第四話
山の雪解けが目に見え始める頃になると、リット達はリゼーネ王国からドゥゴングへ向けて馬車を走らせた。
結構な長旅で、一ヶ月が経過してもまだ山にいた。流石にリゼーネ王国近くの山は越えたが、また別の山を越えることになる。今は三つ目の山を越えたところだ。
春先から一ヶ月経てば景色はかなり変わる。
山の窪みを埋めるように残っていた雪は、緑に押し上げられるようにして消えていた。
馬車は山道に積もる一冬を越してボロボロになった落ち葉を蹴散らすように走っている。
南へ行くにつれて緑が濃くなってきて、名前も知らない花の匂いが混然と溶け合って香っていた。
リット達は馬車に揺られるままのんびりと過ごしていたが、エミリアだけは額に汗を滲ませていた。
「汗臭くなるぞ」
リットは手に持ったトランプから目を離さずに言う。
「健全な精神は健全なる肉体にしか宿らない。だらけてばかりいたら、堕落する一方だぞ」
エミリアもトランプから目を離さずに言った。
「まぁ、一理あるな。健康あってこその自堕落だ。……けどよ、時と場合を考えろよ」
リットはトランプから目を離し馬車内を見回した。
リットの向かいには左から、パッチワーク、ハスキー、ノーラが座っている。そして、リットの隣にはエミリアがいる。
このよく揺れる馬車内で、エミリアは椅子から少し腰を浮かしていた。
「考えた結果だ。剣は振っていないだろう」
「この一ヶ月、馬車から降りたら素振り、馬車に乗ってたら空気椅子。ジジイの散歩だって、たまには変化つけるぞ」
「そうは言っても、馬車の旅の間に怠けて腕が鈍ってはいけないからな。リットも馬車から降りたら一緒にどうだ? ハスキーと一緒に指導してやるぞ」
「オレはいい。身銭を切らせるのは好きだが、人を斬るのは好きじゃないからな。誘うなら同じ城で働いてる奴を誘えよ」
リットはパッチワークに視線をやりながら言った。
パッチワークは猫の手で器用にトランプを持って目を細めている。
「ニャーはやらないニャ。会計記録官が戦うようになったら国も終わりニャ」
「腰に短剣ぶら下げてるのにか?」
リットはパッチワークの腰元についてる革のケースの中身が気になっていた。
「ニャーが持っているのは、計算をする為の道具だニャ。東の国で買ったソロバンという物だニャ」
パッチワークは腰に付けた革のケースからソロバンを取り出すと、シャカシャカと自慢気に振って鳴らした。
「オレが知ってる提灯といい、そのソロバンといい、東の国は道具が独特だな」
「大陸の外なんて、そんなもんだニャー」
幌の隙間から差し込む昼の太陽を浴びて、パッチワークが眠気を払うように大あくびをする。つられてリットも手で口を隠すことなくあくびをした。
「私はそれのことを言っている。馬車旅で疲れているのはわかるが、気を抜きすぎだ」
エミリアはあくびにつられることなくため息を一つ吐いた。そしてようやく椅子の上にお尻をくっ付けて座る。
「今は遊ぶ時間だからいいだろ。それに友好を深めるためのカードゲームだ。それでも問題か?」
「親睦の場というのは確かに大事だ。――賭け事ならば問題だがな」
エミリアはジロリとリットを睨んだ。
「まさかだな。賭けてるように見えるか? な、パッチ」
リットは表情を変えること無く、パッチワークに目配せをする。
「そうだニャ。こんなせまい馬車内で賭けてるなら、エミリアさまにも伝わるはずなんだニャ」
リットとパッチワークは互いの言葉に頷き合っているが、ハスキーだけは小首をかしげていた。
「そうですか、賭けていなかったのですか。いやー負けが込んでいたので助かりましたよ。ならばドゥゴングに着いても払う必要は――」
ハスキーが言い終える間に、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで足元から鈍い音が鳴る。そして。
ハスキーは「痛い」という代わりに「ワン!」と声を上げた。ハスキーの脛にはリットのつま先が当たっている。
「わりぃ、馬車が揺れたもんでな。下り道のせいかずいぶん揺れるな」
「気を付けてください、リット様。今日だけで、自分はもう五回蹴られています」
「空気を読めないことを言うからだニャ。眼鏡を掛けてもバカはバカニャ」
パッチワークはボソッと呟いた。
「この眼鏡は自分が勤勉な証だ。月明かりを頼りに夜な夜な書物を読み漁り、早く社会に順応できるようにと学んできたのだからな」
「獣が目を悪くしたらお終いだニャ」
「獣人族の高き誇りがあれば――目が見えなくとも――体が朽ちようとも問題ないのだ!」
ハスキーは遠吠えのような声を響かせた。
隣りにいるパッチワークは顔をしかめて耳を塞ぐ。
