第十話
青空を壮大に浮かぶ白い夏雲の塊が、広がり狭まり南西の風に流されて形を変えていく。自由を求める海賊たちは、海だけではなく自由に形を変える空にも惹かれたのだろう。
甲板に寝そべり、リットはそんなことを考えていた。
「大丈夫ですか?」
投げ捨てられたように落ちているデッキブラシを拾い上げながらハスキーが言った。
「……これが大丈夫に見えるなら、眼鏡を買い直せ」
青い空の下、青い海の上、その間にいるリットの顔色も青く染まっている。額には大粒の脂汗が浮かんでいた。
勝ちも勝ったり、ラム酒の割り当ての賭けに勝ち続けたリットは毎晩のように酒を飲み続けた。丘にいる時も大して変わらない生活をしているが、何週間も慣れない船の上で生活しているせいか、疲れが出た途端にいつもより酷い二日酔いがリットを襲った。
いつ来るかわからない大波の揺れは、立っているだけではなく、精神的にも相当辛いものがある。
リットは甲板の床と一体化するように、背中をピッタリとくっつけて寝そべっていた。
「はっ! 失礼しました! リット様はロマンを求めてる最中でしたね!」
「からかってねぇ分、余計ムカつくな……」
「甲板掃除は自分が引き受けるので、ご心配なく!」
ハスキーはデッキブラシの先を甲板に勢い良く叩きつけると、そのままガシガシと床をこすり始めた。
甲板には、明け方に大群で飛来したカモメの白いお土産がたっぷりとこびりついている。
「おい……ハスキー」
「はっ! なにか御用でしょうか!」
リットに呼ばれたハスキーは掃除の手を止め、駆け足で近寄ってきた。
「……次に大声出したら喉元食いちぎるぞ」
「はっ! 肝に銘じます!」
ハスキーは大きな声で返事をすると、再び掃除をし始めた。
リットは閉じたまぶたに日差しを感じながら深呼吸を繰り返していた。呼吸のリズムが崩れると胃液がこみ上げてきそうなので、なるべくゆっくり、慎重に、波音とシンクロさせる。
「ハスキーは私の部下だぞ。いいように使うな」
突然かけられた声に一度心臓が跳ね上がると、胃液が喉を駆け上がってきた。
リットは虫が這うように腹ばいに甲板を滑るように移動すると、船べりから頭だけを出して水分だらけの嘔吐物を海にぶちまけた。
「まったく……」
呆れつぶやいたエミリアがリットの背中を擦る。
吐くものは全て吐いたが、日差しではない手の温かさが背中を刺激し、嘔吐で強張ったリットの背中をほぐした。
「……あと何日掛かる?」
リットはヨダレか胃液かわからないものを口から垂らしながら聞いた。
「安心しろ。あと一週間くらい経てばカラクサ村だ」
「一週間……」
「そう、一週間だ。――なぜ、こうなるのがわかりきっているのに酒を飲むんだ?」
エミリアはリットの体を起こし楽な体制で座らせると、絞ったライムが入ったコップを渡した。
「酒が残ってたら、賭けに行けねぇだろ。だから飲むんだ」
「酒の次は賭けか……。どんどん生活が破綻していくな」
「この船の上で他に楽しみがあるなら教えてくれってんだ」
「ノーラを見習ったらどうだ? 実に健康的に楽しんで船旅を満喫しているぞ」
「海で魚が跳ねただけで、人のことを叩き起こす純真さはもう残ってねぇよ」
そう言ってリットはライムの果汁が入ったコップを一口飲んだ。気持ちの悪い口の中が洗い流されるだけで、だいぶ気持ちが楽になる。
リットが焦点の定まらない目で、床と船べりの間くらいに視線を彷徨わせていると、エミリアが目の前でひらひらと手を振った。
「本当に大丈夫か?」
「だから、大丈夫じゃねぇって」
「そうではなく、部屋で横になったらどうだ」
「あんな汗臭え場所で横になったら、胃が口から出るくらい吐くぞ。それに、動くのも面倒くせえ」
エミリアは「まったく……」と一言こぼすと、リットの腕を取り、自分の肩に担いだ。
「せっかく落ち着いてきたんだから……揺らすなよ……」
「他の者の邪魔になるし、ずっとここで寝てるわけにもいかないだろう。船長室で横になればいい。父上には私から言っておく。日差しが入って気持ちいいぞ」
エミリアが一歩踏み出した途端、リットの体がぐらっと危なっかしげに傾いた。
「床に顔から落とすようなことがないようにしてくれよ……」
「だったら、少しは自分でも足を動かしてくれ」
「何のために鍛えてんだよ」
「少なくとも、こういう時の為ではないな」
リットはエミリアの肩にもたれかかったまま自分で動く気はなかったが、このままだとより揺れてしまうので足を引きずるようにして動かした。
