイは目をぱちくりさせてから口角を上げた。
「はい。カタツムリさんの事は残念でしたけど……」
「そんなのとっくに見つけてたじゃない。そのことじゃないわ」
「え?」
杏子の発言に驚かされたのは新名だった。杏子は顎で新名を指して、当然のように言う。
「ニーナ君、カタツムリは貴方よ」
アイの顔が赤くなってゆく。新名は言葉の意味が飲み込めず、首を捻った。カタツムリに生まれた覚えはない。
「なんで言うんですか!」
狼狽して目元を滲ませるアイと、詰め寄られても表情を崩さない杏子を交互に見て、新名は目が回りそうだった。
「どういうことですか?」
「この子はニーナ君に会いたくて『カタツムリ探し』なんて依頼をしたってこと」
「僕に?」
「依頼は無茶な事なら何でもよかったの。どうしようもない事であればあるほど、自然に長く一緒に入れるから」
杏子がとつとつと説明している間、アイは唇を引き結んで方を縮こまらせていた。少しずつ杏子の話が理解できてきた新名は、頬が熱くなるのを感じた。
「わからないのは、どうしてもうやめちゃうのかって事。せっかくニーナ君と仲良くなれたのに」
突然、アイは顔を上げた。しかし、新名と目が合うとすぐにまた俯いてしまう。
「……もう時間がないんだもん。綺麗な思い出になりたかった。どうせ叶わないから、欲しがっちゃ駄目だって思ったんだもん」
震えていたアイの声が、芯を取り戻していく。
「ニーナさんは、覚えてないと思うけど、あの日、あたしに言ったでしょう。「梅雨に咲いてくれるなんて、嬉しいな」って。あたしのお陰で、みんな梅雨を好きになるって。本当に嬉しかった。誇らしかった」
「あの日……?」
「――ばいばい、ニーナさん。ニーナさんがくれたもの、全部とっても嬉しかった」
アイは立ちあがり、一瞬だけふわりと微笑んだと思うとドアへ駆けて行った。靡いた髪とワンピースから、雨と青草の匂いがした。
「待って! 君は――」
追いかけた新名の目の前でドアが閉まる。ドアノブを掴んでもう一度開いた時には、もうどこにもアイの姿は無かった。
新名はそのまま走り出した。駅まで走って、急いで切符を買う。ポケットに入れっぱなしだった小銭がこんな所で役に立つとは、と自分の怠慢さに初めて感謝した。
電車を待つ時間も、乗っている間の一時間も、すべてがもどかしかった。
実家の最寄り駅で飛び降りて、改札を走りぬける。
あの公園へ辿り着いた時には、すっかり日が落ちていた。
息を切らしながら新名が見たのは、確かにあった筈の紫陽花が跡形もなく消え、代わりに立てられた看板の『工事中』の文字だった。
「ニーナ君、これ、砂糖入れたでしょ」
コーヒーを一口嚥下して、杏子が珍しく顔を歪めた。
「わ! すごい! よくわかりましたね、流石ビトーさん」
いつかの探偵帽を被った新名が手を叩くと、杏子の顔が更に険しくなる。
新名はお構いなしに「そういえば」と切り出した。
「ビトーさんって、アイちゃんの事、いつから気付いてたんですか?」
「……さあ」
「本業がマンションの大家さんって、嘘なんじゃないですか?」
「さあ」
「ゲームばっかりしてたら目が悪くなりますよ」
「眼鏡なのはニーナ君じゃない」
答える気の感じられない杏子の様子に新名は頬を膨らませたが、ふと思い立って帽子を被りなおすと笑みを浮かべた。
「まあいいです、自分で推理しますから」
「……私今、ゲームいいところだから」
「ちゃんと聞いてくださいよう!」
新名はいそいそとテレビへ向かう杏子の背中へ叫んだ。
不意に、控えめなノックの音が事務所に響いた。客だろうか。
「どうぞ~」
新名がドアの向こうへ呼びかけるが、反応が無い。不審に思いつつドアを開けると、一房の紫陽花が置いてあった。柔らかな青色の花を両手ですくうように拾い上げると、しっとりとした感触がした。心臓を擽られている心地がする。新名は眼鏡をずらし、肩口で目を擦ってから声を張った。
「ビトーさん! アイちゃんからお礼が届きましたよ!」
外は今日も雨が降っていて、止みそうにもない。けれどこんな日を、美しく彩る花がここにある。
雨の公園で、少年が一人立っていた。
「雨が降ったら、ブランコも滑り台も鬼ごっこも、なんにも出来ないや」
呟きを聞いていたのは紫陽花だけだった。
「あ、そっか。だから咲いてくれてるんだ! 梅雨に咲いてくれるなんて、嬉しいな」
*青い紫陽花の花言葉:忍耐強い愛