第二話
何日歩いたかは、正確にはわからない。寝て起きれば一日。この数え方をするのならば、川沿いの村から十五日は経ったことになる。
ヴィコットが言うには、もう少しでゴーストが住処にしている屋敷に着くということだが、リット達の目は凝らせど凝らせど闇が映るだけなので、ヴィコットの話を信じるしかなかった。
変わらない、先の見えない道を歩く最中。グリザベルが唐突に疑問を口にした。
「時にヴィコットよ。その目はどこまで見通せる」
「始めはツンケンしている女でも、こっちに揺れ動いた時の心の傾きは見通せる。そんな時に一歩引いてやると、傾きすぎて転がり落ちてくるものだ」
「そうではない……。この闇に呑まれるという現象は、魔力の暴走でできたものだ。つまりただの闇ではない。闇夜とは違う。夜目がきいても見通せるものではない。我はゴーストと魔力の影響に興味があるのだ。生と死というのは、ディアドレが研究をしていたエーテル同じだ。一度死を受け、もう一度生を与えられた身のゴーストと関係があるのではないかと思うてな」
グリザベルはヴィコットの体を興味深く眺めた。
ヴィコットの体は全てがしっかり存在しているわけではない。頭から下にいくにつれて、存在があやふやになっている。足元は地面についているのかどうかもわからない。それは、無いわけではなく、透明とも形容し難く、瑠璃色のオイルの入ったランプの明かりの外の世界のようだった。
しかし、立ち上がる。歩き出す。飛び跳ねる。ヴィコットの動作はすべて目に見える。それは本当に見えているのか、足りない情報を頭の中で勝手に想像して補完しているのかはわからない。
その不確かさが、グリザベルは気になっていた。まるで闇に呑まれたようだと。
「そうだな……」とヴィコットは目を凝らした。「わかりやすいものだと、あと数百歩も歩けば岩が見える。その先はオレの目にも闇の壁だ」
問いかけの答えを聞いたグリザベルは「ふむ……」と難しく両眉を寄せた。「このランプの明かりよりは遠くが見えるようだが、影響はあるというわけか」
「影響といっても、オレにとっては関係のないことだ。こんな世界でも楽しくやってる。もっとも他の世界は、おぼろげに頭の片隅に張り付いているだけだがな」
「ゴーストは生前の記憶がないに等しいというのは聞いておる。知識とは宝だ。それが忘却の淵に沈み込んでしまうのなら、我には耐えられんな……」
この言葉はグリザベルなりの慰めの言葉だった。記憶をなくし、一からの人生を明るく生きていることへの称賛だった。
そんな意味を知ってか知らずか、ヴィコットは豪快に笑い飛ばした。
「たしかに知識は宝だな。だが、経験として磨き光らせることで価値が出る。貯め込むだけでは埃と一緒だ。それに、オレは体験から知識を得るタイプだ。飛び込んでみなければ、水の深さはわからないからな」
「なるほど……」とグリザベルはこれまでのヴィコットの行動を思い出した。ミトリダケや土にいる魚など、知識だけでは探すのは困難だ。経験という裏付けがあるからこそ、容易に見つけられたのだった。「ヴィコットの知識は、体験から得られたものが多いな」
「どっちが良い悪いということはない。考え方の違いというだけだ。だが、それがややこしいとも言える……」
ヴィコットは今まで見せたことのない、深い溜め息をつく姿を見せた。
「悩みならば……と……友の我が相談に乗ってやろう」
グリザベルの友という言葉を否定せず、ヴィコットはおもむろに口を開いた。
「ゴーストは今……争いの最中にある。争いと言っても、言い争いだがな。若い世代と古い世代の価値観の相違というやつだ。平たく言えばどこにでもある世代間のギャップだ」
「解決なき、主義主張の争いか。魔女にもあることだ。伝統を守るか、革新を受け入れるか。知恵なき者は短絡的な答えを求め、二つに一つを迫る。だが我は古きを知り、新しきも知り、己の価値を見付ける」
「オレもそのタイプだ。いいとこ取りをするからこそ、新たな道が開ける。だがな、時代というのは植物と一緒で、長い年月と共に根を深く張る。根深いと、元の目的はどうでもよくなってしまう。勝ち負けか、敵か味方か。それがすべてだ。自分と異なる意見は敵。中立というのはどちらからも敵になってしまう」
