第十三話
リットが自分のくしゃみで目が覚めたのは朝方だった。
太陽に照らされた空の雲に、まだ紫がかった夜の色が残っている。
固い丸太のテーブルから体を起こすと、ローレンのマントが体から落ちた。
「やっとお目覚めかい」
膝を抱えて座っているローレンが言う。
眠そうな声のとおり、寝不足な顔つきをしていた。うっすら浮かぶ目の下のくま。目つきには不満の色もにじみ出ていた。
「朝から機嫌が悪いな」
リットはボサボサの頭を掻きながらあくびをする。首筋の寝汗を手で拭いて、そのまま腕を触ると、やたらベタついていた。馬乳酒のせいだ。そのまま寝たせいで、体全体から乳臭い匂いがしている。
「よく寝ていられるよ……こんな状況で。うるさいったらありゃしない」ローレンが耳を両手で覆った。「とても女性が発してる音とは思えないね」
嵐の風のような、獣の唸り声のようなイビキがそこらかしこで響いている。リット達がいるテーブルに突っ伏しているブリジットも、豪快にいびきをかいて気持ちよさそうに寝ていた。鼻息か吐息かわからないものがリットの体をくすぐる。
リットは皺になった服を着ると、体に掛けてあったマントをローレンに投げて渡した。
しかし、ローレンはそれを受け取ることはなかった。マントは風の抵抗を受けて、リットとローレンの真ん中辺りで下に落ちた。
「僕は今……すごい後悔をしているよ……。キミの体液が染み込んだマントを着る気にはなれないね」
「怒りてぇところだけど、オレも逆の立場だったら同じ気持ちだな」
リットはテーブルの端まで歩いて行き下を覗く。
高さはある、飛び降りれないほどの高さではない。
フェムト・アマゾネスの住処でよかった。別の巨人族の住処だったならばテーブルから下りるのも無理だっただろう。
テーブルの柱の横には、ブリジットが寝ている間に落としであろう木の皿と牛の骨が落ちている。
リットが地面に飛び降りたところで「どこに行くんだい?」と、ローレンが声を掛けた。
「食い物を漁りに行くんだよ。腹が減ったからな」
「待ちたまえ、僕も行くよ」
そう言ったローレンだが、なかなかテーブルの上から下りてこない。
「来るなら早くしろよ」リットは苛立たしげに何度も地面を踏みならしながら、テーブルの端で立ちすくむローレンに言った。
「急かさないでくれ、結構高いんだよ」
「立ってるからだろ。頭の位置がプラスされてるだけ高く見えるんだよ。テーブルに体を付けて下を見てみろって」
「こうかい?」
ローレンは、リットに言われたとおり体の前面をテーブルにつけて地面を見た。それだけでずいぶん地上が近づいたように見える。
「あとは、そのまま頭から落ちりゃ完璧。あっという間に地面だ」
「なるほど。……って、そんなわけあるかい!」
ローレンは、リット目掛けて蹴るような格好でテーブルから飛んできた。
リットは避けることなく立っていると、飛び降りたローレンが右横で尻餅をついた。
「もっと早く来いよ。情けねぇ。二階の窓から飛び降りるようなもんだろ」
リットがからかうように言うと、ローレンは少しむっとした顔になり、痛そうにお尻をさすった。
「普通は二階から飛び降りるようなことはないんだよ」
「下りられたんだからいいじゃねぇか。それよりカボチャは?」
リットは辺りを見回したがジャック・オ・ランタンの姿はなく、当然馬車も見当たらなかった。
「さぁね。一緒には連れて来られなかったみたいだよ。夜になっても見かけなかった」
ローレンは記憶を思い出しながらゆっくりと言った。
ブリジットと出会う前までは確かに居たが、ブリジットの手に握られていたのはリットとローレンの二人だ。
