第二十二話
いつの間にかピッグノーズの家のテーブルに突っ伏したまま眠っていたリットは、ビクッとする筋肉の痙攣で目を覚ました。
まるで緊張しているかのように胃がキュキュッと伸縮している。
口臭が甘くなるほど果実酒を飲んだリットは、軽いのか重いのかわからない足をふらつかせながらピッグノーズの家を出た。
千鳥足で歩く地面は、綿を踏むように柔らかく感じる。前のめりに倒れそうになる体を思い切り反り、なんとかバランスを保つと、リットはしばらくそのまま体勢で喉仏を隆起させたまま空を見上げた。
羊が群がっているような雲の割れ目からは淡青の夏空が見えていた。
馬車の中にはジャック・オ・ランタンがいた。昨日と変わらないままの姿勢で、清々しい朝日に透かされて、陰鬱な影が幌に映っている。
リットは近寄り馬車の幌を軽く叩いた。手は幌の木枠に当たりコンコンと音を立てるが、ジャック・オ・ランタンが出てくることはなかった。
「飯食わないのか? ――って食えるわけねぇな」言いながらリットはまた幌を叩く。「いつまでも陰気臭くしてると、カボチャじゃなくてキノコになっちまうぞ」
リットが幌越しにジャック・オ・ランタンに話しかけていると、朝になっても帰ってこないリットを探しに来たブホホが小走りにやってきた。
「探したゾ。なにをしているんダ?」
「体を削られただけじゃ飽きたらず、へそまで曲げたらしくてな」
「そっとしておいてやレ。あまり言葉を掛けても逆効果ダ」
「相手の意思を汲み取るなよ。オマエはオークなんだから、馬車を壊して引っ張りだしてやれ! くらい言えないのか?」
リットが強めに馬車の幌を叩くと、ブホホはきょとんとした顔になった。
「何を言っているんダ? 馬車を壊したら、リットが帰る時に困るだろウ」
ブホホは馬車の幌を叩くリットの腕を掴んで止めると、同意を求めるように首を傾げた。
リットはブホホの視線に答えること無く、呼吸と変わらないくらいの小さなため息を吐いた。
「……わかったぞ。オマエらに足りないものが」
「なんダ?」
「イボだ」リットは言い切ると、自分の言葉に頷いた。「規則正しい生活をしてるから、肌にイボが出来ないし、性格も温厚になっちまってるんだよ。イボ汁とヨダレを垂らして、挨拶代わりに殴るような無作法者がオークらしさってもんだろ」
「……馬鹿なこと言ってないで、川に行くゾ」
ブホホは訳がわからないといったままの顔で歩き出した。リットもその後を釈然としない気持ちでついていく。
他のオーク達は既に川に着いており、それぞれ水を飲んだり顔を洗ったり思い思いに過ごしていた。
リットも川に手を入れて、水をすくい顔を洗う。酒のせいで乾いた体に水が染みこんでいくだけでさっぱりする。顔から水を滴らせたまま喉を潤していると、いつもと違うオーク達の雰囲気に気付いた。
大半のオークはいつも通りだが、何人かのオークは顔を洗った後に水浴びをしている。それ自体は珍しいことでもないのだが、服を着ている者が一人もいなかった。いつもなら服ごと川に入り、夏の日差しで乾かしているハズだ。今回はしっかり着替えまで用意してある。
「朝っぱらから泥遊びでもしてたのか?」
不思議に思ったリットは、耳の後ろを布で擦っているブホホに声を掛けた。
「昨日ローレンが話していただロ」
「知らねぇな……。オレの青あざの話はしたけど。早く治るように体を清めて祈ってくれでもしてるのか?」
「……違ウ。そノ……あのことダ」ブホホは言いづらそうに口ごもる。
「どれだよ。苔が生えて頭の中まで緑になってるオマエらに、ローレンがインチキ小石を売りつけようとしてる話か? それともぬるま湯に浸かってたオマエらが、ようやくちっぽけな自信を持ち始めたってことか?」
「両方違ウ……。というよリ、そういう陰口は本人には伝えないのが礼儀だと思うガ……」
「伝えたんだから陰口じゃねぇよ。ただの悪口だ」
「尚更タチが悪イ……」
「勃ちが悪いのはオマエんとこの村長だろ」
ブホホは呆れたように首を横に振ると、何度も川の水を顔につけた。
