第十二話
長い階段を登りきった時には、急激に脚に筋肉がついたかのようにパンパンにはっていた。
暖かな石灯籠の明かりで照らされた湯屋の玄関をくぐったリットは、一息つこうと吐きかけていた息を思わず飲み込んだ。
湯屋の受付があるロビーは無駄に広く、吹き抜けになっているので、五階建ての高い天井が見えた。その天井からは、巨人の頭と見紛うほど大きな提灯がぶら下がっており、黒墨で『龍の湯』と書かれていた。
吹き抜け沿いの廊下では忙しそうに料理を運ぶ仲居の姿や、宴会で盛り上がる声で賑わっていた。
重圧な太い梁や柱がむき出しになっている、木で作られた世界にリットは圧倒されていた。
「すげえな……。木造だろ? よく崩壊しねぇな」
リットは天井に吊るされた、夕焼けの光を掠め取ったような明かりを放つ大きな提灯を見上げながら言う。
「私に聞かれてもな……。東の国の木造技術は……それほど……高度なのだろう」
鎧姿のままで階段を上ったのは流石に疲れたらしく、エミリアは珍しく肩で息をしていた。
「受付前に少し休むか?」
「だ……大丈夫だ」
「入口付近で立ち止まってたら邪魔だろ。だいたい、オマエらの荷物は多過ぎんだよ」
エミリアは着ている鎧の他にも大きな鞄を持っていた。
ハスキーは鎧こそ着ていないが、食料などが入った大荷物を二つほど担いでいる。
パッチワークは何が入っているかわからないが、ポケットの付いた服をパンパンに膨らませていた。腰にぶら下げているソロバンとは逆方向に付いている革袋からは、草の影が見え隠れしている。
一方、リットとノーラは背負いカバンひとつだけだった。
「……ハスキー、パッチワーク。移動するぞ」
リット達は入口の間の端に移動すると、備え付けの椅子に皆座り込む。エミリアが椅子に深く腰掛けると、鎧がガチャガチャと鳴った。
「オレにはよくわからねぇけどよ。普通は長旅に鎧は着ないんじゃねぇか?」
リットがエミリアが着ている硬い白銀の鎧を拳で軽く叩き、鈍い音を響かせた。
「有事の際に鎧や剣がなければ大事になるだろう」
エミリアは喘ぎのような吐息を漏らしながら、ハスキーに渡されたタオルで顔や首元を拭きながら言った。
「今なにか起こったら、一番役立たずなのは疲れきってる奴だけどな……。もう、脱げよ。どの部屋に案内されるかわからねぇけど、また階段を上がるに決まってる」
リットが三階付近の吹き抜け沿いの廊下を見ると、エミリアも同じように見上げた。
「そうだな……。ここだと他の者の邪魔にはならないしな」
エミリアは腕甲を取り、慣れた風に鎧を脱いでいく。胸当てを外すと、豊かに膨らんだ胸に汗で濡れたシャツがピッタリくっついていた。シャツの首元に指を引っ掛けて緩めると、首筋から鎖骨に向かって玉になった汗が流れていった。
「もう温泉に入ったのか?」
「バカを言うな。こんなにベタつく温泉があってたまるか」
エミリアは最後に鉄靴を脱ぐと、ハスキーがエミリアの鎧を拾って一つに纏めた。
「よくこんなのずっと着てましたねェ。私なら歩くだけでひっくり返りそうですぜ」
ハスキーから籠手を借りたノーラは、手にはめて重さを確かめている。
「慣れだ。さて、受付をすませるか」
額に張り付いた前髪を手で流しながら、エミリアは立ち上がった。
「もう大丈夫なのか?」
休憩というよりも、ただ鎧を脱いだだけだったので、時間はそれほど経ってはいない。
しかし、エミリアはしっかりと呼吸を整え終えていた。
「あぁ、夜にしっかり寝られるおかげで、前よりも体力がついた」
「役に立ってるなら、酒の数を増やしてくれてもいいと思うけどな。それに、エミリアも甘えろって言ってただろ」
「甘えると甘やかすのは違う」
