第七話
陽光が真上から射して、立ち並ぶ樹木に濃い陰影を付ける。穏やかな春の風に揺れる木々は、歓声のごとくざわめいていた。
ゆったりと枝を広げる太い幹は、幾重にも重なり葉の天井を作り出しており、届く太陽の光は葉に遮られ淡く輝いているようだ。
射しこむ木漏れ日は新緑のような柔らかい光を放ち、白く小さな蕾を携えた花に、早く咲かせろと言わんばかりに光を当てている。
でこぼこの道に車輪を引っ掛けながら、馬車はゆっくりと進んだ。ガタンで上へ、ゴトンで下へ、馬車独特の鼓動を感じながらノーラは、馬車の旅に心弾ませるように、調子はずれの鼻歌を風に乗せていた。
「ずいぶん楽しそうだな」とエミリアが声をかけた。
「馬車でお出かけなんて初めてっスからね。そりゃ楽しいっスよ」
ノーラは目を輝かせ、身を乗り出すようにして御者の脇から馬を見ている。
御者の邪魔になるだろうと思っていたが、御者も楽しそうに馬の話をノーラにしているのを見て、リットはノーラに伸ばした手を引っ込めた。
行き場の失った手を、そのまま頭の後ろに持っていき、背もたれに体重を預ける。穏やかな風があくびを誘うと、手で隠すことなく大きく口を開けた。
「旦那はテンション上がらないんスか?」
「もう三日も馬車に乗ってるから疲れたんだよ」
隣町に到着する度に、馬車から馬車へと乗り換えを続け、疲労が溜まっていた。エミリアも狭い椅子の上で、体を縮こませて静かに寝息を立てている。
「人生楽しまなきゃ損っスよ」
「なんでオマエはそんなに元気あんだよ」
「町じゃ馬なんて見ないっスからね。唯一ある馬車もロバが引いてるし」
王都に近いこともあってか、馬車馬はかなり立派な馬だった。艶のある栗毛、雄々しいたてがみ、澄んだ瞳、たくましい脚。惚れるには十分過ぎる要素が詰まっていた。
だが、座りっぱなしの尻が痛くなり、リットにはすぐにそんなことはどうでもよくなっていた。
「馬を見るだけで元気になるなんて、羨ましい奴だ」
「あと知らない景色を見るってだけでも、楽しくなりませんかァ?」
ノーラはリットの隣に座り、床板に付かない短い足をブラブラさせながら顔を覗き込んだ。
「森だろ。どこも変わんねぇよ。オレらのとこの村の森もこんな感じじゃねぇか」
「そういやそっすね。早くリゼーネ王国に着かないっスかねェ」
「このスピードじゃ、まだまだ掛かるだろうな」
文句にも似たリットの言葉に、手綱を持った御者の初老の男が客席に向けて軽く頭を下げた。
「すみません。森を抜けたら、もう少しスピードを出しますので。それまでは、奥様のようにゆっくり休んでてかまいせんよ」
奥様と言われて、リットは思わずエミリアを見た。と言っても今馬車に乗っているのは、リット、エミリア、ノーラの三人なので、休んでいるのはエミリアしかない。年頃の男女に、小さい子供。確かに家族に見えないこともない。
「オレにこんな大きな子供がいるように見えるか?」
「おや、違いましたか。でも、お客様の見た目から考えると、そのくらいの子供がいるのも珍しくありませんよ」
結婚がどうのこうのよりも、ふと気になったことがリットにあった。
「そういや、ノーラの年はいくつなんだ?」
「さぁ? 数えてないから分かりません。そんなに年はいってないと思うんですけどねェ」
「その見た目と性格で、オレより年上とかだったら引くな」
ノーラはドワーフということもあり、手足が短く背も小さい。クリクリの目玉でわがままを言う姿は、人間なら十歳程度にしか見えなかった。
「サクサク成長するなんて人間くらいなもんですぜ。大抵の種族は適齢期で成長が止まったように、容姿が変わらなくなりますからね。でも不老ってわけじゃないですよ。中にはそんな種族もいるらしいですけど」
