第十三話
リットに声を掛けられると、コジュウロウの首がカラクリ人形のようにギギギっとぎこちなく動いた。
湯けむりが揺らぎ消え、影ではなくはっきりとしたリットの姿を見るとコジュウロウは目を大きく見開いた。
「リット殿ではござらぬか! こんなところで会うなど奇遇でござるな。いやー、誠に奇遇奇遇……。あまりに突然なことに、拙者のぼせそうでござる。御免」
コジュウロウは童顔な顔を更に子供のようにほころばせると、さり気なく立ち去ろうとする。
しかしリットは足を上げると、太ももをコジュウロウの腹に当てて歩みを止めさせた。
「そう急ぐなよ。久しぶりの再会だろ。酒でも飲もうじゃねぇか」
リットは風呂縁に腰掛けると、誰のものかわからない徳利からお猪口へと酒を注ぐ。
「いやー! そうでござったか。拙者はてっきり借金の取り立てかと」
リットはお猪口を傾けると、手早く二杯目を注いだ。
「なにゆえ、なにも言わないのでござる」
「憤怒の再会にするか、涙の再会にするか悩んでんだよ」
「拙者は涙の再会の方が嬉しいでござる」
「そうか……。泣かされる方がいいのか」
「もう泣いているから必要ないでござる」
コジュウロウは目の淵を人差し指で拭う。
「そりゃ汗だ」
「二人は知り合いか? 待て、当ててみる……。やかましい子供に、不機嫌な男。かみさんに逃げられ酒に逃げた男は、仕事と酒場ばかりを行き来し家に帰らなくなり、子供との距離も離れていった。そして、放っておかれ育った子供は奔放に育った。つまり、オヤジと子供だな」
猿の獣人が湯気の立った尻尾を器用に動かし、リットとコジュウロウの顔を交互に指しながら言った。
「惜しいな。三つ違うところがある」
「どこだ?」
「最初と、途中と、最後。コイツとの関係は、実に簡単な二つの言葉で片付く。被害者と加害者。もしくは、優しい家主と泥棒」
リットは「被害者」と「優しい家主」で自分を指し、「加害者」と「泥棒」でコジュウロウを指した。
「人聞きの悪いことを言わないでほしい。リット殿には、一宿一飯の恩義があるだけでござる」
「オマエの一日はずいぶんゆっくり流れるんだな。オレには数ヶ月に感じてた」
「楽しい時間は夢のごとく早く流れるものでござる」
「オマエの為にした部屋の模様替え、着替え、食事代、その他諸々の代金は、しっかり現実の帳簿につけてあるけどな。夢でもオレの世話になってたなら、その分の代金も貰うぞ」
「袖ふり合うも多生の縁と言うでござる。リット殿はもっと人と人の出会いを大切にするべきでござる」
「裸じゃ袖も触れ合わねぇよ。返すつもりがねぇなら、別の金を貰っていくぞ」
リットはコジュウロウの下腹部に視線を落とした。
「リット殿に衆道の気があるとは……」
「……一個もぎ取れば、減らず口も聞けなくなるだろ」
リットが感情のない声で言うと、コジュウロウは飛び跳ねるように後ずさった。
「いやでござる! 拙者これがないと、ものすごーく困るでござる! 取るなら別の者の玉を取れば――」
コジュウロウは振り返ると、喋りかけの口のまま目を点にさせた。
いつの間にかリット達の周りには人がいなくなっていた。皆、場の雰囲気を察して逃げた後だ。
「だいたい、オマエが東の国に帰れば金があるって言ったんだぞ。ここはどこだ?」
「龍の湯でござる」
「違う……。東の国だろ。ガキの約束じゃねぇんだ。しっかり耳を揃えて返してもらうぞ」
「子供でござるか……」
コジュウロウは下唇を出して悩む素振りを見せていたが、突然ニンマリと笑顔を浮かべた。
「あいわかった。家に戻れば蓄えがあるでござる。それまで、しばし――しばし待たれよ」
自信満々に言いのけるコジュウロウの顔を、リットは果物を掴むかのように握った。
「何年も待たせて、まだ待てって言うのか?」
「い、痛いでござるよ。リット殿」
コジュウロウの両こめかみに、リットの親指と人差指がめり込んでいる。
「そうだ。痛えことしてんだ。やっと話が噛み合った。良かった言葉が通じて。で、本当に返せるのか? 文無しで旅をしていたオマエが」
リットが手を離すと、コジュウロウは大げさに息を吐いて傷めつけられていたこめかみ部分をさすった。
