第十一話
一度部屋に戻ろうと思い、リットが廊下を歩いていると、いきなり影執事達に囲まれた。
前方の一箇所だけが空いており、そこに向かって歩くしかない。まるで誘導されているようだ。
長い螺旋階段を上らされると、きのう夕食を食べた応接間に向かわされた。
応接間には頭を抱えて椅子に座っているローレンと、苛立たしげに腕を組んでいるグリザベルがいた。
「どこに行っておった!」
グリザベルが怒鳴るように言った。
「近くを流れてるモーモー川だよ。二日酔いだったんでな。だから、あんま大声を出すな」
「一言断ってから城を出るのが礼儀ではないか」
「断るも何も、グリザベルがどこにいるかわからねぇんだから、声を掛けるなんて無理だろうよ。影執事も出てこねぇみたいだし」
リットは、ノーラが影執事を呼んでも現れなかったことを伝えた。
「明かりを灯したか?」
「いや、ランプはオレが持ってたもんでな」
「影執事は影。影が出来るところにしか現れることが出来ぬ。用があるなら明かりを灯してから呼べ」
「そういう制約があるなら最初に言ってくれよ。他は? 言っとくことはないのか?」
リットは椅子に座ると、二日酔いで痛むこめかみ辺りに手を当てながら面倒くさそうに言った。
「うむ。城から離れる時は宣言してくれればよい。……って! なぜお主が偉そうにしておるのだ!」
グリザベルはテーブルを叩き鳴らした。
グリザベルの声と、鈍い木の音と、食器が鳴る高い音が耳に入るだけで、リットの頭痛は倍増した気がした。
「頼むよ」リットは、今度はこめかみではなく。おでこに手のひらを当てて不快感を露わにした。
「アンタさっきはそんなんじゃなかったじゃない」
チルカの口ぶりには、心配の色は微塵もなかった。
「こういうのはな、起きて時間が経った方が辛いんだ」
水を浴びて多少はすっきりしたものの、頭や胃や喉が普段とは違う動きをしているので、言い知れぬだるさが体につきまとっている。
「まぁよい。朝餉の支度は出来ている。食べよ」
グリザベルが指を鳴らすと、影執事が料理を乗せたワゴンを押しながら応接間に入ってきた。
木の車輪が軋む音でさえも、リットは耳をふさぎたくなった。
ニンジンのソテーに、ニンジンとカボチャのパイ。ニンジンとイノシシの肉を煮込んだもの。どれもニンジンが使われている。
リットはセクシャルキャロットのことを思い出してため息をついた。
「オレはスープだけでいい」そう言ってカボチャのスープを口に含む。
「好き嫌いしてると大きくなれませんぜ」
ノーラはフォークでニンジンを刺すと、リットの口元まで持っていって「あーん」と食べさせようとするが、リットは顔を逸らした。
「こんなもん食ってたら、大きくなる前に早死にしちまうよ」
「不味くないっスよ。むしろ甘くて美味しいっス」
「それな、叫びのニンジンって言ってな。食った奴の腹を引き裂いて新しいニンジンが生まれてくるんだよ」
「これこれ、嘘を教えるでない。形がちょっと歪なだけで普通のニンジンだ」
「アレが普通のニンジンだったら、世の中に変なもんなんて一つもないっつーの」
「……苛立っておるな。二日酔いにはハチミツが効くぞ。どうだ?」
グリザベルは紅茶に入れるため手元に置いてあるハチミツの瓶を、リットの座る方向に少しずらしながら言った。
リットは無言で瓶を手に取ると、螺旋状に掘られて蜂のお尻のような形状をしているハニーディッパーでハチミツをすくい取り、顔を上げて伸ばした舌に垂らした。舌が熱くなるような甘さでねっとりと広がると、鼻からは野花の香りが抜けていった。
「私も私も」
ノーラも舌を下唇につけて口を開けると上を向いた。リットがハチミツを垂らすと、ノーラは最後の一滴がハニーディッパーから落ちるまで口を開けており、最後の一滴が落ちるまで味わった。
グリザベルは右手でカップのハンドルをつまみ、左手を添えてカップを持ち上げる。少し口をつけると「お主らはマナーというものがなっておらんな……」と、紅茶の匂いが混ざった甘いため息をついた。
