第二十四話
次の日の朝。太陽が東の空から顔を出してから数時間が経っていた。
黒灰と白灰が混ざった汚い焚き火跡からは、甘い匂いが漂っている。むせ返るように濃く、甘い香りだ。
その周りではオーク達が寝ている。打楽器として使っていたヒッティング・ウッドを枕代わりにして寝苦しそうにしていたり、寝返りを打ってコップを蹴飛ばしたりしているが、起きる気配はない。いつもならとっくに起きているハズの時間だが、夜通し騒いだ疲れが残っているのだろう。
ブヒヒとブホホを筆頭に、数人だけがいつもどおり朝から起きていた。
「せーノ! ――なんだナ」
ブヒヒのどこか気の抜ける掛け声に合わせて、馬車の中にヒッティング・ウッドが運び込まれていく。
馬車の幌は取っ払われていて、幌馬車ではなく荷馬車になっていた。余分なロープなど持ってきていないので、外した幌布を引き裂いて寄り合わせた物をロープ代わりにしてヒッティング・ウッドを固定する。
既にリットとローレンが座る場所など残っていないが、何本いるかわからないヒッティング・ウッドを運ぶためにはこうするしかなかった。
狭い御者台に、ジャック・オ・ランタンを間に挟んで無理やり座るしか無い。
リットはジャック・オ・ランタンの木で出来た体に、肘をぶつけながら御者台に乗り込んだ。
「もっとゆっくりしていけばいいんだナ」
荷を積み終えたところで、今更ブヒヒが寂しそうに言った。
「オマエらが全員童貞捨てるのを見守れって言うのか? んな過保護な奴は母親でもいねぇよ」
「そういうことじゃないんだナ……。――それに、もう童貞じゃないんだナ!」
ブヒヒは口元に余裕のある笑みを浮かべる。
「まだ、童貞だろ。上手くやれなかった男は、首元に赤紫の童貞の印が残るってな」
リットが自分の首元をトントンと人差し指で叩くと、ブヒヒは懸命に首を伸ばして自分の首元を確かめようとする。
「み、見えないんだナ! そんなに目立つんだナ?」
「嘘だよ。ただのキスマークだ。変に焦ると、童貞じゃなくても童貞に見えるぞ」
ブヒヒの首元にはキスマークだけではなく、噛み跡もくっきり残っていた。腕にもフェムト・アマゾネスに力任せに握られたと思われる三本線が赤く残っている。本人は気付いているのか気にしていないのかはわからないが、腕の跡を隠そうとはしていない。
「ビックリしたんだナ……。あの夢みたいな体験は、本当に夢かと思ったんだナ」
「白昼夢なら以前から見てただろ。――で、そっちはこれからどうすんだ? 嫁さん探しでも始めるのか?」
「まずは他の村との交易から始めようと思っていル」
答えたのはブヒヒではなくブホホだった。
思い立ったが吉日。アラスタンの絵画の贋作とスライムと共に忽然と姿を消したピッグノーズの代わりに、今はブホホが村長をしている。といっても、村長の肩書は代理であり、これからもしばらくは続くであろう脱童貞のお祭り騒ぎが終わってから改めて村長を決めるらしい。
「そりゃいい。他のオークからヒッティング・ウッドを手に入れるなんて一筋縄じゃいかねぇからな」
「また、村に来てくレ」
「この村にか?」リットは首を回して村を見回す。一番に目に付くのは村の入口にある二本の木の物見櫓。それから似たような家が数軒に、集会所となっている四方を椅子代わりに丸太で囲っている焚き火場。娯楽といえばお喋りと酒くらいのもの。酒もオークに似つかわしくない果実酒で、不味くはないが飽きが来る。「――たぶん二度と来ねぇよ」
「……そう言わズ」
「――僕はまた来るよ。靴の代金を返して貰いにね」ローレンが吐き捨てるように言う。
「それは必ズ。お金じゃなくていいならすぐに返せるのだガ……」
「現金以外は受け付けないよ。可愛い女の子を紹介してくれるなら別だけどね」
目を合わせて話そうとしないローレンに、ブホホが苦笑いを浮かべる。
「まぁ、色んな種族がいるし、物々交換も有効だけどな。人間相手には金を見せるのが一番手っ取り早えよ。人間と交易する気があるなら覚えとけ」
「あァ、覚えておク」ブホホは真面目な顔で頷いた。
「それから――女の怒りと男の不機嫌はどっちも急に爆発する。いちいち動揺して相手にしてたら爆風に巻き込まれるぞ」
「あァ、覚えておク」ブホホは、今度は「ふっ」と鼻から笑いをこぼしながら頷いた。
