第十話
リットは目を覚ますと寝返りを打って腹ばいになり、まだ眠たげな静寂にシーツの擦れる音を響かせた。
どうにもすっきりしない。理由はわかっている。目を開けても閉じても同じような暗さが広がっているからだ。
たぶん朝だろうと思いつつ、肘を使って這い出すようにベッドから出た。
暗い中、おぼつかない足取りでリュックを探すと、中から手探りでマッチ箱を取り出す。
マッチを擦ると黒煙のススが宙に上がり、同時にツンとくるマッチ独特の臭いも鼻に届いた。橙色に照らされた手を動かしながら、テーブルの上のランプを探して火をつけた。
昨夜、グリザベルに連れられて地下に行ってから部屋に戻り、それから残りのワインを流し込み深酒したせいか、胃が奇妙に動いている。
リットは部屋を出ると、ランプで廊下を照らしながら歩いた。
ノーラが居る部屋の前を通ると「あ痛っ」と言う言葉と共に、蹴飛ばす音やぶつかる音も聞こえてきた。
徐々に音は近づいてきて、ドアの前で一度止まると、ドアは静かに音を立てて開いた。
ノーラはリットの姿を見ると「ずるいっス!」と声を上げる。視線はリットの持っているランプで止まっていた。
「オマエもランプを使えばいいだろ。料理を作るわけじゃないんだ。焦げる心配もないし、それくらい出来るだろ?」
「でーきません」ノーラは、演技ぶったように大げさに首を横に振る。「私のリュックの中には、その肝心のランプが入ってないんスから」
リットはノーラのリュックの中には食料しか詰めていないことを思い出した。途中でリュックの中身を入れ替えても、ノーラの不注意で壊さないようにランプだけはリットが持っていた。
「チルカはどうした? オマエと一緒の部屋に放り込んでおくように頼んだんだけどな」
チルカがいれば、暗い所だと四六時中光っている。明かりとしては頼りないかもしれないが、足元を照らすくらいは出来る。
リットはそこまで考えていたわけではないが、チルカがいればノーラが部屋の中をぶつかりながら出てくることはなかっただろう。
「そうなんスか? 部屋の中にはいなかったみたいっスけど。それより、旦那はどこへ?」と聞いてくるノーラに「外」と、リットは一言で答えた。
「外なんか行ってもなーんもないっスよ。それともなにか面白いものでも見つけたんスか?」
「川だ。城から少し歩いたところにあるらしくてな、酔い覚ましだ」
なにかすっぱいものが喉から上がってきそうになったリットは、無理やり飲み込むように喉を何度も鳴らした。
「お酒の飲みすぎですかァ。大方飲みなれない高いお酒でも飲んで、胃がびっくりしちゃったんじゃないっスか?」ノーラはニシシと歯の隙間から息を漏らして笑う。
リットはノーラの言葉を無視して歩き始めた。
「ありゃりゃ、もしかして当たりっスか? 不味いものを食べても平気なのに、高いものだとダメとは……。なんか貧乏な胃ですね」
「……ほっとけ。それよりなんでついてくるんだよ」
「なんでって、明かりを持ってるのは旦那じゃないっスかァ。こんな暗闇の中じゃ、旦那がいないと一歩も動けませんから」
「呼べば影が来るんじゃないか?」
「んー、呼んでも来ませんでしたよ。というより、グリザベルの命令じゃないと言うことを聞かないんじゃ?」
影執事は自分の言うことでも聞いたし、そんなはずはないとリットは思ったが、考えようとすれば二日酔いの頭がズキリと痛んだ。
城から外れたけもの道のような細い道を抜けた先に川はあった。
川の水は黒かったが、ランプの光を近づけると、浅い川底に白い石灰石が敷き詰められたように転がっているのが見えた。手で皿を作り水をすくうと、石灰成分が溶けて少し白く濁っていた。
リットは手の中の水を川に落とすと、頭を川の中に突っ込んだ。その時にノーラが何か言っていたが、頭を突っ込んだ時のしぶきの音と、耳周りの空気が流れていく音で何を言っていたかはわからなかった。
陽が当たらないせいか川の水は冷たく、顔の熱を奪っていく。
リットは顔を上げると顔を何度も横に振り、髪の水気を飛ばした。
「ばっちぃっス……」
リットに水を飛ばされたノーラが不満顔を向けている。
「ただの川の水だろ」
「だって、旦那起きてから寝汗拭いてないでしょ?」
「そうだな」
「……ばっちぃっス」ノーラは顔についた水滴を手のひらで弾きながら言った。
