第六話
軽々と飛び越えられるような幅の浅い沢。リット、ヴィコット、ハスキーの三人が最後に目にしたのは確かにそうだった。一旦拠点としていた家へと戻り、ここへ帰ってくる間。わずかばかり目を離したすきに、乾いた土は水を吸い上げぬかるみを作り、沢は深みを増して水の匂いを強くさせていた。
先にその場についたエミリアは沢の水を器に汲むと、まずは鼻を近づけて匂いを嗅いだ。異変を感じることはなく、飲み水として使用しても大丈夫だと考えたが、ヴィコットが難しく眉を寄せて沢を眺めているのが気になった。
「なにかあるのならば、言葉にしてもらえると助かるのだが」
「危険を感じているわけではない。さっきまでと沢の様子が違う――が、湧いて出てきたのならば、水が溜まるのは道理だろう」
水に濡れた沢底の石はランプの光に照らされ、爬虫類の目玉のような光沢を帯びている。覗けば、その瞳に逆に覗かれるような気がするが、それは闇の雰囲気に脅されただけのことで、実際はただの石が転がっているだけだ。
ヴィコットは一瞬の薄気味の悪さをすぐに振り払うと、沢に手を入れて、子供のように水をパチャパチャと跳ねさせた。
「確かにそうだが……この水はどこから流れてきて、どこへ流れていくのだろうか」
エミリアは前にある闇に目を向けてから、振り返って後ろにある闇を眺めた。
流れがあるということは、上から下へと流れているはずなのだが、ランプの明かりの先はまるで壁に遮断されているかのようだった。
ここに来る前に辿った川沿いの流れは、闇に吸い込まれるように消えて見えなくなったが、ここの水はそうではない。流れがあるにもかかわらず、器に満たされた水のように窮屈に見えていた。
「確かなのは、ここにいるのは男と女。流れに身を任せてみるのも悪くないということだ」
ヴィコットがエミリアの手を両手で包むと、エミリアの持っていた器が手からこぼれ落ちて、沢に水柱を立てた。
ノーラはそれを拾うと、「流されてますけど、私達もいるんスけどねェ……」と、器を持った手を振って水を切りながら言った。
「普通は……」と、ヴィコットはエミリアから手を離してノーラの顔を見た。「こういう時。気を利かせて姿を消すもんじゃないのか?」
「こんなとこで姿を消したら存在まで消えちゃいますよ。それに……エミリアには、はっきりと言わないと伝わりませんぜェ」
「いいか、ノーラ。それでは告白になってしまうだろ。まず口説く。やんわりと気があると会話の中で気付かせてから、愛を交わす。これが大人のルールだ」
「そんなルールより、予定を立てて、問題を定期して、計画書を提出したほうが効果あるっスよ」
「それじゃあ、こっちの手の内が全てバレてしまうじゃないか。ドキドキしない恋など恋ではない。あー、つーまらん……」
ヴィコットは地面に肩肘をついて横になった。
「よくわからないんだが……ヴィコット殿の問題は解決していないように思えるのだが」
「一生解決することのない男の悩みってやつっスよ。ローレンがよく言ってます」
「そんなことどうでもいいのよ」とチルカがエミリアとノーラの間に割って入った。「飲むの? 飲まないの? 私は安全ってわかるまで、口に入れたくないわよ。異論がないなら、そこで大口開けて溜息をついてるゴーストの口に流し込むけど」
「異論しかない。結論はリット達が来てからだ。喉が渇いてイラつくのはわかるが、こういう時こそ焦っては危険なんだ」
エミリアはチルカを嗜めると、ノーラから器を受け取り、もう一度沢の水をすくった。
「別に喉が渇いたからってイラついてるわけじゃないわよ。色がない世界にうんざりしてるの。咲き乱れる濃薄な花に、瑞々しい緑。風は季節の色とりどりの匂いを運んでくる……なんでこんなところについてきたのかしら」
チルカが鬱憤を晴らすように小石を蹴り上げると、ヴイコットの頭に命中したが、ヴィコットは頭をかくだけで特に反応することはなかった。
「妖精のうわさ話のためじゃないっスかァ。私の活躍を語るためにも、頑張ってくださいな」
ノーラに言われると、チルカは先程のヴィコットより大きくため息をついた。
「こんなになにも進展がないとは思わなかったのよ。ここまでただ歩いてるだけよ。なにをうわさ話にしろって言うのよ。普通ちょくちょく進展があるものじゃないの?」
「当初の目的であるゴーストのヴィコット殿を見付け、テスカガンドまでの正確な地図も見付けた。心配をしなくても、充分進展しているぞ」
エミリアは問題ないと、チルカを励ますように言う。
「多少の心配事があったほうが盛り上がるってものよ……。これが飲める水だったら、いよいよ話の種なんかなくなるわよ。話題に花が咲くこともなく、うわさ話は散っていくのね……」
「私としては、順調ということで嬉しい限りなのだが……。この突然湧いた水というのは、うわさ話にならないのか?」