「嫌でござるなー。その針を含んだような言い方」
「針を含んでるのはオマエだ。もうすぐ千本飲み込むことになるぞ」
「飲むならもっと良いものがある。リット殿の好みはわかっているでござる。そこのおねえさん。もう二、三本つけてほしいでござる」
風呂の角に置かれた行灯に油を足しにきている従業員に、コジュウロウは空になった徳利を振りながら言った。
従業員は子供に見えるコジュウロウを見て目を細めたが、隣りにいるリットの姿を見て「すぐに用意します」と返事をした。
水気を含んだ木の階段を従業員が下りていくペタペタした音を聞きながら、リットはお湯の中に沈むように肩まで浸かった。
「東の国で採れる金で返すってことは、金はあるんだろう? ケチケチせずに返せよ」
「左様なことはござらぬ。拙者、家族共々あばら屋住まいでござる」
「……おい。じゃあ、金はどうすんだよ」
リットは不安の声色を混ぜて、コジュウロウを睨んだ。
「案ずる事なかれ! 金よりもっと値打ちものがあるでござる」
「本当かよ……」
「拙者が命より大切にしているものでござる」
「つまり金は嘘だったわけだ……。今度も嘘だったら、タマ取るぞ」
リットはコジュウロウの心臓に向けて指を差す。
「さっきは金の玉。今度は命のタマ。リット殿はタマタマが好きでござるな」
「うるせぇな! 連れの猫の獣人に取った玉食わせるぞ!」
リットの怒鳴り声は岩肌や木の壁に反響して、湯けむりの中で更に大きく響き渡った。
「……ニャーはそんな汚いもの食べないのニャ」
リット達のずっと下の升風呂の中にいるパッチワークがポツリと呟いた。
リットの声は女風呂の脱衣所にまで響いていた。
「旦那の声っスね」
「あんな大声で……恥ずかしい男だ……。――それより、ノーラ。あまりジロジロ見るな。失礼に当たるぞ」
ノーラの視線の先には四尾を生やした白狐の獣人がいた。
「構わぬ、とくと見よ。妾の甘美で豊満な肉体に目を奪われたのであろう。詮無きことよ」
白狐は体をタオルで隠すこと無く全裸で突っ立っていた。大きく育った上向きの乳房がよく揺れている。
「風邪引きますよ。自分でも拭いたほうがいいんじゃないっスか?」
ノーラの言うとおり、白狐は何もしていない。手持ち無沙汰に自分の爪を眺めているくらいだ。
その周りでは、子狐達が白狐の尻尾をタオルで拭きとり、せっせと乾かしている。
「はっはっは! その通りだ。こいつは良い年して自分で体を拭けねぇんだ」
二尾の銀狼の獣人が腰に手を当てて大笑いする。白狐と違い腰にタオルを巻いているが、胸は同じくほっぽり出たままだ。
「二尾になりたての小童の癖にうるさいのじゃ。二尾と違い、四本の尻尾を一人で乾かすのは大変なのじゃ」
「尻尾なんて振れば乾くだろう」
銀狼は二つの尻尾をブルブルと振った。水滴を飛ばされた周りの迷惑そうな視線もおかまいなしだ。
「野卑な考えじゃのう。妾のように美しい尻尾を持たぬ者にはわからぬか……」
白狐は乾かし途中の尻尾を優美に動かす。やわらかに波打つ白色の毛を生やした尻尾は、夏風に揺れる白いフサフジウツキのようだった。
一方、銀狼の尻尾は逆だったように箒のようにボサボサしている。
ノーラは白狐と銀狼、そしてエミリアを見比べると、着替えを持って銀狼の横に移動した。
「こっちの方が落ち着くっス」
「おい……。今、私の乳を見て言っただろう」
銀狼がかがむと、膨らむというのもおこがましい程小ぶりな胸の先端を伝い、拭き残しが雫になってポタポタとノーラの足下に落ちた。
「別に気にしてるわけじゃないっスよ。ただ、お胸が大きい人のとこにいると、私の頭の上辺りに胸の影ができるんで暗くなるんっスよ。あっ――世の中お尻の方が好きな人もいるから大丈夫っスよ」
「私も別に気にしてねぇよ!」
銀狼は逆立った毛を更に逆立てて吼えた。
「こら! 人の身体的特徴をバカにするのはよくないことだぞ」
エミリアはノーラの頭を押さえつけるように手を置いた。
「……だから気にしてねぇんだって。聞けよ、嬢ちゃん」
銀狼はうんざりとした様子で肩を落とした。
「バカにしてるわけじゃないっスよ。情報を教えただけっス。旦那みたいにお尻が好きな人もいますし。その旦那も言ってましたよ。お胸、お尻の前に、まず「むんむんまっ」な女がいいって」