離れたとしたらそこだろう。追いかけてきた気配もなく、夜になってもジャック・オ・ランタンのランタンの光はなかった。あったのは丸太に切込みを入れて中心に火をつけた松明だけで、それがロウソクのように燃えているだけだった。
「ヨルムウトルにでも帰ったかな。でも、アイツがいてくれりゃな……」
リットは木と木の間に張られているロープに吊るされた肉を見て言った。
木に登り、ロープをつたい、なんとか肉の元までは辿り着けそうだが、足場の不安定なロープの上で食べられるサイズに肉を切り分けるのは一苦労しそうだ。
「あっちに木の実がなってるのが、テーブルの上から見えたよ」
ローレンが指を差した方には桑の木があった。葉々の隙間からドドメ色の桑の実が見え隠れしている。
高いところにある桑の実は、フェムト・アマゾネスが摘んだせいでなくなっているが、そのおかげでリット達が取りやすい低い位置に生っている桑の実ばかりが残っていた。
リットは手で乱暴に取り、ローレンは服に汁が付かないように慎重に食べ進めていった。
熟した甘い味と、熟しきっていない酸っぱい味。どちらとも唾液を分泌させる。お腹いっぱいまでとはいかないが、ある程度の量を食べて満足した。
リットは落ちている木のコップを裏返して、椅子のようにして座った。
「まるでチルカになったみたいだな」
テーブルに座る、コップを椅子代わりに、どちらも良く見る光景だった。まさか自分が体験すると思わなかったリットは、薄ら笑いを浮かべる。
「チルカか……。ついて来なかったのは正解かもね。僕たちは大丈夫なんだろうね?」
ローレンもコップを裏返すとそれに座り、リットに心配そうな目を向けた。
「なにがだ?」
「オークだよ。オーク。女性は言わずもがなだけど、男の僕たちはどうだい? いきなり殺されるってことはないのかい?」
「オークなら大丈夫だろ。頭の悪いトロールと違って、話し合うことは出来るんだから。行ってみりゃわかるだろ」
リットの楽観的な言葉に、ローレンは大げさにため息を付いて聞かせた。
「キミは昔からそうだ……。面倒くさがりの癖して、好奇心が強いというか、考えなしというか……。とにかくたちが悪い」
「グダグダ言うならついて来なけりゃよかっただろう」
「愛は離れてこそ育まれるものなんだよ」
「なんだ、本当にあの影に惚れたのか?」
女性とのうわさ話が事欠かないローレンだ。惚れた、惚れられたの話は珍しくないが、今回は相手か違う。一応は女性ということになっているが、ミスティは性別が曖昧な影だ。それに、形はあれど死んでいる。
ローレンは困ったように笑い。「さぁ」とだけ答えた。
「オマエは……。いよいよなんでもありになってきたな」
「なんだい、いよいよってのは! 男が女性を好きになるのは自然なことじゃないか!」
ローレンの声が一際大きくなると、テーブルに突っ伏している岩山のような背中が動いた。
「朝でも昼でも夜でも、賑やかな二人だねぇ」
ブリジットは起き抜けにあくび混じりに言った。両手をうんと高く上げ体を伸ばすと、左手は頭の後ろに、右手は下ろしてお尻をボリボリとかき始めた。
「少なくともミスティは、あの女よりも女らしいよ!」
ローレンは真っ直ぐ手を伸ばして、人差し指でブリジットを指した。女性は清純で清楚でしとやかに、なんて理想をもっているわけではないが、ひと目を気にしない無作法なブリジットには露骨に嫌悪の目を向けている。
「ん? なんだい?」いきなりのことにブリジットは目を丸くした。
「屁さえこかなきゃ、まだ取り返しはつくぞ」
リットはブリジットのお尻に目を向けていった。
「あっはっは!」ブリジットはひとしきり大笑いすると、お尻をかいていた手を引っ込めた。「そういうことかい。悪かったね、女ばかりの生活が続いたらみんなこうなるさね」
