第十九話
また二週間が経ち、秋の初めとは思えないほど風が冷たくなっている。
長袖のシャツに袖を通し、人によっては上着を着こみ始めていた。
宿屋の毛布も冬用の厚手のものに変わったが、毛布をかぶれば汗をかくし、かといって毛布を剥げば寒い。調節が難しい微妙な気温だ。
ランプやロウソクの熱にしっかり温かみを感じる。
特に焚き火の炎は心地よかった。乾燥し始めているおかげで、流木がよく燃えた。
モーモー川とランオウ川の合流地点では、流木の燃えカスが溜まっている。
この一週間、リット達は宿屋とこの合流地点の往復を繰り返していた。
日が重なるにつれて、マグニのハープの腕前はぐんぐん上がっていった。マグニの奏でるハープの音色は、もう音楽と呼んでもいいだろう。
マーメイド・ハープは古めかしい旋律を奏で、川面を僅かに揺らす。流れに逆らうように川は小さな渦を巻き始め、マグニがマーメイド・ハープを弾いている間消えたり出来たりを繰り返していた。
マグニがハープを弾き終えると、川面が大きく弧を描いてマグニの腹のようにぽっこり膨らんでいた水の塊が、針で刺された穴から空気が出るようにしぼんでいった。
「うーむ、惜しかったな」
元の流れを取り戻した川を見て、グリザベルが難しそうな表情を浮かべる。
「今のがそうなのか?」
リットはさっきまで盛り上がっていた川面と、マーメイド・ハープは液体を自由に造形出来るという言葉を思い出しながら言った。
「何を言っておる。他に何があるというのだ」
「そうか……、アレがそうなのか。てっきり屁をこいたのかと」
あまりにも期待外れの光景だったこともあり、リットの言葉には皮肉というよりも落胆の色が強かった。
「失敗したのだから仕方なかろう!」
グリザベルはマグニの代わりに怒ったと言わんばかりに声を荒げた。
「でもよ、オレでも上手くなったと思うくらい弾けるようになったんだぞ。それであれってことは、プロ以上に上手くならない限り、水の造形なんて無理じゃねぇか?」
「……確かに旋律は申し分ない。しかし、人魚が皆プロ以上の腕前ということもあるまい。技術的なことではないと思うのだが……。マグニは他の仲間から聞いておらんのか?」
「みんな自然に出来るようになるって言ってたよ」
光の消えたハエは焚き火の明かりで光を灯し、また川向こうの闇に星空を作った。それを見ると、マグニは再びハープを弾き始めた。
深く考えるグリザベルに比べ、マグニは実にあっけらかんとした様子だった。
マグニにとってマーメイド・ハープの効果は二の次であり、自分で弾いたハープの音色に歌声を乗せることが出来れば充分らしい。
元々格別に綺麗な歌声を持っているということもあり、マーメイド・ハープを弾きながら歌うと、マグニ一人で楽団に匹敵するくらい壮大なものだった。
マグニ自身はハープを弾くよりも歌うことの方が好きなのだろう。今もハープに歌声を乗せているが、そのせいでハープの演奏がおろそかになっている。
「この曲にある詩を聞かせよ」
文もなく、言葉もない。ただ「あー」と声を震わせて歌うマグニにグリザベルが聞いた。
「ないよー。だからいつも頭の中で想像して歌うの。川面を照らす満月だったり、川のせせらぎと一緒に踊る花のこととか」
「そうなると、歌詞に意味があるわけではないのだな。詩が術式の代わりをし、魔法陣のような働きをするものかとも思ったが……。ふむ、始めてディアドレが書いた魔法陣の術式を解いた時に似ておるな……、水面に映る月を掴むが如く途方も無く、太陽の終焉を眺める黄昏時のようにもどかしい。思案は星明かりのように正しさと誤りの瞬きを繰り返す。魔法陣に触れればディアドレに触れたかのような錯覚に陥り、人の心の中を読むように難しく考えすぎてしまう。しかし、正解は単純なところにあった。――さて、リットはどう見る?」
「自分が間違ったことをカッコ悪く見せないために、関係ないことを付け足して誤魔化してるな」
「我の分析ではないわ!」
グリザベルはかっと顔を赤くして、リットに怒鳴った。
リットはその様子を満足そうに眺めると、断崖に立ちすくむ賢者が持つ杖のような形の良い流木を手に取った。
「形作るっていったって色々あるからな。木工品のように削り出す。それとも、粘土のようにこねるか、鉄を溶かして型に移すとか」
「なるほどの……。さすがは物を作る者だ。おもしろい観点を持っておるの」
「いや……オレの観点というか。オマエ本当は頭悪いんじゃねぇのか?」
