第十七話
灯台から外に出ると、沈む太陽に燃えていた海は消し炭のような黒色に変わり、代わりに星空を浮かばせていた。
灯台に寄り掛かり、手持ち無沙汰に海を見て一人佇んでいたコジュウロウは、リット達を見かけると大きく手を振った。
「待っていたでござるよ!」
リットは一度コジュウロウの姿を目に入れたが、すぐに視線を外してハスキーの方を向いた。
「ハスキーとパッチワークはここの生まれじゃねぇのか?」
「違うニャ」
「生まれた村は一緒ですが、東の国ではないですね。大陸の『ポンゴ』という村で生まれ育ちました。リゼーネの近くの山にある小さな村です。良かったら今度案内しますが、いかがでしょうか?」
「なんだ、餌に困ったらそうやって獲物をおびき寄せるのか?」
「とんでもない! 純粋な厚意からです! 姉の作るアップルパイは絶品なんですよ」
ハスキーはその場にアップルパイがあるかのように、鼻から大きく息を吸い込みながら言った。
「あのゴリラみたいなお姉さんかニャ」
「失礼なことを言うなパッチワーク! 姉は私と同じ犬の獣人だ」
「素手で木を切り倒すのは犬とは言わないニャ……。ニャーの狭くて暗くて落ち着くベストスポットをいくつ壊されたことかニャ……」
パッチワークは恨みがこもったような陰鬱な顔のまま、彫刻のように表情を変えない。
「自分の家で寛げばいいだろう。森の木は皆のものだ」
ハスキーが咎めるように言うと、パッチワークはふんと下品に鼻を鳴らして笑った。
「勝手にあちこちの木でマーキングする犬に言われたくないニャ」
「犬だけではなく猫もするだろう。それに名前があるのだ。犬ではなくハスキーと呼べ」
「それじゃあ、ニャーのことはパッチワークさまと呼ぶニャ」
「何故だ」
「犬は主人を欲しがるけど、猫は主人になりたがるからニャ」
見下すように眉のシワを寄せるパッチワークに向かって、ハスキーは歯を剥き出しにして唸った。
「おいおい、ワンワンにニャンニャン。両方似たようなもんだろ。喧嘩するようなことか」
「リット様……。そうですね。お見苦しいところを見せてすいません」
「人間社会でマーキングしてたら両方迷惑だろ。悪くて逮捕だ」
「それでは、良くてはなんですか?」
「頭の病院送り。まぁ、檻に入るのは両方一緒だな。飼い主が見つかるまで出てこれねぇぞ」
「首輪にエミリアさまの屋敷の住所を書いておいたほうがいいニャ」
ニャハハとパッチワークがからかうような軽い笑い声を響かせると、ハスキーが嫌悪をあらわにして眼鏡がずり落ちそうなほど眉間にしわを寄せた。
しかし、パッチワークに怒鳴ったのはハスキーではなかった。
「拙者を無視して話をするなでござる!」
コジュウロウは年不相応にプンプンと怒りながら地団駄を踏んだ。
潮風に流されてきた海の水気を含んだ草は衝撃を吸収し、気が晴れそうにない鈍い音を鳴らす。
「なんだよ。金はアキナから返してもらうし、コジュウロウにもう用はねぇぞ」
「オツルに夕餉に招待するように言われ、迎えに来たでござる。それなのに無視は酷いではないか! ふん……もういいでござる」
コジュウロウはそっぽを向くが、チラチラと瞳を端に寄せてリットの様子を確認していた。
「そういえば、こっちにいる間の宿はどうなってんだ?」
リットが聞くと、エミリアは少し申し訳さそうな顔で答え始めた。
「またしばらく歩くことになるが、ヤガスリ村に宿をとっている。シッポウ村には宿がなかったのでな」
「また歩くのか……」
「歩くと言っても二時間程度の距離だ。湖畔にある村で、湖でしか捕れない魚料理が自慢の村だそうだ」
パッチワークはヤガスリ村に行ったことがあるらしく、思い出すように目を閉じてエミリアの言葉に頷いていた。