「……今日。……童貞を捨てル」
ブホホの消え入りそうな声は、しっかりとリットの耳に届いた。
「今日? この後か? なんでまたそんな急に」
リットは一応は言ったが、理由はしっかりわかっていた。女好きのローレンが二週間近くも男ばかりの村で生活をしている。最初は良かったのかもしれないが、意図しない禁欲生活の果て、人の性生活の面倒を見るのが限界に近づいてしまっているのだろう。
もっと言えば馬鹿らしくなったに違いない。洗脳に近い教鞭をオークに振るったのも、このことを見越してだろう。
「イキオイでいかないト、このままダラダラしそうダと言っていタ」
「まぁ、やる気になったならなによりだ。それが流されてるだけだとしてもな」
「いつも一言多イ……」
「我慢は体の毒だぞ。言葉も、酒も、女と寝るのも。どれか一つくらい自分に正直に生きろよ。まっ、どっかの王様はそれで国一つ滅ぼしたけどな」
「リットは酒ト、言葉……。二つは多くないカ?」
「理性が働いてりゃ何個でもいいんだよ。欲求がない奴なんて死人も同然」そこまで言うと、リットは立ち上がり尻についた土埃を払った。「――生き物なんてみんな子孫を残そうとするんだ。その結果、がっつくことになっても仕方ない」
リットは激励するようにブホホの肩を叩いた。
「……がっついたら嫌われないか心配していタ。少し心が軽くなっタ」
「あー、まぁ……オマエさんもそうだよな。そうだったそうだった。童貞だもんな。……がっつくこともある。そうだ、気にすんな」
フェムト・アマゾネスは多分がっついてくるぞと、リットは言ったつもりだったので、予想外の激励になってしまった。
ちぐはぐなリットの言葉に、ブホホ心配そうな顔をしている。
「やっぱり気が重くなったゾ……」
「フェムト・アマゾネスも、多少のことに目を瞑ればいい女達に変わりはない。オマエらだって、顔と種族が違えばいい男だよ。友達としては申し分ない」
「微妙な激励ダ……」
「オレが恋人にしたいって言ったら気持ち悪いだろ」
「違いなイ」
リットとブホホはひとしきり笑い合った。
川から村へと戻り、早めの朝飯を食べ終えブヒヒが一人、めかしこんだ姿で物見櫓の外側にいた。
他のオークはリット達を含め物見櫓の内側。つまりは村の中にいる。
ブヒヒは、お腹を大きくふくらませてゆっくりと深く呼吸を繰り返したり、しきりに肩を揺すったり持ち上げたりして落ち着かない様子だ。
オーク達はブヒヒに対して必要以上に明るく接したり、根拠の無い大丈夫という言葉を続けて言っている。
オーク達の励ましの言葉に混ざって、リットは渋い声でローレンに話す。
「行って帰って来るだけでも三、四時間掛かるんだぞ。まさか、一人ひとり送り出すつもりか?」
「効率は悪いけど、しょうがないんだよ。フェムト・アマゾネスの住処には家どころか、仕切りもないんだよ。そんなところに大人数で行って、気にせず出来ると思うかい?」
「無理だな……。他の男の尻を見ながらなんて、とてもじゃないが勃たねぇ」
「同感だね」ローレンは深く頷く。「女の子が何人いようが男は一人って言うのが、神様が決めたルールだからね」
「ずいぶん物分りの良い神様を崇拝してんだな。偶像崇拝なんてしてたら、悪魔に魅入られるぞ」
「僕を救ってくれれば、悪魔だろうが、偶像だろうが、偽物だろうがかまわないよ。出来れば女神様がいいけどね」
話が脇道に逸れたまま話し込むリットとローレンの間に、申し訳無さそうにブヒヒが割り込んだ。
「あ、あの……。オレはどうすればいいんだナ」
「フェムト・アマゾネスの住処に行きゃ、向こうがリードしてくれるだろ。馬の蹄か車輪の跡を辿ってけ」
真っすぐ行って右に曲がりまた真っ直ぐ歩けと、リットは手を伸ばし指を曲げてざっくりとフェムト・アマゾネスの住処までの道のりを教える。
「歩いて行くんだナ?」
ブヒヒは自分の履いている靴を見て言った。新品の靴を汚したくないし、ローレンにも出来るだけ綺麗な格好をしろと教えられていたからだ。