ヴィコットはどうしたものかと、困って頭をかいた。
「時代に根が張ったものは、時代とともに根腐れするのを待つしかない。そうして、また誰かが時代の種を植え、論争と共に育っていくものだ。大要は、その種を植えるのが誰かということだ。声なき者は種を植えることもない。いつの時代も声の大きいものが種を植える。故に、同じことを繰り返す」
「育った木を切り倒す快感はたまらんぞ。木に刃を入れた瞬間は非難轟々だが、木が倒れる音と共に大歓声が上がる。あれは時代を作り上げる音だ」
「まるで革命者のようなことを言う。だが、我も今回の旅で一つの魔女の時代に終止符を打ち、新たな魔女の時代の産声を上げるつもりでおる」
グリザベルがフハハと笑いを響かせると、ほぼ同時にヴィコットもガハハと笑い声を響かせた。
「結局なんの話だったんスかねェ」とノーラが呟いた。
興味がある話題ではないが、闇に呑まれた中で他に聞くものがないので、自然に耳を傾けてしまう。しかし、結論がなにかわからないまま、二人が笑いを響かせて話を止めたせいでモヤモヤしていた。
「あれがグリザベルなりの世間話だ。世間話に意味なんてねぇからな。遠回しの言葉だけでも疲れるのに、意味なんて考えてたら余計に疲れるぞ」
リットの言葉の端々に吐息が漏れる。
酒はほとんど飲まず、夜に寝て朝に起きる。闇に呑まれた中のほうが、普段の生活よりも健康的な生活を送っているのだが、今までが今までの生活なので、リットの体から疲労がなかなか抜けていかなかった。長時間歩き続けるというのに、体も心もついていけない状態がずっと続いていた。
ノーラと喋りながらも、背中の鞄の重みに負けて、視線はずっと下を向いている。
「世間話って、もっとこう……当たり障りのない言葉の中に、心を弾ませるなにかがあると思うんスよ。あそこの新作のパンが美味しいとか、狩りに出かけたから今日は町でお肉が売られるとか。ほら、ヴィコットを見てるとご飯を食べるわけですし」
「期待をしても無駄だぞ。ゴーストの住処って言っても、闇に呑まれた中だ。今まで食ってきたもの以上のが出ると思うか? 港町とか川沿いの町に行くわけじゃねぇんだ」
「旦那ァ……世間話はいかに長く続けるかのゲームみたいなもんですぜェ。それをぶった切っちゃ、無粋ってものっスよ」
「世間話ってのは、いかにさっさと話を切り上げるかのゲームでもあんだよ。そもそも勝ちなんてありえねぇけどな。切り上げたら、次回に持ち越し。負けたら、時間の大切さを思い知らされる。世間話ってのは、酒場以外でするもんじゃねぇよ」
「なにをなにを、今まさにこの会話こそ世間話ってなもんですよ」
「疲れてる時に、疲れる問答をさせんじゃねぇよ……」
「疲れてるからこそ気を使ってるんスよ。ただ無言で歩くより、喋ってたほうが気が楽でしょ?」
「気を楽にさせてぇなら、目的地まで一瞬で移動させてくれ」
ノーラは「もう、しょうがないっスねェ……」と足を止めて言うと、絞りきった雑巾をさらに固く絞る時のように、震えた唸り声を上げた。そして、ふぅ……と息を漏らすと、さらに一呼吸置いてから「さぁ、つきましたよ」と明るく弾んだ声で言った。
リットが顔を上げると、屋敷の門だと思われる格子があった。
「もうついてたなら、そう言え……」
「旦那だけっスよォ、気付いてなかったのは。下ばっかり見てるから」
「カビ臭くて、埃臭くて、傷んでるが、我が家みたいなもんだ。オレが使ってる部屋に案内しよう」
ヴィコットが錆びきって、死んだ爬虫類の肌のようになった鉄製の門を手で押すと、耳の奥が痒くなるようなキィキィと鳴き声を発しながら門が開いた。
ヴィコットに案内されて、屋敷の中に入ったというのは、足元で床が不安の音を立てて軋んでから気付いた。回りが見えないと、屋敷にいても外にいても変わらなかった。川沿いの村で休息をとったような小さな家ならば、ランプの照らす範囲に壁が映り、建物だと認識できたが、広間のような場所を歩いていると、壁のない外と同じようなことだった。
だが、グリザベルは「ヨルムウトルと似て、落ち着くものだ」と懐かしさ似た感情に声を上ずらせた。