リットはその反応を見ると、コジュウロウに向き直った。
「だとよ、コジュウロウ」
「どういう意味でござるか?」
「もういいってことだ」
「それはおかしな話でござる。拙者が先にもういいとふくれたのだから、そっちは拝み倒すのが普通でござろう? こっちは、世話になったのだから、家に泊めるようにオツルに言われて来たでござる」
「汚えのは……まぁいいけどよ。あの狭い家にこの人数泊まれってのか?」
コジュウロウと妻と五姉妹の七人に、リット達五人。全員が座るのもギリギリだと思われる家で寝るのは、考えるだけでも窮屈だ。
「……相変わらずハッキリいうでござるね。亭主の威厳を保つ為にも頼むでござる! このまま連れて帰らなければ、拙者オツルに怒られるでござる!」
コジュウロウは地面に額を擦り付けるように土下座をした。
「夕餉をご馳走になってから宿のことを考えればいいではないか。いざとなれば、ヤガスリ村の宿に謝罪の文を書いて送るから大丈夫だ」
エミリアがコジュウロウを立たせながらリットに提案をする。
「……ちょっと待て。なんで前提が、ヤガスリ村の宿を断ることになってんだよ」
「コジュウロウの厚意を無碍にすることもあるまい。本当に無理ならば、それから断ってもいいことだ」
「そうそう、袖ふり合うも多生の縁でござる。拙者の面子を潰さないで欲しいでござる!」
コジュウロウはエミリアに泣きつくような格好で、リットにすがりつくような懇願の目を向ける。
「潰れた面子が重なって厚みができてるだけの癖によく言うよ……」
「オツルー! 帰ったでござる! 拙者は困ると言ったのに、どうしても来たいと言うので連れてきたでござるよ」
リット達がいることも気にせず、コジュウロウは堂々と嘘をつきながら家の戸をノックした。
「おい、嘘つくなよ」
「嘘も方便でござる。――あっ、オツル!」
「遅いじゃないか! 料理が冷めちまうよ!」
戸を開けるなり、オツルが大口を開けてコジュウロウを怒鳴り散らした。
「なぁ、エミリア。オツルは鶴のハーピィって言ってたよな?」
「言ってたぞ」
「……アキナに少し似てるとも言ってたよな」
「言ってたぞ。いちいち確認するな」
リットは改めてオツルの容姿を確認した。
コジュウロウと並んで親子に見えるのは、コジュウロウが童顔なだけではなく、オツルの方が年上だからだろう。
アキナと同じ白い翼を持っているが、恰幅のいい体を着物の帯で無理やり押さえつけていた。
「ありゃ、どう見てもペリカンのハーピィだろ」
「こら、しょうもないことを言うな」
エミリアはキッとリットを睨んだ。
リットが相変わらず冗談が通じないと肩をすくめると、誰かに服の裾を引っ張られた。
「しょうもなくないニャ」
パッチワークがヒクヒクと背中を揺らしながら、エミリアに見えないよう猫手で口元の笑みを隠して小声で言った。
「知ってる」
リットもエミリアに隠れるようして、パッチワークに下卑た笑みを返した。
「さぁ、料理は温めなおすから。家の中に入っておくれ」
オツルは体格だけではなく、声もどっしりとしていた。
「オレの目算よりも一人分増えてるんだが、本当に入れるのか?」
リットがオツルの体を見ながら言うと、背中を乱暴に数回叩かれた。
「オチビが多いから心配いらないよ。アンタはもっと食いな」
オツルは気持ちの良い笑いを響かせながら、リットを無理やり部屋に上げた。
まるで儀式のように、全員が背中を叩かれつつ部屋に招き入れられる。
客人を全員入れ、最後にコジュウロウが部屋に入ろうとすると、オツルの大きな翼がコジュウロウの行く手を阻んだ。
「アンタは外で反省しな。アキナから聞いたよ。大陸で随分遊んでたそうじゃないか。浮気はしても家庭に持ち込まない。それが甲斐性って言うんだよ」