「残念ながらカボチャの馬車は、たとえガラスの靴を履いてても乗せたくねぇとよ。ったく……早く機嫌直さねぇと、こっちまで帰れなくなっちまう」
自分のことばかり考えて面倒臭そうに言うリットに対して、ローレンは優しくゆっくりとブヒヒを安心させるように言う。
「大丈夫。靴は汚れるものさ、ブヒヒ。女性に会う前に泥を落とせばそれでいい」
「さぁ、行ってくるんだ」とローレンが背中を押すと、ブヒヒは緊張で重い足取りで歩いて行った。途中何度も振り返り、その度に仲間のオーク達から激励の言葉が飛んだ。
ブヒヒの姿が見えなくなってからしばらく経つと、リットが体を伸ばしながら「よしっ行くか」と言った。
その言葉を聞いたローレンも首を回したりして軽くストレッチを始める。
「ブホホはブヒヒと仲が良かったね。一緒に来なよ」ローレンが軽い口調で誘った。
わけがわからないといった表情のブホホの背中を無理やり押すと、道ではなく森の中へと入っていった。
リットとローレンが羽虫を手で追い払いながら、腰を屈めて歩くと、ブホホもそれに習って腰を低くして歩く。敵に見つからないように注意深く歩く兵士のようだった。
「何をしているんダ?」
たまらずブホホが聞いた。しかし、雰囲気に流されたのか小声だった。
「ブヒヒの後をつけてんだよ」
リットの声は普通のトーンだ。そのせいで、ブホホは疑問の表情を強くした。隠れているわけではなさそうだと普通に立ち歩こうとすると、ローレンがブホホの腕を強く引っ張った。
「何をしているんだい。ブヒヒに見つかるじゃないか」
「やっぱり隠れていたのカ……。それならば声も潜めた方がいいんじゃないカ?」
ブホホは小声を変えることなく言った。
「もうちょっと近づいたらな。フェムト・アマゾネスの住処に着くまで二時間以上掛かるんだぞ。身を潜めた上に声まで潜めるなんて、発狂しちまうだろうが」
「それならば、途中まででも一緒に歩いてあげるべきダ」
立ち上がろうとするブホホの腕を、今度はリットが掴んで引いた。
「あのなぁ、これからブヒヒは一人でやらなきゃいけないんだぞ。それとも一緒に仲良く童貞捨てる気か?」
「……それはイロイロと恥ずかしいから無理ダ」
「だろ。ブヒヒは今、どうやってフェムト・アマゾネスの門をこじ開けようか考えてるんだ。ここでオレらが行ってやいのやいの言葉を掛けると、ブヒヒに言い訳を作るきっかけを与えちまう。成功するにしても失敗するにしても、こういうのは自分で考えて行かなきゃいけねぇんだよ」
「その通り。だからこそ僕も、女性との接し方は教えても抱き方は教えなかったんだよ」
「まぁ、向かってる先は開きっぱなしの門なんだけどな」
リットが言い終えると、直ぐにローレンが続けた。
「――先陣を切るというのは、確かに孤独で心配なものだよ。それを隠れて見守るのが親心ってやつさ」
「……本音はなんダ?」
ローレンがわざとらしい笑顔を浮かべてしまったせいか、ブホホにすぐ嘘だと見ぬかれてしまった。
リットはしょうがないといった具合に頭を掻くと、本音で話し始めた。
「こういうのはお決まりなんだよ。なぁ、ローレン」
「失敗すれば全力で冷やかす。成功すれば全力で讃える。男の友情ってやつだね」
「成功すればいいガ、失敗した上にその仕打ちは死にたくなりそうダ……」
「一人でウジウジしながら二時間も歩いてみろよ。それこそ、村じゃなくて奈落行きになっちまうぞ」
ブホホは想像したのか、リットの言葉に深く頷いた。
「まっ、ブホホ、オマエさんの時は腫れ物に触るように接してやるよ」
「前言撤回ダ。その方が死にたくなル。と言うより、イロイロとフェムト・アマゾネスの話をしていたガ、そういう情報はオレ達に隠そうとしていたんじゃないのカ?」
リットは「実験台一」とブヒヒを指すと、その指を今度はブホホに向けた。
「実験台……二……」ブホホは自分の胸辺りをゆっくり指した。
「そう。先入観が消えたまんまと、残ってるの、どっちが上手く事が運ぶわからねぇからな」
「二番目の方が精神的にキツイゾ……」
