第十五話
ブラインド村に帰る前に、リットは地下の貯蔵庫に保存されていた年代物の酒瓶を眺めていた。
樽で熟成されていたものも捨てがたいが、殆どの酒樽は胴輪が緩み側板の隙間から中の酒がこぼれた跡があった。幾つかしっかりしたままの酒樽もあったが、他がアレではさすがに好んで飲む気にはなれない。それに、ガラス瓶にボトル詰めされている方が安全だ。なにより、城にある酒瓶は普段飲めない高級感があった。
今まではしっかりと貯蔵庫の役目を果たしていたが、ヨルムウトル城を中心に黒雲に包まれ気温が下がってきていることを考えると、瓶に入った酒もダメになる日も遠くないだろう。
リットは2本酒瓶を手に取りリュックに詰めると、ヨルムウトル城を後にした。
ジャック・オ・ランタンが走らせる馬車に揺られ山道を下る。下る途中、小雨のような妙に濃い霧に包まれた。
廃城がある山に霧がかかると、薄気味悪く感じる。
リットがぼーっと床板を見つめている間に、いつの間にか霧は晴れていた。
ブラインド村に近づくと、ジャック・オ・ランタンは手綱を引っ張り馬車を止める。
「なんだよ。こんな中途半端なところで降ろすつもりか?」
リットは馬車から顔を出して辺りを確かめるが、まだブラインド村は見えていない。四六時中明かりが灯っている街灯の光すら見えなかった。
ジャック・オ・ランタンはじっとリットの顔を見て、馬車から降りるのを待っている。
「……あぁ、オレが、怖がるからあんまり村に近寄るなって言ったのか」
リットの言葉にジャック・オ・ランタンは頷く。
リットは寝起きのようにのろのろとした動きで馬車から降りると、ヨルムウトル城に戻っていく馬車を見送った。
ジャック・オ・ランタンのランタンの明かりが消えて馬車が見えなくなると、リットはようやく歩き始めた。
一人が寂しいわけではないが、とにかく暇だ。景色を見て歩こうにも、目を凝らしに凝らして十メートル先が見えるか見えないかくらい暗い。
ただ黙々とブラインド村まで歩く時間はやたらと長く感じた。
ブラインド村に着いたら着いたで、物悲しい光の街灯のしけた雰囲気に体が重くなる。
リットは挨拶をしてくる村人に手を上げて、適当に返事をしながら宿屋に向かった。
宿屋のカビ臭いにおいのする階段を上がり、借りている部屋に入ると、ノーラがベッドの上をごろごろと右に左に転がって散々に荒らしていた。
ノーラはドアの開く音に反応して、だらけきった顔をリットに向けた。
「旦那ァ、おかえりなさァい」
ノーラはごろごろするのを止めて、あくびが混ざったような間延びした声で言うが、ベッドから起き上がる気配はない。
「オマエ一人か」
リットは部屋の真ん中にあるテーブルに向かい歩くと、リュックを床におろして椅子に腰掛けた。
テーブルの上ではロウソクに火がついており、短く溶けた蝋が不気味なオブジェを作っていた。
「グリザベルはマグニのところで、チルカはいつも通りフラフラっとしてますよ」
「で、オマエは一人ごろごろってわけか」
「やることないっスからねェ。このままじゃ床ずれが出来ちゃいますよ」
それでもノーラはベッドから起き上がることなく、イモムシのようにごろごろ横たわっている。
リットがテーブルの上で本を広げると、遊び道具を見つけた猫みたいに近づいてきて覗き込んだ。
しかし、文字だらけのページを見ると、大きくため息を吐いて、すごすごベッドに戻っていた。
「グリザベルの寝室からくすねてきた魔術の本だ。オマエにはわからんよ」
「旦那にはわかるんスか?」
「わかんねぇよ。魔術の本ってのは一般に売ってねぇから、本棚に一冊欲しかっただけだ」