「じゃあな」
リットが一言いうと、ジャック・オ・ランタンは手綱をさばき、馬の背中で柔らかく鞭のような音をさせた。
馬は反応鈍く、のんびりと一歩一歩大地を踏みしめるようにして歩き出した。
背中でオーク達の別れの声を聞きながら、馬車は進んでいく。ヒッティング・ウッドを積んだ重さのせいで、ゆっくりした走りだった。歩くのより少し速いだけだ。
オークの村を出てから二時間。リットは太陽が真上に上るのを眺めていたが、突然体が浮くような感覚を感じると、お尻が何度も御者台にぶつかった。
「……おい、すこしはケツがある種族のことを考えて手綱を握ってくれよ」
リットは、御者台に座るというよりも浮いているジャック・オ・ランタンを見たが、ジャック・オ・ランタンはリットの方は見ずに真っ直ぐに前を見ていた。
乾いた鞭の音を響かせ、馬の尻を横から叩くと、馬は無理やり速度を上げた。道が悪いということもあるが、馬が走る速度が遅くなる度にジャック・オ・ランタンが鞭をしならせるので、御者台は揺れに揺れていた。
「なに急に急いでんだよ。雨が降るわけでもねぇし」
リットは御者台の縁を手でつかみ、振り下ろされないように歯を食いしばった。しかし、目の前に現れた太い木によって馬が急に前足を上げて止まったので、リットは御者台の縁に腹を打ち付けてしまった。
リットが咳き込んでいると、上空から声が聞こえた。
「あっはっは! また会ったさね」
ブリジットの声が聞こえてきたということは、現れたのは木ではなく足だ。ブリジットの足が馬車を通せんぼするように立っていた。
ジャック・オ・ランタンはわかりやすいほど頭を垂れて、ブリジットに見つかったこと嘆いていた。
「顔色が悪いねぇ」ブリジットは脳天気に言った。
「……おかげさまでな。二回目だな。オマエのせいで息が止まりかけたのは」
リットは嗚咽と咳を混ぜながら、からみつく痰を吐くような苦しそうな声を上げた。
「あっはっは! そんなの忘れたさね」
「……そっちは顔色が良さそうだな」
「おかげさまでね。我慢は体に良くないってもんさね」
ブリジットは艶の良い頬を手のひらでなぞりながら満面の笑みを浮かべているが、鼻の穴から思いっきり息を吐いているので、いつも通りの男のような下品さがあふれていた。
「ところでアンタ達はどこに行くんだい?」
「行くんじゃなくて、帰るんだよ。だからどけ」
地面に座り、すっかり話し込もうとするブリジットに向かって、リットはシッシと手を払った。
「つれないねぇ……」
「こっちはやることが残ってんだよ。オークとフェムト・アマゾネスの橋渡しなんてする予定なんてなかったしな」
「あっはっは! おかげで助かったさね。次の繁殖期まで、女同士慰め合うことはなくなりそうさね」
「そっちが一歩でも踏み込めば、一瞬で落ちる橋だと思ってたんだがな。オークは思ったよりも建築技術があったらしいな……」
「崩れ落ちた橋なんて気にせずに、フェムト・アマゾネスが乱暴に泳いで来たからだろうね」
ローレンが頬杖をついて、つぶやくように言った言葉は不思議とよく響いた。
「ありゃ、機嫌が悪いね。アタシなにかしたさね?」
「なにもしてねぇ時なんかねぇだろ。――まぁ、ローレンはアレだ。色男の色が褪せてきたんだよ」
「普通の女性ならもっと簡単にいってたよ! 相手が、男性器が付いてればそれだけで満足するようなフェムト・アマゾネスだから失敗しただけさ!」
ローレンが苛立たしく御者台の縁を叩く。
オークが童貞を捨てることには成功したが、ローレンの思惑は失敗と言っていい。それをまだ引きずっていた。
「あっはっは! 否定はしないさね。でも、アンタだって女性器がない女なんて嫌なんだろ?」
「まさかまさか――」
ローレンが余裕のある笑みを浮かべながら言葉を続けようとしたが、リットが間に割り込んだ。
「――こいつは乳がでかけりゃいいんだよ。フェムト・アマゾネスは下品過ぎて対象外らしいけどな」
「僕はミスティを愛しているんだ。キミ達とは違う」
「オマエ、影メイドのことを忘れるために、ヨルムウトルを離れてオレについてきたんじゃないのか?」
「僕はミスティと離れて、気持ちの整理をしにきただけだよ。巨乳、超乳、変幻自在の女の子を、僕が見逃すわけないじゃないか」
