第七話
グリザベルは影から新たに人型の影を生み出すと、リットを案内するように命じた。
影はグリザベルに了解の意で一礼すると、道案内をしようとリットの前に出た。
影の執事の時も思ったが、ヨルムウトルにいる影は皆どこか所作に品があった。
エミリアの屋敷で見た使用人よりも堅苦しさがある。この影に言葉があれば堅苦しさは一層増しただろう。
影は急かすことなく、リットが動くのをじっと待っている。しかし、リットは立ち止まったまま動かない。影を下から上まで確かめるように見ると、顔をグリザベルに向けた。
「一体どうなってんだ?」
「コレのことか」
グリザベルが親指と中指の腹をこすり合わせてパチンと音を鳴らすと、王座の後ろから影が二つ出てきて、キビキビとした足取りで数歩歩いた。そのままグリザベルの両隣にまで来ると、近衛兵のように背筋を伸ばした姿勢で止まった。
「そうだ。こいつらは……人間のわけがない……よな。悪魔か? それとも幻術か?」
「人間だ」グリザベルは足を組み替えると、視線だけで軽く部屋を見渡した。「……元な。皆ヨルムウトルの彷徨い人だ」
「つまり幽霊ってことか」
「霊の意味をどう取るかにもよるがな。こやつらは魂の欠片を持った念だ。我はそれを具現化しただけにすぎん」
造作もない。グリザベルは、そう言いたげに口角を上げる。
「つまり、魔法で従者にしたのか?」
「む……。まぁ、そう……だ」
グリザベルは歯切れ悪く言うと、リットから顔をそらすように、かがり火で出来た自分の影の端に視線を向けた。
リットにはそれが、子供がイタズラをバレた時にするような稚拙な仕草に見えた。
「ん? 違うのか? オレはてっきり――」
「いやいやっ! それであっておる」グリザベルは慌てたように少し身を乗り出してリットの言葉を止めると、玉座に深く腰をかけ直して、腕を組み、天井を睨むように顔を上げた。「仄暗き城を住処とする無聊な影は、宛ら秩序を嫌う炎熱の歯車。現世という理から逸れた者を、我が魔力で繋ぎ止め隷属させる。静穏な影は極彩の――」
「わからねぇよ」
「そうだろう」グリザベルは感情の読み取れない含み笑いを浮かべると「まだ話の途中だ」と窘めるようにリットの顔を見た。
「いや、そうじゃなくてよ。いちいち辞書を引かなきゃいけないような言葉はよせって言ってんだ」
「阿呆にもわかるように説明すると。我の命令なくては勝手に影は動かんということだ」
グリザベルが自分の両端に立つ影に目を向けた時だった。
かがり火台の影から小さい子供のような影が生まれた。グリザベルに耳打ちしようと、背伸びして顔を近づけるが、喋れないことを思い出して、困ったように小首を傾げる。
やがて思い付いたように頷くと、左手は食材を掴み、右手は包丁で切るような仕草。そして、左手を皿を持つような仕草に変えて、スプーンで食べるように右手を動かした。
どうやら食事の支度が出来たので、なかなか来ない二人を呼びに来たらしい。
しかし、リットにはそれよりも気になったことがあった。
「この影。勝手に動いてるな」
「わ、我が命じたのだ! 食事が出来たら呼ぶようにと。冷めては美味しくないからな」
グリザベルは下がれといった具合に手を向けるが、小さな影は理解していなく。しきりに首を傾げている。
「すぐ行くから、戻っていいとよ」
リットの言葉に小さな影が頷くと、元気よく走りながら闇の中へと消えていった。
無言の時間が流れる。かがり火の薪が割れる音がパチパチと響き渡った。
グリザベルは肘掛けに肘を置き、頬杖をついてそっぽを向いている。時折リットの様子を気にしたように、黒目だけをチラチラと向けていた。
「言いたいことがあれば言うがいい!」
グリザベルは業を煮やして弾けるように言うと、肘掛けをバンバンと手のひらで何度も叩いた。
「あの影、オレの言うことでも聞いたな」
「言うな!」
「どっちだよ……」
「別に我の命令だけを聞かなくともいいではないか。実態のない念を影に留めるだけでも凄いことなんだぞ! すーごーいーことなんだぞ!」
グリサベルは、癇癪を起こした子供のように玉座に座ったまま足をジタバタさせた。
玉座の両端に起立したまま動かなかった影も、どうしていいのかわからずにおろおろと動き回っている。
「わかったわかった! オマエさんは凄い。オレには出来ないことだ。立派立派」