「いいじゃねぇか。わからず襲われるよりも、わかってて襲われた方が童貞捨てる覚悟が決まるだろ。それに、そんなオマエにだけ教えられる情報がある。青髪のフェムト・アマゾネスはやめとけ」リットはズボンを脱がされたことを思い出して、恨みがましい瞳になった。「あと黒髪も緑の髪もダメだ」
「わかったからリット、その辺で」このままじゃ全員を拒絶しそうなリットを止めると、ローレンはブホホに向き直った。「この裏情報を流したら、そのスイカみたいな腹を叩き割って、中の真っ赤なスイカの身を飛び散らせることになるよ。いいね?」
「フェムト・アマゾネスが関係していない本音は隠して欲しいゾ……」
ブホホは着心地が悪そうに黒い服の襟を正した。
それから二時間ほど経ち、ブヒヒの背中が見える距離まで近づいた三人は声を潜めながら歩いていた。
「やっぱり、少し急ぎ過ぎたんじゃねぇの?」
思ったよりも重い足取りのブヒヒを見てリットが心配そうに言った。
「……僕はね」ローレンはおもむろに口を開く。「二週間も女性の匂いを嗅いでないのは初めてのことなんだよ」
「フェムト・アマゾネスに会っただろ」
「いいかいリット。女性というのはね。まず第一に胸が大きい。第二に甘くて芳しい匂いを放つ。第三に――」
「いいって女の講釈は。言ってることがオーク達とあんまり変わんねぇじゃねぇか」
「童貞と一緒にしないでくれたまえ。彼らのは食わず嫌い。僕は美食家なんだよ。食べた上で好きなモノを決めることのどこが悪いって言うんだい?」
「どこって、頭しかねぇだろう」
「なっ――」とローレンが大声を上げたが、ブヒヒが気付くことはなかった。先にフェムト・アマゾネスの姿が目に入ったからだ。
ブヒヒが慌てながら一礼をしようとした時だ。絹を裂くような悲鳴ではなく、麻布が破ける鈍い音が響いた。
染め直して少し小さくなった服は、緊張で強張り盛り出た筋肉のせいで破けてしまった。
ブヒヒの緑の身体がさらけ出される。
モロ出しの陰部を隠す暇なく、フェムト・アマゾネスの手がブヒヒに伸びた。
「なんだい。話が早いじゃないか」
緑の髪のフェムト・アマゾネスは満面の笑みを浮かべると、ブヒヒをひょいっと持ち上げ小脇に抱える。
ブヒヒはせめて陰部だけでも隠そうと身を捩るが、緑の髪のフェムト・アマゾネスは何故か嬉しそうな顔を浮かべた。
「元気だねぇ……。あっちの方も元気だといいけど」緑の髪のフェムト・アマゾネスはブヒヒの陰部を観察しながら言った。「アンタのはずいぶん大きそうだね。どんなお宝を隠しているんだい?」いつものような馬鹿笑いではなく、艶やかな笑みを浮かべた。
辱められたせいで、ブヒヒの緑の顔が真っ赤に染まっている。あまりのことに逃げ出そうと暴れてみたが、フェムト・アマゾネスは気にせずブヒヒの頭を撫でた。
「大丈夫だって、男は痛くないから。私に任せとけば、アンタは天国で男になれるんだ」
緑の髪のフェムト・アマゾネスはブヒヒを抱えたまま、興奮が抑えきれないのか自分の服を脱ぎ散らかしながら住処の方角へと走っていった。
リット達は裸の二人を見送り、しばし呆然としていた。
「あーあ、こりゃダメだ。フェムト・アマゾネスの発情期はピークっぽいし、ブヒヒは一言も喋らず連れて行かれちまった。こりゃ、冷やかした方が死ぬな」
リットがこめかみ辺りを人差し指で掻きながら言うと、ローレンもため息を吐いて同じようにこめかみを掻いた。
「……帰って作戦の練り直しだね」
村に帰ろうとする二人の後を、ブホホが声にならない声を上げながら追いかけてきた。
「ちょッ! まッ!」
ブホホは足をもつれさせながら、リットの服を懸命に掴む。
「オマエまで帰ろうとしてどうすんだよ。ブヒヒが開放されたら、次はオマエの番だろ」
「オレは……アレを見て行けるほど勇者じゃなイ……」
ブホホはがっしりとリットの服の裾を掴むと、何度も首を横に振った。
「オマエら……。我慢出来ずに女を襲うよりも、我慢出来ずに男と寝る日の方が早いかもな」
リットの皮肉に、ブホホが反応することはなかった。