ローレンはリットに向かって「フンッ」と馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「アレが金とかに化けれれば便利なんだけどな」
「……キミは影を何だと思っているんだい」
「影に愛を語るオマエに言われたかねぇよ」
「愛とは、胸の重さと比例するものだよ。元がなにであろうとそれに変わりないさ」
ローレンは人差し指を立てると、チッチと舌を鳴らして左右にゆっくり振った。
「アンタ達も充分下品だと思うけどねぇ」
「もう会うことがねぇんだ。下品だろうがなかろうがどうでもいい。じゃあな」
リットが肘をジャック・オ・ランタンに当てて、馬車を出すように合図を送ると、ジャック・オ・ランタンは素早く鞭を打って馬を走らせた。
ヨルムウトルに近づくに連れて太陽の光は届かなくなり、青みがかった霧が立ち込め始めていた。息苦しさを感じる濃霧の中、ジャック・オ・ランタンのランタンの火がついたり消えたり、不規則に点滅している。
一寸先も見えないような真っ暗な山道は、馬車が進んでいるのかもわからずに奇妙な感覚だった。しばらく日差しの下で生活していたため、前よりもより峻険な山に感じる。
「ローレンの売り物の宝石でも道にばらまくか」
「なんのためにさ」
「ほんの気晴らしだ」
息苦しく暗い中、狭い御者台ではギスギスした空気が漂っていた。
長い山道も理由の一つだ。
ヨルムウトルがある山の中腹から反対側の山のふもとに来るまで五日掛かったが、反対側の山のふもとからヨルムウトルに戻るには更に日にちが掛かる。
上り坂が長くなるのと、ヒッティング・ウッドの積み荷の重さが原因だ。馬を休ませながら歩けば当然時間が掛かる。それと、今までなかった濃霧のせいで、道が少しぬかるんでるのも馬の足を遅らせる要因になっていた。
「キミこそ妖精の白ユリのオイルで照らしたらどうだい」
「ヨルムウトルを出る前に、チルカに全部取られたんだよ」
ジャック・オ・ランタンの持っているランタンは、城壁塔のてっぺんを切り取ったような形をしている。照明器具としてよりもインテリアとして使われていたようなもので、辺りを照らすというよりも、自分の居場所を知らせる為のような光だった。
リットが持ってきていた予備のオイルは過剰な休憩のせいで底をつき、ジャック・オ・ランタンの持つ頼りないランタンの光でヨルムウトルに着くまで我慢しなければならない。
「そういや、オマエのランタンのオイルってのは普通のオイルなのか?」
メノウの様な赤茶色の光は珍しいと、リットはランタンを持ち上げて観察しながら言った。
ジャック・オ・ランタンは首を横に振ると、自分の頭の中に片手を突っ込み、カボチャの内側にこびりついた種を剥がした。それをリットの手のひらにのせる。
「パンプキンシードオイルか。普通はこんな色に燃えないけど、ヨルムウトルに生えてるカボチャは普通じゃねぇもんな」
パンプキンシードオイルは、熟したカボチャの種を乾燥させて圧縮し抽出したものだ。
一般的には黒緑色をしたオイルだが、ランタンの中では炎の色と似た赤茶色のオイルが揺れていた。
炎からは甘く芳ばしい香りがしている。
ジャック・オ・ランタンがヒッティング・ウッドを気に入ったのも、木から甘い匂いがしていたからだった。
「こりゃいいな。今度作り方教えてくれよ」
リットの言葉にジャック・オ・ランタンは嬉しそうにコクコクと頷いた。
「カボチャのオイルねぇ」
ローレンは興味なさげに言った。
「この赤メノウ色に、この甘い匂い。娼婦の館に売れそうだろ」
「そう言われれば確かに……。雰囲気作りにはピッタリのオイルだね。僕にも作ってくれたまえ」
「作ってやるのはいいが、当然売り物だからな。金は払えよ。――種は乾燥させてあるんだろう?」
ジャック・オ・ランタンはツーンとそっぽを向いている。
「どうしたんだよ」
リットがジャック・オ・ランタンの顔を覗き込もうと身を乗り出すが、ジャック・オ・ランタンはカボチャ頭を回転させて真後ろに顔を向ける。
「オマエ、もしかしてシモネタ嫌いなのか?」
ジャック・オ・ランタンは応える代わりに、肯定するように馬車の速度を上げた。