「不老か……。世の女が泣いて喜びそうなこったな」
「私は、年齢と一緒に容姿も年を取っていく人間のほうが、生き物らしくて好きっスけどね」
ノーラが真面目に言うと、盛大に腹の音が鳴った。
「人間だろうがドワーフだろうが、腹が減る時点で生き物らしいよ。パンでも食うか?」
リットが袋からパンを取り出すと、ノーラは眉をひそめて露骨に嫌な顔を浮かべながら首を横に振った。
「旦那が作る料理より不味いものがあるって、初めて知りましたよ……」
旅の保存食として常備するパンは、時間が経ち硬くなっているので、水などに浸して柔らかくしてから食べるのだが、ノーラはコレがお気に召さなかったようだ。
舌を楽しませるわけでもなく、栄養を取るというよりも腹を満たすだけのものなので、三日といえどもノーラにはキツイのかも知れない。
「それじゃ、王都に着いてから食べるものでも考えてろ」
「いいっスね、いいっスねェ! 美味しい野菜スープにパスタ。いや、ガッツリと肉というも捨てがたいっス。でもでも、美味しくないパンばかり続いてたから、美味しいサンドイッチなんてのも――」
口に出さず頭の中で考えろと思いながらリットは目を閉じた。
しばらく馬車に無言な時間が流れたせいか、いつの間にかリットは眠りについていた。
足場の悪い道が終わり、平坦な道は蹄に踏まれて硬く締まった音を鳴らすと、その音でリットは目を覚ました。
「よく眠れたか?」
リットに声を掛けたのはエミリアだった。
騒いでいたノーラは、リットの太ももを枕にして涎を垂らして寝ている。
「ぼちぼちだな。寝たせいで逆に疲れた気もする」
固い木の板に体を預け、座りながら寝ていたせいで、少し体を動かすだけでボキボキと固くなった関節が音を立てた。
窮屈そうに座るリットを見て「屋敷に着いたら存分に寛いでくれ」とエミリアが言った。
「それなんだけど、本当に良かったのか?」
「うむ、そちらでは世話になったのだ。こちらでは存分に頼ってくれ」
リゼーネに滞在する時の宿は決まっていた。
最初は適当に宿を探して、そこに泊まろうと考えていたが、ノーラを連れて行くことを考えると滞在費が余計にかかる。なるべく安い宿を借りようと、エミリアに情報を聞いたのだが、普通の宿ならともかく、富者のエミリアに安宿を聞いても無駄だった。
どうしようかと悩んでいると、どうせなら自分の屋敷に泊まれば良いと提案された。
依頼主の家に厄介になるというのも変な感じだ。そうリットが思っているのを見抜いたエミリアは、気にしないようにと言葉を続けた。
「リットの家に私が厄介になったのと同じ理由だ。なるべく一緒に居た方が、私の症状について調べやすいだろう」
「今回は試すようなランプは作れないから必要ないんだけどな。ノーラを連れて、宿を探すために街を彷徨うと疲れるから、厚意に甘えるか」
「そうしてくれ。むしろ私のために付いてきてもらうようなものだからな」
エミリアがそう言うと、大きく馬車が揺れ、リットに抱きつくように倒れてきた。春の花のような優しく甘い匂いのするエミリアの髪の匂いが、リットの鼻孔を擽る。
リットの太ももとエミリアの膝に顔を挟まれたノーラは「ぐえっ」とブサイクな声を上げた。
「かなり揺れたな。崖にでも落ちたか?」
「冗談を言っている場合か! どうした御者よ!」
馬が雄叫びを上げると、走る速度を上げた。御者が声を上げる。
「すいません、大雨が来そうなんで駆け抜けます!」
黒い雲が馬車を追うように近づいており、幌にポツポツと音を立て始めた。
リゼーネ王国に行くには、もう一つ森を越えなければならない。しかし、追いつかれた雨により、断念を余儀なくされてしまった。
雨で煙る視界の中、森を走るのはぬかるみにハマり身動きがとれなくなる可能性があるので、近くにある小屋に馬車を止めた。
