第三話
ランプが作る影の映らない世界。その狭い部屋の中で浮かび上がる顔は、壁に掘られた彫刻のような無機質な瞳をリットに向けていた。
リットは一度大きく跳ねた心臓の鼓動が喉に蓋をして、声をつまらせていた。
目の前にある情報は、驚きに大きく見開いた目からではなく耳から入ってきた。しかしそれも、遠巻きになにかひそひととささやき合うような声なので、話の内容まではわからない。
その声が止むと、無数の瞳がリットの足先から頭まで注意深く確認するように動いた。そしてまたひそひとと話し合うと、今度は一人がリットの目を真っ直ぐに見て、「おはよう」と挨拶をした。
その男の声は、やたらに大きくリットの耳に届いた。
会話ができるということがわかったリットは、ここでようやく体を動かすということを思い出した。今までひたすらに固まっていた体を起こして、ベッドに座り直すと、なんてことのない事実に気が付いた。
周りにいるのはヴィコットと同じ種族のゴースト達だった。ゴーストの住処に来ているので、ゴーストがいるのは当たり前のことなのだが、あまりに寝起きの不意をつかれたせいで、思考の糸がぷつりと切れてしまっていた。
ゴースト達はリットが喋らないのを見ると、またひそひそと話し始めた。
今度はリットの耳にも、なにを言っているのかが届いた。
耳が悪いのか、喋ることができないのか、我々の姿が見えていないのか、そもそも言葉が通じていないのではないかと、挨拶の反応がないことへの疑問を口にしていた。
リットは安堵のため息をついてから、「聞こえてる。突然の訪問だったから、驚いてただけだ」とゴースト達に言葉を返した。
「突然の訪問はそちらのほうだ。まぁ、我々もただ住んでいるだけの場所だ。好きに使ってくれたまえ。それよりもだ……。君が礼節を知らない族の類ではないのならば、話をする時は目を合わすのが礼儀だと思わないか?」
リットが話していると思っていた、ゴーストの口は動いていなかった。
リットが不思議に眉をひそめると、ゴーストが人差し指を下に向けたので、リットはその通りに視線を下げて彼が持っている額縁を見た。
額縁の中は古い絵画で、丸々としたお腹の老騎士が剣を掲げ、酒場で自分の冒険譚を語っている。というものが本来のあるべき姿なのだが、この絵画の中では、老騎士は椅子に座り、少し苛立ったようにテーブルを指で叩いて、眉を寄せてリットを見ていた。
「こりゃ、驚いたな……。――一人だけ色が着いてる」
他のゴースト達とは違い、額縁の中にいる絵画の老騎士は褪せた絵の具の色をしていた。
「それが自慢である。運んでもらえないと動けない難儀な体だがな」
老騎士は絵画の中で気を良くしたように笑った。
「難儀してるのは、いちいち絵を運ぶ奴のほうだろ」
リットはベッドから立ち上がると、乾いた喉を潤すために鞄についている革水筒を取りに歩いた。その後ろをゴースト達はぞろぞろとついていく。再びベッドに戻るときも、またぞろぞろと付いてきた。
「私はダルダーノ・エイカータンだ。ここに書いてあるだろう」
ダルダーノは右下を指さした。絵画の右下にはダルダーノ・エイカータンとサインがしてある。
「それは絵描きの名前じゃねぇのか?」
「微々たる問題だ。描いた人物もどうせ死んでいる。名前を貰ったところで、誰からも怒られることはない。それよりも、大変喜ばしいことだ! 人間なんてもう百年以上見てないからな」
「オレはがっかりだ。アラスタンって名前だったら、裸の女だってのに。話しかけてきてるのは、むさ苦しい爺さんだぞ」
「女性の方が話しやすいというのならば仕方がない……ちょっと待っていてくれ」
ダルダーノは腕を組んだまま固まってしまった。代わりに絵画の奥にひっそりといた、小指の爪くらいしかない給仕の女の子が歩いてきた。
しかし大きさは変わらず、リットの目には絵画の上に描かれた調理場から、下の額縁までただ落ちただけのように見えていた。
「……オレは豆粒と話す趣味はねぇぞ」
「やはりそうだろう。私もいかにも飢え知らずのようなこっちの体を気に入っている」
ダルダーノは老騎士に乗り移ると、丸々と膨らんだお腹を景気良くぽんと叩いた。
リットが肩を落としてため息を落とすと、ダルダーノは「どうした?」と訪ねた。
「泥酔して寝た時の夢でももっとマシな夢を見る。絵画の中にいる、酒を飲んで頬が赤くなった爺さんと話してんだぞ。これじゃまるっきりアレだ」
「マヌケか?」
「そうだ。ありがとよ。そのとおりマヌケだ。惨めになるから、用がねぇならどっか行ってくんねぇか?」
