第二十一話
リットはついいましがたベッドに倒れたような気分で、翌朝早く目を覚ました。体を起こし、靴を履こうと足を床に向かって彷徨わせたところで、昨夜は靴も上着も脱がずにそのままの格好で眠りについたことを思い出した。
真っ暗な部屋をすり足で慎重に歩き、手探りでマッチを探す。テーブルと思わしき板の上に指先を這わせると、小指に当たる厚紙の感触と共にテーブルの上を滑るかさっという乾いた音が響いた。
マッチ箱を掴み蓋を開け、またも手探りで中のマッチを取り出す。親指の腹でザラザラしてる頭の部分を確認すると、持ち手を掴み直してマッチ箱の横にあるやすり部分に擦り付けた。
ジュッという小汚い摩擦音の後に、木が爆ぜる音と炎が立つ。
鼻にツンと来るような薬剤の匂いに少し顔をしかめながら、マッチの明かりで姿を現した燭台の上にある、まだ新しいロウソクに炎を移す。
三分の一ほど黒焦げたマッチを蝋受け皿に置くと、リットはやっと今更靴を脱いで体を楽にした。
しばらく目をつぶったままベッドに横たわっていたが、思いついたようにベッドを軋ませ立ち上がると、ランプに火をつけてロウソクの火を消す。
そして部屋を出ると、その足でヨルムウトル城の外に向かった。
ささくれだった箒のような背の高い枯れ草の間を抜けて城壁に沿って歩く。ランプの光で枯れ草の影は鉤爪のようにも見えた。
城横にあるカボチャ畑では、朝露に濡れた葉の影で大きなカボチャがゴロゴロしている。
朽ちた石組みの城壁を照らし、入り口を見逃さないように目を凝らして歩いた。
そして、白い城壁の中にサビが侵食して茶褐色に染められた鉄の扉の前で立ち止まった。
試しに扉に手をついて押してみるが、背丈の何倍もある高さの鉄扉はびくともしない。
リットはランプを地面において扉から離れると、肩を突き出すような構えを取る。そのままの格好で助走をつけて鉄扉に向かった。
扉に肩がぶつかりそうになる直前、背後で小さなざわめきが起きるのを感じた。その瞬間何かに抱きとめられたような気がした。
反射的に足を止めると、目の前に影執事が姿を現した。
影執事はリットに向かって首を横に振ってから一礼すると、重い鉄扉を開け始める。
軋みながら開く鉄扉の向こうからは、地下で冷やされた埃臭い風が吹いてきた。
「悪いな。ダメ元で体当たりで扉を開けてみるところだった」
リットの言葉に、影執事は腰を曲げて返事をする。
「さて……」と自分にだけ聞こえるように言うと、リットはランプを持ち上げて鉄扉の中へと入っていった。
埃のつもった階段を注意深く降りて行く。
階段を降りきり、五分程歩いたところでフェニックスの鳥籠の元まで着いた。
ランプをフェニックスの鳥籠の前に置くと、リットは一つしかない椅子に腰掛けた。
ランプ一つの明かりでは全貌が見えないほど大きいフェニックスの鳥籠は、年々朽ちていく城に元からあったとは思えないくらい真新しく見える。
格子はサビ一つなく、ランプの明かりを白く反射させている。
その奥にある闇と同じ色をした黒い塊を、リットはただじっと眺めていた。
リットが少し山道へと寄り道をしてからヨルムウトル城に戻ると、大広間ではかがり火が天井をススで黒く汚していた。
本来かがり火は屋外で使用するものだが、大広間を照らすにはちょうどよかった。半壊したシャンデリアでは明かりが足りないだろうし、ロウソクを使えば膨大な数が必要になる。
多少煙たいのが難点だが、煙のほとんどは朽ちた壁の隙間に吸い取られるように抜けていった。
リットはかがり火の近くに腰を下ろすと、抱えていた枝の固まりを床に下ろした。
それからしばらくすると、変にリズムに乗った足音が近づいてきた。
「おはようございます、旦那」
まだ眠そうに頭をフラフラさせたノーラが、開けているのか閉じているのかわからない目でリットに話しかける。
「おう」
「なにしてるんすかァ?」
リットは針と糸で縫い付けるように、細い枝を何本も組み合わせて椀型を作っていた。足元には様々な形をした鳥の巣のような物がいくつも転がっている。
「フェニックスの寝床を作ってんだよ」
「こんな小さくていいんスか?」
ノーラは転がってる一つを持ち上げた。