「なんだ? むんむんまってのは……。筋肉ならアイツより私のほうがあるぜ」
銀狼はむんっと力こぶを作ると、割れた腹筋もより強調された。
「違いますよォ……。むんむんまっの詳しい意味は忘れましたが、オオカミさんじゃなくて、あっちのキツネさんみたいな感じのことだったはずっス」
ノーラは白狐の方を指差した。
「妾かえ?」
白狐は乾かし終えた自分の尻尾の手触りを確認しながら言った。
「確か……もわもわ、もやもや、むらむらって感じだった覚えがありますねェ」
ノーラは思い出しながら適当な擬音を口にする。
「妾の色香は男を惑わせる。小さいの、その男に言うとけ「妾にまいるのは勝手だが、寵愛を受けるには、相応の男でなければいかぬぞ」とな」
「りょうかーいっス」
「それにしても、狼よ。会うたこともない男にもフラレておるわ。誠、愉快愉快」
白狐は銀狼に向かって小馬鹿にした高笑いを響かせた。
「がーっ! うるせぇな! 毎度毎度! その傲慢な態度と一緒に、高く売れそうな尻尾を食い千切ってやる!」
「ほんに、よう吠える犬じゃこと。死の淵から助けてやった恩をもう忘れたか」
白狐と銀狼は一触即発のにらみ合いを始めた。
「あれー、なんか喧嘩に発展してますねェ」
「焚き付けたのはノーラではないか……。先に出ていろ。私は喧嘩を止めてくる。このままでは、湯屋にも客にも迷惑がかかるからな」
ノーラが脱衣所を出ると同時に、脱衣所から暴れる音が響き渡った。
先に上がっていた、ノーラ、エミリア、パッチワークは、温泉へと続くのれんがある入口付近でリットを待っていた。
二十分程待ったところで、のれんをくぐり肩にタオルをぶら下げたリットがやってきた。
「遅い。まさか温泉で酒を飲んでいたのではないだろうな」
エミリアがリットの口元で鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「まさか。酒の匂いがするとしたら、酒風呂に入ったからだろ」
「それなら仕方がない」
リットはデタラメを言ったが、エミリアの反応を見るとそういう風呂があるらしい。
「んだよ。そんな夢の風呂があったのかよ。入りゃよかった」
「なにか言ったか?」
「いや……そういえばここは獣人が多いな。温泉の中でかなりの人数を見かけたぞ」
リットは誤魔化すように別の話題を振った。
「女湯の方にもいっぱいいましたねェ」
「龍頭山の麓に獣人が多く住むシッポウ村があるからだニャ。北の大灯台はシッポウ村のすぐ近くだニャ」
「妖怪族とは共存してると聞いていたが、獣人とも共存してんだな」
リットは受付にいた天狗を思い出し、あれが妖怪族かと今更ながら感じていた。
「獣人が火を怖がっている時代に、灯台の明かりを求めて出来た村だからでござる。拙者もその村の出身でござる」
コジュウロウが発言すると、リット以外の皆が一斉にコジュウロウに視線を向けた。
「リット、この子供は誰だ?」
見知らぬ顔をじっと見ながらエミリアが言った。
「どっかで見たことあるんスけどねェ……。このちんちくりん具合は」
「拙者も、このちんちくりんなおなごを見た覚えがあるでござる」
ノーラとコジュウロウは、お互いの顔をパーツの一つ一つを確認するように見合わせている。
「早く親元に返したほうがいいんじゃないか? 心配しているだろう」
リットが迷子の子供を連れてきたのだと思い、エミリアが心配そうに言った。
「だとよ。パパとママのところに帰るなら金を返してから帰れよ」
リットはコジュウロウの頭を撫でながら茶化すように言った。コジュウロウはノーラより頭一つ分大きいくらいの背の高さしかないので、実に撫でやすい位置にあった。
「拙者子供じゃないでござる! 遠の昔に元服した立派な大人の男でござる!」
「そうかそうか。立派な大人になるんだぞ。大人になって世の為になる職に就きたくなったら、リゼーネ王国に来い。私が面倒を見てやる」
エミリアはにこやかに笑いかけながら、コジュウロウの頭を撫でた。
「失礼なおなごでござる!」
コジュウロウは言い終えると、思いっきり頬を膨らませた。