リットがしっしと手で払うが、ゴースト達は動く気配がない。皆いっせいに視線を下に向けたところで、ダルダーノは「用ならある」と言った。
しかし肝心のその用を言う前に、燃えた木の板を持ったハスキーが戻ってくると、蜘蛛の子を散らすように部屋から全員出ていってしまった。
「起きてましたか。様子を見に戻って来て良かったです」
そう言ってハスキーが部屋に入った時には、ゴースト達の姿は一人も残っていなかった。
「おせえよ……。面倒くせえやつに絡まれたところだ。だいたいランプを持たずに、どこに行ってたんだよ」
「ランプはエミリア様が持っています。今もこの部屋の入口まで一緒でした。これは蜘蛛の巣を焼いてどかすのに使っていたんですよ」
ハスキーは部屋に火を消す道具も、焚べる暖炉もないと知り諦めると、燃える木の板を持ったまま椅子に座った。
「それならゴーストに聞け。戻ってきてたぞ」
「本当ですか? 皆に知らせに行きたいのですが……」
ハスキーはテーブルに置いてあるランプを見つめた。これを持っていっては、リットは闇に呑まれることになる。ランプはもう一つあるが、ノーラがいないと新たに火をつけることはできない。
「ほっときゃ、そのうち戻ってくるだろ」
「そうですね。しかし……時間は有限なので、空いた時間は有効活用するというのがリゼーネの兵の掟でして……」
「わーったよ……寝てたんだから働けってことだろ」
「無理にというわけではないです。リット様はお疲れで寝ていたのですから。回復したのならば、手伝っていただきたいのです」
「真面目ってのは嫌味な種族なもんだ。そうやって正論で徐々に逃げ道を減らしていくんだからな。いいか、言っとくけどな。正論が通用するのは酒場の外だけだぞ。酔っぱらいには一つも正論は通じねぇからな」
「はっ! 肝に銘じておきます!」
「本当になんも通じねぇ奴だな……。ほら、行くぞ」
リットはテーブルのランプを持つと、部屋から出ていった。
埃と腐敗の臭いが混ざる廊下は、足音と一緒に不安定な音を響かせた。
廊下は迷うことはないだろう曲がりのない一本道だが、倒れた棚を跨ぎ、割れた壺を踏み、腐った床板を踏み抜きバランスを崩す。煤けた壁には、体がぶつかって汚れを拭き取った跡がある。
それはリットの分だけではなく、先を歩くエミリア達の分もあった。
リットとハスキーはそう長く歩くことはなく、ランプの光と声が漏れる部屋を見付けた。
「さっき他のゴーストが部屋に来たぞ」
リットは文字通り机をひっくり返して地図を探しているヴィコットに声を掛けた。
ヴィコットは持ち上げていた机を乱暴に床に落として振り返ると、「それなら戻って聞いてみたほうが早いな。誰か地図を見かけたかもしれん」と部屋を出ていこうとした。
「もう、部屋にはいねぇよ。犬が苦手なのか、ハスキーが来たら逃げていった」
ヴィコットは「そんなハズはないんだがなぁ……」とハスキーを見ると、手に持った燃える炎を見て、すぐに自分の足元に視線を移した。
すると影がヴィコットを肯定するようにうなずいた。
「なるほど、戻ってきたのは昔からいるゴーストだな。争いの原因が急に現れたから、動揺して逃げたんだろう。協力的な派閥とは言えんが……まぁ、探して聞くだけ聞いてみよう」
ヴィコットは行ってくるとリットの肩を叩くと、一人闇の中へと消えていった。
「旦那がわざわざ言いに来るなんて珍しいっスねェ。もしかして目を覚まして誰も居なかったから、寂しくなって探しに来たんスかァ?」
ノーラは雑巾の端をつまんでクルクル振り回しながら言った。
「目を覚ましたらゴーストまみれだぞ。それに加えて絵の中の爺さんとお喋りだ。そのせいでまだ夢見心地だ。それで、オマエらは部屋を掃除してんのか? それとも、汚してんのか? はたまた集団生活に限界を変えて狂ってる最中なのか?」
リットは部屋を見回して言った。エミリアは雑巾で汚れた壁を拭いているが、グリザベルは椅子に座って本を読んでいる。チルカは家具の隙間に入り込んでは、なにかを取り出しては投げ捨てて床を汚していた。
「エミリアは見ての通り掃除ですよ。グリザベルは興味のある古い本を見付けたから読み耽ってまして、チルカはいつもの使えるものないかなァの家探しっスねェ。私はどれも飽きてヴィコットとお喋りしてたんスけど、どっかに行っちゃいましたねェ」
「オレにはそもそも掃除をしてる理由もわかんねぇよ。まさか屋敷を立て直すつもりじゃねぇだろうな」
「最初はリットの寝ていた部屋を使う予定だったのだが」と掃除をする手を止めてエミリアが歩いてきた。「あの部屋では全員が寝るには狭い。それで、ヴィコット殿にこの部屋を紹介して貰ったんだ。埃まみれの部屋で寝るのは嫌だろう?」