リットは胸郭に響くような低い声で、むずがる幼児をあやすようにゆっくり言った。
グリサベルは「むっ……。少し取り乱した」と鼻をすすると王座に座り直した。目尻に涙を浮かべて、あどけなさと後ろめたさが入り混じったような表情だった。
「オレは、てっきり二重人格なのかと……」
「ふははは! 滑稽なことを言う男だ。いや……光と影。人間は誰しも二面性を持っておる。我の別の顔を見たことを光栄に思え」
グリザベルがつま先を高く上げ、足を組み直すと、艶かしいスネがチラつく。
グリザベルが調子を取り戻すと、影も先程と同じように玉座の隣に直立した。
「今更体裁を取り繕っても遅いだろ」
「漆黒の魔女なる我の威厳に関わる」
「それって誰が呼んでるんだ?」
「……これ以上待たすのも悪い。我は後から行く。リットを頼むぞ」
そう影に言い残し、グリザベルは奥の部屋へと姿を消した。
リットが小間使いの影に案内されたのは、大食堂ではなく応接間だった。
といっても、城の応接間は広く、中央に置かれた四角いテーブルが寂しく感じる。
四つ置かれている椅子には既に、ノーラ、チルカ、ローレンの三人が座っており、空いている椅子は一つしか無い。リットはそこに座った。
必要以上に背もたれの高い椅子は、姿勢を正しくしろと言われているような居心地の悪さがある。
真っ白なテーブルクロスの上には豪華な銀食器が、テーブルの真ん中に置かれた燭台のロウソクの火で照らされている。
更に上を見上げると、ロウソクの付いていないガラス製の壊れかけたシャンデリアが、テーブルのロウソクの火の光りを反射させて天井に複雑な模様を作っていた。
「遅かったじゃないか、リット。――まさか……口説いていたんじゃないだろうね」
ローレンはリットをじろりと睨む。
「オマエは美人なら誰でもいいのか?」
「僕を見くびるなよ。一番大切なのは胸。顔は二の次だ。不健康そうな肌の色もたまらない。でも、まさか彼女、病気ってことは――」
「あぁ、病気だ。それも手が付けられない類の病だ」
盛り上がるローレンに対して、リットは冷たく言った。
「なんだい。つまらない男だ」
「不健康な肌が好きなら、適任者がいるじゃねぇか。好かれてるみたいだし、いっそこの城に骨を埋めろよ」
リットは顎をしゃくって、ローレンの後ろに控えているミスティを指す。ミスティは緊張したようにもじもじと手をこまねいた。
ローレンは乾いた笑いをミスティに向けると、リットのシャツの襟を掴んで引っ張り、耳元で小声で話した。
「彼女は一体なんなんだい? やたら僕に好意的だけど、実態がわからないし少し不気味だよ。……胸も小さいし」
ローレンはミスティの胸元に視線を向けてちらっと確認する。乳房とうよりも胸板。小さいというよりも薄いという言葉が似合うほど発達していない。
「グリザベルの話だと、幽霊らしいぞ。それを影に憑依させたって言ってた」
「悪魔なら望みがあったけど、幽霊となると難しいね……」
「オマエが死ねば障害はなくなるだろ。なんなら手伝ってやろうか?」
ローレンはフンッと鼻を鳴らしてリットの襟から手を離した。椅子を返し、ミスティの方を向いて座り直すと、ローレンはゆっくりと口を開く。
「ミスティ……。聞いてくれ。キミのことは嫌いじゃないが、僕の好きなタイプは胸が大きい子なんだ」
うなだれたミスティに、ローレンが「ごめんよ」と声を掛けるが反応はない。
震える肩に泣いているのではないかと、心配そうに下から覗くと、ミスティは自分の胸を掴み引っ張っていた。
大きく三角形になった胸の先端を人差し指で押しこみ、胸全体を両手で揉むようにして形を整えた。
ローレンは生唾を飲み込んで、ミスティが胸を作り上げている姿に釘付けになっている。胸の形がしっかりすると、ミスティは両腕で挟み込んで谷間を強調し、ローレンにだけ見えるように屈んだ。
「あぁ……っ。僕はどうしたらいいんだ!」ローレンはミスティに伸ばしかけていた手を引っ込めると、そのまま頭を抱えた。
「いくらお前の好きな巨乳になっても影だぞ。普通の影と違って、凹凸があるように見えるといっても黒一色だし」
「影で結構。女性の二つの膨らみに、影も色も関係ない。僕は紳士よりも……ただの男でいると決めたんだ!」
ローレンが意を決して伸ばした手は、ミスティの胸に触れることはなかった。触れているといえば触れているのだが、なにも感触がない。突き抜けた手がミスティの背中の向こうでグーパーを繰り返している。
