第二十五話
霧が小雨に変わり、更に大粒の雨となったところで、馬車はヨルムウトルの正門に到着した。
稲光が雨雲をひび割れさせると、遅れて雷鳴が鳴り響く。
ジャック・オ・ランタンは馬と荷台を切り離すと、雷の音で怯え暴れる馬を抑えながら必死に手綱を引っ張って馬小屋へと誘導していた。
残されたヒッティング・ウッドが積まれた荷台を運ぼうと、リットが前から荷台を引っ張り、ローレンが後ろから荷台を押す。
車輪の音を軋ませながら、真っ暗なヨルムウトルの城の中へと入って行った。
「出迎えはないみたいだな」
リットは額の汗か雨かわからない液体を拭った。てっきり城に入ったら影執事が現れると思っていたのだが、一向に現れる気配がない。
しばらく荷台に寄りかかりながら待っていたが、一際強く雷が鳴り窓枠の影が床に映った。それを見てグリサベルの言葉を思い出した。『影執事は影。影が出来るところにしか現れることが出来ぬ。用があるなら明かりを灯してから呼べ』
ランプは持っているが、オイルが切れている。雷の一瞬の光だけでは影執事が姿を現すことは出来ないらしい。
どうやら雷の光を頼りに歩くしかなさそうだ。
「一旦ヒッティング・ウッドは置いていくしかねぇな。おい、行くぞ」
リットはローレンに声を掛けるが、ローレンは御者台に座ったまま動かない。
「ねぇ、リット。人間はどうやったら動かずに移動ができると思う?」
「ケツでも蹴飛ばしてやろうか? 猿みたくケツが真っ赤になる頃には、上の部屋に着いてるだろ」
「わかったよ……」
長旅に疲れ、虚ろ目のローレンは渋々といった具合に口を開いた。
ひび割れた壁の隙間から入ってくる雨風で滑る螺旋階段は、時折光の線が走り照らされる。
壁に叩き付けられる鈍い雨音と、靴底が大理石の階段で滑るキュッキュとした高い音が混ざり合い、静かな城内によく響いた。
最上階まで上りきると、壊れた壁のむこうから明るい空間が見えた。リットがそこを目指して歩いて行くと、グリザベルの後ろ姿が目に入った。
なにやら得意気に話して、ノーラを沸かせている。
「我の力があれば造作無きことよ」
王座に座るグリザベルの足元で小さな影が伸びていた。
「おぉ~っ、初めて見たっス」
「ほれ、踊れ」
グリザベルは腕をまっすぐに伸ばすと、糸操り人形を動かすみたいに指を動かした。リットから見えている影はワルツでも踊るかのように、ゆっくりと体を揺らし影を伸ばしたり縮めたりしている。
「やんややんやっス」ノーラは拍手をしながら、ふいに顔を上げた。「おかえりなさいっス、旦那ァ」
ノーラは更に少し顔を上げ、しゃがみこんだままひらひらとリットに向かって手を振った。
「オマエはいつでも楽しそうだな」
「そりゃ楽しいっスもん」
そう言ってノーラは、リットに向かって両手を伸ばした。手のひらは上に向いており、なにかを貰おうとしてる気持ちが伝わってくる。
「なんだ?」
「なんだじゃないっスよ。おみやげェ、おみやげ。何週間も会わなかったんですから、なにかあるでしょ」
「あるように見えるか?」リットは両手を軽く上げて、何も持っていないことをノーラに見せた。
ノーラは立ち上がると、リットの周りをうろつき始めた。後ろに回りこんでみたり、シャツの裾を捲り上げてみたりする。
リットが本当に何も持っていないことを確認すると、ノーラは頬を膨らませた。
「旦那だけズルいっスよぉ。自分だけ新しいシャツ買っちゃって」
「買ってねぇよ。汚れたから黒く染めただけだ」
ノーラはふくれっ面のままリットのシャツに顔を埋めると、わざと音を出して頬に溜まった息を吐き出した。
「……確かにいつもの旦那のニオイがしてますねェ。……というか汗臭いっスよ」
ノーラはシャツから顔を離すと、鼻を指で摘んで顔をしかめた。
「そりゃそうだろ。オレから花の匂いでもすると思ったか?」
「……男子三日会わざれば刮目して見よっていいますけど、旦那は何も変わっていやせんね」
「男子って歳じゃねぇからな」
「女の人はいつまで経っても女子なんスけどねェ。生命の不思議っスね」
「その謎を解明したら、世の女に嫌われるからな。――それよりなにやってんだ?」
リットは冷たい声でグリザベルに言った。
グリザベルの足元では、一匹の黒猫が人間のように踊っていた。
「ミスター・アンラッキーだ」グリザベルがふふんと鼻を鳴らして得意気に言う。
黒猫はグリザベルの手の動きに合わせて、片足を上げたり、ステップしたりしている。黒猫は機嫌が悪そうに「フシャー」と鳴くが、グリザベルはお構いなしだ。
黒猫は左足のつま先を右足の膝あたりまで上げると、右足を軸にして三回転した。そして回り終えると、リットに向かって深々と腰を曲げて礼をする。