エミリアは水かさが増してきた沢に目を向けて言った。
「沢なんてのは、地震があれば枯れたり、潤ったりするものよ。リゼーネに広がった妖精のうわさ話みたいに、歩くたびに植物が生えてくるなら別だけどね」
「ならば、この水は安全ってことか?」
「さぁね。周囲に植物が生えてるなら、それで判断できるけど……生えてたら私は不機嫌になってないわよ」
チルカはノーラの頭の上にゆっくり落ちてくると、うつ伏せの体勢で両肘をついて重ねた手の上に顎を乗せた。
「リゼーネのお話みたいに、妖精の白ユリのオイルの光で、生えてきたりしないスかねェ」
「闇に呑まれた中じゃ無理な話ね。そうだったら、一日中ランプをつけっぱなしなんだら、とっくに生えてるわよ」チルカは一旦言葉を止めると、足音のするほうへ顔を向けて「遅いわよ」と言った。
ノーラの後ろには、ランプを持ったリットと、頭を垂れるグリザベル。その背中を押すハスキーの姿があった。
「文句ならグリザベルに言えよ。言い訳が思いつかねぇもんだから、足を止めてじっくり考え出したんだからな」
グリザベルの足元には足跡はなく、代わりにハスキーに押されて出来た二本の踵の線がずっと伸びていた。
「言い訳ではない。事実の説明だ。我が絶対に悪くないということを説明するにはどうすればいか、思慮を巡らせていただけのことだ」
グリザベルは後ろにかけていた体重を戻すと、ハスキーの手から離れて真っ直ぐ立った。
「二人とも。談笑はかまわないが、まずこの沢の水についての意見を聞きたい」
グリザベルは「ふむ……そうだな……」と、引き寄せられるように、興味の目で辺りを見回す。「変哲もない――というのは、この闇に呑まれた中では成立せぬ。つまりは――」と言葉を止めると、ランプの明かりが届く範囲の沢を行ったり来たり。春の新緑を楽しむかのようにゆっくりと歩いた。
「なにかわかったのだろうか」
エミリアはグリザベルの思案の邪魔をしないように、小声でリットに話しかけた。
「わかってるから、もったいぶってんだ。邪魔すると、へそ曲げるから長引くぞ」
リットは濡れていない地面に座り込むと、先に寝転がっていたヴィコットに小石を投げ「なにしてんだ?」と話しかけた。
会話を始める二人をよそに、グリザベルの大きな独り言は続いた。
「用意した答えが幾千あろうと、大抵は塵の如く吹けば飛んでいくもの。重みのある言葉は吹けど飛ばず、自ずとそこに残る。しかし、その答えは新たな事実を浮き彫りにすることがある。磨けば光る宝石という完成されたものを、魔宝石という新たなものに変えた魔女のようにだ。魔女というのは、いつの時代も常に新たなものを産み出す。産み出すというのは女がすることだ。ゆえに女尊男卑の世界になった。そして、新たなもの産み出すということは、ただ前を見るだけではいかん。様々な方向からの視点が必要になる。正面を見れば正円も、横から見れば楕円に広がる。楕円の魔法陣が残っているのも、旧時の魔女が新たな視点でものを考えたからだ。ミランダという魔女がいる。彼女は不等辺六芒星という――」
「できれば、早く結論を聞かせてもらえるとありがたいのだが……」
エミリアの声色は優しいものだったが、先程まで怒られていたグリザベルにはそれが怒っているかのように聞こえた。
咳払いを一つして、自分の中で一旦の区切りをつけると、グリザベルは結論を話し始めた。
「我らがいるのは闇に呑まれた異変の地。ゆえに不可思議な現象に敏感になっておるが、これはただ正常に戻っているということだ。枯れ沢に水が戻ったのは異変ではなく、暴走していた魔力が安定しただけのこと。元より、ランプは魔力を安定させるためのものだ。グリム水晶の火屋の形を指定したのも、それを利用し魔法陣の魔力を安定させるため。そうエミリアに話しているはずだが」
「それは知っている。だが、それはテスカガンドでのことだ。ランプ一つで安定するものなのか?」
「無理だ。あくまで仮初の安定。光が届かない闇の中で、光るのもまた同じことだ。今回はたまたま波長が合い。『湿』と『冷』が結びつき、沢に水が戻っただけのことだ。ランプの光が届かなくなり、時間が経てば、再び暴走の渦に飲み込まれ沢は枯れるであろう。ゆえに我の結論はこうだ。水に問題はない。魔宝石で水を出すのと変わらぬ」
「そうか……ならば安心だな。食事は水の側で取ることにしよう。リット達はここに残ってランプで沢を照らしておいてくれ」
エミリアはノーラとチルカとハスキーを連れて、荷物を置いている家に鍋や食料を取りに戻った。
グリザベルはしばらく沢を眺めていたが、ふいに「さて……」とリットに声を掛けた。
「火をつけて飲むヒシンって酒で酷い目にあった。なんでも試してみるもんじゃねぇな」