リット達は話しながら列で待っていた。
前にいる夫婦の二人が受付を終えると番が回ってきた。
「ややっ! 異国からのお客さんですな!」
受付にいた男はカウンターから身を乗り出すと、毛虫のように濃く太い眉毛をしかめて真っ赤な顔をリットに近づけてきた。
「……今すぐ顔を離さねぇと、その長い鼻をロウソク代わりに火をつけんぞ」
リットの鼻と右頬の中間辺りには、受付の男の立派に伸びた赤い鼻の先端が刺さるように当たっていた。
「これは、失礼。赤く長く伸びた鼻は大天狗の証。ついつい自慢をしたくなりましてな」
大天狗は葉っぱのような形をした団扇を、見せびらかすようにしてリットに向けて扇いだ。
軽く振っただけなのに、団扇が巻き起こす風は山風のように強く吹いた。
「ハスキー。扇子をよこせ」
「はっ! すぐに!」
リットはハスキーからハーピィの抜け羽の扇子を受け取ると、大天狗に向かって軽く振るう。扇子から巻き起こった風は、鼻下に蓄えた髭を強く揺らした。
「むむっ! 異国にも同じようなものがあるとは誠に驚き。ここは島国と大陸。どちらの団扇が強いか勝負といこうではありませんか」
大天狗は短剣を突きつけるように、リットに団扇を向けた。
「いいんだな? 後ろのキレイなねえちゃんの着物をぶっ飛ばしても」
リットも扇子を大天狗の後ろにいる黒い羽を生やした女天狗に向けたが、突然首根っこを掴まれたことによって扇子は天井に向かっていた。
「いいわけないだろう。なぜ、そう喧嘩腰なんだ」
エミリアはリットを引っ張ってカウンターから遠ざけた。
「アイツの言動は、なんかいちいち鼻につくんだよ。実際に鼻を付けられたしよ」
リットは汚いものを付けられたというように、頬を手で念入りに擦りながら言った。
「ハーピィの扇子で扇いだらどうなるかわかっているだろう。宿代は払うが、損害賠償までは払う気はないぞ。天狗殿、すまなかった。二部屋頼みたい。三人と二人だ」
「三人部屋はないので、四人部屋になりますがよろしいですかな?」
「かまわない」
「では、すぐにご案内させます。――私の――部下の――烏天狗に」
大天狗は自分の部下だということを強調し、声を大きくして言った。
すると、凛々しい顔をした。いかにも仕事ができそうな烏天狗が二階から飛んできた。
「部屋の用意はできております。ご案内いたしますので、まずは階段に向かいましょう」
烏天狗は黒いクチバシを開きそう言うと、リット達と同じように地に足を付けて歩き始めた。
リットは烏天狗を見た後に一瞬ノーラを見たが、すぐに負けを認めたように悔しみと落胆の表情を浮かべる。
リットのその顔を見て、大天狗は得意そうに口元を歪めて笑った。
「旦那ァ。その反応はちょーっとあんましじゃないっスか?」
「融通の効かねぇ堅物の小娘と、ちんちくりんの超小娘。それに、毛玉を吐く猫と、てめぇの尻尾を追いかける犬だぞ。オレの部下は役立たずばかりか」
「……私はリットの部下になったつもりはないぞ」
エミリアに同意するように、パッチワークが頷く。
「ニャーも、そこはしっかり否定させてもらうニャ」
「お気持ちは嬉しいのですが、自分はエミリア様の部下ですから!」
ハスキーも申し訳無さそうな顔をして否定した。
「私は旦那の部下ってことでもいいっスよ」
「まともに火を扱えねぇで、ランプ屋の部下もあるか。ったく……。――折ってくださいって、これ見よがしに伸びてる鼻っ柱さえ折れやしねぇ」
リットは大天狗の鼻を睨みつけると、また悔しさに顔を歪めた。
「あ、あの……。お部屋の案内を……」
部屋案内を命じられた烏天狗は困ったように立ち尽くしていた。