「いくら誇りがあっても、それだけじゃおまんまが食えないニャ」
「まったくもって同感だ。――さて、これでオレも勝負するかな……」
そう言ってリットは出来上がった9とJのツーペアを見ながら、ノーラからの反応を待っていた。
しかし、一向に反応がない。リットは咳払いを一つ挟むと、再び声を掛けた。
「――ノーラ。オレも勝負するかな」
「はいはい」ポーカーには参加せずに、リットが鞄に詰めてきたツマミ用のナッツを食べていたノーラが慌てて返事をする。口の中のものを飲み込むと、横目でチラッとハスキーの手札を見た。「えっと……こんなお話知ってます? 九月のとある日。王様が三人、一人の女王様を取り合う話っス」
「知りませんね。それは一体どんなお話なのですか?」
ハスキーの思いもよらない食い付きに、ノーラは今適当に考えた話にうーんと声を出して唸る。
「さぁ? 戦争を起こさずに、話し合いで決めたとかっスかね?」
「それは良い話ですね。争いなどないに越したことはありません」
ハスキーはリット達の思惑に気づかず、ノーラの平和思考に感心していた。
ハスキーとは違い、ノーラの話の真意を理解したパッチワークは膝の上に手札をばら撒いて投げやり気味に天を仰いだ。
「ニャーは下りたニャ」
「オレもだ。昼の太陽がのぼってるせいで、ツキが落ちたな」
リットも同じように膝の上にカードを置いた。
「なんだ、二人共降りるのか。私は勝負するぞ」
リットは自信満々に意気込むエミリアの手元のカードを覗き込んだ。2と8のツーペアが出来上がっている。
「やめとけ。それじゃ勝てねぇよ」
「なぜそんなことがわかる」
「さぁな。……勝負師の勘か?」
「なぜ疑問形なんだ?」
「まぁ、ただの直感だ。気にすんな」
「そうさせてもらう。――さぁ、ハスキー。一騎打ちと行こうではないか」
エミリアは剣を突きつけるかのような気迫で、トランプを持つ手を伸ばして役を晒す。
「尊敬するエミリアの様との一騎打ち。光栄の至りに存じます!」
意気込んで手札を晒したハスキーの役はワンペア。
ツーペアのエミリアの勝ちだった。
ハスキーの手札をよく見ると、Kのワンペアの隣にJが一枚あった。
「ノーラ。どうなってんだ?」
「まぁまぁ旦那、聞いてくださいって。お話には続きがあるんスよ。万が一の為に王様には替え玉がいたんっス。同じような巻き毛をしてるんですから、私みたいな一般人が見間違えても仕方がないことっスよ」
「ヒゲとか王冠とか、違いがあるだろ。勝ててた勝負じゃねぇか」
「もう済んだことですから、真っ向勝負の気迫に負けたってことにしてくださいな――っと」
ノーラはナッツを一つ空中に放り投げてパクっと口で受け取る。
賭け事に興味無いのか、理解していないのか、ノーラに気にした様子はなかった。
「私が勝ったぞ。勝負師の勘というのも当てにならないな」
エミリアは散らばったトランプを集めて一つにまとめると、混ぜてくばるのではなく、早々にケースの中にしまった。
「……本当にな。叩いて直りゃいいけど」
リットの非難の念が込められた視線に気付いたノーラは、人差し指を立てて左右に動かしながらチッチッと舌を鳴らす。
「直すのには美味しいご飯と充分な睡眠。それから優しい気持ちを供えれば完璧っス」
「新しいの買ったほうが早そうだ」
「なにをなにを、替えがきかない一点ものですぜェ」
ノーラは手のひらに溜まったナッツのクズを口に流し込みながら言った。
「そっちの下っ端の方がノーラよりはましか。つーか、オマエら獣人なのにポーチエッドの部下じゃないんだな」
エミリアの姉のライラの旦那であるポーチエッドは、エミリアと同じリゼーネ城の兵士だ。見た目はほぼ人間と変わらないが、鼻だけがイヌ科の動物に似た形で少し出っ張っている。
しかし、ここにいる犬の獣人のハスキーや猫の獣人のパッチワークとは違い、ワーウルフの血はかなり薄まっている。
「ポーチエッド様は大変尊敬できるお方なのですが……」
ハスキーは歯切れ悪く言う。
「ニャーはポーチエッドさまの方がメリの時間が多くていいんだニャ。エミリアさまはハリばっかりで疲れるのニャ」
「疲れるほど私に従っていなと思うがな。ずいぶんと手を焼かされている」
「猫は気まぐれなんだニャ」
パッチワークは尻尾をピンっと立たせると、じゃれるように頬を擦りつけた。しかし、次の瞬間。すぐに興味をなくしたように牙を剥き出しにしてあくびをする。
「獣人ってのはいいな、言い訳が山ほどあって。」
リットはつられあくびを噛み殺しながら、ぼやくように言った。
「獣人と言っても、二足歩行する獣人は人間に近い部類なんだニャ。もっと獣の形に近い獣人は、人前で用を足すことも辞さないんだニャ」
