第二十話
山道は暗く濡れて静まりかえっていた。
時折、岩石が転がり落ちるような雷鳴が聞こえ、葉のない木々を照らし、巨人の手のような不気味な影を作った。
その木々の隙間から見えるヨルムウトル城は、小雨に煙りますます薄気味悪いものに見える。
そんな風景を物ともせずに、頓狂に明るい声が響く。
「ボク、自分の才能が怖いよ」
木板の上に座ったマグニが偉そうに腕を組みふんぞり返っている。
「人魚なら誰でも出来るもんなんだろ」
リットは腰辺りのロープを引っ張りながら答えた。
ロープは木板に括りつけられており、木板の上にはマグニが乗っている。
川から離れたヨルムウトル城へ向かうには、這って移動をするマグニでは遅すぎるため、ブラインド村の廃材を利用して作ったものだった。
長さの違う木板を二つくっつけ、それにロープを通しただけの簡単なものなので、小石を轢く度に大きく揺れて乗り心地はとても悪いはずだが、マグニは小動物の尻尾のように尾ビレを振って楽しそうにしていた。
「まぁねー。でも、これでボクも一人前の人魚だよ!」
「そりゃ、よかったな。ついでに歩けるようになってくれりゃ助かるんだけどなっ」
リットは木の根っこに引っ掛かった木板を外すため、力いっぱいロープを引っ張った。
歯を食いしばって引っ張っているリットを見て、マグニは木板の端を軽く持ち上げて根っこから木板を外した。
そのせいで突然脚が軽くなり、リットはぬかるみ気味の地面に足を滑らせた。
「だいじょーぶ?」
マグニが間延びした声を響かせる。
「……おかげさまでな」
「気にしないでいいよー」
「……ありがとよ」
リットは抗議するように乱暴にロープを引っ張ったが、マグニは楽しそうに声を上げるだけだった。
「それにしても」
チルカは含みのある笑顔を浮かべて、リットの顔を覗き込んだ。
「……なんだよ」
「その姿お似合いよ。まるで――そうするために生まれてきたみたいね」
チルカの笑顔は薄ら笑いに変わっていた。それも、奴隷に底抜けのコップに水を注がせる、意地の悪い主人みたいに、ニヤニヤとねっちこい笑い顔だ。
リットは反論する代わりに土を高く蹴り上げた。
土の塊はチルカを避けるように飛んでいったが、靴の先に付いた泥がチルカの服を汚した。
「その姿似合ってるな。まるでというか、そのまんま蛾の色だ」
「胃液が油になったみたいにイライラムカムカしてる私に、よくこんな仕打ちが出来るわね。これもそれもぜーんぶアンタのせいなんだからね」
「たかが泥が服に付いたくらいで、よく飽きもせずにカッカ出来るな」
「当然それも私のムカつきの一つだけどね。他にもいっぱいあるのよ。あの村のジジババったら。――おはようございます、チルカさん。なんて言うのよ」
「ただの挨拶じゃねぇか」
「――ハエによ。アンタが私の鱗粉を塗ったハエに挨拶してるの! 二、三歩歩いては街灯に群がるハエに向かって挨拶をするの。その度にペコペコ頭を下げてね!」
チルカが顔を真っ赤にして憤りを発しているのを見て、リットは大いに笑った。下が小雨でぬかるんだ地面じゃなければ、四つん這いになって拳を地面に叩きつけて笑い転げていただろう。
チルカもリットに言えば笑われるとは思っていたが、とにかく誰かに話さないと気が済まなかった。
笑いすぎて痛くなった横っ腹を押さえながら歩くリットに向かって、チルカが小石を投げつける。
「ハエより役に立たねぇくせに、いつまでもうるせぇ奴だな」
「私がいるからハエも役に立ったんでしょ。そこんとこ忘れないでよね」
「文句の一つも言うなら分身してみろよ。そうすりゃハエなんか必要なかったんだからな」
「出来るものならとっくにやって、アンタの髪の毛を一斉にヌイてるわ。バカなことばかり言ってないでよ。だからハエにもアホがって言われるのよ。アンタは」
「……確かに言ってたな。ハエは小さな拳を振り上げてオレを睨んできたよ。そして、オレに言ったんだ。オレの脳みそはダニサイズ。――チルカと同じだって」
リットは人差し指で、バカにするように頭の周りに円を描いて言った。
「ダニに食われて顔に湿疹が出来ればいいのよ。マヌケって文字でね。それも一生取れないやつ。みんなアンタを指差して呼ぶのよ。――マヌケって」
チルカも言いながら頭の周りにクルクルと円を描いた。
「ボクは? ボクはー!?」
空気を読まずにマグニは自己主張するように声を上げると、仲間に入れて欲しそうに手を上げた。