「試作品だからな。鳥の寝床と言えば巣だし、念の為に確認してんだよ。必要なのは灰だけらしいし、意味ないかもしれないけどな」
「見た目はまるっきり木で編んだカゴっスね。パンでも入れます?」
目の粗い隙間だらけの鳥の巣は、ノーラの言うとおりに見えた。
「……鳥の巣だって言ってんだろ。まぁ、実際は枝じゃなくて丸太を燃やすんだから、こういう形になるだろうな」
リットは縦横二本ずつ組み上げて四角いタワーを作った。
「これに火をつけるんスか? なんかみんなで囲んで踊りたくなりますねェ」
「ならねぇよ」
「みんなで火を囲んで踊ると、影が伸びて楽しいっスよ」
「そんなことしなくても影だらけだろ、この城は」
「そうなると……。影の影は伸びるんスかねェ?」
ノーラは哲学を説くかのような難しい表情を浮かべているが、わざとらしく何回も小首をかしげているので、実際は何も考えていない。ただのポーズだということがわかる。
「ノーラが起きてきたってことは、もう朝も終わりかけってところか」
「そんなァ、私だって早起きをする時くらいありますぜェ」
ノーラが非難するような目つきでリットを見上げた時、ぼんやりとした光の玉が軽く上下に揺れながらふわふわ飛んできた。
「すっかり寝過ぎちゃったわ。こんな場所じゃなければ、今頃昼の太陽が照らしてるわね」
「――あるってだけで、今日早起きしたとは一言も言ってませんよ」
リットから視線を逸らしながらノーラが言う。
「オマエが早起きをしたところで、何が出来るってわけでもないからいいんだけどな」
「まぁまぁ、私は来るべき日の為に力を溜めてるんスよ」
「そりゃ、いったい何時のことだ?」
ノーラの答えはわかっていたが、リットはあえて聞いた。
「そりゃあ、来るべき日は来るべき日っスよ。それが何時かわかってれば、来るべき日なんて言わないっスよ」
「来るべき日ってのは随分都合がいいんだな」
「都合のいい言葉って便利っスよねェ」
ノーラは誤魔化すように笑った。
「なによ。私をダシに話をしてんじゃないわよ」
チルカのムスッとしたような声が響いた。
「別にダシにしたわけじゃないっス。私が旦那と話してるところに、たまたまチルカが通ったんスよ」
「そう、ならいいけど。――それより、あのうるさいのなんとかなんないの?」
チルカが唸るように言う。視線の先は大広間の隣にある応接間に向かっていた。
「そうそう、私もそのせいで起きたんスよ。朝早くからは勘弁して欲しいっス。起きたり寝たりの繰り返し、そのせいでこんな時間に起きるはめに」
ノーラはチルカに同調するように視線を応接間に移した。
リットも応接間視線を向けたが、風の音とかがり火の燃える音が聞こえるだけで、他には何も聞こえこなかった。
「なんか聞こえるか?」
「今じゃないわよ。夜中中ずっとマグニの歌声が聞こえてきたのよ」
「そうか? オレは聞こえなかったぞ」
「アンタは地鳴りのようなイビキをかいてグースカ寝てたから気付かないのよ。喉にカエルでも飼ってるんじゃないの?」
「オレのイビキじゃなくて、マグニの歌声の話だろ。アイツの歌声なら良い子守唄になるじゃねぇか」
マグニの透明な歌声は、マーメイド・ハープの時とは違い気に障るようなものではない。
「アンタねぇ……。あの――マグニがずっと淑やかな歌を歌うとでも思ってるの?」
「まぁ、無理だろうな」
「おかげでこっちは寝たり起きたりの繰り返しよ」
「朝まで歌うとはマグニも無駄に元気な奴だな」
「ん? 歌ってたのは夜中だけよ。後はアンタと一緒でイビキをかいて寝てたわ」
ノーラは朝早くに歌声を聞いたと言っていた。そのことを確認するためにリットがノーラを見ると、ノーラは目を細めてリットと視線を合わせないようにしていた。
「一か八かでチルカに便乗してみたんスけどねェ……。どうやら失敗したようです」
「そんなことどうでもいいわよ」
「そうそう、どうでもいいことっス。ささ、ご飯でも食べにいきましょ」
ノーラはリットとチルカの背中を軽く叩いた。
リットは立ち上がり、ズボンに付いた土埃を払う。
チルカは床に転がっているリットが作った鳥の巣を見ていた。
「――なによこれ。私用のハンモック?」
