第十一話
「また船か?」
朝早くからリットが不満の声を上げると、エミリアは肩をすくめた。
「そういう地形なのだから仕方ないだろう」
「四日前に船から降りたばかりなんだぞ」
リット達は大灯台がある北島に向かう途中だった。
カラクサ村がある『西島』。カモン城がある『東島』。大灯台がある『北島』。東の国の中でも一風変わった文化がある『南島』。
東の国はそれぞれの灯台がある四つの島に分かれているので、島から島への移動には船を使う必要があった。
「四半日も掛からないで北島に着く。我慢しろ」
「島国ってのは、面倒くせえな……」
リットは渡し船の上へ、投げるようにして乱暴に荷物を置いた。
渡し船は四人も乗ればいっぱいになるような小舟。操縦する者も立派な白髭を生やしたひょろひょろの老人の男だったので、リットは少なからず不安を覚えた。
「大丈夫なのか? 爺さん。アンタと同じで、この船も脆そうだぞ」
思っていたよりも大きく揺れる小舟に、リットがフラフラになりながら座った。
「ジジイと一緒で、船もなかなかしぶといもんさ。また、ジジイと一緒でいきなりポックリ逝くこともあるがね」
船頭の老人は抜けた歯の隙間からひーひーと空気多めの笑いをこぼして、桟橋に繋いでいた舫い綱を解いた。
エミリアのつばを飲み込む音が聞こえた。老人の言動に、リットだけではなく他の者も不安を覚えた。
割れ物の上に立つかのように、慎重にノーラが小舟に乗り込んだ。
一人が乗り込む度に小舟は大きく揺れる。
リット、ノーラ、エミリア、ハスキー、パッチワークの五人が乗ると船は無人で浮いていた時よりも大きく沈む。
そして、最後に船先に老人が立つと、更に船は沈んだ。
「大丈夫なんスかねェ……」
ノーラが船から手を出して水をバシャバシャ弾いた。ノーラの短い腕でも触れるくらい海面が近いということだ。
「もし、海水が入ってきたらそこのバケツで汲み出せばよい」
老人が顎をしゃくって、床に落ちている木バケツを指した。
リットはそれを拾い上げると、顔をしかめた。
「……底に穴が空いてるぞ」
「船底に穴が空いているよりマシじゃわい。さぁ、いくぞい」
老人は自分の倍くらいもある長い棒を川に突き刺して、水を掻くというよりも川底を引っ掻くようにして漕ぎ始めた。
川のようなゆっくりとした流れの海峡を、渡し船は波を分けながら進んだ。
西島と東島と北島。その間にはY字に伸びる海峡があり、それを『龍腕海峡』と呼ぶ。
理由は単純に龍がいたからだ。
三つの島境の水路が合わさるちょうど真ん中。その真下の奥深くの洞窟に龍はいた。
大ナマズとの戦いに敗れた龍はその洞窟から飛び出すと、北の大灯台を壊しながら進み、闇に呑まれたペングイン大陸の方角へと消えていったらしい。
老人は船を漕いでいる間、東の国に起こった事件の話をしてくれていた。
「一番被害が大きかったのは、大灯台がある北島じゃ。今では、ほとんど前と変わりない状態まで復興しておるがの」
「オレは壊される前の大灯台が見たかったんだがな……。もっと早くに来てりゃ良かった」
「あんた達のように他の国から見に来る者も多く、復興前と同じように賑わっているが、今じゃただのお飾り灯台じゃよ。火は灯しておるが、北の大灯台を目指してくる船は一隻もおらんくなった」
老人は寂しげに微笑すると、それを誤魔化すかのように船を漕ぐ手を早めた。
「私は昔に一度見たことがあるぞ。妖精の白ユリのオイルとも違う、不思議な光を放つ灯台だった」
「城よりも有名な灯台だからな。火も特殊な物を使ってたんだろうよ。ますます見ておきたかったもんだ……。大灯台が壊れてからペングイン大陸に光が届かなくなったってことは、もう光の元が手に入らねぇってことだからな」
リットは実に惜しいことをしたと感じていた。一度でも見ておけば火種となっていた物の見当が付いたかもしれなかったからだ。そして、それが妖精の白ユリのオイルのように作れるものだった場合は、東の国と実に良い取り引きが出来たに違いない。
「なんの光だったらいいんスかね」
「さぁな。過去の栄光を光らせてるようじゃダメなのは確かだな」
「嫌味な灯台っスねェ」
リットとノーラの会話を、老人は大口を開けてダハハと豪快に笑った。
「目的が何かは知らんが、ガッカリすることばかりじゃないぞい。大灯台に向かう途中にある龍頭山には龍頭温泉郷がある。旅の疲れを癒やすには持って来いの場所じゃ。なんと言っても湧き出ているのは龍の湯じゃからな」