「……その書きやすそうな腹に文字でも書いてろ」
「了解!」マグニは敬礼をすると、良く通る声で騒ぎ始めた。「ペンを持てー! インクを用意しろー! マグニが川に飛び込む前に宝の地図を書き記せー!」
「あー、うるせぇな。なんだよそれ」
「なにって、そういう遊びでしょ?」
「違うわよ」
チルカは唾を飛ばすみたいに短く言った。
「それじゃ、ただ悪口を言い合いっこしてたんだ。友達ならではだねー」
「これだから無邪気な奴は嫌なのよ」
「同感だな。マグニといいエミリアといい、嫌味が通じねぇ奴は苦手だ」
「ちょっと真似しないでよ。気持ち悪いわね」
「……オマエと仲良くなる日は一生ねぇだろうな」
リット達がヨルムウトル城門に着いてから三十分程遅れてノーラが到着する。更に数十歩遅れて、まるで丸三日歩いたかのように疲弊したグリザベルが足を引きずるようにしながら歩いてきた。
虚ろな目に上下に揺れない肩で歩く姿はゾンビのようだ。
「一生分歩いたようだ……」
「オマエの一生は随分短いんだな。荷物もなんも持ってねぇくせに。オレなんか脂の乗った魚をまるまる一匹引きずってきたんだぞ」
「魚……。そうだマグニもおるのだ!」
何かに気付いた顔をすると、グリザベルは指を鳴らして影執事を呼び出し、水を用意するように命じた。
「オレの分も頼む」
リットの言葉に影執事は頷き、城の中へと戻って行った。
地面から突然現れた影執事に、マグニは一瞬目を丸くした。しかし、特に言及する様子も見せない。既に興味は影執事ではなく、佇む城に変わっていた。
「わかりますわかります。おっきいっスもんねェ」
「川にも湖にもこんな大きな建物はないよー。よっぽど大きい人が住んでたんだね」
マグニは倒れそうなほど体を反らして、城の全容を見ようとしている。
「巨人じゃなくて、人間が何十人もここに住んでいたんスよ」
ノーラは殆どいつもの調子で、少しだけ得そうに、先輩風を吹かせるように言った。
「こんなでかい城に十で済むかよ。何百、何千だろ」
「もう、旦那ってば空気を読まないんっスから」
「いつまでもこんなとこにいねぇで、さっさと城の中に入るぞ」
城の中に入り、最上階にある大広間の着く頃には、リットの視界は床ばかりになっていた。
「いやー、楽ちん楽ちんだったよー」
マグニがリットの背中から飛び降りた。
「なんでこの城は上の階に行く手段が階段しかねぇんだよ……。他にもあるだろ」
「階段以外に移動手段があるとは知らなかったすね」
「ねぇよ!」
「八つ当たりされたっス……」
「まぁまぁ、ボクのお礼の言葉で機嫌直してよー」
「礼の言葉より痩せろ……」
両膝に手を付いて息をするリットの肩を影執事が叩く。
「なんだよ」
リットは不機嫌に影執事を睨みつけながら言う。
「お主は野良犬か。誰にでも噛みつくでないわ。水の用意が出来たそうだ。案内せい」
グリザベルの言葉に、影執事は腰を曲げて返事をすると、暗い廊下を案内し始めた。
応接間の扉を開けると中央にあったはずのテーブルはなく、代わりに大きな歪な形をした箱がぽつんと置かれていた。
暗いせいで何かまではわからない。
影執事が部屋中のロウソクに火をつけると、頼りなさ気な細い脚に支えられた銅製の浴槽だということがわかった。
「水をいっぱいじゃねぇよ……。一杯だっつーの」
「何を阿呆なことを言っておる。それはマグニの為に用意させたものだ。リットのはこっちだ」
浴槽に備え付けられるように置いてあった小さなテーブルの上に、人数分のコップが置かれていた。
リットがコップに手を伸ばして口につけようとした瞬間。「どーん」というマグニの声とともに、水しぶきが高く上がった。
「……コイツに水なんか必要ないだろ。いっそ干物にしてやった方が、痩せて体にいいぞ」
「そう言うでない。人魚に水は必要だ」
「飛び込む必要はねぇだろ。床が汚れたぞ、いいのか?」
「構わん。拭けばいいだけの話だ」
グリザベルは影執事に床を拭くように命じた。
「……自分で拭けば、少しは大物に見えるんだけどな。そういうとこが小物に見えんだ」
「失礼なことを言うんじゃないよ。グリザベルの胸は充分過ぎるほど大物だよ」
会話にリット以外の男の声が加わる。
「そうだ……。この城にはもう一人の小物がいたな」
「キミ程の小物もなかなかいないと思うけどね。影執事達が急に騒がしくなったと思ったらやっぱりキミ達かい。相変わらずだね」