「怪我人か?」
エミリアが誰かを抱えながら歩いてくるのを見かけた船乗りの一人が、片手を上げながら近付いてきた。
「いや、二日酔いだ」
「なーるほど。つまり取り分が増えるってことか」
エミリアにもたれかかっているのがリットだと気が付くと、男は気持ちの良い笑顔を向けてカラカラと笑った。
「……エミリア。こいつらまた今夜賭けをするらしいぞ。場所は変わって船の調理場だ」
「あっ! こいつ!」
男は裏切ったリットの頭を小突こうとしたが、エミリアに止められた。
「息抜きはかまわん。――ただ、この間のようにうるさくしてたら解散してもらうぞ」
「へい、肝に銘じときます」
男は二人の横を通り過ぎるとき、リットにざまあみろと言わんばかりに舌を出して去っていった。
リットも首だけを男に向けて舌を出す。
「どうした? 吐きそうなのか?」
その格好のまま動かなくなったリットに、エミリアが心配そうに声を掛けた。
「いや違……。いや――そうかもな。ちょっと無理な態勢をしたせいで……ちょっと……」
リットは舌を出したまま、胃の中の物が出てこないように空気を飲み込む。
「しょうがない奴だ……。ベッドじゃなくて、まず船医室だな。注射でも一本売ってもらえば、夜には食事ができるようになるだろう」
「……今日の晩飯はいらねぇ」
「食べないと余計辛くなるぞ」
「オレのゲロで寄ってきた魚を食えっていうのか?」
リットは船首甲板で釣り糸を垂らしている男達を見て言った。
「……そういうことを言うな。私まで気分が悪くなってくる……」
エミリアは船医室にリットを押し込むと調理場へ行き、リットの分は胃に優しい物を作るように頼んだ。
東の国のカラクサ村に着く頃には、空には夏色が混ざっていた。
鳥が翼をひろげているような雄大な雲。その合間から見える夏の空は気持ちいいほどの青だ。
久しぶりの地上はなんとも懐かしく感じる。
リットは何度も足踏みをして、大地の感触を確かめていた。
「何をしてる?」
「知ってるか? エミリア。地面は普段揺れねぇんだ」
あの二日酔いから、エミリアに強制的に禁酒させられていたおかげで、リットはすっかり気分が良くなっていた。
「……知っている」
「あとは大ナマズさえ暴れなけりゃ、安心して東の国の酒が飲めってるわけだ」
リットは軽くジャンプして両足を地につけると、船の上の鬱憤を晴らすように深く息を吐いた。
「東の国に着いた最初の感想がそれか?」
エミリアはもっと見るものがあるだろうと、周りを指差した。
「まるで巨人の耳栓だな」
「今度は何の感想だ?」
「あのしょぼい灯台だ」
リットは顎をしゃくって灯台を指した。
古い白塗りの灯台は、高さも大きさもなく、てっぺんまではハシゴで登るような簡素なものだった。
「ここは西の灯台だからな。楽しみは北の大灯台に取っておけ」
「東の国なのに北の灯台に行くってのも、紛らわしいこったな」
「地理にまで文句を言うな」
「ここも三角航路を繋ぐ一つの街なんだろ? 普通は期待するだろ」
灯台と同じく、カラクサ村もあまり大きい村とは言えなかった。しかし、小さくもない。船を停めるスペースが広いだけだ。
町並みも大陸のものとあまり変わらない。
「それだけ貿易が盛んだということだ。臆さず新しい物を取り入れる事ができる、順応性の高い良い街じゃないか」
「まぁ、それはいいんだけどよ。暑くねぇか? その格好」
エミリアはいつの間にか鎧を着込んでいた。
「前にも言っただろう。リゼーネの紋章が入っている鎧を着ていると、身分証明が楽だと」
早速エミリアが着た鎧の紋章を見た男が小走りで向かってくるのが見えた。
「リゼーネ王国からお越しのマルグリット船団の方々ですね。ようこそ東の国へ」
「な?」
エミリアは体を開いてリットに鎧の紋章を見せつけた。
「入国する際は名前をお聞きしているので、ご協力お願いします」
帳簿係の男が、ぶ厚い帳簿を開きながら言った。
「リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリアだ」
「はい? えっと……すみません。もう一度お願いします」
「リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリア」