リットは前髪をかき上げて、残りの水気を搾り取っている。
「そういえば、オマエなんか言ってなかったか?」
「私は水を飲みたいんで、川上じゃなくて川下でやってくださいって言ってたんスよ」
ノーラはリットの背中から川上に回りこんで川に手を付ける。水をすくい上げると、手の端からこぼしながら飲んだ。数回かけて喉を鳴らすと、ふーっと気持ちよさそうに深く息を吐いた。
リットとノーラはすぐに城に戻ろうとせず、川べりにある座りの良さそうな石を探して腰かけた。
「おい、ノーラ」
「やい、なんですか旦那ァ」
「小遣いやるから、フェニックス捕まえてきてくれよ」
「……まぁた変な依頼受けたんすかァ?」
ノーラの声には、呆れと驚きの色が混じっていた。「なんでまた」と事のあらましを聞いてきたので、リットは昨日の夜の出来事を話した。
「フェニックスでも見せりゃ、成仏するだろうと思ってな。これが一番手っ取り早いだろ?」
「むしろ一番厄介ですって。でも、そんなに欲が強いなら、見るだけじゃ満足しないんじゃないっスか? 私は目の前に美味しい料理を出されても、見るだけじゃ満足できませんよ。やっぱり食べてこそでしょ」
「まぁ、そこだよな。強制的に成仏させるにしても、なにをすりゃいいんだか」
「教会にでも行ってみます?」
「あーいうとこ行くと頭痛くなるんだよ」
「怖いこと言わないでくださいよォ。悪魔でも憑いてるんスか?」
「そうかもな。教会にいるとな、耳元で悪魔が囁くんだよ。汝、液体のパンを望めってな」
「なんすかァ? 液体のパンって」
「麦に、ホップに、水。量が違えばパンは液体になり、液体はパンになる」
リットは木樽ジョッキを持つように手を握ると、酒をあおるように傾けた。
「それ誰の言葉っスか?」
「隣町に住んでるビーダッシュ神父」
ノーラは「……旦那の知り合いって愉快な人多いっスねぇ」と呆れてみせた。
城に戻ると、廊下にふわふわとぼやけた光の玉が飛んでいた。
悩むまでもなく正体はチルカなのだが、やけに楽しそうに鼻歌を歌っている。
チルカも自分とは別の光が近づいてくるのに気付くと、鼻歌を歌ったままリット達の元へ飛んできた。
「この城は宝の山よ」そう言った声は底抜けに明るかった。
チルカは両腕で抱えるようにして、フォークやスプーンなどを集めていた。どれもチルカが使うには調度良いサイズで、どれも銀で作られている。
「ミニチュアが趣味だった奴でもいたのかもな。それにしても汚え銀だな」
銀は長いこと放置されていたことによって、黒く酸化してしまっている。銀らしい輝きはどこにもなかった。
害はないとしても、とてもこの食器を使って食事をとる気にはなれそうにない。
チルカは爪の先で銀スプーンの酸化している箇所を削りとってみようとしている。指先は黒くなるが、スプーンから酸化銀が取れる気配はない。難しい顔をして悩む素振りを見せると、なにか思い付いたのかニヤッといやらしい笑みを浮かべた。
「ねぇ、リットぉ」
あからさまな猫なで声を発したチルカが、リットを上目遣いで見る。
リットは無表情でチルカを見たままで、他にはなんの反応もしない。
「やりなおしっス」苦い顔で笑みを浮かべたノーラが首を横に振って言った。
「ちょっと! 私の頼み事を聞きなさいよ!」
チルカは、今度は声を荒らげてみたが、リットは変わらず無反応だ。
「やりなおしっスねェ」またもノーラは首を横に振る。
「お願い!」
チルカは胸の前で両手をパンと叩くと、頭を下げずに言った。
「んーっ、惜しいっス」ノーラは指を鳴らした。
「わかったわよ……」チルカは何度か深呼吸を繰り返す。「お願いします。銀食器を綺麗にしてください」そう言って、両手を合わせたまま頭を少しだけ下げた。一見ただ頭が揺れたようにしか見えない。それは、チルカがリットに下手に出られる形容範囲のギリギリの行為だった。
チルカの声にはやや怒気が混ざっていたが、リットは満足気に頷いた。
「まぁ、無理なんだけどな」リットが鼻で笑いながら言うと、チルカは手に持ったフォークの切っ先をリット向けて睨んだ。
「右目と左目どっちがいい? 私は両方でもかまわないわよ」
「そんなサービスはいらねぇよ。だいたいオレは銀細工職人じゃねぇんだぞ」