リットは本から視線を逸らさずに、体を傾けてリュックから酒瓶を取り出すと、いつから置いたままかわからないコップに注いだ。
コップに口を付けて流し込むと一息つく。
舌根にわずかな甘味を残すと、火種が喉を通り抜けて胃にぽっと明かりを灯す。ロウソクの炎のようなじんわりとした温かさが、胃の腑から体全体へと広がっていった。
酒臭く染まった息を大きく吐くと、テーブルの上のロウソクの火は傾き小さくなったが、リットの息が止まると再び激しく燃え出した。
「あらあらまぁまぁ、昼間からお酒ですかァ」
「一日中夜みたいなもんだからいいんだよ。ここにいれば時間を気にせず、年中酒が飲めるな」
「それじゃ、私がごろごろするのも仕方ないことですねェ」
ノーラはまた仰向けになったりうつ伏せになったり、ベッドの上でごろごろし始めた。
「まっ、そういうことだ。ここじゃ口うるさく生活をチェックしに来るイミル婆さんもいねぇからな。ごろごろしてろ」
「旦那のそういうとこ好きっスよ」
「でも、オレが動けって命令したら働けよ」
「……旦那のそういうとこ嫌いっス」
そう言ってノーラはベッドに顔をうずめるように押し付けた。しばらくそのままじっとしていたが、突然顔を上げてぷはっと盛大に息を吐いた。
「……カビ臭いっス」
「そりゃ、外に干したところで太陽なんか出てないからな」
「妖精の白ユリのオイルでぱぱっと干しちゃいましょうよ」
「勿体ねぇだろ。服を洗って乾かす時まで待て」
リットは首元のシャツを引っ張り鼻に当ててにおいを嗅ぐ。ほんのり汗の匂いはするが、まだ洗濯をしなくてよさそうだ。
「これで面倒を見てくれる執事がいれば完璧な生活なんスけどねェ」
「知らねぇ奴がいたら落ち着かねぇよ」
「雇うんっスから、知らない人じゃないっスよ」
「そりゃそうだ。どうせなら髭臭え執事より、メイドの方が目の保養になるな」
「私は料理が出来る人なら、性別も年齢も種族もなんでもいいっス。でも、料理担当と掃除担当の二人くらいいてもいいっスねェ」
いつの間にかノーラはベッドから起き上がり、身を乗り出すようにして話をしていた。
「料理に掃除に店番。三人は欲しいところだな」
「おぉー、言いますねェ」
「言うだけならタダだからな」
「……そんなことだろうと思いましたよ」
ノーラは乗り出していた体を引っ込めて背中からベッドに倒れた。
「執事が欲しけりゃヨルムウトル城に行ってろ」
「確かに便利ですけど、辛気臭い城に一人でいるのはちょっと……。誰も話せないですし」
「ローレンがいるだろ」
「ローレンとミスティの惚気を延々見せられるのは嫌っス」
「それじゃ、寝る自由でも存分楽しんでろ」
「そうしますよォ」
そう言うと、今の今まで話していたノーラはすぐに寝息を立て始めた。
静かになると、リットは本のページを捲った。
鼻をくすぐるような埃臭さと甘ったるいカビの臭いが混じり合い、得も言われぬ古書独特のにおいが香る。
魔術の本はいくらページを捲っても理解できるページには出会わなかった。
雄牛の骨、大鷲の羽、蛇の尻尾などの材料が絵で描かれており、魔術道具や術式の解説がある。その殆どが専門用語みたいなものを散りばめられて書かれているので、素人はおろか魔術を齧った程度の人にもわからないだろう。
酒のせいもあってか、ただ目を通しているだけでも文字がぐるぐると回った。
いつしかリットも眠りに落ちていた。
「リット。起きぬか。風邪を引くぞ」
グリザベルがリットの体を揺さぶり起こす。
「まだ夜じゃねぇか」
リットが目を開けると、テーブルの上の燭台に新しく長いロウソクが立てられ火が灯っていた。
「何を言っておる。まだ夕刻だ。それにここはずっと夜のようなものではないか」
「起こすなってことだよ」