「なにをやってんだ?」
リットは顔をしかめると、先程と声色を変えずに冷たい声で言った。
「そうか……。そんなに詳しく聞きたいか」グリザベルはそれは嬉しそうにニヤリと口角を上げる。「なぁに、やってることは影執事と変わぬ。魔法陣の術式を弄ってみただけだ。角形で安定させるのではなく、円を使い魔力の流れを増幅させ不安定にさせると面白いことが起きた。――小さき者なら意のままに動かせるのだ。――尤も――動かしているのは我ではなく、ヨルムウトルの亡霊だがな。……影が動けば、その影に合わせるように体も動く。ある意味、当たり前の道理とも言える」
グリザベルは得意げに話す。まるで歌うような調子で流暢だったが、リットが何も反応していないのを感じ取ると、短く息を切って肩をすくめた。
「……しょうのない奴だ。特別にヨルムウトルの秘密を見せてやろう。――我について来い」
グリザベルが手を引っ込めて立ち上がると、解放された黒猫は二度三度とこちらの様子を警戒しながら闇の中へと走り去っていた。
グリザベルに連れてこられたのは、王座の後ろにある寝室だった。
外壁は崩壊しており、雨水が土埃と混じりあって部屋は泥だらけになっていた。
グリザベルはねっとりとした粘着のある足音を鳴らしながら部屋の中央まで歩いて行くと、靴の底で床を擦って泥を払った。
特殊なインクで描かれた魔法陣は消えることなく、上の泥だけが払われている。
「これが影の母体となっておる」グリザベルはランプの明かりで、床の魔法陣を照らした。
円の中は複雑なものになっていた。図形と図形が合わさり新たな図形を作り、文字か記号かわからないものがそれを繋いでいる。
「今までは月と太陽を四芒星形で囲っておった。四芒星とは太陽神を象徴するものだ。元は夜のように暗いヨルムウトルを太陽の力でどうにかしようと思い、太陽の力を多く取り込む為に四芒星としたのだが……。立ち込める黒雲のせいで太陽は見えぬ。思ったような効果は現れなかった」
グリザベルはそこで一旦話を区切り、もったいぶるように口を閉ざした。
「……それでどうしたんスか?」
まんまとグリザベルの術中にハマり、興味を示したノーラの口をリットが手で塞ぐが既に遅く、グリザベルがこの上なく得意げな表情を浮かべた。
「能才たる漆黒の魔女の我にかかれば、絡みついた糸を解くよりも容易きことよ」
「そりゃいい」
リットの声は相変わらず冷たかったが、グリザベルはそれに気付いていなかった。
「そうだろう、そうだろう。そうだろうともな。ふははは!」グリザベルは体をのけぞらせて、上機嫌に高笑いを響かせた。「お主らにもわかるように説明してやろう」
グリザベルは胸元に手を突っ込み長く細い棒を取り出すと、先端を魔法陣に向けた。今にも説明しようと口を開いたところで、リットがグリザベルの細い肩を掴んだ。
「――その様子じゃ、当然ゴーレムの方の術式も解いたんだろうな」
グリザベルは、肩を掴んでいるリットの力が少し強くなったのを感じた。
「ふ、ふははは! その話をするには些か刻が掛かるな。むっ、また今度にしようではないか」
「些かなら問題ねぇよ。黙って聞いててやるから、一から十まで話せ。ほら――」
リットは急かすように顎をしゃくった。
「わ、我が正直に話しても、その……お、怒らないか?」
「いや、怒る」
グリザベルがこれから何を語ろうが、最初の一言で街灯のゴーレムのことで、大した成果がないことがわかった。そのせいでリットの声はより冷たく低くなった。
「……じゃあ、喋らないもん」グリザベルはリットから目をそらした。
「そうか」
リットの声がまた低くなったのを感じると、グリザベルは慌てて中指と人差し指をこすり合わせてパチンと鳴らした。
ランプで照らされ出来たグリザベルの影から影執事が出てくると、抱えていた黒猫をグリザベルに渡した。
「ほら、ミスターアンラッキーだぞ!」
グリザベルは黒猫の腋を両手で抱えると、リットに見せ付けるように腕を伸ばした。グリザベルに抱えられた黒猫は爪を立てて空中を引っ掻いている。
「さっき聞いた。良かったな不吉を知らせてくれて」
「ほ、ほらほら、にゃーん」
グリザベルは黒猫の右手を掴むと、手招きするように動かした。
リットは機嫌が悪そうに鼻を鳴らして黒猫を無視すると、床に置いてあるランプを拾い上げてノーラに渡した。
「オマエは影執事を連れて、一階の大広間にあるヒッティング・ウッドを雨風が入ってこない場所に移動しとけ」
「あいあいさーっス」
ノーラは素早く部屋を出て行った。
扉が閉まる音が聞こえると、リットはおもむろに口を開いた。
「オマエは猫で遊んでる暇があると思うか?」
