第二十一話
炎に焼かれるような夏の日差しを受けて、大汗が吹き出す。人工物の一つもない森の香りを混じらせた風が、寝転がったリットの体を通り抜けていく。
リットは香りを楽しむ暇なく、何度も木板に体を打ち付けられていた。
「もう少し荒っぽくなく走らせられねぇのか?」
リットは体を少し起こしながら言った。しかし、言葉に答える者はいない。リットの目の前にはジャック・オ・ランタンただ一人。
話すことが出来なくても、身振りや手振りを使ってコミュニケーションを取ることが出来るが、ジャック・オ・ランタンはリットの言葉なんて聞こえていないとでも言うように、ただ真っ直ぐ前を見ている。
「……だから、椎の木で妥協しとけばよかっただろ」
リットは、一夜が過ぎても拗ねたままのジャック・オ・ランタンが走らせる馬車に乗り、オークの村へと向かっている途中だった。
ジャック・オ・ランタンはぐるりと深くマントを巻いている。見るからに日差しを吸いそうな黒いマントは、決してはだけることはない。マントの端を溶かした蝋でしっかりと固めているからだ。
ジャック・オ・ランタン自体は暑さを感じることはないが、その姿を見ているだけで体感温度が上がりそうだ。
身になる木には何かこだわりがあるらしく、リットがいくつか見繕ったものの、ジャック・オ・ランタンは身体を変えることはなかった。そのせいでマントの下はブリジットに削られたままの形状をしている。
馬車の速度はそのままジャック・オ・ランタンの不機嫌さを表していた。外は無風だが、風が吹き抜けるほどの早さで馬を走らせている。
リットが床板にぴったりと背中をくっつけていても、車輪が小石や木の根を踏み越えていく度に身体が大きく跳ねる。
リットの「ぐえっ」という蛙が出すような苦しそうな声が聞こえても、ジャック・オ・ランタンは手綱を締めることはない。
「面倒くせえ拗ね方しやがって……。オマエはガキか」
ジャック・オ・ランタンはリットの言葉に返事を返さないが、代わりに馬車の速度を上げた。
身体のあちこちは床にぶつかるが、一時間と少しくらいでオークの村には着きそうだ。
「そこの小川を左だ」
リットの指示通り左に曲がったが、馬車の速度は緩むことはなかった。曲がる時に馬車は大きく揺れ、リットは側面に思いっきり頭をぶつけることになる。
ジャック・オ・ランタンは浮いているので、お構いなしに馬車を揺らす。リットは文句を言おうと口を開くが、その度に舌を噛みそうになるので、諦めて揺られるがままになっていた。
道も広がり、馬車の揺れも安定してきた頃。遠くに背の高い二本の物見櫓の木が見えてきた。その木の間を抜けてオークの村に着くと、馬車が珍しいのかオーク達がわらわらと寄ってきた。
後ろからローレンが歩いてくるのに気付くと、オーク達は誰が言うまでもなく互いに距離を取って道を作った。
「オマエはいつから豚山の大将になったんだ?」リットは馬車から顔だけを出して言った。
「それだけ尊敬されてるんだよ。キミと違ってね。それより、フェムト・アマゾネスには話を通したんだろうね?」
リットは下を向くと、後ろ頭をポリポリ掻く。掻いていた手を止めて、そのままの形で自分の頭をリズム悪く二回軽く叩いた。
「まぁな」
「……その変な間が気になるけど、大丈夫なのかい?」
「育ちの良いお嬢様には出来なかったけど。まっ、どうにかなるんじゃねぇの」
「そうかい。とにかくおかえり。ジャック・オ・ランタンも見つかったんだね」ローレンは御者台にいるジャック・オ・ランタンの元まで歩いて行くと、同じく「おかえり」と言った。
しかし、ジャック・オ・ランタンはローレンに顔を向けることはなかった。
「拗ねてんだよ、そいつ。フェムト・アマゾネスに燃やされそうになるところを助けてやったのによ」
言いながらリットが馬車から降りると、外にいるオーク達がどよめき出した。
リットがわけもわからず立ちすくんでいると、ローレンがリットの襟を掴んで慌てて馬車の中へと押し込んだ。
「キミ! そんな傷だらけで帰ってきて一体どういうつもりだい?」
「しゃーねぇだろ。ジャック・オ・ランタンが、こっちのことなんかお構いなしに森道を飛ばしやがったんだから。なにか問題あるのか?」
リットは馬車にぶつけて腫れた頬を押さえる。熱を持った頬がジンジンと痛む。確かめてみると、腕にも大きな青あざが出来ていた。この分だと脛や背中にも出来ていそうだ。
「よく考えてみなよ。フェムト・アマゾネスの住処に行っていたキミが、そんな青あざだらけで帰って来るんだ。どう考えても、フェムト・アマゾネスに乱暴されたと思うだろ? せっかく僕がフェムト・アマゾネスに対する恐怖心をオーク達から取り除いたのに、また怖がることになるじゃないか」
