第六話
エミリアがリットの家の二階に居ついてはや十日。成果らしい成果は得られないままでいた。
既に工房にある本は全て読み終え、次に本が多くある町長の家にある本も漁り尽くしたが、結果は変わらず。
一番大きい変化といえば、ノーラとエミリアが日に日に仲良くなっているところだろう。エミリア自身の故郷であるリゼーネ王国のこと、任務で赴いた様々な街や国のこと、どの話もノーラの耳には新鮮であり、要点しか話さないエミリアの言葉を食い入るように聞いては、嬉々とした表情を浮かべていた。
やることがないと無駄なことを考えてしまう。
工房の椅子に腰掛け天を仰ぐリットに、格子窓から陽の光が差し込んだ。耳を澄ますと、鋭い風切音と草が擦れる音が聞こえてくる。
最近まともに日光に当っていないと思い、リットは裏庭へと向かった。
階段を上がり、庭へと続くドアを開けると、瞼に痛く太陽の光が差してきた。瞼の上へ日除けのように手をかざして、光の玉がぼやける視界にいる住人に声を掛ける。
「休暇を利用して来てるんだろ? 鍛錬してたら意味が無いんじゃないか?」
「しかし、鈍っては意味がない」
エミリアは振り上げた剣を真っ直ぐに下ろしてそう答えた。額には汗が流れており、踏み均された雑草の跡を見ても、長いこと素振りをしているのが窺える。それでも、振り下ろされた剣はブレることなくピタリと止まっていた。
「それもそうか。腕が鈍って死ぬのは自分自身だもんな」
そう言ってリットは、草の上へと腰を下ろした。
「そういうこと……だッ!」
エミリアは言い終える前に剣を振った。金属が空気を切り裂く音は高く響く。
その一振りで休憩と決めていたのか、タオルで汗を拭きながらリットの元まで歩いて来ると、隣に座った。
「リットは何しに来たんだ?」
「日光浴。最近、工房に篭ってたからな」
「なるほど。確かに……一日うち半分は日光を浴びなければ調子が出ないからな」
そう言ってエミリアは、両手を目一杯に広げて気持ちよさそうに太陽を浴びた。
「散歩するくらい浴びれば充分だろ。光合成でもしてんじゃねぇか?」
「森林浴も好きだぞ。リゼーネ王国は、国中に木が植えてあってな、国民は皆木漏れ日に安らいでいる」
首を鳴らしながら「あっそ」と生返事すリットに対して、エミリアは少し驚いたような表情を見せた。
「この町もリゼーネ王国の管轄ではないか。王都には行ったことがないのか?」
「管轄って言っても、外れも外れじゃねぇか。ここからだと、隣の国のほうが近いぞ」
リゼーネ王国とリットが住んでいる町の間には、三つの大きな街がある。流通は隣町から隣町へと行われるので、直接的に王国と関わるようなことがなかった。
なので、鎧姿で町をぶらつくエミリアは非常に珍しがられている。
鎧を着た兵士が来れば、ここが戦争の前線基地に使われるのではないかと憶測が飛び交うくらい、外れにある町であった。
「そうだな。そういえば私も初めてこの町に来たな」
「ウチも自然が多くていいだろ。まぁ、ただ雑草が生い茂っているだけだけどな」
庭は緑に埋め尽くされ、井戸の周辺と家の扉へと繋ぐ道だけが踏み荒らされ、土をめくり、獣道を作っていた。
「そういえば、リットは他の者が住む家に比べると、なかなかに立派な家に住んでいるのだな」
「……土地だけはあるような村だからな。それに、きっとエミリアの屋敷の方がでかいだろ」
「それは否定しないが……」
聞いては悪いことだったのかとエミリアは口を噤む。
少し居心地の悪い無言の時間が流れると、リットは堪らず口を開いた。
「この家を建てた時は金があったんだよ。この庭も最初は、薬草とか育てようと作ったんだけどな」
レンガが崩れ落ち、花壇だったものに目を向けると、背の高い雑草が家の壁に張り付くように伸びていた。
「勿体無くはないか? 今からでも育てるのが良いと思うぞ」
「ウチには壊し屋がいるからな。雑草でも生やしとくのが丁度いい」
「そうか。それではここのスペースは私が予約しておこう」
エミリアが日当たりの良い花壇に向かって剣を振るうと、一箇所だけ土が見えるようになった。
「根っこから抜かねぇと、すぐにまた生えてくるぞ。なにか植えるのか?」
「いずれな。ノーラがいつでも苺ジャムが食べられるように、苺でも植えるのもいいな」
リットはそれも悪くないと思った。そうすればパンを食べる度に文句を言われることも少なくなるだろうと思ったからだ。問題は待ちきれないノーラが熟す前に、苺を食べきってしまいそうなことだ。
「……ノーラが世話になってるな」
「なに、妹ができてみたいで楽しいぞ。私には姉上はいるが、妹はいないからな」
「姉ちゃんの方は、問題ないのかい?」