「龍の湯? また大層な名前だな」
「地下深くに住む龍の力のおかげで、浸かれば万病に効くとも言われておる温泉じゃ」
「ナマズに代替わりしたのに、効能が続くとは龍の力ってのは凄ぇんだな」
リットが皮肉たっぷりに言うと、老人はまたも豪快に笑った。
「龍は災害をもたらすが、恵みももたらす。東の国があるのは龍のおかげじゃ。少なくともワシはそう信じとるよ。信じる者は救われるというやつじゃな」
「信じた者しか救ってくれないんじゃ、龍ってのも大した奴じゃねぇな」
「違いないわい。でも、あんたじゃって困ったら神頼みをするじゃろう?」
「神に頼むっつーか、救ってくれりゃ誰でも神様だな。酒でも奢ってくれりゃ、爺さんも神の使いくらいに昇格してやるぞ」
「ワシがならんでも、そのうち向こうから迎えに来るわい。――それより、向こうに北島が見えてきたぞい」
老人が指差した方角では、海峡の白波立った向こうに薄ぼけた岸が見える。
「思ったよりも早いな」
「風が強くないおかげで順調に進んどるからのう。船がひっくり返らない限り、もうすぐじゃ」
無事に向こう岸に着くことができた頃、太陽はちょうど真上に差し掛かる時だった。
近場の村で軽めの昼食を済ませると、リット達はすぐに龍頭山に向かった。
夕闇時、静かな山間に光がこぼれだしていた。
立ち上る湯けむりに無数の小さな光が混ざり、まるで一つの炎のように赤く染まっている。
龍頭温泉郷へと続く、薄暗く寂しい入り口を抜けて少し歩くと、そこはもう別世界だった。
隣の店と区別がつかない程びっしりと屋台が立ち並び、狭い道を作っている。そこかしこから客引きの声が飛び交い、声の元を辿り見上げれば、上には木で道が作られ更に屋台が続いた。
道は複雑に入り組んでいて、右に左に、上に下に、二度と出て来られない迷路のようになっている。
山の斜面に無理やりミニチュアを並べたような作りで、後からツギハギを足して道を作ったような感じだ。
普通なら不安が押し寄せてくるはずだが、胸は高鳴っていた。眩いほどの明かりのおかげだろう。
吊るされた無数の提灯が照らす光の道を行き交う人々は、光にも負けないほど明るい表情と話し声で歩いている。
全てが木造の町並みは、大陸育ちのリットにさえも東の国の郷愁を感じさせた。しかし、色街を歩いているような妙の心のざわつきもこみ上げてくる。
提灯のぼやけた明かりがそう感じさせるのか、ここだけは別の時間が流れているかのようだ。
湯上がりの人の熱気と、提灯の熱と、湯けむり。歩いているだけで、水浴びをしたかのように汗を掻いていた。
リットは服の袖で額の汗を拭い、歩きしなに買った屋台の飲み物を喉を鳴らして飲んだ。落ち着くための息を一つ吐くと、提灯の明かりを火の粉のようにキラキラ反射させる金髪頭に向かって声を掛けた。
「エミリア……。場違いすぎるぞ、その格好。邪魔だし」
皆が薄着で歩いている中、エミリアだけは鎧のまま歩いていた。
「わかっている。しかし、ここで立ち止まって脱ぐわけにもいかないだろう。それこそ邪魔になる」
エミリアは通りすがる人と肩がぶつかる度に「すまない」と謝罪の言葉を繰り返す。
硬い鎧にぶつかった当初は嫌な感じに顔をしかめられるが、エミリアの整った顔を見ると、皆急に「美人がいる」という少し驚いた顔になっていた。
スケベそうな顔のオヤジは、デレデレと頬を緩めて道を譲った。
「人生少なからず得してるよな」
感心とも、嫌味とも、どっちとも取れない声色でリットが言った。
「否定はしない。生まれも育ちもお金があるところだったからな。私が稼いだわけではないが、金銭を一つの幸福とするのならば、間違いなく私は得をして育っている」
「そうじゃなくて、その気なら村一つの男達の視線を独り占めして、そいつに惚れてる女に刺されて墓が出来た後、周りに次々男達の墓が増えるくらい面が良いってことだよ」
「なんだ……その長い例えは。要件を纏めてから言え」
「美人ってことだ」
エミリアはしばらく何か考えた表情を浮かべたが、呆れ混じりのため息を吐くと眉を少し吊り上げた。
「……何が望みだ?」
「よく聞いてくれた。東の国には『晩酌』という素晴らしい法律があるらしくてだな」
「リットがいつもしていることじゃないか。それに法律ではなく文化だ」
「そうとも言うな。まぁ……あれだ。――その土地の酒を飲めば、その土地の全てがわかるという至言があってな」
「至言ではなく屁理屈だ」
リットの遠回しの説得に、エミリアは淡々とした声で答える。