烏天狗に部屋へ案内されたが食事にはまだ時間がかかるらしく、先に温泉にでもどうぞと勧められ、リットは一階から繋がる温泉へと来ていた。
最奥にある高く積まれた岩壁から滝のように温泉が流れでていて、飛沫から放たれた湯けむりを遠く入口付近にまで飛ばしている。
熱のこもった湯けむりが途切れること無く漂っているので、立っているだけでも蒸し風呂に入っているかのように温かい。
源泉掛け流しの完全放流式なので、高いところから流れさせて、なるべく空気に触れさせるようにして源泉を冷ましているらしい。
「この上からも源泉が流れてきているのニャ」
パッチワークは頭に四つ折りにしたタオルを乗せ、湯船に浮かべた木桶に寄りかかっている。
リット達が入っているのは四人くらいが入れる大きさの升形をした風呂で、それがいくつも階段状に重なって上へ伸びていた。上の升風呂からお湯が溢れ、下の升風呂へ。その升風呂からもお湯が溢れ、下の升風呂へと流れていく。一番上の升風呂ほど温度が高く、下にいくにつれてぬるくなっていく仕組みだ。
リット達は中間辺りの升風呂で少し熱めの湯に浸かっていた。あまり下の升風呂に入ると子供が多いからだ。
年を取るほど熱い湯を求めるらしく、年寄りは風呂横にある木製の階段を上りどんどん上へと向かっていた。
「よく考えれば、あの爺さん達が浸かった湯が流れてきてんだよな……」
「……いい気分が台無しなのニャ。その為に、東の国にはかけ湯って文化があるんだニャ」
「それで、温泉の入り口でオレに湯をぶっかけたのか。もう少し言うのが遅かったら、楽器屋にオマエを売るところだった」
「なんで楽器屋なんだニャ?」
「オレも船乗り達から少しは東の国の情報を集めたからな。東の国の有名な楽器は猫の皮を使うそうだ」
リットが口をいやらしく曲げて悪意に満ちた笑いを浮かべると、パッチワークは毛を逆立てて身震いをした。まるで極寒の地に放り出されたようだ。
「ニャーの体と、お兄さんの冷めた心を温めるにはこれしかないニャ」
パッチワークは浮かんでいる木桶からお猪口を取り出すと、一つリットに渡した。
「なんだこれ?」
リットは握れるほどの小ささな陶器の器を不思議そうに眺めた。
「これが東の国のお酒の飲み方ニャ」パッチワークは、トクトクと小気味良い音を立てて徳利からお猪口に酒を注いだ。「ささ、グイッとどうぞニャ」
パッチワークが言い終える前に、リットはお猪口を口に運んだ。
舌先をピリッと心地良く刺激し、敏感になった舌に滑らかな甘みが広がる。喉をくすぐるように落ちていくと、じんわりと五臓六腑にしみわたった。
喉や胃が熱い。まるで火を飲み込んだかのように酒の通り道が火照っている。
リットは深く息を吐く。息は芳醇な香りを放ち、鼻に届いた。
「いやー、でかした。パッチ」
一口でも充分ボリュームのある飲みごたえに、リットは満足そうに顔を緩めた。
「温泉に浸かり、湯けむりに濁るお月様を見上げて酒を一献。これが風流ってもんだニャ。ニャーは違いのわかる猫なのニャ」
「風流でもなんでもいい。エミリアにさえ黙っててくれりゃあな」
「当然ニャ。だからニャーの裏商売のことも内緒でお願いしますニャ」
パッチワークは、リットにお猪口にまた酒を注いだ。
「ずいぶん念を押すな……。もっとヤバイことしてんじゃねぇだろうな」
何気なく言ったリットの言葉に、パッチワークは徳利を湯船に落とした。
「……革袋から見えてたあの草か?」
リットがもうひと押しすると、パッチワークは拾い掛けていた徳利を再び湯船に落とした。
「ニャニャ、ニャーは草なんか持っていないのニャ」
パッチワークは酒が流れ出し、代わりにお湯が入った徳利の中身を飲むと、ゲホゲホとむせこんだ。そして、また湯船に徳利を落とす。