太陽を見上げてリットがそう言うと、エミリアもつられて太陽を見上げながら言った。
「姉上は元気なお方だ。この症状は私以外には出ていないな」
「……言い難いんだがよ。この依頼、半年くらい掛かることになるかもしれねぇな」
「そうか」
「そうかって、いやにあっさりしてるな」
「こう言うと失礼に聞こえるかもしれないが、期待はしているが希望は持っていない」
エミリアは再び剣を持って立ち上がった。
その姿が、リットにはエミリアが困難に立ち向かっているように見えた。
「まだやるのかい? 疲れてぶっ倒れちまうぞ」
「それが狙いだ。そろそろ寝ないと参ってしまうからな。疲れ果てれば泥のように眠れる」
今までもずっとそうしてきたのだろう。エミリアはあまりに平然にそう答える。夜通し起きているか、疲労を溜めて寝る。どちらにせよ体に悪いことには変わりない。
「昔からそうだったのか?」
「童女の頃は、胸が痛むということはなかったな」
「昔の話って聞いてもいいのか?」
「少し長くなるぞ」
エミリアは素振りを止めて、ゆっくりとここに来るまでの経緯を話し出した。
夜泣きがひどい赤子だった。何かに怯えるように泣き続け、やがて泣きつかれて寝てしまう。このまま病弱に育つのではと、心配する両親をよそに、幼少期は活発な少女だった。
手に取ること、見ること、為すこと全てが楽しい盛りということを踏まえても、お転婆過ぎるというのが周りの印象である。走り回るだけじゃ飽き足らず、屋敷を出入りする兵士に剣術まで習う始末だった。
しかし、この選択が結果的にお転婆娘から、礼節を弁え、極めて真面目な人物に育つことになる。
この頃はまだ、寝るのが苦痛ではなかった。寝付きが悪い程度の症状で治まっていたからだ。
胸が膨らみ、腰がくびれ、尻が張り出し、子供の身体から大人の身体へと成長してくると、今のような症状が強く出るようになった。
その頃になると、体が疲れると痛みの中でも眠れるということが分かっていた。幼少時代に活発だったのも、体が発した信号からなのかもしれない。
体を疲れさせる為、昔以上に剣術に時間を割くうちに、身につけた力を職業として活かすことを考え始め、城の兵士に志願した。
元々才能はあったのだろうが、幼少期からの努力もあり、同期の兵士の中でもすぐに頭角を現した。重要な任務を任せられ、飛ぶ鳥を落とす勢いで責任ある地位に引き立てられた。
何人かの部下を率いるようになると、武以外のことも必要になる。頭の切れが鋭く、瞬時に的確な判断を下せるようにならなくてはならない。
その為には四六時中寝不足なわけにもいかず、毎夜疲れ果てて寝るわけにもいかない。
エミリアが兵士でいる限り、今の状態のままでいるのは常に危険が付き纏うようなものであった。
数年前から休暇を利用しては様々な国へ行き、改善する術を探していたのだった。
「今回はこの村に来たというわけだ」
「各地を回ってるなら聞いたことあると思うんだが、闇に呑まれるってのとは関係ないのか?」
「関係ないとは言い難いが、その噂が立つ前から私は症状が出ているぞ」
「やっぱりあれはただの噂か……」
「信憑性のある噂だがな。リゼーネ王国でも調査団を派遣したぞ。私はこの体質のため辞退せざるを得なかったが」
本当は行きたかったというのが透けて見えるような暗い声だった。その声を明るく照らしたのはノーラの声だ。
「旦那ァ! 客人ですぜェ!」
「それじゃ、オレは商売してくるわ」
「了解した。最近は私に気を使わせてるみたいですまないな……」
リットは右手を上げて後ろ手に「気にするな」と手を振ると、店へと向かった。
「やぁ、リット」
長く黒い髪をなびかせた男が片手を上げてカウンターの前に立っていた。左目を隠すように長く前髪が伸びており、その奥の瞳は分かりやすいくらいの作り笑顔を浮かべている。
「おい、ノーラ。オレの目の前には色呆け野郎しか見えないんだが、どこに客がいるんだ?」
リットは目の前の男を睨むようにではなく、しっかりと睨んだ。
「ずいぶん酷い言い草じゃないか。僕だって君に用はないよ。気を使って家主に声を掛けてあげたんだ」
「オレに用事がないなら、帰れよローレン」
「そういうこと言うと、もう宝石を売ってあげないよ。せっかく僕の厚意で、君には嫌々だけど売ってあげてるのに。だいたい仏頂面のつまらない男のくせに、文句が多いんだよ」
「何言ってやがる。オレがオマエのとこの宝石を買わなけりゃ、とっくに破産してんだろ。考えなしのナルシスト野郎が」
ローレンは、リットの言葉にピクピクと頬を引きつらせると、次第に顔付きが怒りのものへと変わっていった。
「僕の店が宝石を売らなくなると、君のところも破産決定じゃないか! 誰のおかげで、金持ちの道楽のランプの依頼をこなせたと思ってるんだい!」
