第九話
リットは宿屋の部屋で椅子に座っていた。
右手の人差し指は不規則にテーブルを叩き、左腕はテーブルに片肘を付き、口を覆うようにして頬杖を付いていた。熱のこもった鼻息が腕の産毛をくすぐったく揺らす。
「まぁだ、ご機嫌斜めなんスか? いないっていうことは、いないってことなんスよ」
ベッドの上で足をバタバタさせていたノーラはベッドから飛び降りるように床に立つと、両腕を高く上げて小さい体を目一杯伸ばした。
リットは目をつぶり、またも荒めに長く鼻息を吐き出した。
大人気なく村の子供を集めたリットは、昨日夜に魚をぶつけてきた犯人を探そうとしたのだが、皆口を揃えて家で寝ていたと言うのだ。
深夜近くになっており、確かに子供がうろつくような時間ではなかったのだが、顔面に広がった痛さを考えると、大人が憤慨して魚を投げたというよりも、子供が力任せに投げたような感じだった。
しかし証拠もなく、ただのリットの想像なのでどうしようもない。
リットは自分が最初に石を投げたということも忘れて、憤りの無い怒りをまだ薄められずにいた。
「ほーんと、たかが魚をぶつけられたくらいで器の小さい男ね」
チルカが挑発するような笑みを向けて、リットの頬をつっつく。わざと爪を立てているので、リットの頬にはチルカの爪痕がくっきりと残った。
リットはテーブルの上にある燭台から溶け流れて固まった蝋を、人差し指でこねくり回して小さく丸めた物をチルカに向かって弾いた。
リットの人差し指が上がり切るのと同時くらいに、蝋くずはチルカの顔に当たりテーブルに跳ね返る。
チルカは一瞬よろめいたが、すぐにリットの眼前まで飛んできて声を張り上げた。
「なにすんのよ!」
「たかが蝋の固まりをぶつけられたくらいで怒るなよ。器も体も小さい奴だな」
「たかが蝋じゃないでしょ! アンタのきったない手垢まみれの蝋じゃない!」
チルカはリットの目玉にツバを吐きかけるような勢いで喋る。
「煎じて飲んでもいいぞ」
リットは頬杖を付いていた手を降ろして、テーブルに気だるそうに横顔を付ける。
テーブルに置かれた、一日中火をつけっぱなしのロウソクは、隙間風が入る度に忙しく火先を揺らして光の向きを変える。
「煎じるのは爪の垢よ。バカねぇ」
「飲みたけりゃ好きにしろよ」リットはチルカに爪を向ける。
「……剥がすわよ。……その爪」チルカは穴を開けるような視線でリットの爪を睨む。
「そんなに気になるなら、また行けばいいじゃないっスか。犯人は現場に戻るっていいますしィ」
ノーラは探偵を気取るように、顎に片手を添えながら部屋の端から端を行ったり来たり歩きながら言う。
「それもそうだな」
リットは立ち上がると、ベッドの枕元にある棚の上に置いてあるランプを手に取り、オイルを足す準備を始めた。
「今から行くんスか?」
「付いて来なくていいぞ。オマエの短い足に合わせたら時間がかかるからな」
「そう言われると、付いて行きたくなるのが人の性ってもんス」
「人じゃなくてドワーフだろ」
「暇なんスよォ。かまってくだせェ、旦那ァ」
ノーラがリットのシャツの裾をグイグイ引っ張る。
「村のガキと遊んでればいいだろ」
「旦那がむやみやたらに怒るから、隣りにいた私まで怖がられてるんっス」
「オマエに怖がる要素なんて一つもないのにな」
リットはクリクリの丸い目を向けてくるノーラの脳天気な顔を見た。
目が合うと、ノーラは首をかしげて笑った。
「なぁーっス。ささ、行きやしょう行きやしょう」
リット達は昨夜と全く同じ風景の川べりを歩く。
三十分程歩いたところで、小さな子供たちの叫びのような金切り声が風に混じり聞こえてきた。
川の合流地点に近づくにつれて、風の音よりも金切り声の方が大きくなってくる。
リット達は知らず知らずのうちに声と足音を押し殺しながら、ゆっくりと歩いていた。
川の合流地点まで来ると、声の出処がはっきりした。川の中にある大岩の岩陰から響いている。