「遊んでいたわけじゃないもん……。魔女の使い魔と言えば黒猫だもん」
グリザベルはギュッと黒猫を抱きしめて、黒猫の頭に顔をうずめるように項垂れる。黒猫は諦めたように腕を伸ばしてダランとしていた。
「どうでもいいんだよ。オマエの使い魔がカラスだろうが、カエルだろうが」
「そうだ! カエルならジャックという名前にしようと思ってな。わかるか? 元はオタマジャクシであってだな――」
リットがドンっと足で床を叩いて鳴らすと、グリザベルは体をビクッとさせて首をすくめた。
「――で、ゴーレムは結局止められるのか?」
「……うむ」
「返事の仕方が違うだろ」
「カァ……」
リットはグリザベルの肩から手を離すと、深々とため息を吐いた。
「帰って来るまでには、少しは進展してろよ」
「また、どこかに行くのか?」
「一旦家に帰るんだよ。ランプのオイルが切れたからな」
「少しなら城にも蓄えがあるぞ」
「妖精の白ユリのオイルなんてこの城にないだろ? アレがねぇと具合が悪くなる不便な体をしてる奴がいるんだよ」
「そういえば、ここ最近チルカが具合悪そうにしておったな」
太陽の光を浴びれないヨルムウトルで、妖精の白ユリオイルがないというのはチルカにとっては一大事だ。肉を食べればある程度大丈夫だが、それでも限界はある。
「口うるせぇのがいないと思ったら、やっぱり臥せってたか」
「ふっ、心配か?」
グリザベルがからかうような笑みをリットに向けた。
「……オマエはすぐ元通りになるな。ムカつくからしばらくガキの口調のままでいろよ」
「ガキということはなかろう!」
「なら、怯んでも偉そうな口調をつらぬけよ。仮にもいい年した大人なんだから。バブバブ言ってるのは間抜けに見えるぞ」
「そんな赤子言葉は使ってはおらん!」
「わかったわかった。んなことより、腹が減ったから飯を用意させてくれよ。離乳食じゃないやつを頼むぞ」
「わかっとらんではないかー!」
憂さ晴らしにグリザベルを存分にからかったリットは部屋に戻っていた。
短いロウソクに火をつけて、椅子に座り一休みをしていると、長いドレスを引きずるような音が聞こえてきた。
部屋の前で音が止むと、ノックもせずにドアが開いた。
「旦那ァ、忘れ物っスよ」
ノーラがローレンの足を持って引きずりながら部屋に入ってくる。
「捨ててあったんだ。元の場所に戻してこいよ」
「えぇー、螺旋階段までは遠いっスよ」
ノーラが手を離すと、ローレンの足は床に落ちて大きな音を立てた。
ローレンは一度唸ったが、すぐにまた寝息を立て始める。
慣れない長旅に加えて、帰りの馬車では御者台にずっと座っていたせいで、ローレンの疲れはピークに達しているようだ。
リットも疲れていたが、ローレンとは違い安馬車には慣れていたので、途中で力尽きるまではいかなかった。
「せめて廊下に置いておけよ。このままじゃ、ローレンと同じ部屋で寝るはめになるだろう」
「あとは旦那のお好きにどうぞ。私はここまで運んでくるだけで疲れましたぜェ」
ノーラはリットの向かいの椅子に座ると、老婆のようにトントンと自分の肩を叩いた。
「水浴びもしてない男が二人でいたら臭いだけだろうが」
「大丈夫大丈夫。一人でも充分臭いっスよ。……オークの臭いが移ったんじゃないっスか?」
ノーラのオークに対するイメージは相変わらずで、そんなイメージとは全く違うオーク達と出会ってきたリットは自然と笑みがこぼれていた。
「……旦那ァ、大丈夫っスか? これ何本に見えますゥ?」ノーラは心配そうな声を出すと、指を三本立ててリットの目の前で振る。
「なんでもねぇから、その短い指をさっさと引っ込めろよ」
「よかった。いつもの旦那ですね。いきなりニヤニヤするから、おかしくなったのかと思いましたよ」
「ただの思い出し笑いだ」
「思い出し笑いはスケベの始まりですぜェ」
「うるせぇよ。それより明日までに荷物をまとめておけよ」
「どっか行くんスか? あっ、マーメイドなんちゃらを探しに」
ノーラが小さなあくびをしながら言った。
「そういえば、それも必要だったんだな……。今回は家に帰って道具を揃えるだけだ。すぐにまたここに戻ってくる」
「よかったっス」
ノーラはホッとしたように言う。
「なんだ、ヨルムウトルが気に入ったのか?」
「そういうわけじゃないんっスけど……。ほら、家にいたら美味しい料理を食べられないじゃないっスか」
「安心しろ。家に帰ったら、野菜のスープでも作ってやるよ」
「それが嫌なんスよォ。また、ダメになりかけの野菜ばかりを使ったスープでしょ? 野菜のエグみたっぷりの……。絶対野蛮なオークの方がまともなもの食べてるっスよ」
「……オマエ鋭いな」
漆黒の国の魔女編の前編が終わりました。