大きな声で言い争う二人に「まぁまぁ」とノーラが割って入った。
「なんで旦那達って、そんなに仲悪いんっスかねェ。イミル婆ちゃんが昔は仲良かったって言ってましたよ」
「理由は簡単だよ。リットが裏切り者だからさ」
「裏切ったのはオマエだけどな。あんなに腹のワタが煮えくり返ったことはねぇよ」
「そこまで啀み合うなら、何があったか聞きたいもんですねェ」
ノーラの頭に手を置いて撫でると、ローレンは昔を懐かしむように話しだした。
「今となっては気の迷いだけど、あの時はリットと楽しくカーターの酒場で飲んでいたんだ」
「フラれたヤケ酒に付き合わされて、楽しいもクソもあるかよ」
「余計なことは言わなくていいだろ!」
再び言い争いが始まりそうになると、ノーラは二人をなだめて続きを話すように促す。
「まぁ、それでその時は、リットに愚痴を聞いてもらいながらチビチビやってたんだ。ふと隣を見ると、美人の旅人が一人でお酒を飲んでたんだよ。思わず二人で声を揃えて「おっ! 美人」と呟いたね」
「思えばアレが、オレとローレンの最後の意気投合だったな」
「なるほど、なるほど~。それで、二人がその女性を取り合うことになり、友情に亀裂が入ったってわけっスね」
ノーラは腕を組み何度も頷きながら、納得している。
「ちげぇよ。そんなチンケなもんで友情にヒビがはいるわけないだろうが。問題は、二言目に呟いたこいつの言葉だよ」
リットが目を鋭くさせて睨むと、ローレンも食って掛かるように睨み返した。
「僕も思わず耳を疑ったね。まさか君から「良い尻だ」なんて言葉が出るなんてね」
「信じられなかったのはオレの方だ。「あの胸に埋もれてみたい」なんて馬鹿げたことを言うもんだからよ」
二人は再びカウンター越しに睨みを利かせ合うが、ノーラは止めなかった。目を細めて二人のことを見ている。
「うわぁ……。そっちの理由のほうがよっぽどチンケっすよォ」
「で、何年も昔の因縁をつけに店に来たってのか?」
「尻フェチの癖に、巨乳の女性を連れ込んでるのが気に食わない。ノーラは構わないが」
ローレンは起伏が少ないノーラの胸を一瞥すると、興味なさそうにリットに向かい直した。
「旦那こいつ敵っスよ! 女の敵ってやつっス! オイルぶち撒けて燃やしましょう!」
ノーラは袖をまくると細い腕を見せて、今にも殴りかかるようなポーズをとった。
「やめろ、昼間から殺人なんか起きたら客が来なくなるだろ。やるなら月のない夜だ。存分に燃やしてやれ」
「了解っス! 焦がすのが得意なのがここで役に立つとは!」
騒ぐ声が一つ増えると、居間の扉を開けてエミリアが店に顔を出した。
「リット。私の時も思ったが、客人と喧嘩するのは良くないぞ。庭にまで声が聞こえてきた」
「引っ込んでていいぞエミリア。バカが難癖つけにやってきただけだから」
リットが言い終える前に、目の前にいたはずローレンは、素早くエミリアの目の前まで移動していた。
「エミリア……。僕はあなたに会いに来ました。明後日辺り丘の上の桜が見頃になるのですが、良かったら一緒にどうですか? 極上のワインを飲みながら、あなたにアクセサリーを贈るために、好きな宝石の話などをしたいのですが」
ローレンは跪くと、エミリアの手を取って言った。
「それは楽しそうだ。だがすまない、明後日には王都に帰らなくてはならないのだ」
エミリアの言葉に反応したのはローレンではなく、リットだった。
「明後日? また急だな」
「前々から決まっていたのだが。すまない、言うのが遅れた」
王都と言えばエミリアの育った場所だ。行けば何か分かる可能性がある。それに、エミリアは王国の兵士ということもあり、城の図書館を利用させてくれるかもしれないし、国の研究者の話を聞くこともできるかもしれない。
「よし、オレもリゼーネ王国に行くことにした」
「それは構わないが、その間店はどうするんだ?」
ノーラに任せると言おうとしたが、行きたそうに目を輝かせるノーラを見て、その言葉を飲み込んだ。
「普段買いに来る客は、オイルとか芯だからな。お得意さんには先売りしときゃいい」
「旦那ァ! それは私も行っていいってことっすよねェ?」
「宿代増える分、無駄遣いはさせねぇけどな」
リットは呆けるローレンを店の外に追い出すと、わざと大きく音を立てて鍵をかける。
「さっ、晩飯を食うか」
夕方になりかけの時間だが、エミリアに合わせた食事時間に慣れてきていた。
「旦那が、このタイミングで王都に行くって言ったのは、ローレンにとどめ刺す為っすスよね」
「そんなとこだな」
「私は旦那の味方っスよォ」
ノーラはペタペタと自分の胸を触りながら言った。