リットはランプを地面に置くと、躊躇うことなく冷たい川水に足を浸す。無駄な音を立てないように慎重に川を割って歩き、大岩に近づいていくと、動いている人の腕が僅かに見えた。
同時にリットは、発狂する者の腕を掴み引きずり出した。
「もう、言い逃れはさせねぇぞ。キーキーうるさく叫びやがって。猿か」
「わっわっ! なになに!?」少女は慌てた声を出した。
リットに腕を掴まれ力任せに引っ張られたせいで、少女は豪快な水音を立てて川に落ちた。
「魚をぶつけておいて、なにじゃねぇよ」
少女は川から顔だけを出すとリットの顔を見た。
「もしかして、昨日の石を投げてきた人?」
「……生き物を投げるなんて不貞な奴だ」
「あっ! 誤魔化した!」
リットはわざと聞き逃すように、じゃぶじゃぶ音を立てて岸に戻っていった。
少女もリットに引っ張られながら岸へと上がる。
「キーキー騒ぐ猿人召し捕ったり」
リットは暗い川で捕まえた者を引きずり出すと、ノーラとチルカに見えるようにランプの光に晒す。
「猿人はアンタの方でしょ」
「オマエだって羽が生えた猿じゃねぇか」
「でも、旦那……。どう見たって猿じゃなくて魚っスよ」
ノーラに言われて、リットはランプの明かりの中で、連れてきた少女を見た。
黒土のような髪色で、ところどころ跳ね上がったショートカット。髪の両サイドの二束だけが腰辺りまで長く伸びていた。まだあどけない少女の顔。むき出しの肩と鎖骨。胸元は白い布を巻いて隠している。少しポッコリとしたお腹の下には長く伸びた触覚のようなものが二本と、短いヒレのようなものが二つあった。そのヒレの下からは肌色ではなく、黒に近い濃い茶色の肌になっており、尾ビレへと続いていた。
リットは頭のてっぺんから尾びれの先まで見ると、もう一度お腹を見た。
「……ナマズの人魚か」
「あっ! ボクのお腹を見て判断したな!」
少女は自分を抱きしめるようにして、鶏の卵のように膨らんだお腹を腕で隠す。
「いやいや、なかなか可愛らしい髭があったもんでな」
「そう思う? ありがとう! 石を投げてきたし、ボクはてっきり嫌な人だと思ってたよ」
「嫌な奴であってるわよ――」
そう言って指を差してくるチルカを、リットは頭から掴んで手の中に閉じ込める。
「――鳥が狙ってたもんでな。追い払うために石を投げたんだ。悪かったな昨日は、結果的に石が当たったみたいで。怪我はないか?」
「大丈夫! ボクは元気だよ!」少女はぐっと力こぶを作るように腕を曲げて見せた。「そうだったんだ。こっちもごめんね。いきなり魚を投げつけたりして。岩に火をつけたりしてたから……てっきりイジワルされたと思ったから」
「ところでだ――」リットは川に背を向けて座り込む。「人魚ってことには間違いないんだな?」
「うん! ボクはナマズの人魚のマグニだよ」
「そうかそうか」
リットはマグニの答えに満足そうにうなずいた。
「あっ、悪い顔っス」
「……ノーラ。あーん」
「あーん」
リットは大きく開かれたノーラの口に、掴んでいたチルカを押し込んで喋れないようにした。
ノーラの口からはみ出たチルカの足が、水中でバタ足をする鴨のように激しく揺れている。
「さて……。人魚ってのは音楽が好きらしいな」
「うん! 大好きだよ! ボクは歌が得意なんだ! 聞いてて!」
マグニはお腹に手を当てて深呼吸をすると、大きな声で歌い出した。
「アー」という言葉だけを旋律に乗せた歌声は、虹のように様々な感情の色を乗せて響いている。
てっきりマグニが金切り声を上げると思ってて耳を塞いでいたリットだが、いつの間にかマグニの美声に目をつぶって酔いしれていた。
マグニが歌い終えると、リットは自然と拍手を響かせた。
「いやー、たいしたもんだな。美味い酒でも飲んでる時に、もう一回聞きたいもんだ」
「えへへ。ありがとう。それじゃそれじゃ! 次に歌うのは――」