「下品で粗暴で、僕の一番嫌いなタイプの女性だ……」
そう言ってうんざりとした顔をしたローレンの横で、ブリジットの大足が地面を揺らす。
大地を踏む音と、風を切る音が同時に聞こえた。
「わっ! ごめんなさい!」
ローレンの言葉はブリジットに届いたはずだが、ブリジットは無視して面倒くさそうに頭をかいた。
「また来たかい」
ブリジットの肩には、刃の厚い剣で切られたような切り傷が出来ていた。首に向かって斜めに出来た傷は、狙われた動脈をかばって出来た傷だった。
にじんだ血は溜まり、雫になって腕へと流れていった。
ブリジットは血を気にすることなく、狙いが自分であることを確信すると、かばっていたリットとローレンをテーブルの下へと足で追いやる。
わけもわからずテーブルの影に隠れたリットは、地面に映る大きな影を見ていた。自分よりも大きな影が、右往左往へ素早く動き回っている。
「あんまり顔を出すんじゃないよ。踏みつけちまいそうだからね」
ブリジットは錆びついた大斧を持ち構え、空にいる大型の鳥を睨んだ。
大型の鳥はしばらく空を旋回していたが、一つ頭の出た木の上に止まると象牙のようなくちばしを開き、空に向かって音波のような高い鳴き声を発した。大気を揺るがすと、太陽を背負うように空高く飛び上がった。日差しの中に己の影を作り急降下する姿勢を取ったが、太陽に反射するオノの刃に怯んだのかそのまま飛び去っていった。
「もう、大丈夫さね。この森の主が時たま襲いに来るのさ」
リット達がテーブルの下から出てくると、大いびきをかいて寝ていた他のフェムト・アマゾネス達も臨戦態勢をとって空を睨んでいた。
「なんで主なんかに目を付けられてんだよ」
リットは大きく脈打つ胸を押さえながら言った。
「基本アタシ達は森を荒らすからね。生活をするには木を切らないといけないし、動物も狩らなきゃならない。アタシ達がこの森にちょいと長居し過ぎてるせいで、生態系が壊れかけてるのさ」
ブリジットは特に深く考え込んでいる様子もなく、実にあっけらかんとした様子だった。
「さっさと住処を移動すりゃいいんじゃねぇのか?」
「難しいねぇ」今度はしっかり考え顔を浮かべる。「アタシ達フェムト・アマゾネスが住処を変えるにはいろいろ条件があるさね。第一に、あんたら人間や獣人とかが少ない場所。そうしなきゃ、食べ物の奪い合いが起こっちまうからね。なぜかここら辺は人間達がいないから動物も狩りやすいのさ」
「ヨルムウトルが近いから、大抵の種族は近づかねぇな。立入禁止が解除されたのも五十年位前のことだし、まだ恐ろしくて近寄れねぇんだ。最近じゃ山向こうじゃ変な現象も起きてるしな」
リットはヨルムウトル城がある方角を見ながら言った。ヨルムウトルからフェムト・アマゾネスの住処は結構遠く離れているらしく、ザラメ山脈の頭だけが木の上から小さく見えている。
「アタシ達は二十年くらい前に遠くから来たからそのへんは知らないねぇ。あと第二に、繁殖期のフェムト・アマゾネスは男を見つけるまで住処を変えない」
「そんな法律まであるのか」
「法律というかなんというか。性欲が溜まってると、凶暴性が増すんだよ。行く先々の街を破壊しながら進むなんてことになると、戦争になっちまうからね。どうしても移動するには繁殖期が治まるのを待つしかないのさ。他にも子供が出来た時とか、病気になった時とか、いろいろ決まりがあるさね。鳥くらいで騒いでたら、アタシ達は暮らしていけないよ」ブリジットは大声で笑うと、落ちていた牛の骨を拾い上げて、それで背中をかき始めた。「そう言えば、オークの村に案内するって約束だね。あんたが素っ裸になってまで頼んだんだ、守らなきゃ女がすたるさね。ご飯を食べたら案内するから待ってておくれ」