「あいにく、マナーが良くて得したことはないんでな。それより、本がある部屋か、ディアドレの研究室に案内してもらいたいんだけどよ。こう暗くちゃ自分で探すのも一苦労なんでな」
「それはかまわんが、書物はずいぶん虫に喰われておったな」
「なんとなく読めればいい」
「ならば食事の後にでも案内しよう」
妖精の白ユリの時と同じ。まずは本から情報を得る。と言っても、リゼーネ王国の時とは違い、頼りになるのは本だけだった。
ヨルムウトルには人が集まるような酒場も、頼りになる人物もいない。そもそも人と呼べるのはグリザベル一人だけだ。
本と睨み合うことには慣れているが、慣れたところで面倒くさいことには変わりない。
リットはなんとなく気が鬱々していた。
温かいスープを胃に流し込めば、少しは二日酔いの不快感も治まるだろうと思い食事を進めていると、綿毛でも飛ばすような優しく長いため息が聞こえてくる。
ため息のもとに視線を移すと、頭を抱えたまま食事をとらないローレンの姿が目に付いた。
「これ見よがしに、うざってぇため息を吐くなよ」
「ミスティのことで悩んでるんだ。昨日は一晩中一緒でね」
「あの影メイドか。寝込みでも襲われたか?」
「そんなことする子じゃないよ。……ただ、僕の寝顔をずっと見てるんだ」
ローレンは満更でもなさそうな顔で言った。
「二股かけて、一人には宝石を盗まれ、もう一人には殺される勢いで怒られ。それで、逃げてきた場所で新しい恋。オマエの脳みそは股間に付いてるのか?」
「うるさいなぁ、僕は愛を食べて生きているんだ」そう言うと、ローレンはようやく目の前にあったパンをちぎって食べ始める。パンを飲み込むと再び話し始めた。「彼女の愛は嬉しいよ。こんなに深く愛されたのは初めてかもしれない。でも、触れることも喋ることも出来ない。彼女が実在していると考えていいのかもわからない。愛とは何かを考えさせられるよ」
「アラスタン絵画の愛好家も同じ悩みを持ってるらしいぞ」
「キミは……少しは茶化さないで聞けないのかい」
食事を食べ終えた一同は、図書室は荒れていて使えそうにならなかったので、ディアドレの研究室に来ていた。
研究室も良い状態とは言えなかったが、図書室に比べればましだった。図書室は虫喰いや染みだらけの本ばかりだったが、こっちは少なくとも読める本が存在している。
棚も机も物が散らかっており、なにか一つ取るだけで崩れてきそうだ。
棚には、なにかわからない歯の鋭い動物の頭蓋骨や、枯れてチリになった植物が置かれたままになっている。
机の上は、瓶詰めにされた蛇や蛙が見るも無残に干からびていた。元はなにか液体に漬けられていたのだろう。瓶の埃を指で拭っても、中が汚れているせいで瓶は曇ったままだ。触りたくもないような蛍光色の液体が詰まった瓶もある。
魔女の研究所というよりも、魔女の薬棚という言葉がしっくりきた。
リットは、羊皮紙に記号と文字で模様が書かれているものが大量に積まれているものを見つけ、適当に数枚まとめて手に取った。
ペラペラ一枚一枚捲ってみても何が書いてあるかわからず「これは?」とグリザベルに聞いた。
「それは魔法陣だ。魔宝石を作る時に使う」
「なんだゴミか」
リットは一応最後まで魔法陣が書かれた羊皮紙を見ると、元の場所に投げるようにして置いた。
「この世の全ての穢れを受け負った様な乱雑さの中に光る、聖布のような質素で綺羅びやかな術式の美しさがわからんとは」
「わかんねぇのはオマエさんの言葉だよ。まるで意味がわかんねぇ」
リットは引き出しを開けながら言った。中からは香のような、ハーブの煮汁のような、鼻をむず痒くさせる匂いを放っていた。
顔を背けながら引き出しを閉めると、今度は膝を床につけてテーブルの下に潜り込んだ。奥にはプランターが積み重なっており、植物を育てていた形跡がある。