「誤解でござるよ! 拙者、オツルが思っているようなことはしていないでござる! ちょーっと埋めただけで、吸った揉んだはしていないでござる」
「冗談言えるなんて、余裕があるじゃねぇか」
「リット殿は黙るでござる!」
「一晩外で頭を冷やしな!」
オツルはコジュウロウを家から追い出すと、家が崩壊するのではないかと思うほどの勢いで戸をピシャリと閉めた。
「外は虫でいっぱいで寝られないでござる! リット殿もオツルに何か言って欲しいでござる!」
「黙れと言ったり、何か言えと言ったり……。そうだな……浮気の虫につかれないように気を付けんだな。一生家に入れなくなるぞ」
「じょーくを言えとは言ってないでござる!」
ふと、戸の外で騒ぐコジュウロウの声が気にならなくなるほど良い匂いが漂ってきた。
「お味噌汁を温めなおしましたよ」
アキナが湯気の立つ鍋を持ってきた。
「味噌汁ってなんスか?」
聞き慣れない名称に、思わずノーラが聞き返した。
「大陸にはないんですか? 大豆にお塩と麹を加えて発酵させたものから作るお汁ですよ」
「中に入ってる白いのも初めて見るっス」
「これはお豆腐です。大豆の絞り汁を固めたものですよ。そして、こちらは納豆です。ニオイがダメなら無理しないでくださいね。食べるならお醤油をかけてどうぞ」
アキナは食卓に次々と料理を並べていく。
「なんか豆の形してますけど……もしかしてこれも?」
ノーラが納豆を見ながら恐る恐る聞くと、アキナは笑顔をこぼした。
「はい、もちろん大豆です。このお醤油も大豆から作られてるんですよ」
アキナは自慢気に答えた。東の国の食文化をお楽しみあれといった表情だ。
「貧乏とは聞いてたけど、ここまで貧乏だったとは……」
「こら、そういうことは口に出すな」
エミリアはキツめにリットに注意をした。
「違います、違います! これはこういう食材なんです!」
憐れみに似た視線を投げかけてきたリットに、アキナは慌てて訂正をした。
「だって、全部大豆だろ? なるほど……アンタ実は狐か。こっちじゃ狐に化かされることもよくあるって聞いたしな」
「違います。私はハーピィですよぉ!」
アキナは翼を広げて、自分がハーピィだとアピールし始めた。
「いいから食べてみなよ。美味しいからさ。大豆ばかりでも、大陸の料理に負けてないよ」
今度はオツルからしきりに勧められる。
「本当かよ……本当は糞でしたってこたぁないだろな」
「疑い深い性格してるねぇ……」
リットは味噌汁の入った椀を持ち上げると、味噌汁と一緒に豆腐も舌の上にすべり込ませた。
舌の上で味噌が溶けて甘さとしょっぱさが雑妙に絡み合う。味噌汁を吸った豆腐からは、また別の僅かな苦味が広がった。
リットは味噌汁を喉に流し込むと、味噌の香りを吐き出すようにほっと一息ついた。
「なかなか美味いな」
「だろう?」
オツルはリットに目配せすると、わははと大笑いした。
リットが一言感想を言うと、周りから「いただきます」と声が響いた。
「オレの反応を待ってやがったな……」
リットがズズッと味噌汁を喉に流し込むノーラに不満の視線を送っていると、アキナがまた新たに料理を持ってきた
「お口に合って良かった! これもどうぞ」
アキナがリットに勧めたのは、器に盛られた豆だった。
「まさか……」
「煮豆です。大豆料理の基本中の基本です」
アキナはにっこり微笑むと、リットの分をよそって目の前に置いた。
食事の最中、エミリアはずっとオツルの愚痴に付き合わされていた。
パッチワークは三つ子に怖がられるハスキーをからかっている。
喋らず黙々と食事を続けているのは、コジュウロウが娘を紹介する時にいなかった『ヨメニー』だろう。少し長く伸ばしたおかっぱ頭の下から、クールな瞳をのぞかせている。