「頭が良すぎて、頭に浮かぶ選択肢が多すぎるのだ。そのせいで視野が狭まるとも言える。まぁ、知恵者故の弊害ということだな」
「それを頭が悪いって言うんじゃねぇのか?」
リットは焚き火で沸かした湯を、空気を含ませ冷ましながらずずっと音を立てて飲んだ。
「我が頭が良いと言ったら良いのだー! ならばリットは、魔術学における『氷』という性質と、魔法学における『氷』の性質の違いがわかるのか!」
「いや、わからん」
「ミランダ・ヘッコニー考案の不等辺六芒星と、ポテフィッシュ・チップス考案の不等辺六芒星。魔力の流れの違いと、それぞれの制御方法は知っておるのか!」
「まず誰だよ。ミランダとポテフィッシュってのは」
「二人とも複雑な面体の宝石ではなくとも、魔力を宝石にこめられると証明し、魔宝石をひとつ上に進化させた魔女ではないか! そんなことも知らずに、よく我に頭が悪いなどと言えたな」
憤懣やるかたない様子のグリザベルは、目尻に涙を浮かべながらリットを睨んでいる。
「全部魔女関係じゃねぇか。んなことじゃなくて、発想の柔軟性のことを言ってんだよ」
「何を言っておる。魔法に関するものは柔軟性が大事なのだ。よって我に柔軟性がないというのは、誤りがあるぞ」
「それなら、その柔軟な発想でマーメイド・ハープも解決してくれよ」
リットはあくびを混じえて煽るように言った。
「リットだって何も考えついてはいないではないかぁ! 我ばかりに押し付けるのはズルいぞー!」
地団駄を踏んでくやしがるような表情でグリザベルが騒ぎ立てた。
「あーイジメたー。いーけないんだ」
マグニは座っていた大岩からじゃぶじゃぶ音を立てて川べりまで泳いでくると、ヘビのように魚の下半身を地面に這わせて、お腹を揺らしながら向かってきた。
「ナマズの炙りになりに来たのか?」
「あっははー! ナマズはソテーにした方が美味しいんだよ」
マグニはリットの皮肉に気付かずに脳天気に笑う。
「食わねぇよ……泥臭そうだし」
「まぁ食べられても困るんだけどね。でも、脂が乗ってて美味しそうでしょ?」
マグニは見せ付けるようにヒレをパタパタ振った。濡れたヒレにこびり付いた泥が勢い良く跳ねる。
焚き火に飛んだ泥は、ジュッと音を立てて小さな煙を上げた。
「脂が乗ってるのは人間の腹の部分じゃねぇか」
「グリザベルだって余分な脂肪がついてるよー」
マグニはグリザベルの景気よく膨らんだ胸を見ながら言った。
グリザベルは思わず胸を押さえる。腕に押さえつけられた胸は形を変え、谷間が膨らんだ。
「ありゃ、体中の肉を全部乳に集めてんだよ。だから腕も脚も細えんだ」
「我の体は、そんなびっくり人間みたいな構造をしておらんわ!」
体をじろじろと眺めていたリットと目が合うと、グリザベルは細めていた目を更に細めた。
「男から見たら乳が膨らんでるだけでビックリ人間だっつーの。――で、マグニは手応え感じなかったのか? 川の水が動いてる最中」
「んー。あったような……なかったような……」
マグニは腕を組んで、頭を左右に振る。しばらく似合わない難しい表情を浮かべていたが、音を立てて深く息を吐き出し終えると、いつもの表情に戻っていた。
「あったし、なかったんだよ!」
「……どっちだよ」
「謎は深まるばかりだねー」
マグニは他人事のように、横に降っていた頭を縦に振る。
「そもそもマグニは何の形を作ろうとしてんスか?」
今まで黙っていたノーラが唐突に口を開いた。
その言葉が耳に届くと、リットとグリザベルは思わず顔を見合わせていた。
そして、マグニの「何も考えてないよ」という答えに、「それだ!」と同時に声を合わせた。
「何も考えてねぇから、何も作れねぇんだよ。だから水の中で屁をこいたみたいになるんだ」
「無心では創造することは出来ぬ。ならばなにも出来ぬのも道理よな」
「二人していっぺんに言わないでよー」
マグニは耳を押さえるようにして頭を抱えた。
「だから、なんでもいいから考えながらマーメイド・ハープを弾けばいいだろ」
「なんでもとか言われた方が難しいよー」
「それじゃ、鳥だ鳥。フェニックスの練習にな」
「よーし! それじゃあ、みんなはりきっていってみよー!」
「張り切らないといけないのはオマエだけだ」
マグニは初めは順調にマーメイド・ハープを弾いていたが、突然旋律が狂い始めた。そこから持ち直すことはなく、最初の時のように女性の悲鳴のような音を掻き鳴らし始めた。
「なんだ! なんだ! なんなんだよ!」リットは耳を塞ぎながら怒鳴る。