案の定、帳簿係の男は長過ぎるエミリアの名前に困惑していた。それからも何回かエミリアから名前を聞き記入し終えると、一仕事終えたように息を吐きながらリットへと向いた。
「お名前をお願いします」
「リットだ」
「リットですね。苗字は?」
「フルネームじゃなきゃダメなのか? 形だけの入国記名なんて、偽名を使ってもバレないのに無駄だろ」
「それでも、決まりですので」
帳簿係の男は申し訳無さそうな顔で言った。
リットは一瞬ためらったあと、一呼吸開けておもむろに口を開いた。
「リット……。リット・アールコール」
リットがフルネームを名乗ると、エミリアがたまらず吹き出した。
「いや、すまない。笑ってはいけないと思ったのだが、ぴったりの苗字だと思ってな」
「ほっとけ」
「はいはい。『リット・アールコール』と。娘さんのお名前は?」
帳簿係の男はリットの名前を書き終えると、今度は腰を少しかがめてノーラの方を向いた。
「えっと……。旦那ァ、私の名前なんでしたっけ?」
「モニマミニィ・ビーライトだろ。自分の名前を忘れるなよ」
「そうでしたね。何年も使ってないんで忘れてましたよ」
ノーラのあっけらかんとした様子に、エミリアは驚いた。
「ちょっと待て! ずっとノーラに偽名を名乗らせていたのか!」
エミリアはリットに詰め寄った。
「別に偽名ってわけじゃねぇよ。最初は名前を知らなかったから適当に名付けたんだ」
「それを偽名と言うんだ!」
「いいじゃねぇか。ノーラで定着してんだから」
「よくないことだ! 偽名を使っていると知られたら、やましいことがあると思われかねん。なぜ初めて合った時に名前を聞かなかったんだ」
「客でもねぇのに、いちいち名前なんか聞かねぇよ」
リットは強引に話を終わらせようとしたが、ノーラはどこか誇らしげな顔をしてリットの服の裾を引っ張った。
「言ってやってくださいよ。なんで私がノーラになったのか」
「住処を離れて野良だったから」
「それでノーラか……。犬猫を拾ったわけじゃないんだぞ。どういうネーミングセンスだ」
「私も昔、旦那に似たようなこと言いましたねェ。懐かしいっス」
ノーラは感慨深い様子で、しみじみと唸る。
「『ノーラ』と『モニマミニィ・ビーライト』。どちらで記入すれば?」
帳簿係の男はペンの先を帳簿に置いて、名前を書き込む用意をしたまま固まっていた。
「モニマミニィ・ビーライトでいい。心配なら括弧でノーラも書いとけ」
帳簿係の男が帳簿に記入している間。リットに詰め寄っていたエミリアは、更にリットに顔を近づけた。
「リット・アールコールというのも偽名じゃないだろうな」
エミリアの顔が疑いの表情で険しくなる。
「本名だ。ここでとやかく言うなよ。入国できなくなるじゃねぇか」
流石に偽名ならば入国させるわけにはいかないので、帳簿係の男も心配そうにリット達の様子を伺っていた。
「本当か?」
「本当だって。だから、チルカには言うなよ。絶対アールコールって苗字に付け込んで、色々言ってくるからな」
「どうやら本当らしいな。チルカには黙っておいてやろう。――リットが良い子にしてたらな」
エミリアがポンッとリットの頭に手を置く。
リットはそのままなでられる前に、エミリアの手を振り払った。
「オレはわんぱくなガキか」
「わんぱくな子供ならまだいいが。リットのようなひねくれた性格の子供を育てるのは大変そうだ」
「オレは子供を育てるってだけでゾッとする」
リットは身震いするように両肩をすくめた。
「私も黙ってますよ。旦那がお財布の紐を緩めてくれれば」ノーラが肘でリットの脇腹を小突く。
「自分は秘密を墓場まで守り通します」ハスキーはリットに誓いの敬礼を向けた。
「ニャーは……。――もちろん黙ってるニャ」パッチワークはリットの「バラすぞ」という視線に気付き、慌てて言葉を変えた。
「あの……。後が詰まってますので」
帳簿係の言葉に後ろを振り返ると、他の船乗りや商人がイライラした様子でリット達が歩くのを待っていた。
「通っていいのか?」
「はい、どうぞ。改めて、東の国へようこそ。各国の支援のおかげで、だいぶ復興しました。歓迎と感謝の言葉を送ります」
帳簿係の男はリット達に頭を下げると、後ろの船乗り達に名前を聞き始めた。
「確かに……復興してるな。大ナマズと龍が暴れたなんて思えねぇな。これからどうすんだ?」
「まず、父上が取ってくれた宿に向かうぞ。またしばらく旅が続く。しっかり体を休めるぞ」
リット達は先導するエミリアの後に着いて歩いて行った。