ローレンはリットの胸ぐらをつかむと何度も揺らした。
「緑の肌をしてる奴らだぞ。ところどころ青い肌してる奴にいまさら驚かねぇよ。それより、本当にオーク達は大丈夫なんだろうな。そのうざったらしい前髪の手入れで、オークに教える時間がなかったとか言うなよ」
「問題はそこだ」ローレンは重々しく言うと、今までよりも更に声を潜める。「彼らは自分に自信を持ち始めたのは間違いない。今でなら道行く女性に声だって掛けられる」
「そんなのはガキだって出来ることだろ」
「キミにだって子供の頃があったからわかるだろ? 思春期の来てない子供なんて犬と一緒だよ。誰かれ構わずワンワン吠えるようなね。自制が利く分オーク達の方がマシだよ」
「オマエはガキが嫌いだったか?」
「嫌いだよ。自分のことを世界一カッコイイと勘違いしてる男と、ナンパを邪魔する存在は――」そこまで言うと、ローレンは首を横に振った。「違う違う。今はそんな話はどうでもいんだ。僕が言いたいのは、思春期を過ぎてから自分を変えるのは大変ということだよ」
ようやくローレンは、リットの胸ぐらから手を離した。
リットは伸びたシャツの首元を直すために肩布を引っ張り軽く整えると、馬車の壁に背中を当てて寄りかかった。
「結局ほとんど変わってないわけだ」
「これでもずいぶん苦労したんだ。余計なことを考えないように思想を縛ったりしてね」ローレンはポケットから何の変哲もない小石を取り出す。「キミにはこれが何かわかるかい?」
リットは小石を手に取っ手眺める。よく見てみても、色も、形も、大きさも、何も変わったところはなかった。
「何かの宝石の原石か?」
「いいや、このオークの村に落ちているただの小石だよ。でも、これが彼らにとって勇気の石になる。一つも持てば厄を払い。二つ持てば長寿になる。三つ持てば世界を変えられる」
ローレンは握りこぶしを作ると、「一つ」で人差し指を開き、「二つ」で中指、「三つ」で薬指と順番に一本ずつ開いていった。
「……宝石屋なんて辞めて、宗教でもひらけよ」
「今の彼らの自信は小石で支えられているようなものだ。キミの怪我一つ見たら吹き飛ぶくらい小さなね」
「相手は大岩も壊すようなフェムト・アマゾネスだぞ。そんなちゃっちいものに支えられてる自信なんて、向こうが歩いてくるだけで転がってどっかいっちまうっつーの」
リットがグッと腕を伸ばしてあくびをすると、今まで無風だった森を通り抜けるように強い風が吹いた。すると再び馬車の外でオーク達がどよめき始めた。
「今度は一体なんだって言うんだい」
ローレンが馬車から身を乗り出すと、突然何かに視線を塞がれた。あまりに突然のことに、ローレンは蛇に絡まれたかのように暴れる。顔から払い落ちたのは黒いマントだった。地面に動物の死骸の様に落ちている。
「で、でかいんだナっ!」ブヒヒの驚愕の声が響く。
それを皮切りに、他のオーク達も同じように驚愕の声を上げる。
オーク達は皆一様に口をあんぐり開けて御者台の上を見上げていた。
ローレンは再び胸辺りまで身を乗り出すが、オーク達が見ているものの影しか見えず、さらに腰辺りまで身を乗り出した。
影の正体を見るとすぐに身体を引っ込めると、馬車の壁に背中を付けてガクリと頭を垂らした。
「ずいぶん立派だけど。……あれはキミの趣味かい?」
ローレンの声は、まるで葬式のような声だった。
何のことかすぐに検討がついたリットは胡座をかいた膝の上に肘を立てて、頭を抱えたまま動かない。馬車の外を見なくても、ジャック・オ・ランタンのことだとわかっていた。
「んなわけあるか……」
「あんなのを見たら男として自信をなくすだろう!」
ローレンは壁越しにジャック・オ・ランタンがいる方角を指差した。
「文句ならブリジットに言えよ。あれが理想の形なんだとよ」
「ありがたい助言だね。フェムト・アマゾネスと付き合うことがあったら、花束の代わりに丸太を持って行くことにするよ」
ローレンは馬車から飛び降りるとマントを拾い馬車に投げ入れ、オーク達に散るようにと手を払ってみせた。
「おい、カボチャ。前進だ」
リットは顔だけだして、ジャック・オ・ランタンにそう伝えると、馬は悲鳴のような鳴き声を上げて馬車を大きく揺らした。
ピッグノーズの家に着いたが、ジャック・オ・ランタンは家に入ること無く馬車の中に引きこもっていた。窓にも幌を下ろし、暗い馬車の中で自分のランタンの明かりだけをジッと見つめている。
「おーい、中に入んねぇのか? んなところにいたら、またカボチャの中が腐っちまうぞ」
リットはジャック・オ・ランタンに声を掛けるが、幌に透けて映るジャック・オ・ランタンの影は動く気配はない。