マグニは片手を腰に当てて、もう片方の腕を元気よく高く空に向かって伸ばした。
「――まぁまぁ、歌のアンコールは置いといてだ。楽器は弾かないのか?」
リットの言葉にマグニは笑顔のまま固まった。
反応がないので、リットが目の前で思いっきり手を叩いてやると、マグニは「うひゃあ!」と言う声とともに飛び上がった。
「ほら、人魚と言えば――あるだろ?」
「そ、そんなことよりお話しようよ! どこから来たの? えっと……」
「リットだ。人魚ならハープの一つも弾けるんだろ?」
「えっと……。――リットは何をしてる人なの?」
「ランプ屋だ――」
「――わぁ! すごーい! じゃあ、それもリットが作ったの?」
マグニは地面に置いてあるランプを指差した。
「そうだ。――で、ハープは持ち歩いてないのか?」
リットは話を逸らそうとするマグニの言葉に短く答えて、マーメイド・ハープの話を続ける。
「もしかして、リットはボクのハープを聞きたいのかな?」
マグニは胸元でもじもじと指先を重ね合わせながら聞いた。
「そうだ。是非とも聞かせてもらいたいもんだ」
「でもでも、まだ下手で練習中だから……」
「下手でもいい」
「……笑わない?」
もじもじさせていた指を止めたマグニは、上目遣いでリットを見る。
「もちろん」
「……じゃあ、ちょっと待ってて」
マグニは川に飛び込むと、大岩に向かって泳いでいった。
「旦那、まさか奪う気じゃ……」
ノーラが黒雲に染まった川に消えていくマグニを見ながら言った。喋ると歯がキラキラ光ってるのが見える。
「まだ奪わねぇよ。マーメイド・ハープの効果がどんなものかがわかってからだ。――それより、その歯はどうにかなんねぇのか? マヌケに見えるぞ」
「旦那が、チルカを私の口に押し込むからでしょ。だから、鱗粉がついて。――あっ! 妖精の鱗粉って甘いの知ってました?」
「それは知らねぇな。まっ、オマエがチルカを食ってくれたおかげで、今は静かってわけだ。そのうち光る糞で出てくんだろうな」
「糞はアンタよ」
全身ずぶ濡れのチルカが恨めしそうな顔でリットを睨む。
「川で遊んでたなら、乾かしてこいよ」
「アンタに掴まれたせいで息は止まるわ、ノーラの口の中で唾液まみれになるわ、洗おうと川に行ったら人魚が飛び込んでくるわで散々よ! ――ノーラ! わざと舐めたでしょ!」
「いやー、甘かったもんでつい。ごめんなさいっス」
そう言いながらノーラは、唇にも付いていた鱗粉を舐め取る。
「……んなもん舐めてると腹壊すぞ」
「そもそもアンタがノーラの口の中に私を押し込むのがいけないんじゃない!」
「オマエが余計なことを言おうとするからだろ。これからマグニをおだててマーメイド・ハープを騙し取るんだから、オレの印象が悪くなるような事を言うなっての」
「その性格の悪さが滲み出てるような顔じゃ何したって無理よ」
「言い返してやりたいとこだが、今は蚊の退治よりも魚を捕まえる方が先だからな」
リットは手でチルカを押しのけた。押しのけた先にマグニの姿が見える。
「持ってきたよー!」
マグニは自分の体程もある大きなハープを引きずりながら持ってきた。
木の枠組みで作られた逆三角形のハープは、リットのイメージするマーメイド・ハープとは随分かけ離れていた。特に装飾されているわけでもなく、それっぽい形の流木を繋ぎあわせて作ったような地味なハープだ。
「それが、マーメイド・ハープか? 貝とか珊瑚で飾り付けはしてないのか?」
「そういうのは、海の人魚じゃないと手にはいらないんだよ。でも、見て見て! サワガニの甲羅!」
マグニが得意げな顔で、ハープの腕木の先に付いている潰れたオレンジ見たいな模様を指した。
「臭そ――いや、ワンポイントでそういうのがあるのはいいかもな」
「だよねー」
マグニは上機嫌に笑顔を浮かべて鼻歌を歌う。
「せっかくだからその上に座って弾いてくれよ。その方が雰囲気出るだろ」