先に食事を終わらせたリットは、ぼーっと人物観察をしていた。
「旦那、よく食べられましたねェ……」
ノーラは手付かずの納豆を親の敵のように睨みながら言った。
「美味かったぞ」
「旦那の美味いは当てになんないっスから」
「じゃあ、聞くなよ」
「味は美味しいのかもしれませんけど、この臭いが……。口に入れて後悔するか、口に入れないで後悔するか……究極の選択っスねェ」
ノーラはハスキーの眉間の模様のように、深いシワを寄せて考えこんだ。
「あの……リットさん……」
「なんだアキナ。豆ならもういらねぇぞ。これ以上誰かに食わせたいなら鳩にやれ」
「違いますよ」アキナは手を口に当てて上品に笑う。「お父様のことです……。良かったら様子を見て来てもらえませんか?」
「あんな親父でも心配なのか?」
「いえ……お父様には一晩反省してもらうとして。お祖父様に迷惑を掛けていないかが心配で……。たぶん灯台にいると思うんですけど」
「灯台は立ち入り禁止だろ?」
「えぇ、だから迷惑をかけていないかと思いまして……」
「三つ子にからまれるくらいなら、コジュウロウの方がマシか……」
リットは三つ子がパッチワークとハスキーに飽きてこっちに来る前にと立ち上がった。
「お願いします。リットさんの大好きなお酒を用意して待ってますので」
灯台の根本では、葉擦れにまぎれて情けないシクシクとした鳴き声が響いていた。
「じいじ……。チクチクする胸の痛みなんとかしてほしいでござる」
コジュウロウは膝を抱えて、背中でゴロゴロと草を押し固めていた。
「じいじ! 聞いているでござるか!」
反応がないので、コジュウロウは立ち上がり伝声管に向かって大声を出した。
「聞いてほしかったら、そのじいじというのをやめんか! 自分をいくつだと思ってるのじゃ!」
伝声管が口の形に開くのではないかというほどの怒声で、イッテツの声が響き渡った。
「三十歳児だよな」
リットは耳を押さえてうずくまるコジュウロウに声を掛けた。
「おぉ! 迎えが来たでござる! もう心配はいらないでござる、じいじ!」
伝声管からイッテツのため息が聞こえるが、返事はない。代わりに伝声管に何か詰める音が聞こえた。
「じいじ! じいじ!」
「どうせ聞こえねぇよ。布でも詰めたんだろ」
「拙者が帰ってきたのに皆冷たいでござる……」
コジュウロウは鼻をぐずらせる。
「そりゃ好き勝手生きてるからだろ」
「リット殿だって、好き勝手生きているではないか」
「オレには養ってる家族もいねぇからな。ハーピィの抜け羽で生活するようになったら、いよいよオマエはお役御免だな」
リットは落ち込むコジュウロウを気にすることなくからからと笑った。
「笑い事じゃないでござる!」
「冒険者なんてそんなもんだろ。儲かってる奴なんて一握りしかいねぇぞ。大抵は未開の地で、骨も発見されずに死んでる。遅かれ早かれ旦那のことなんて忘れるだろ」
「リット殿はろまんがわからないでござるのう」
「ロマンね……。その言葉は突っ込まれるから使わねぇことにしたんだ」
そう言うとリットはコジュウロウに背を向けた。
「待つでござる! 拙者まだ用意が」
「あーいい、いい。様子を見に来ただけだからな。連れ戻せとは一言も言われてねぇよ」
「それなら、昔話に付き合うでござる! 語り明かせば一夜なんてすぐにござるよ! 拙者とオツルの馴れ初めは、オツルが罠に――」
「わりいな。アキナが酒を用意して待ってんだ。オレは困るって言ったんだがよ、どうしてもと言って勧めるもんだから」
「そんなの嘘でござる!」
「嘘も方便って言うだろ?」
コジュウロウの不平不満の雑言を背中に聞きながら、リットは上機嫌で岬を下っていった。