ブリジットは牛の骨を適当に投げ捨てると、料理の用意をしているフェムト・アマゾネスに向かって歩いて行った。
「もうブリジットは行ったぞ」
リットは不快感を露わにしたまま押し黙ったローレンに話しかけるが、返ってきた声は興奮で少し高くなっていた。
「やっぱり……野性的な女性もなかなか」
「オマエ……。本当になんでもありじゃねぇか」
ブリジットの朝食を終え、リットとローレンはブリジットの手の中にいた。今回は握られているわけではなく、両手で作られた受け皿の上に座っている。
「これ、やっぱり酔うぞ……。案内してくれりゃ、持たなくていいのに」
「あんたらの短い足じゃ時間が掛かり過ぎさね。アタシの足なら半分の時間で着くよ」
確かにブリジットの一歩は、リット達の一歩の倍以上の距離がある。その代わり早足のブリジットの上半身はよく揺れていた。
リットは親指の根元にある土手に頭を乗せて寝転がる。体を付けていたほうが酔いが少ないと思ったからだ。
「オークの村ってのは遠いのかい?」
風になびく前髪を押さえながらローレンが聞いた。
「んー。そこそこさ。アタシの歩幅なら一時間とちょっとくらいかね。アタシより背の高い木が増えてきたらすぐそこさね」
ブリジットが足を進める度に森の匂いが風吹く。木の実が落ちて潰れた酸っぱい匂い、湿った土の匂い、青くさい草の香。全てが一つに繋がり、生命のにおいを漂わせる。
気持ちの悪い揺れも、いつしかゆりかごの様な心地良さに感じていた。
ブリジットの手の温もりを感じながらリットはうたた寝を始める。程よく樹木の葉々に透かされた陽光も、布団をかけられた様に気持ちが良い。
夢と現の間を彷徨う浮遊感は、絞首刑へと変わった。
「おっと、危ない」
ブリジットが急に立ち止まった反動で、手から飛んでいったリットの服の首元をブリジットがつまんだ。
喉仏を強く圧迫されたリットは慌てて空気を取り入れようとするが、咳とともに酸素が出て行くばかりで、地上で溺れるように苦しんだ。
過呼吸のような、荒く短い呼吸を繰り返す。咳が止まると、ようやく深く呼吸をすることが出来た。
リットは目尻に溜まった涙を拭くことなく、ブリジットを睨みつけた。
「悪かったねぇ。アタシが近づくと攻撃されるもんで、止まったんさね」ブリジットは、人差し指の腹で優しくリットの背中を撫でながら言う。
「……死ぬかと思った」と、吐息混じりにリットが言うと、「あっはっは! そんな簡単に死ぬわけないさね」とブリジットが大笑いをした。
「……僕は死ぬから、下ろす時は優しく頼むよ」
ローレンが冷や汗混じりに言うと、ブリジットは腰をかがめ、指の先を地面に付けた。ローレンは小丘を下るようにゆっくりと地面に向かって歩いて行った。
「もう少し歩いたら、オークの村の入口があるよ。あんたらは大丈夫だと思うけど、気を付けて行くさね」
ブリジットは立ち上がりリット達を見下ろすと、大きな足音を立てながら森の奥へと姿を消していった。
それからしばらく背の高い木が生える道を歩くと、フェムト・アマゾネスの住処とは違い、ちゃんとした村が見えてきた。
村の入り口には二本背の高い木が生えており、木板が打ち付けられ物見櫓として改造されている。
しかしそこにオークの姿はない。
リットが村へと足を踏み入れると、両の木の影から槍の刃先が飛び出てきた。
槍はリットの侵入を禁じるように中央でクロスされている。
のっそりと木の影から緑色の皮膚の腕が伸びる。腕から肩、肩から胴体。徐々にオークが木の影から出てきた。
オークは豚鼻を鳴らし、一見肥満にも見える鍛えられた腹を揺らして大きな声を出した。
「ブヒヒ! 悪女の手下め!」