「……どいつもこいつも」
リットは鳥の巣を持ち上げると、投げ捨てるようにかがり火に焚べた。
応接間では食事の用意が始められているところだった。
応接間の中央にはテーブルが置かれ、その横にマグニの入った浴槽が長椅子のように備え付けられていた。
マグニはリット達の姿を見付けると、ブンブンと手を振った。マグニが水滴を飛ばした先から影執事が拭いている。
「おっはよー!」
「おう。ここで寝たのか?」
「そうだよー。ボクもどこか部屋に案内してもらおうと思ったけど、グリザベルが寝ちゃったから」
そう言ってマグニはグリザベルを見る。
グリザベルは椅子を三つ繋ぎ合わせた上で横たわっていた。スースーという寝息が聞こえ、まだ寝ているようだ。
「影執事に言えばよかっただろ。こいつらは別にグリザベルの言うことじゃなくても聞くぞ」
「そうなんだー。知らなかったよ。ここでも充分だけどね。ここで歌うと声が反響して気持ちいいんだよー!」
「……知ってるわよ。夜中に脳天気な歌声が聞こえてきたから」
「今度はリクエストも受け付けるよー!」
チルカの睨むような目付きに、マグニは笑顔で返した。
「……レクイエムでもリクエストしようかしら。アンタとコイツの為に」
近付いて指を差してくるチルカを払いのけると、リットはテーブル前の椅子に座った。
「たかが歌で、んな嫌味を言うことねぇだろ」
「おぉ、珍しく優しいこと言いますねェ」
「たまたま起きなかっただけで、マグニの歌声で起こされてたら、アンタだって同じこと言ってるわよ……」
「当然だ。起こされてりゃ、今頃マグニは浴槽の中で煮こまれてるところだ」
リットが両手を上げて伸びをしたところで、しっかり身だしなみを整えたローレンがミスティと腕を組みながらやってきた。
腕を組むと言っても、腋を開けたローレンの腕に影が重なっているだけ。しかし、ローレンの満足気な顔を見ると、間違いなく腕を組んでいるのだろう。
「やぁ」
ローレンが片手を上げて挨拶をする。
「ご機嫌だな」
「昨日の夜は美しい歌声が聞こえてきてね。おかげで夜通しロマンチックに愛を語らせてもらったよ」
「年がら年中愛を語って、よく話が尽きないもんだ」
「話題なんて女性の数ほどあるものだよ」
ローレンはミスティに空いている席に案内されながら、昨夜何を話していたかを事細かく話し始めた。
リットもノーラもチルカも、あからさまに聞いてないという態度をとっているにも関わらず、ローレンは愛の言葉を調べに乗せるように流暢に話す。
話を遮るきっかけを掴めずにいたが、ミスティがローレンから離れて応接間を出て行くのを見て、リットは「そういえば――」と話を変えた。
「なんだいキミは。せっかくここから盛り上がるところだっていうのに」
「ヒッティング・ウッドは大丈夫なのか?」
「ちゃんと保管してあるよ。それがどうかしたのかい?」
「この天気だろ。湿気ってるんじゃないかと思ってな」
ただ暗いだけではなく、ここ最近のヨルムウトル城の近辺は、霧や小雨に煙るようになってしまったので、リットはヒッティング・ウッドの状態が気に掛かっていた。
肝心な時に火がつかないのでは意味が無い。理想としてはカラカラに乾いた状態なのだが、オークの村で燃えているのを見る限りは、生木に近い状態でもしっかり燃えるということがわかっている。
「確かに嫌な天気が続いてるね。星の一つでも夜空に浮かんでいれば、もっとミスティと語り合うことが出来るんだけど。残念だね」
ローレンは遠くの窓に視線をやって、ただ黒いだけの夜空を見る。
「で、そっちはどうするんだ?」というリットの言葉に、ローレンは「なにがだい?」とは聞き返さなかった。変わりに少し困ったような笑いを浮かべる。
「……悪いがそっちの都合には合わせねぇぞ、女好き」
「なんだい女好きってのは、キミの鳴き声かい?」
ローレンはまた表情を変え、皮肉めいた顔で言う。
「この場合は褒めてんだよ」
「そうとは思えないけどね」
「……まぁ、いつも通り好きにしな」
「言われなくても」
ノーラは食事が運ばれてくるまでの間、内容が掴めない話をしているリットとローレンの姿を不思議そうに眺めていた。