「……まぁ、違いない。オレが言いたいのは、そろそろいいんじゃないかってことだ。船の上での酷い二日酔いから、もう二週間以上も禁酒してんだ。見ろこの汗。汗をかいたら、水分を補給しなくちゃならねぇ。道理だろ?」
リットはわざとらしく汗を拭くと、大げさにため息を吐いてみせた。
「そうだ、水分補給は大事だな。しっかり飲んだほうが良いぞ」
エミリアはリットが手に持っている飲み物を見ながら言った。
リットの顔に「しまった」という諦めが流れると、エミリアは笑い声を漏らした。
「安心しろ。また二日酔いになるほど飲ます気はないが、夕食時には一本頼んでやろう」
「その言葉を待ってた。せっかく東の国まで来たっていうのに、まだ酒の匂いすら嗅いでないからな」
リットは今度は安心したように切れ良く息を吐いた。
「グリザベルのことを子供子供ってからかってましたけど、旦那もエミリアの前じゃ子供みたいなもんスねェ」
ノーラは串刺しの焼き魚にかぶりつきながら言った。
「……オマエはそれどうしたんだよ?」
「旦那が提灯に見とれてる間に、エミリアに買ってもらったんスよ。こっちはハスキーとパッチワークに」
ノーラのもう片方の手には、数本の団子と網に入った卵が握られている。
「これはこうして食べるのニャ」
パッチワークは卵を片手に持って殻の上部を爪を使って器用にカットすると、卵を逆さに口に向けて、半熟になった中身を口に流し込んだ。
「自分は固茹での方が好きであります!」
「聞いてないのニャ。そもそもハスキーには分けるつもりがないのニャ。さぁさぁ、お兄さんもグイッとどうぞニャ」
パッチワークは網から温泉卵を取り出すと、リットに差し出した。
「グイッといくのは酒ってさっき決めたんだよ。つーか、宿はまだか? さっきから同じ場所を歩いてる気がするぞ」
「もうすぐだ。ほら、見えるだろ」
エミリアが前方を指した。
同じようなごちゃごちゃした町並みが続く向こうで、温泉街のシンボルのように大きく高い建物が見えた。
二度と同じ店には辿りつけないだろう迷路屋台ばかりが続く温泉街で、唯一しっかりとした存在感があった。
大きいだけではない、まだ手元が覚束ない子供が積み木を積み上げたかのように不自然にバランスが悪い湯屋だった。
山の湾曲に合わせて建てられているので、その湯屋は山により掛かっているように見えた。
薄い障子窓から橙色の明かりが漏れている。湯屋の外壁はほとんど障子窓になっているので、巨大木の幹が光っているような情緒的に思える光景だった。
溢れ出る湯けむりの濁った空気が、佇む湯屋を余計に幻想的に見せている。
「また、高そうな宿だな……」
「食事、宿、温泉付きということもあって、安いわけではないが、高過ぎるということもない。そもそも龍頭温泉郷の宿はあそこの一軒だけだ。旅費はこちら持ちだ、気にせずくつろいでくれ」
「金持ち金を使わずとか言ってる連中に聞かせてやりたいセリフだな。こんな立派な宿でチマチマと金を使うのも失礼ってなもんだ。――ところでだ。晩飯の酒も豪勢に5本くらいにしねぇか?」
リットは5本の指を全て開いた手を控えめにエミリアに見せたが、エミリアは首を横に振った。
「ダメだ。一本だ」
「じゃあ、四本」
「一本だ」
「……そこは二本に吊り上げろよ。お約束だろ」
「最初から一本だと言っているのに、吊り上げる理由がわからん」
「こっちは一本のサイズもわからねぇのに交渉してるんだぞ」
「二本が三本になり、三本が四本に。どんどん際限がなくなっていくだろう。だから一本と決めたら一本だ」
エミリアは頑なに意見を譲ることはなかった。
「禁酒ってそんなに辛いんっスか?」
「酒が飲めねぇことより、人に規制されるってのが辛いな。どうしても裏切りたくなる」
「旦那らしいっちゃ、旦那らしいっスね」
そう言うと、ノーラは突然立ち止まった。同じくリットも立ち止まる。
「これ……上るのか?」
「そうでしょうねェ……。だってエミリアが上ってますもん……」
リットの目の前には、真上を見上げるくらい長く続く階段があった。
「遅いぞ! 何をしている!」
なかなか後を続いてこない二人を、十段上からエミリアが上から呼んだ。
「疲れを取る温泉じゃなかったのか……。これじゃ、疲れに行くようなもんだろ」
「東の国の人間が考えることはわかりませんねェ……」
リットとノーラの二人は同時にため息をつくと、重い足取りで階段を上って、温泉街の一番上にある湯屋へと向かった。