「本を読んでいる途中で眠るとは、まるで稚児よのう」
グリザベルは、リットの頬に写った本のインクを見て面白そうに笑っている。
「ほっとけ」
リットは突っ伏していたテーブルから体を起こすと、コップに残っていた酒をあおった。
「本は面白かったか?」
「いいや。カエルの交尾を見てるよりつまらねぇ」
リットは素早く本を閉じると、隠すように膝に置いた。
「……もっと例え方があるだろう。しかし、そこまでつまらないというのも興味があるな。どれ、我に見せてみろ」
グリザベルはリットに向かって手を伸ばした。
「そんなに交尾に興味があるのか?」
「本当にそういう本か! 情欲的な本ならば少しは隠し読め!」
「隠し読んでたら、オマエが帰ってきたんじゃねぇか」
「寝ておったろうが!」
「仕方ねぇ、このエロい本は目に触れないようにしまっておいてやるよ。だいたい、少しは男といるんだから気を使えってんだ」
リットはリュックの中に本をしまうと、グリザベルに表紙が見えないように他の荷物で隠した。
「ノーラもおるのに読む方が悪いだろう!」
「アイツは寝てるだろ。――それよりこんなものが出てきたぞ」
リットはリュックからディアドレの書いたメモを取り出してテーブルの上に置いたが、グリザベルは両手で目を覆っていた。
「なにしてんだ?」
「このタイミングで出すなら、卑猥なものに決まっておる」
「そう思うなら、指の隙間を閉じろよ。ディアドレの研究室を漁ってたら、別のメモが出てきたんだ」
グリザベルは人差し指と中指の隙間から疑うような視線をリットに送るが、すっと視線を下に落とした。メモだということを確認すると、顔を覆っていた手を離し、メモを手に取って眺め始めた。
眉を寄せたり、難しい顔をしたり、目を閉じたり、小さく頷いたり、ブツブツと何かつぶやいたり、一語一語読む度に表情を変えている。
「ただのメモだ」
グリザベルはつまらなさそうに言うと、メモをテーブルの上に戻した。
「ディアドレの研究成果みたいなもんだろ。ヨルムウトルがこうなることを予測して対処をしようとした」
「そんなことは疾うに見当がついておったわ。フェニックスというのも、ヨルムウトル王の願いを叶えるだけではない。フェニックスが転生する時の烈々たる炎で、密集し纏わり付く黒雲を焼き払おうと考えて研究していたのだろう」
グリザベルはメモを再び取ると、メモの端をロウソクの火につけた。
赤い炎が紙の上を這いずりまわり激しく燃えると、リットとグリザベルの顔を強く照らし濃い陰影をつける。
メモに燃え移った火はすぐに消え、焦げの臭いと黒い炭を蝋の上に残した。
「……おい。そういうことわかってたなら早く言えよ」
「いきなり断言しても信じなかったであろう? 人を使うには謎を残し、少しずつ興味を持たせてやるのが大事ということだ。それにディアドレの研究成果について、まだ腑に落ちないところがある」
「なんだよ」
「それがわかっていれば教えておるわ」
「そんなんだから友達が出来ねぇんだよ」
「違うぞ! 田舎に住んでいたから、周りに人がいなかっただけだぞ! 現に、この村で我の友達が出来たではないかぁ!」
「この村より人がいねぇ田舎なんて、墓場しかねぇよ」
「は、話を元に戻すぞ。それにだ――」
「そうやって誤魔化すところも友達が出来ねぇ原因だな」
「いちいち嫌味ったらしく分析するでないわ!」
グリザベルの鼻息がロウソクの火を激しく揺らした。
「わかったわかった。それに、なんだ?」
「それに、魔法について書かれたメモだが、魔法陣について書かれてあった。――が、今じゃ一般的になったものだ。特に目新しい物はない」