「そんな酒があるのか。こっちにはそれと反対の酒があるぞ。凍った酒だ。みぞれのような酒は飲み干すと、胃の中で溶けて酔いが回るらしい。一気に体が熱くなり、冬でも服を脱ぐらしいぞ」
「なんだ? らしいってのは」
「こうなる前の話だからな。オレも飲んだことがない。古株のゴーストから聞いた話だ」
リットとヴィコットはすっかり話し込んでいて、グリザベルの声は耳に届いていなかった。
グリザベルはもう一度「さて」と仕切り直す。
「いくら体が温まろうと、寒さで縮こまったアレがそこらでぶらぶらしてるのは、酔いも覚める光景だな」
リットが笑うと、ヴィコットもガハハと笑いを響かせた。
「暑さでだらしなく伸び切ったアレがぶらつくよりましだ。ほら、龍玉――」
グリザベルは二人の間に向かって「さて!」と大声を響かせた。
「なんだよ。大声を出さなくても聞こえるっつーの」リットは両耳を押さえて言う。
「聞こえておらんではないか! だいたい二人で仲良く話し込みおって! また我は除け者か!!」
「まぁまぁ、落ち着けグリザベル。話なら聞く」ヴィコットはグリザベルに座るように言うと、「そうだろ?」とリットに同意を求めた。
「かまわねぇけどよ。魔女学の講釈を垂れるなら別だ」
「それはまた別の機会だ」とグリザベルは二人の間に座った。「我の話というのは、ランプになにをしたかだ」
「簡単だ。雲より遥か高くそびえ立つ山に住むドラゴンの灯火と、それより更に高くにいる神様の涙を合わせて、三面五目二尾の珍しいトカゲの鱗で削っただけだ。――こんな場所でなにができんだよ」
要はなにもしてないとリットは言うが、グリザベルはそれはおかしいと肩をすくめた。
「なにもしないで魔力が安定するわけなかろう。歴史の中でも最大のウィッチーズカーズだぞ。全ての絵の具を混ぜ、混沌に染まった水から、特定の色だけ抜き出せるか」
「あのなぁ……」とリットは呆れてみせる。「ランプを作りにあちこち回ってた頃ならいざ知らず。なにもかもが滅んだ闇の中だぞ。なにもねぇし、あったとしてもだ。いきなりランプを改良するような自殺行為をすると思うか?」
ヴィコットは「そうだなぁ……」と眉を寄せて少し前のことを思い出した。「リットがランプの精霊になったこと以外は、ランプの火を強めたくらいなもんだな」
「なるほど」とグリザベルはランプを見てから、その明かりが照らす範囲をゆっくり見回した。「所詮、偶然の産物か……色がないわけだ」
「色というのは草花のことか? そりゃ無理だろう。根が死んでいる」
ヴィコットは枯れた根を土から抜いて言った。細く頼りない根は抜けるというよりも、古糸のようにぷつりと切れた。
「朝に光り咲く花と、夜に光り咲く花。朝と夜が交わる瑠璃色のオイル。このランプが発しているのは昼夜の光だ。朝と夜の繰り返しは命を与える時間の進みだ」
「なら、一日中光を浴びてるオレらは、あっちゅーまに爺さん婆さんだな。帰る頃にはボケて、帰り道もわからなくなってるかもな」
リットが自分の言葉に笑っていると、グリザベルも口の端を吊り上げて笑った。
「そう遠く離れていない。この光の中。我らだけ、正確に時を刻んでいる。そして今は、沢の水も時を刻みだしただけのことよ。お主が偶然ランプの火を強めたことによりな」
「なら、火を弱めれば沢の水はまた枯れるってことか? そりゃ便利なもんだ」
「本当にお主というやつは……もっと驚いたらどうだ? そのランプは調節ネジ一つで魔力の流れを変えているということだぞ。四性質も四大元素も思うがまま。魔宝石は過去のものになる。魔女三大発明に匹敵する。いや、それどころか神の産物と呼ばれる可能性もあるということだ」
「そう簡単にできてりゃ、水を探すのに苦労してねぇよ。できてねぇから、ルートを変更して歩き回ってるんだろうが」
「可能性があるという話をしているだけだ。我はアカリグサのことについて明るくははないし、ノーラの力についても知らぬ。我は元より、三つのランプを使い、テスカガンドの魔法陣を書き換えるつもりだからな。ランプ一つで二つの性質を結び付けられるとは思わなんだ」
グリザベルは我が子を見つめるように、愛しそうにランプを見つめた。
「三つとも形の違う火屋を作れって言われて、そのとおりにしたけどよ……。ランプでどうやって魔法陣を書き換えるつもりなんだよ」
「ランプなのは今だけだ。我が使う時には魔宝石に変わる。そして、テスカガンドの魔法陣も紙と墨ではなく、劣化のない宝石による魔法陣だ。ディアナの大鏡もそうであったろう?」
「大鏡に魔力が流れたときは寝てたから、オレは覚えちゃいねぇよ」
「そう言えばそうだったな」グリザベルは遠い目をして昔を思い出すと「それにしてもディアナは面白き国だった。月の国を治める王は、太陽のような男だとは」と呟いた。
その言葉に、リットは同意も否定もなく、グリザベルと同じように、ただヴィクターのことを思い出していた。