「そうでもねぇよ。慣れたもんだ。オレもその他もな」
「どうやら……そのようだな……」
エミリアは掃除をする気のないグリザベルとチルカを一瞥してため息をついた。
「外で寝るのも、埃まみれの部屋で寝るのも変わんねぇだろ。無駄に体力を使うだけだと思うぞ」
「変わらないのならば、変えるまでだ。部屋で寝るというのはそれだけ効果がある。リットも旅を重ねてきたのならばわかるだろう」
「まぁ、泥酔して街角で寝るよりは、泥酔して酒場の床で寝るほうがマシだな。でも、他人の家を掃除するのに比べりゃ、街角で寝るほうがマシだ」
「まったくしょうがない……。なら掃除は私達でやっておく」エミリアは言われずとも既に掃除をやり始めたハスキーを見てから、再びリットの顔を見た。「リットは夕食の支度をしておいてくれ」
「まぁ、腹は減ってないと嘘をつく理由はねぇな」
リットは寝起きで空腹の声が鳴くお腹に手をやりながら言った。
「厨房には、私が案内しますぜェ。旦那ってば、目を離すと楽して一気に材料を入れちゃうんスから」
ノーラは鍋を頭から被り、ナイフを腰につけ、片手に食材を持った。そして空いたほうの手でリットのお尻を押すと、掃除からさっさと逃げるようにとドアへと急かした。
「たかがスープだぞ。煮込めば全部同じ味だ」
「だから旦那のスープは、めろーってなったり、ボキョボキョってなったりするんスよ。食べ物には美味しい柔らかさってもんがあるんですよ」
「全部黒焦げにする奴には言われたくねぇよ」
リットはノーラから食材の入った袋を受け取ると、ランプを片手に部屋を出ていった。
ノーラに案内された厨房は壁は崩れ、床は土に侵食されていた。暖炉はなんとか形を保っているが、煙で燻して温めると、長年の汚れが煙突から落ちてきそうだった。
「屋敷って言っても、結局焚き火で調理とはな。文明ってのは脆いもんだ」
リットは壊れた椅子を踏みつけて木材に変えると、適当に石畳の上に蹴り寄せ、ノーラはそれを一箇所に集めるとマッチを擦った。
大きな火柱は、木に燃え移るとさらに大きな火柱を上げた。
「そういえば、ゴーストの争いの原因ってなんなんスかねェ……」
「んなもん、影のことに決まってんだろ。ハスキーが火を持ってきて影ができた途端逃げたからな。ヴィコットも言ってただろ。争いの原因が急に現れたから逃げたって」
「私にしてみれば、影があるのが普通なんですけどねェ」
ノーラが薪変わりの家具の破片を焚べると、生き物の鳴き声のような音を立てて火柱が上がり、小さな影を長く伸ばした
「ほっとけほっとけ。気にしてたら、関わることになるからな。争い事に首を突っ込むなんて、マヌケのやることだ」
「旦那は結構揉め事に首突っ込んでますよ」
「だから言ってんだよ。軽い気持ちで首を突っ込んだせいでこの有様だ。こんなとこにずっといたら、酒も抜けて健康になっちまうな」
リットは水を入れた鍋を雑に焚き火の上に置いた。鍋の重さに薪が砕けて火の粉が飛び散るが、ノーラのつけた火はそんなことでは消えはしない。
そしてまだ水がお湯に変わらないうちに、ダーレガトル・ガーの稚魚の繭を鍋に入れた。
「いやーそれにしても……こんなのが美味しくなるなんて、ヴィコットはなんでも知ってますねェ」
ノーラは鍋をかき回しながら言う。溶けた繭は溶き卵を入れたように細く平たく伸び、ネバネバとした光沢を出して広がる。
「食材には詳しいな」
「それだけじゃないっスよ。旦那とも、チルカとも、グリザベルとも、全員とまともに喋れる人なんてなかなかいないってなもんスよ。臨機応変。有言実行。気丈夫で、豪胆。頼もしい限りっスよ」
「その完璧な男も、永遠の命だけは手に入れられなかったわけだ」
リットが適当に乾燥野菜を鍋に入れると、湯気に食べ物らしい匂いが混ざり始めた。
「第二の人生を楽しんでるってだけで、勝ち組の気がしますけどねェ。私も生まれ変わったら、こんな変な能力とはおさらばして、美味しい料理を好きなだけ作ってみたいもんですよ」
ノーラは薪を足して、鍋を包むように上がった火柱を見て言った。
「生まれ変わるなら、この旅が終わった後にしてくれ。ここで変な癖をつけられて、ランプをに火をつけられなくなったら、全員闇に飲み込まれて死んじまうからな」
「それじゃあ旦那の言ういつもどおりで、なにも考えずにほやほやっと生きることにしますよっと」
ノーラは食料袋を枕代わりに寝転がると、鍋が煮えるのを待つ間。ナッツをつまみながらごろごろとし始めた。