「嘘をつくなら、もう少し上手く動揺を隠せよ……。危ない草を持ってるなら、エミリアに言うぞ。巻き込まれたくねぇし」
「本当に危ない葉っぱなんて持ってないのニャ! あれは枝ニャ!」口走ったパッチワークはしまったという顔を浮かべると、意を決したような表情になった。「こうなったらお兄さんには全部言うニャ。全てを話した上で内緒にしてもらうニャ。――ニャーが持っているのはマタタビの枝ニャ」
パッチワークの人目を忍ぶような強張った表情に対して、リットはキョトンとした顔をしている。
「マタ……タビ……?」
「そうニャ。知ったからには、お兄さんには墓場まで秘密を持っていてもらうニャ」
「マタタビくらいで大げさな……。マタタビなんて普通に売ってるじゃねぇか。リゼーネにもあったぞ」
「売ってるのは一番効果の薄い葉っぱだけニャ。枝、実と順に効果が強くなり、それは法律で禁じられているのニャ」
「んな法律聞いたことねぇぞ」
「獣人法は、人間とはまた別もんだニャ。百年くらい昔に、ニャーの生まれた村で多種族と共存するために作られた、獣人の獣人による獣人のための決まり事だニャ」
「違法がバレたら死刑にでもなるのか?」
「全身の毛が二度と生えてこないクスリを塗られるニャ。そんなことをされたら生き恥だニャ」
言い終えると、パッチワークは隠れるように顔までお湯に浸かった。
「たかがそれくらいのことかよ」
「お兄さんは毛を刈られた羊を見たことないのかニャ。ニャーはあんなみっともない姿で生きていくのは嫌ニャ」
「確かに……マヌケだな。でもよ、今の姿も充分マヌケに見えるぞ」
湯に濡れて細くなったパッチワークの体を見て、リットは声を出して笑った。
「笑ってもらえて満足だニャ」
パッチワークは少し不機嫌そうに言うと、身震いをして顔周りの毛に付いた水を飛ばした。
「それにしてもうるせぇな……」
リットは飛ばされてきた毛の混じった水滴を拭いながら見上げた。
上層部の升風呂で、お湯の中で暴れる音や笑い声が聞こえる。
「誰か暴れてるみたいだニャ」
「ちょっと文句を言ってくるか」
「危ないニャ。質の悪い酔っぱらいかもしれないニャ」
「なら、尚更行かねぇとな。デロンデロンに酔っ払ってたら酒をかっぱらってくる。結局、二口分くらいしか飲んでねぇからな」
リットは湯に沈んだ徳利を取ると、パッチワークに投げて渡した。
階段を上るにつれて、湯けむりの温度も上がっていた。
三つほど升風呂を通り過ぎたところで、濃い湯けむりの向こうに騒ぎ元の数人の影が見えた。
その中の一人が、なにやら武勇伝を語っているところだった。
「――拙者はおなごを背中に隠すと、悪漢達を睨みつけ「やるなら拙者が相手になるぞ」と一喝したでござる。そこからは千切っては投げ、千切っては投げの大立ち回りでござる」
「嘘つけ。子供にそんなことが出来るか」
肩まで湯に浸かった男がからかうように言った。
「嘘ではござらん!」
男の子はバチャバチャと音を立てて、湯の中で地団駄を踏む。
「だいたいガキンチョのくせに、熱い風呂に来てんじゃねぇよ。お子様用は一番下だ」
別の男がはやし立てると、次々に茶化すような言葉が飛んだ。
「そもそも拙者は子供じゃないでござる! 拙者は勇敢に腰の刀を抜いて、悪漢どもに立ち向かった!」
「だいたい、その細い腕で刀なんか振るえないだろう?」
「そこまで言うのならば、拙者の剣術を見せてやるで――おろ?」
男の子は湯船の底に尻餅をついた。
原因は、リットが肩を掴んで強引に引き寄せたからだ。
「オレも知りてぇな。教えてくれよ。その股ぐらにぶら下げた小せえ刀をどうやって振り回すんだ? なぁ――コジュウロウ」