がくりと肩を落とすローレンを嘲るように笑いながら、リットはテーブルクロスを人差し指の腹でなぞった。
汚れどころか埃も付かないテーブルは誰かが掃除したものだ。
「なに小姑みたいなことしてんスか?」
「誰が掃除してんだろうと思ってな」
「そりゃ、やっぱり影でしょう」
「影ね……」
リットは応接間を見渡した。二つの影が王座を担いで上座に置いているところだった。他にも食事を運んだりしている影もいる。
開いたままのドアから見える廊下の影に、グリザベルが隠れているのが見えた。そわそわ落ち着かない様子でウロウロしている。
料理が運び終わり、配膳していた影執事達が壁際に控えると「ふははは! 待たせたな」とタイミングを見計らってグリザベルが応接間に入ってきた。
「なんだ。もう泣き止んだのか」
「なんスか? 泣くって」
「あぁ、さっきな――」リットが言おうとしたところで、グリザベルの視線が突き刺さった。「カラスがうるさく鳴いてたもんでな」
「カラスなんて鳴いてませんでしたよ?」
「似たようなもんが鳴いてたからいいんだよ」
「意味わかんないっスよ」
ノーラは訝しげな表情を向けたが「皆食すがいい」と、グリザベルが言った途端、カボチャのスープが入った皿を傾けて音を立てて飲み始めた。
カボチャのスープに、ニンジンとリンゴの細切りサラダ。イノシシの肉と香草を混ぜて作ったソーセージが芳ばしい匂いを漂わせる。
リットが空のワイングラスに目をやると、直ぐに影がやってきてグラスにワインを注いだ。影に手を伸ばし触れようとすると「無理だ。触れることはできぬぞ」グリザベルが得意気に言った。
「こいつらは物が持てるのにか?」
「影は物の影を持っているだけだ。影も実態には触れぬ」
リットはワインを一気に煽りテーブルの上に置く、新たに注いで貰うために影執事を見ると、影執事は一度ワインの影に触れ、影を剥がすようにして持ち上げている。ワインボトルには触れていなかった。
「人の形をした影は、光りが当たっても形は変わらないんだな」
「念の力は強い。あまり好きな言葉ではないが『信じる者は救われる』や『やれば出来る』の願望実現の言葉。呪術師が使う怨念など、良くも悪くも念というのは何かを変える力を持っている。王の欲念により、魔宝石の力で発展したヨルムウトル。……悲しきかな。あまりに強大な魔力のウィッチーズカーズは王だけではなく、この国の従者……いや国全体にも襲いかかった」
「ウィッチーズカーズの影響はなくなったんじゃないのか?」
「なくなったさ。今あるのは欲の念に縛られた者達だ」
そう言って影を見たグリザベルの瞳は、リットには悲しみの色を滲ませてるように見えた。
「欲の念ね……。いまいちわからねぇな」
グリザベルは「ふむ……」と顔を伏せて少し考える。グラスの中で赤ワインを回すと、何事もなかったかのように口に含んだ。「後で面白いものを見せてやろう。それより、リット。お主の話を聞かせろ」
妖精の白ユリのオイル。それがグリザベルがリットを城に招いた理由だ。
リットは要所要所をかいつまんで説明した。
「それで、なし崩し的に妖精の白ユリを見つけただけだ。ついでに厄介なものを連れて来ちまったけどな」
チルカはリットの視線に気付いたが、知らないふりを決め込んで細切りのリンゴを黙々と食べている。
「太陽と同じ光を放つオイルとは面白い。何故オイルを抽出しようと思ったのだ?」
「オレはランプ屋だからな。思想がそっちにとらわれていたんだろうな。結果、運良く物事が良い方に転がった」
「……花と葉のオイルを混ぜようと思ったのは何故だ?」
「それもたまたまだな。チルカの花蜜が油っこいって言葉を聞いて火をつけてみたら、花びらと葉で炎の色も燃焼時間も違った。混ぜて燃焼時間や色を変えるオイルを作るってのは、ヒハキトカゲで知ってたからな」
リットの答えに満足したのか、グリザベルは「ふははは!」と高笑いをした。
「支配者スマイル、カッコイイっスねェ。憧れるっス」
「そうか。では、真似してみるがいい。ふははは!」
「ふは、ははは!」
「もっと腹の底から、己の存在を知らしめるように声を出すのだ。ふははは!」
「ふははは!」
「ふははは!」
ユニゾンする二人の笑い声は、不気味にヨルムウトル中に響き渡った。