「もう! わかんなーい!」マグニも負けじと大声を上げた。
「どうしたのだ。今までちゃんと弾けていたではないか」グリザベルも耳を塞ぎながら言った。
「久々に聞くと、強烈っスね……」ノーラは頭を抱えるようにして耳をふさいでいる。
マグニはマーメイド・ハープから手を離し、お手上げと言わんばかりに両手を大きく広げた。
「ボクには考えながら弾くとか無理だよー! なんかモヤモヤするのー!」
「うーむ、こればかりはマグニに頑張ってもらうしかないのだが」
「……そんなこと言うグリザベル嫌いだよー」
「よし! フェニックスは諦めようではないか」
マグニに嫌いと言われたグリザベルは、反射的にマグニの味方をし始めた。
「ここまできてそういうわけにいくか、干物になっても弾いてもらうぞ」
「リットもきらーい」
マグニは頬を膨らませて不満をあらわにする。
「嫌いでいいから、鳥をイメージしながらハープを弾けよ」
「そうは言うが、リットよ。これはマグニ自身のことだ。我らが何をしたところで、何が変わるわけでもあるまい」
「……水に色を付けるってのもあっただろ」
「ふむ、確か……潮騒のファンタジアとか言っておったな」
「それなら色をイメージするだけだろ?」
そう言ってリットはマグニを見たが、マグニはわざと視線を逸らして顔を合わさないようにしている。
「おい、聞いてるのか?」
「つーん。干物は話さないし、ハープも弾かないんだよー」
「干物は息もしねぇけどな」
リットの言葉を聞いてマグニはピタリと息を止めた。
一分ほど目をつぶり、顔を真赤にして息を止めていたが、肩を揺らして酸素を吐き出した。
「わかったよー。ボクの負けだよー」
「いや、勝負してたつもりはないんだが……。まぁ、弾いてくれるならなんでもいい。つーか弾けるのか? その潮騒のファンタジアってのは」
「だいじょーぶ! 曲は全部覚えてるから」
どのタイミングかはわからないが、マグニはすっかり機嫌が戻って、リットにピースサインを送っていた。
「そりゃ頼もしいこって」
ころころ態度が変わるマグニに、リットは疲れたように言った。
マグニはその声色に気付くことなく、上機嫌に鼻歌を混じらせてマーメイド・ハープを弾く準備を始めた。
準備を終えると、仰々しく咳払いをして注目を集めた。
自分に視線が集まるのを確認すると、得意げな笑顔でマーメイド・ハープの弦に手を触れる。
今まで弾いていた水を造形する波綾のノクターンではなく、潮騒のファンタジアを弾き始めた。
物悲しい旋律だけではなく、突然明るくなったり、激しくなったり、マグニの性格のように旋律がめまぐるしく変わる。
しばらくは暗い川のままだったが、変化は突然起こった。
焚き火で照らされた川面の一部が、ワインのような暗赤色に変わっていた。ムラのない赤色をした川は、元からその色だったかのように思えた。
濃くなることも薄くなることもなく、ただ同じ色で流れる。
その現象はマグニの演奏が終わるまで続き、音が鳴り止むとすぐに元の川色に戻っていた。
グリザベルは惜しみのない拍手をマグニに浴びせる。
「単純なもんなら考えながら弾けるんだな。にしても、なんで赤色なんだよ。不気味にも程があるだろ」
「これ、水を差すでないわ」
グリザベルは拍手を止めて、リットを軽く注意するように睨んだ。
「もっとわかりやすい白とか黄色とかあるだろ」
「モーモー川は白。ランオウ川は黄色。その二つの川が交わるこの場所ならば、珍しくもなかろう」
「まるで見たことあるかのような言い方だな」
「我はヨルムウトル城に腰を下ろす前に堪能したぞ。実に美しい光景であった。特にこの大岩付近では二つの色が並んで流れておって、それはもう見事なものであった」
「オレは誰かさんのせいで見れてないけどな」
リットがこの近辺に来る時には、ランオウ川の川辺に咲く黄色の花は雲のせいで枯れて、ただの川になっていた。
「――さて、確か水柱を上げる曲もあったな。簡単なものから始めていこうではないか」
グリザベルは手をぽんっと打つと、踵を返すようにマグニの方を向いた。
「今日はもう疲れたよー」
「よいよい後日にしようではないか」
グリザベルとマグニは小岩の上に座り込んで話し始めた。
「グリザベルも旦那のあしらい方上手くなりましたねェ」
「全然あしらってねぇよ。まるっきりガキの誤魔化し方じゃねぇか」
グリザベルはマグニと話し込みつつも。ちらちらリットの様子を伺っていた。