リットは灰になったメモ紙をフッと息を吹いて飛ばす。灰は息で舞うと砕けてテーブルに広がった。落ちてきたそれを人差し指の腹で擦る。
「だからってカッコつけて燃やすことねぇだろ。火事になったらどうすんだよ」
「我としては、メモだけでこうして残ったものが、何故一般的になったかの方が興味がある」
「オレとしては都合の悪いことは無視して話を進める、オマエの思考回路の方に興味があるけどな。ディアドレが本にでも書いたんだろ」
「ディアドレが書いた本は全て読んでおる。それに魔術書は魔法使いの親から魔法使いの子へと手に渡る。誰かに読まれて困るということはないが、一般に出回ることはまずあり得ない。出回ったとて魔術の詳しい物にしか内容はわからん」
「確かにな……」
リットはさっき読んだ魔術の本を思い出しながら言った。
「む? 読んだことがあるのか?」
「いいや。ただ、グリザベルがいつも言ってるわけのわからない言葉を理解するのは、相当大変だと思ってな」
「魔術は一見して難解なようでも、全て一つに繋がっておる。だからこそ、ディアドレのように新しいものを作り出そうとすることは困難なのだ。――聞いておるか?」
「聞いてねぇよ」
リットはノーラの体を揺さぶりながら「飯を食いに降りるぞ」と声を掛けた。
「よいのか? 聞かぬと後悔するぞ」
「どうせ話すなら、マグニのことを報告しろよ」
「よくぞ聞いた! 友情の証として、我がいつも着けている真珠の首輪を贈ったのだが……。マグニはどうしたと思う?」
グリザベルが腕をリットに見せ付けるようにテーブルに肘をつくと、手首からは真珠のブレスレットがずり落ちた。
首からぶら下がっていない真珠のネックレスの代わりに、腕には新しい真珠のブレスレット。見るだけで答えがわかるようなものだが、リットは触れようとはせずにあえて黙る。
「わからぬか? それとも我の口から答えを聞きたいと……。しょうがない話してやろうではないか。――最初は受け取れぬとマグニは拒んだが、それでは我の気が収まらぬのでな。押し付けるような形で渡したのだが、マグニはこれならお揃いになると、首輪を二つの腕輪に加工を施して我にくれたのだ! マグニはな――」
「悪いけど晩飯だ」
「なるほど。ディナーの場ならばゆっくり話すことが出来るな。確かにここで話すより有意義だ。その提案を許可する。ディナーのメニューに楽しみを抱きつつ、下の階に向かおうではないか」
「……この村にカボチャと魚以外はねぇよ」
夕食の最中グリザベルは、マグニのハープの練習のことではなく、ひたすらマグニとの友情を語っていた。
その夜。リットは頬に痛みを感じて目を覚ました。
乱暴な起こし方だったのでチルカだと思っていたのだが、目を開けるとグリザベルがリットの頬を叩いていた。
「夜は起こすなって言っただろ」
リットの機嫌が悪そうな声色と目つきにも怯まず、グリザベルは声を荒げた。
「こらぁ! これは我の寝室に置いてあった魔術書ではないかぁ!」
グリザベルの手には、リュックにしまい込んだはずの魔術書があった。
「あー、そうだったような、違うような。……はっきりしねぇな」
「お主がはっきりせんでも、我がしっかり覚えておるわ!」
「読まれても困らねぇんだろ? それなら別にいいじゃねぇか」
「そういうことではない! 我はこそこそする心構えのことを怒っているのだ!」
「オマエもオレのリュックをこそこそ漁ったんだろ? お互い様だ。――ん? エロい本って言ったのに、漁ったってことは」
リットの言葉にグリザベルの動きが一瞬止まるが、すぐ身を翻した。
「起こしてすまなかった。良き夢を見るとよい」
そう言ってグリザベルは自分のベッドに潜り込むと、わざとらしい寝息を立てた。