リットはマグニが川に逃げられないように、川から離れた小岩に座るように促す。
「えへへ、なんか緊張するね」マグニは尾ビレを垂らして小岩に腰掛けると、照れくさそうな笑みを浮かべる。「えっと……。それじゃあ、まだ練習中だけど」
そう言ってマグニは、川に向かう途中ずっと聞こえていた金切り声の正体を弾き鳴らす。
とても弦が震えて鳴る音とは思えない甲高い音は、鼓膜を痛痒く震わせた。背筋をなぞり鳥肌を立たせるような不快感が全身を襲う。
腕を組み偉そうに聞いていたチルカは失神するように地面に落ち、ノーラは耳を塞いで音から逃げ隠れるようにリュックの中に頭を突っ込んでいた。
途中までやせ我慢をしていたリットだが、とうとう耐え切れずに耳を塞ぐ。しかし耳を塞いでも、鼓膜にこびりついた不快な音は脳の奥まで響いた。
マグニがマーメイド・ハープを弾き終え音が止まると、窒息しかけの水中で息を吸えたような気分だった。
「いやー……。たいしたもんだ……」リットは力なく言った。
「えっへへぇ。そうかな? まだまだ練習中なんだけど」マグニは両頬を押さえて照れている。
「――その腕なら必要ないだろ。くれ、ハープ」
おだてる必要がないとわかったリットは、マグニに向かってズイっと手を伸ばした。
「え? えぇ!?」
「無駄な努力ってのもある。歌が上手いんだから、ハープは諦めろ。諦めたらハープは必要なくなるだろ? だからくれ」
「ムリだよ……。ムリムリ!」
マグニはリットから守るようにギュッとマーメイド・ハープを抱きしめる。
「まぁまぁ、聞いてくれよ。オレにはマーメイド・ハープが必要なんだ」
「そんなこと言われても……。ボクだって、これから上手くなるつもりでいるんだから!」
「そう、そこなんだよ。オレは“必要”。マグニは“つもり”。必要はつもりより上だ」
リットは比べてみろと、「必要」で右手を眉の位置まで持っていき、「つもり」で左手を胸元へ持っていって、どっちが重要かというのを示した。
「せっかく友達になったんだし、なんとかしてあげたいけど……ムリだよ」
「友達? ――あぁ、そう友達友達」リットはマグニの手を握るとブンブン振り回した。「友達が困ってんだ。なんとかしてくれ」
マグニは自分の手を握っているリットの手に、もう片方の手を合わせてうんうん何か考え始める。しばらくそうしていると、なにか思い付いたように顔を上げた。
「ちょっと待ってて! ハープを盗ったらダメだよ」
そう言ってマグニはリットを押しのけて川に飛び込む。そして、川の中から顔を出すと、もう一度「盗ったらダメだよ」と念を押した。
マグニがいなくなると、静寂がうるさく耳についた。マグニの下手くそな演奏を聞いたせいだろう。
「おい、大丈夫か? ノーラ」
「人魚が獲物を水の中に引きずり込む手段がわかりましたぜェ……。あーやって音波を出して船から落とすんスねェ……」
ノーラはそう言ったっきり、リュックから頭も出さずに死んだように黙る。
三十分程経ち、戻ってこないならマーメイド・ハープを持って行ってしまおうとリットが立ち上がると、ザブザブ豪快な音を立てながら川を泳いでくるマグニの姿が見えてしまった。
「待たせてごめんね! 持ってきたよ!」
川から上がったマグニは、ビタンビタンと尾ビレを地面に叩きつけるように移動してリットの前まで来る。そして、木製の棒をリットに渡した。
「なんだこれ?」
「知らない? 縦笛だよ。こうやって使うの」
マグニは木の棒の先端に口を付けると、息を吹き出した。水に濡れた縦笛は、ノーラがご馳走を目の前にして涎を吸う時の音のようにジュルジュルと汚い音を立てた。
「たて……ぶえ?」
「うん、縦笛! 今はこんなんだけど、乾かせばちゃんと音が鳴ると思うよ」
「……そうか」
「うん!」
元気に返事をしたマグニはリットの手を取って、改めてしっかり握手をした。