「だいたい何を探しておるのだ」グリザベルは、リットが蹴飛ばしそうになっている足元の杖をどかしながら言った。
杖と言っても、ただ木を削って作られたステッキで体を支えるものだ。
それをグリザベルは近くの棚に立てかけた。
「ヨルムウトル王がフェニックスを欲してたなら、ディアドレだって少しはフェニックスについて調べてるだろ。書き残したメモみたいなのを探してるんだ」
「ふむ、二日酔いでも頭は回るようだな」
「というより、それがなかったら行き詰まりだっつーの」
「しかし、我が見た時は何もなかったぞ」
「なんだよ。探し損じゃねぇか」
リットは蜘蛛の巣と埃にまみれた頭を机の下から出した。
「旦那ァ、これ貰ってもいいっすかね」
ノーラは手に乗せた植物の種をリットに見せた。明らかに発芽しなさそうなひしゃげた種で、真っ赤な色をしていた。
「いいんじゃねぇか」
「うむ、かまわんぞ。ただ……。なんの花が咲くのかは我にもわからんがな」
「いいんっスよ。なにが咲くのかわからないのが楽しいんっスから」
「間違っても妖精の白ユリのところには植えるなよ。自然交配で突然変異なんてことになったら、怒られんだから」
リットは机の上の図鑑を開きながらノーラに釘を刺した。
「エミリアにっスか?」
「ライラにだ」
「そりゃ、怖いっスねェ……」
リットは「だろ」っと答えると、図鑑のページを捲る。
見たことのない図鑑だったが、書いてあるのは役に立たないことばかりだった。モルデント鳥の喉袋は喉に効く。フウセンカの根は催淫薬になるなど、魔女薬の材料となる動植物の図鑑だった。
図鑑は途中で白紙になっており、ディアドレが途中まで書いていたものだということがわかる。おそらく魔宝石や、エーテルの研究を優先していたせいで完成させる暇がなかったのだろう。
「旦那ァ、これは?」
「……いいかノーラ。いちいちオレに聞くな。欲しいものがあったら黙ってポケットに入れろ」
リットは図鑑を閉じると、ノーラに振り返ることなく答える。
「リット……。それはただの泥棒だ。――が、魔法陣が書かれた羊皮紙以外は好きに持っていてもかまわん。ディアドレの魔法陣を解析するのが楽しみでな。それが、我がこの城にいる理由の一つでもある」
「そうじゃなくて、裏に張り付いてる紙っすよ」
ノーラは少し腰を曲げて机を指差した。
机の裏には四隅が樹液のようなもので固められた紙が貼り付けられていた。
「本当だな」リットはしゃがみこむと机の裏を見上げた。樹液を爪で削り、紙を取った。「背が低いってのも役に立つな」
「でしょでしょ? これでもうタダ飯喰らいとは言わせませんぜェ」
得意顔のノーラは両手を腰に当ててふんぞり返る。その姿にリットは何故か自然と笑みがこぼれた。
リットと目が合うと、ノーラもニシシと歯を剥き出して笑った。
ノーラが笑うと、リットは直ぐに視線を下ろし紙を見る。横からグリザベルも紙を覗きこんでいた。
『ヒッティング・ウッドの香木』の灰で寝床を作る。『マーメイド・ハープ』で姿を保つ。ともう一つ書かれているのだが、何度も筆で消した形跡があった。横線の墨の奥には『燃焼温度』『高温』と書かれているのがギリギリ見て取れた。
「なんだこりゃ」
「フェニックスは香木の火を付けて自らを焼き、その灰から新たなフェニックスが生まれる。……この紙に書かれているのは、まるでフェニックスの作り方だな」
グリザベルは顎に手を添えながら言った。
「すると、この通りにやればフェニックスが生まれるのか?」
「無理だ」グリザベルは首を横に振って否定した。「生きているフェニックスは、世界に一羽しか存在しない。新たに生み出すのは不可能だ」
グリザベルは不可解な表情を浮かべていた。
リットはもう一度紙を見る。
「ヒッティング・ウッドってのは、オークが使う楽器の木のことだな」
「よう知っておるな」
「前に旅芸人が話してたのを聞いたんだよ」