「……そりゃもう、そいつには『人』の文字はつかねぇよ」
夜になると、山の気温はぐっと下がった。馬車を停めたリット達は簡易テントを張り、巨木の近くで火を起こした。それから昼間のうちに採った山の果実と携帯食料で腹を満たすと、すぐに虫の鳴き声のようなイビキがこだまし始めた。
イビキはテントの中にいる二人の獣人の口から垂れ流されている。
ノーラは馬車の中で丸まるようにして眠っていた。
焚き火の明かりで伸びる影がひとつ。リットはその影に近づいていくと、巨木を背にして焚き火にあたった。
「あいつらは毛皮があるから暖かそうだな」
「そうだな。少し羨ましく思う」
振り返ったエミリアの顔は、焚き火の炎と真昼の太陽の二つの光に照らされていた。エミリアの傍らには妖精の白ユリのオイルが入ったランプが置いてある。
「港町までは、まだかかるのか?」
「もう一、二週間といったところだ」
「長えな。あと二、三日で着くもんだと勝手に思ってた」
「これでも早いほうだ。屋敷一番の早馬に引かせているんだからな。それに頭も良い。雨で雷にさえ怯えなければ御者いらずだ」
エミリアは自慢気な視線を馬に投げかけるが、馬は立ったままウツラウツラと船をこいでいた。
「一日中歩かされて、寝る時は立ったまま。それでいて雨の中でも走らされる。馬に生まれてこなくてよかったもんだ」
リットがしみじみ言うと、エミリアはクスッと笑みをこぼす。
「リットは海を見たことがあるか?」
「一回だけな。漁港だったんで臭かった思い出がある」
「ドゥゴングも魚船溜まりがあるが、ひどいということはないな。むしろ潮の香りが気持ち良いくらいだ」
リットは焚き火に薪を一本投げ入れると、なにか考え少し間を開けてから話を続けた。
「そのドゥゴングって街の名前はどっかで聞いたことあるんだが……。なんだったか……」
「忘れたというならば、そんなに大した情報ではないのではないか?」
「……そのセリフも聞き覚えがあるな」
考えこむリットに、背中から首筋にかけてナメクジが這い上がるようなゾクゾクっとした感覚が走る。
体の外側は焚き火の炎で温まってきたが、肩というか体の内側はまだ寒い。リットは体の芯から温める為にウイスキーのボトルを開けた。
ツンとした薬品のようなウイスキーの匂いは夜中がよく似合う。これが柔らかな朝日が輝く時間だったら、なんともマヌケに香ることだろう。
「飲むか? 温まってよく眠れるぞ」
リットはコップにウイスキーを注ぐと、エミリア見せるようにコップを軽く振った。
「いや、いらん。せっかく妖精の白ユリのオイルのおかげで夜に眠ることが出来るのに、寝酒をするとトイレに起きてしまうからな。リットもあまり飲み過ぎるな。二日酔いになっても馬車を止めることはしないぞ」
「オレだって、むやみやたらと飲んでるわけじゃねぇぞ。飲みたくなる時ってのは、だいたい三つに分かれるもんだ」
「それは知らなかった。その三つとはなんだ?」
「――楽しい時。――悲しい時。――それ以外の時だ」
エミリアは一瞬きょとんとした顔になった。それから、リットの言ったことを頭の中で反芻する。表情は難しい問題を考えるように、だんだん険しい物になっていった。
「それだと、いつも飲んでいることにならないか?」
「いや……だから、そういう意味だっての」
「しかし、リットは三つに分かれると言ったぞ。いつも飲むのならば、分ける必要はあるのか?」
エミリアは眉をひそめて疑問を口にする。
リットはコップの中のウイスキーを一気に飲み干すと、アルコール臭い息を深く吐いた。一杯だけ飲むと、無言で立ち上がりエミリアに背を向けた。
「こら、話は終わってないぞ。勝手に話を打ち切るのは感心しないな」
「ジョークを説明させようとするからだろ」
「ジョーク……。ジョークか……。実は私も少し練習したんだ。聞いてくれ」
エミリアは喉奥で何度か咳払いを鳴らすと、服の皺を手で伸ばし始めた。手櫛で前髪を整えて、もう一度咳払いを鳴らす。エミリアなりにジョークを言う態勢を整えているようだ。
「そんなに畏まったら、いくら面白いこと言っても笑えねぇよ」
「そんなことはない。ジョークというのは場を和ますものだ。だから、こういう空気でこそ実践する価値がある。この機を逃すなんて、こんな損な事はない」
言い終えたエミリアはどこか満足そうな表情を浮かべている。
「そりゃ、ジョークじゃなくてダジャレだ。しかも間が長え」
「そうか……。やはり難しいな。一つ私に教えてくれるか?」
「蛙に空飛ぶ方法を教えた後でいいなら教えてやるよ」
「わかった。その時を楽しみに待ってるとしよう」
「……そうだな。来来世になっても出会ってりゃ教えられるかもな」