「ランプ屋ってのは役に立たないわねぇ」
腕を組んだチルカはため息を吐く。
「そりゃ、ホタルの虫人には必要ねぇもんだからな」
「妖精が光るのは羽よ! お尻は光ってないでしょ! ほら!」
チルカはお尻をリットに向けて付き出すような格好をとった。
「わかったから。その小さくて魅力のない尻をこっちに向けるな。屁でもこくつもりか?」
「アンタは、ローレンとは別の意味で女の敵ね」
チルカは鋭い目つきで、キッと睨む。
「別に方法が無いわけじゃねぇよ。ドラゴニュートの鱗を削って、それをまぶした研磨布で磨けば取れるな。ただし、恐ろしく高い」
「どのくらいよ」
「金貸しに首をはねられるくらいだな」リットは自分の首に手刀を当てながら言った。
リットの言葉は、最高限度額を借りても無理だと言うことを意味していた。
「なぁんだ。アンタの首一つで済むなら安いじゃない」
「銀食器なんか使わなくても、子供がいる家に世話になったら一生楽して暮らせるぞ。ついでに一生着せ替え人形という誇り高い地位も与えられるな」
「だいたい――なんで――ただの布がそんなに高いのよ」
チルカの声は徐々に大きくなっていった。
「ただの布じゃねぇから高いんだっつーの。竜人ってのはプライドが高いからな。誰かに鱗を渡すってことはない。だから、冒険者が雲を突き抜ける山まで行って、落ちてる鱗を拾ってこないと研磨布は作れないんだよ」
「それじゃ、普通のドラゴンの鱗を使えばいいじゃない」
「ドラゴンが住んでるところに、人が足を踏み入れるわけねぇだろ」
「宝の山が、ゴミの山に早変わりね……。しょぼくれた城だわ」
「ちょっとくすんでる程度なら、ジャガイモのゆで汁に浸すだけで取れるけど。こりゃ無理だな」
リットは、銀のスプーンをランプに近づけてまじまじと見た。本来銀は光の反射率が高く、白く光るように見えるのだが、チルカの持っていたスプーンはとても同じ金属には見えないほど黒ずんでいた。
「せっかく丁度いいサイズの食器があったのに」
「木で作りゃいいだろ」
「いやよ。木なんて」
「おかしいな……。オマエ妖精だろ? 普通妖精は自然の物を使うんじゃないのか?」
「森にいる時はそれでいいわよ。でも、アンタのところの野菜は固いんだもん。そのまま持ち上げて食べようとしたら、ベタベタして服が汚れるし」
「家にそんな野菜あったか?」
「あるじゃない。瓶に入ってて、緑で長いやつ」
緑で長い。瓶に入っている。ベタベタで汚れる。リットはチルカの言葉を一つ一つ頭の中で反芻した。
「そりゃ、オレが楽しみにとって置いてるズッキーニのピクルスじゃねぇか!」
「知らないわよそんな名前。あんなの森にも生えてないし。でも棚にあったら食べてみるのが普通じゃない」
「オマエ、棚に置いてあるナッツも盗ってたよな」
リットはブラインド村までの道中のことを蒸し返そうとしたが、ノーラの手がそれを止めた。
「まぁまぁ、いいじゃないっスかナッツくらい。十個や二十個食べられたくらいでしょ」
ノーラは優しくリットの背中を叩きなだめるが、チルカは不思議そうな顔を浮かべていた。
「私そんなに食べてないわよ。お腹に入らないもの。二個も食べればお腹いっぱいよ」
「ありゃ、そうなんスか? こりゃ困った、しくじった」
口をすぼませたノーラは、拭けない口笛を懸命に鳴らそうとしている。
「そうか、オマエも食ってたのか」
リットはノーラの頭を掴み、そっぽを向いてる顔を自分に向けさせる。
「だって旦那、酔ってる時にしか食べないから、減ってても気付かないんっスもん。でもでも、旦那の好きなクルミはバッチリ残してますぜ」
「そりゃ、オマエが苦手なだけだろ。アーモンドは?」
「美味しいっスねェ」
「オレはアーモンドの香りを楽しみながら、ちびちびウイスキーを飲むのが好きなんだよ」
「別にお酒と一緒じゃなくてもアーモンドは美味しいっスよ?」
「……帰ったら鍵付きの箱買わねぇと」
「そんなァ、私の夜食がァ」
「違う。オレの夜食だ」
リットは自分の胸辺りを指さして強調する。「ったく」と言って歩き始めるのを見ると、チルカはノーラの肩をちょいちょいと指先で叩いた。
どこから出したのか、片方の手には細い針金を持っている。鍵を回すような仕草を見せると、含みのある笑顔をノーラと見せ合った。