「笑っちゃうだろ。こんな顔と背で、オレより年上だ」
リットの言葉を聞くと、エミリアの手がコジュウロウの頭を撫でたままの形で止まった。
「年上?」
「そうだ。もう三十を過ぎてる。オヤジに足を踏み入れてる年齢ってわけだ」
エミリアは信じられないものを見るような顔つきで、コジュウロウの顔を見た。
「いかにも、男盛りの三十代でござる」
コジュウロウは顎に手を当てると片眉をくいっとあげてダンディなポーズを見せるが、子供が悪ふざけをしているようにしか見えなかった。
「東の国の魔法とも言われる妖怪変化か……。いや、ノーラと同じドワーフか……。ハーフということも考えられるな」
「……悩んでいるところ申し訳ないが、拙者は人間でござる」
「三十路でこの落ち着きのなさは信じられないニャ……」
パッチワークのつぶやきに、エミリアは同意するように頷いた。
「はっはっは! それじゃあ、まるで拙者が甲斐性なしみたいな言い草でござるな」
コジュウロウがからかいを吹き飛ばすかのように笑うが、皆コジュウロウと顔を合わせることなく視線を空中に彷徨わせている。
「――それじゃあ――まるで――拙者が――甲斐性なし――みたいな――言い草でござるな」
反応が帰ってこないので、今度はコジュウロウはゆっくりと言った。
しかし、皆は床をじっと見たまま黙っている。
「その反応は、みんな拙者が甲斐性無しだと思っているでござるか!?」
「まぁ、別に落ちてる小銭を拾うために俯いてるわけじゃないっス」
「酷いでござる! えっと……」
コジュウロウはノーラを見て口を開いたまま固まる。
「ノーラだ。ノーラ、オマエも忘れたのか? よくコジュウロウに黒焦げた玉子を食わせてただろう」
「あぁ、コジュウロウっスか……。名前は覚えてましたけど、すっかり顔は忘れてましたよ。特徴がないんで」
「あんまりでござる、ノーラ殿。これでも大陸にいる間はべびーふぇいすで可愛がられたでござる」
「子供って呼ばれるのは嫌なんじゃないのか?」
「子供と言われるのと、べびーふぇいすと言われるのではぜんぜん違うでござる」
急に話が弾みだしたのを見て、エミリアはリットに耳打ちをした。
「知り合いだったのか?」
「おう、オレが探してたコジュウロウだ」
「そうか……。――コジュウロウ。私はエミリアだ。リットと積もる話もあるだろう。よかったら夕餉を共にしないか? 失礼じゃなければご馳走させて貰えればと思う」
「おいおい……」
リットはそんな必要はないとエミリアの肩を掴むが、コジュウロウは声高々に助かったと笑った。
「いやー、最初からそのつもりでござる。何を隠そう拙者、無一文で温泉郷に迷い込んでしまって、人の流れに乗って湯屋にまで来てしまったもんだから、困り果てていたでござる。ついでに、宿代も払って貰えればもっと助かるでござる」
「わかった。湯屋には私から言っておこう」
「こいつにそこまでする必要なんてねぇよ」
「古くからの友人なんだろう? それに、元から四人部屋なんだ。一人増えたところで変わりないだろう。大灯台までの道案内も頼めるし、いいではないか」
「エミリア殿は優しいでござるな。大陸で言うところの聖女ガルベラのようでござるー」
機嫌よく鼻歌交じりのコジュウロウと違い、リットはうんざりしていた。
「この「ござる」「ござる」うるせぇのと、また一緒かよ……」
「それじゃ、部屋に戻るとしよう。ハスキーも待っているだろう」
エミリアが歩くと、コジュウロウとパッチワークが後を続いた。
「温泉場まで来て、抜け毛の季節と被るなんて運のない奴ニャ」
ノーラも後を続いて数歩歩いたところで、急に振り返った。
「そうだ。旦那ァ、伝言ですぜェ」
「誰からだ?」
「白いキツネさんからっス。「笑わずにいるのは大変だが、蝶を生けるには、僧坊に住む男でなければ、次男坊」だそうです」
「なんだそりゃ……。まじないの言葉か? キツネに知り合いもいねぇしよ」
ノーラは「さぁ」と肩をすくめた後再び歩き出し、また立ち止まった。
「あと、オオカミさんからも「殺す」って伝言がありましたよ」
「嘘ついて酒飲んだだけで、ずいぶん物騒な天罰が落ちるじゃねぇか……」