この辺は森が多いこともあり、迷い人のために掘っ建て小屋がいくつも存在している。隙間風が入るようなボロ小屋だが、雨がしのげるだけでもありがたかった。
「雨の中馬車を走らせるのは疲れますからね。私は、お先に休ませてもらいます」
まだ火も付けていない部屋の隅で、御者の男は壁に顔を向けてゴロンと横になった。
暖炉に薪をくべて火を付けると、薄暗い部屋が明るく照らされる。
「そういえば大丈夫か?」
リットの心配に、エミリアは「まだ陽は沈んでいない」とだけ答えた。エミリアは便利な体内時計を利用して、早めの夕食を取り出した。
無表情で食べ進めるエミリアの隣には、明らかに気落ちした様子でモソモソとパンを口に運ぶノーラがいる。本来ならば今日中にリゼーネ王国に着き、今頃は美味しいご飯を食べていたはずなので、突然の雨がおもしろくなかったのだ。
食事が終わるとやることもなくなったので、強くなる雨音を聞きながら眠りにつくことにした。
そのまま明日の朝まで起きる予定はなかったが、うめき声が耳に入り目を覚ました。
「大丈夫か?」
暖炉の火も消え、明かりはランプの光だけ。リットは体を起こしてランプの光に当たるエミリアに近づいた。
ランプの火に照らされ、顔色の悪さがはっきりと見て取れる。脂汗を額に浮かべて、顔を歪めていた。
「大丈夫なわけがねぇよな」
「心配をかけてすまない。いつものことだ気にせず寝てくれ」
エミリアは胸元に爪を食い込ませるように服を掴んでいる。昼間に寝ていたのも、体がこうなることを察知して休憩をとらせたのかもしれない。
「起きて動いちまったんだ。寝ろと言われてもすぐには寝れねぇよ」
「すまない」
リットは責めたわけではないが、エミリアは申し訳無さそうにそう呟いた。
「よく今まで生活できたもんだ」
「夜になり太陽が消える限り、これからも続けなくてはならない」
「太陽ねぇ……」
リットは火のついていない自分のランプを手に持つと、暖炉まで歩いて行った。しゃがみ込んで溜まった灰を指ですくうと、指についた灰でランプの火屋をなぞり模様をつける。
部屋の中心にランプを置いて、油壷にオイルを注ぎ、火をつけてから火屋を取り付けた。火屋の灰で塗られた部分は影を作り、まばらな光が放射状に伸びた。
「どうだ? 擬似太陽だ」
腰に手を当てて得意気にそう言ったリットに、エミリアは苦しそうに胸を押さえたまま、堪え切れず笑った。
「くっくっく……太陽を作るなんて、まるでリットは神様だな」
「笑ってるけどよ。太陽の代わりになるものを作れってのが依頼だぜ」
少しでも気が紛れればと思い工夫したものを笑われて、リットは不機嫌な顔を浮かべてエミリアを睨む。
「す、すまない。でも、くっくっく。そんな子供のような顔で自慢するような男だと思っていなかったのでな」
右手で胸を押さえて、左手でお腹を押さえて笑う。エミリアにとってリットは、第一印象からずっと、口が悪くてぶっきら棒な性格だと思っていた。そんな男の無邪気な顔を見るのは、おかしくてしょうがなかった。
「客に向かって「馬鹿野郎」と怒鳴り散らした男が、母親に捕まえた虫を自慢するような顔で「どうだ?」だ。その時の顔はノーラにそっくりだったぞ。あははは」
エミリアは思い出してまた笑う。
笑うエミリアを、リットは目を丸くして見ていた。大笑いをするエミリアを初めて見たからだ。そんな驚きも束の間、すぐにまた気恥ずかしさと怒りがこみ上げてきた。
「ったく。人を笑う元気があるなら、うめき声なんて上げるんじゃねぇよ」
「そうだったな。リットは優しい男でもあるんだったな。また、太陽が昇るまでの暇つぶしはできそうだ」
エミリアは不貞寝をするリットの隣で、ランプを中心に伸びる光の渦を眺めた。