ローレンは頭痛に悩むように額を押さえると、その手で前髪を掻きあげた。そのすぐ隣には影メイドのミスティが寄りそうように立っている。
「オマエも相変わらず女が絡むと嗅覚が上がるな」
ローレンは鼻で笑うと、リットの横を通りすぎてマグニに向かって手を伸ばした。
「やぁ、よろしく」
ローレンはマグニの顔を見て微笑んだが、胸へと視線を下すと上げていた口角も下した。
「マグニだよー! よろしくーよろしくー」
マグニはローレンの手を掴んでぶんぶん振る。
ローレンはマグニの揺れる腹と揺れない胸を見て、溜息をつくような落胆の表情を浮かべた。マグニとの握手をやめると、ミスティの不自然に膨れ上がった胸に視線を移して満足気に頷く。
「オレに言われたかねぇだろうけどよ。オマエもずいぶん性根が腐ってるよな」
壁際に追いやられた椅子を持ってくると、リットはそれに腰掛けてコップの残りの水を飲み干した。
「本当に言われたくないね……」
「それにしても、ずっとここにいるけど。宝石屋の商売はいいのか?」
「大丈夫大丈夫。キミみたいに行き当たりばったりの商売をしてないからね。数ヶ月休んだところで、何も支障はないよ」
「ブリエラに宝石を盗まれたくせに余裕だな」
「……盗まれたんじゃない。愛の投資と言ってくれたまえ」
ローレンの声には少しうんざりした色が見えていた。
「ある意味立派なんだろうけど。こうはなりたくねぇな」
「まぁ、温かい紅茶でも飲みなよ。ミスティーが入れてくれたんだ。ブレンドは僕だけどね」
「おう、悪いな」
紅茶だと思ってカップの中身を口に含んだリットは、思いもしなかった味に咳き込むように吐き出した。
「なんだこれ……」
「なにって、ミルクたっぷりのミルクティーだよ」
改めてカップの中を確認すると、砂を溶いたような色をした液体が入っていた。紅茶の文字に入っている紅という色はどこにも見えない。
「……こいつ、紅茶を巨乳にしやがった」
「紅茶は巨乳にはならないよ。まぁ、元の牛は確かに大きいし……。ミルクティーを飲み続ければそうなるかもしれないけど……」
ローレンがなにか思いついた顔になったかと思うと、カップではなくコップを用意し始めた。そこにミスティが紅茶を注ぐと、ローレンがたっぷりのミルクを継ぎ足す。
「さぁ、どんどん飲んでくれたまえ。特にチルカとノーラ」
「飲むけど、ムカつくわねぇ……」
「これなら、普通に牛乳を注いだ方が早くないっスか?」
ノーラは殆ど白に変わりない液体を眺めながら言う。紅茶の香りもなく、牛乳のニオイばかりが漂っている。
「いいことを言うねノーラ。帰ったら町で流行らそう。ゆくゆくは町の女性は巨乳だらけになるだろうね。想像してごらんよリット……。優れた個性が主張し、大きくふくらんだ二つの宝石袋が揺れながら草原を駆ける。――世にも見事な光景だ」
ローレンはワインのテイスティングの感想を言うように流暢に言った。
「毛も生えてねぇガキの内から目を付けるつもりか?」
「また人聞きの悪いことを……。目は付けない、種をまくだけだよ。そもそも男か女かもわからない平らな胸など目にも入らないよ。――気にしないでくれたまえチルカ」
ローレンはチルカを一瞥する。
「……気にしてないわ」
チルカは少し頬を引きつらせながら言った。
「宝石屋なんだし、女を敵に回すような発言はやめといた方がいいんじゃねぇか? 客のほとんどは女に騙されてる男か女だろ? それが背中か胸かもわからないような女だとしてもだ。――気にするなチルカ」
「だから気にしてないわよ!」
チルカはテーブルに拳を叩きつけると部屋を出て行った。
「オレも部屋に戻るか……。前と同じ部屋に戻ればいいのか?」
リットの言葉に反応はない。グリザベルは床に膝をついて、椅子に抱きつくようにして眠っていた。
「馬車なしで山道を歩いてきたもんですから、きっと疲れたんスね。このまま寝かしときま――」
「起きろ」
リットは椅子を乱暴に揺らしてグリザベルを起こそうとするが、まったく起きる気配がない。僅かに聞こえる呼吸音がなければ死んでると勘違いするだろう。
見かねた影執事がリットとノーラを部屋へと案内する。
「旦那ァ、普通あーいう時は寝かせておくもんですぜ」
「このメンバーの中で普通でいたら損するだけじゃねぇか」
部屋の前に着き、ノーラと影執事と別れると、リットはベッドに倒れ込む。
自分の呼吸音を数回聞くと、急に眠気が襲ってきた。
着替えもせず、靴も履いたまま、いつしかリットは眠っていた。