待っても返事が返ってこないので、リットは一人ピッグノーズの家に入る。
家の中では、ピッグノーズがアラスタン絵画の贋作を眺めているところだった。
「昼間から眺めるようないい女でもないだろ」リットは雨よけ用の長袖の上着を羽織りながらピッグノーズに声を掛けた。
「生き物に必要なのは言葉ではなく。……心なのじゃろうな」
ピッグノーズから返ってきた言葉は、答えではなかった。
「そこのお嬢さんに必要なのは、紙と絵具だけどな。それに必要ないのは服」リットは勝手に棚を漁り、果実酒の入った汚れた瓶と木のコップを手に取り椅子に座る。
「……わかっとる。わしを愚かだと思っておるのじゃろ。おなごから遠ざかり暮らすわしを見て」
「思ってねぇよ。遠くなったのは耳だろとは思ってるけどな」
「その通り。わしは世間一般から見れば負け犬と呼ばれるじゃろう。――だが、わしとて何もしていなかったわけではないのじゃ」
「人の話を聞かねぇところまで、犬そっくりだ」
リットは瓶に入ったイチイの実を口に放り込むと、コップに注いだ果実酒で流し込んだ。
ピッグノーズは会話を噛み合わせる気はないらしく、淡々と自分語りを始める。
「わしがこの村を作っている最中は、失意と絶望が渦巻いておった。しかし、思ったよりも傷が癒やされるのは早かった。わしを慕ってくれる若いオーク達の面倒を見ている内に、頑張るという気持ちが湧いてきたのじゃ。そう、勃たなくとも心を奮い立たせるのには充分じゃった」
「……いいから話を進めろよ」
「気付けばスライムちゃんという家族も増えた。そしてスライムちゃんを愛でている時に、ふと気付いたのじゃ。この感触はおなごの胸と似ているのではないのかと。そして、同時に思った。傷付いた言葉を胸の奥底にしまい、鍵を掛けただけだったのじゃ。――聞いておるかの?」
ピッグノーズは指の先でテーブルを叩き、イチイの実の種をテーブルに並べて模様を作っているリットに聞けと合図を送った。
「聞いてるよ。スライムを乳と思って触ってたんだろ」リットは、テーブルの上で寝ているように動かないスライムをつまみ上げると自分の胸に合わせた。最初は形を保っていたスライムだが、時間が経つにつれて垂れ下がっていき、最終的にはリットの膝の上に落ちてしまった。「でもよ、こんな腹に付くような垂れ乳をしてるのは婆さんだけだぞ。――まぁ、ジイさんには似合いだな」
「……まぁよい。再びの失意がわしを襲ったが、新しい環境で前向きになっていたのじゃろう。あることを悟ったのじゃ、傷付けたのが女性なら、その傷を癒やすのも女性だということを」
「その歳まで傷ついたままだったら化膿してるだろ。もう、生身の女は無理なんじゃねぇか?」
リットは壁に掛けられた絵を見ながら言った。
「そうじゃ、わしを癒やすのは生きている女性ではないのじゃ。ポルターガイストを知っておるかの?」
「ゴーストだろ。勝手に物に乗り移って誰かれ構わず驚かす暇な奴ら」
「そう。そのポルターガイストを探す旅に出ることを決めたのじゃ」
「まさか、ポルターガイストをその絵に乗り移らせようなんて、このコップよりも浅い考えじゃねぇだろうな」
リットがコップを持ち上げながら言うと、ピッグノーズは頷いた。
「ただの水がスライムコアがあるだけでスライムになるように。この世の可能性は無限大なのじゃ」ピッグノーズはリットの膝からスライムを持ち上げて抱きかかえると、寂しそうに目を細めた。「おそらく……。今回のことでオーク達は新しい道を進むじゃろう。たとえ童貞のままであってもじゃ。わしがこの村を作ったように、オーク達は新しいことを始める。そんな時にわしのような者がおってはならん。わしは別の新しい道を歩かねばならん。老兵はただ消え去るのみじゃ。……すまんのう。いきなりこんな話をして」
「かまわねぇよ。人の笑える不幸は酒の肴にぴったりだ」
「不幸ではないぞ。新たな門出じゃ!」
ピッグノーズは棚からコップを取るとコップに果実酒を注ぎ、乾杯するように手を差し出した。
「だって、揉む乳がないからスライムをペットにして、この世の女と上手くやっていく自信がないからあの世の女を迎えに行くんだろ? 悲恋歌を好んで歌う吟遊詩人だってネタにしないような話だぞ」リットはピッグノーズのコップに自分のコップをぶつけた。「まっ、ジイさんが志半ばでくたばってポルターガイストにならないようには祈っといてやるよ」
「お主は、若いのにずいぶん捻くれとるのう……」
「育ちの家は酒場だからな。酔っぱらいの茶化し合いを見て育てばみんなこうなる」
リットはもう一度ピッグノーズと乾杯すると、コップの中の果実酒を一気に流し込んだ。