「オークなら狩りをしに城の周辺によく来るぞ。最近は見かけなくなったがな」
「オークの村ってのは近いのか?」
「ザラメ山脈を超えたとこの森にあるハズだ」
「まっ他に手がかりがないことには――」
次の日の朝。リットはリュックを背負って城門の前にいた。
「いやっス!」「いやよ!」ノーラとチルカはそれぞれ大声を上げた。
「別に死ににいくわけじゃねぇんだからいいだろ」
「そりゃ、アンタは男だからいいわよ。でも私達は女よ。オークになにをされるかわかったもんじゃないわ。それは死ぬよりも最悪なことよ。妖精の白ユリのオイルを置いて一人で行きなさいよ」
「我は付いて行ってもかまわんが?」
グリザベルが名乗り上げるが、リットの顔に浮かんだのは笑顔ではなく青筋だった。
「余計なことしないで――オマエは――早く――ゴーレムを止めろっ」
リットはグリザベルに人差し指を向けると、鼻に指が付きそうなほど近づけた。
「わ、わかったから怒鳴るなぁ」グリザベルは気を持ち直すように咳払いをする。「代わりにジャック・オ・ランタンを連れて行け、お主に懐いているようだしな」
グリザベルが指を鳴らすと、ジャック・オ・ランタンが馬車を走らせてやって来た。
馬車を停めると、ジャック・オ・ランタンはリットの横まで来て、リットの周りをグルグル飛んだ。
カボチャを乾かしてくれたことが嬉しかったらしく、相当リットのことを気に入ったようだ。
「近寄るな。カボチャの姿をしてても、中身はいい大人なのには変わりねぇんだからよ。わかったか? ――ジャック」
「そう言ってやるな。どのみち、その馬車が無いことには山越えするなんて無理だぞ」
リットが馬車に乗り込もうとすると、城の中からローレンが荷物を抱えて走ってきた。
「僕も行くよ。僕は一度彼女と離れた方がいいと思ってね」
ローレンが目を向けた先にはグリザベル――ではなく、グリザベルが持つランプの明かりで出来た影だ。ミスティが目元を押さえて立っていた。
「そうだな。この調子じゃ明日にはミスティは妊娠して、明後日には子供が生まれてるな」
「怖いこと言うんじゃないよ。アレは性の魔力だ。顔がわからない上に、胸の大きさまで変幻自在なんだよ。リット……キミはJカップなんてものを目にしたことがあるかい? 神も作れなかった造形だ」
「……我が込めた魔力はそんな下劣なものではないぞ」
グリザベルに睨まれ、乾いた笑いを上げたローレンはリットを馬車に押し込むと、ジャック・オ・ランタンに馬車を出すように催促をした。
「それじゃ、僕たちは行ってくるよ!」
と、ローレンが言ったのは五日前。
男三人。特に盛り上がる会話もなく、淡々と山道を馬車で走らせ山のふもとまで降りると、久しぶりの陽光が体を照らした。空を見上げると、黒い雲の塊がヨルムウトルに密集しているのが良く見えた。
「あれは、なんなんだろうね」
ローレンは空に浮かぶ黒い雲と白い雲を見比べていた。
「さぁな。んなことより久々の太陽だ。オレはゆっくりするぞ」
リットは体を目一杯伸ばして太陽の光を浴びる。
「それもそうだね。でも、オークの村がどこだかわかるのかい?」
「道沿いを行けば、森を抜けたところに村の一つでもあるだろ。そこで聞けばわかるだろうよ」
「ずいぶん深そうな森だけど、抜けるまでにどれくらいかかるかな」
ローレンが山のふもとから広がる森に目を向ける。背の高い木が茂っていて思わず深呼吸をした。
その時、足元が急に揺れたような気がした。
リットとローレンが顔を見合わせると、また揺れる。二度三度と揺れる度、森の奥から鳥達が羽ばたいて空を騒がせた。
二人が森に目を向けると、先程までなかった太い幹が生えていた。
「なんだい。男の声が聞こえたと思ったら人間かい」
つまらなさそうな声を出しながら出てきたのは女の顔だった。
木の幹ではなく、葉の影から顔を出す。
リット達が女の顔を確かめるには、空を見上げるように上を向くしかなかった。