エミリアも「住み慣れた屋敷というのは安心するな」と同調する。
「太陽がねぇと参っちまうのに、こんなとこの屋敷で安心すんのか?」
リットは疲れから既に背中の荷物を下ろし、床に引きずり歩きながら言った。
「屋敷というのは家だ。迷路ではない。そのものの作りは似たようなものだ。どこになにがあると、大体のことをわかっているほうが安心する」
「なら、さっさと汚ぇベッドまで案内してくれ。ベッドの中まで案内しろって言ってるわけじゃねぇんだから簡単だろ」
エミリアは「言葉に気をつけろ」と注意してから、ヴィコットに「失礼をした」と、リットの代わりに頭を下げた。
「たしかに失礼だな。オレはベッドの中まで案内されたほうがいい」
ヴィコットがガハハと笑うと、ランプの明かり内でその声が響いた。響くのはヴィコットの笑い声だけで、他のゴーストはいる気配もなかった。
それが気になったエミリアは一瞬だけ視線を彷徨わせた。
その僅かな動作に気付いたヴィコットは「出掛けているんだろう。なにもないところだからな。皆暇つぶしに必死なんだ」と、エミリアの疑問が心配に変わらないうちに言った。
「なるほど。それでヴィコット殿も川まで?」
「そうだ。前はこの地にも、闇に呑まれていない場所もあったんだが、そこも闇に呑まれてしまってな……。遊び相手の影がいなくて、暇でウロウロしていたところを、同じようにウロウロしてるリットを見付けたんだ。運命の出会いというやつだ」
ヴィコットは歩みの遅いリットの元まで行くと、手を回してがっちりと肩を組んだ。
「……女好きって噂はカモフラージュなのか? なら、諦めてくれ。今のところ性的魅力は女にしか感じねぇからな」
リットが肩に回されたヴィコットの手を振り払うと、ヴィコットは少し眉を寄せて肩をすくめた。
「オレもリットには然程性的魅力は感じん」
「……過大評価してくれてありがてぇけどよ。この肩の手と、近付いた顔と、然程って言葉が合わさると、不安にしかなんねぇよ。酒をおごられてる女の気持がよくわかる」
「冗談だ。女は大好きだ。柔らかく良い匂いがするからな。所作の一つ一つに、心が跳ね上がる存在が他にあるか? だが、気の合う男友達というのも、なかなか出会えるものじゃない。女とは別れることもあるが、友情は一生ものだ。道を違っても、再び交わうことはある。これぞ運命というものだ」
「よく口に出してこっ恥ずかしいことを言えるな。普通は愛より友情を語るほうが躊躇うぞ」
「言葉にできる感情は全て言葉にする。というのが、オレの信条だからな。今の感情はこうだ。でかい顔をして屋敷に案内したが、地図が見つからなかったら赤っ恥だ。まぁ、そのうち他のゴーストも帰ってくるだろう。誰かに聞けばわかる」
ヴィコットは自分が使っているという部屋の前まで案内すると、周りを見てくると闇の中へ消えていった。
リットは部屋に入るなり、テーブルを動かし部屋の中心に持ってくると、部屋全体を照らすようにそこにランプを置いた。
当然ながら床も壁も天井も汚れており、家具のほとんども壊れている。ランプを置いている丸型の小さなテーブルは、三分の一ほど欠けており、二つあるベッドは両方共真っ二つに折れていた。
装飾品はどれも元の形も、価値がわからない。それほどまでに汚れたり、壊れたりしている。
「死体がないだけましだな」
リットは折れて谷になっているベッドに横になった。寝心地の良さなんてものは皆無だが、一度横になると動くのさえ面倒くさくなるほど疲れていた。
見かねたハスキーが、廊下から折れた木の板やちぎれた絨毯などを拾ってきて、リットが寝たままのベッドの下に挟み込んで高さを調節した。
リットは軽い口調でハスキーにお礼を言うと、「オレは寝るからあとは勝手にやってくれ」と言葉通りすぐに寝息を立てた。
「本当自分勝手な男ね」
チルカは降り立ったテーブルの上から、すぐにまた飛び上がった。たまり過ぎた埃の厚みが、蛇の抜け殻を踏んでいるようで気持ち悪かったからだ。
靴の裏についた埃を蹴るような動作で払っていると、「やはり今は誰もいないみたいだ」とヴィコットが戻ってきた。
「アンタよくこんな部屋に女の子を呼べたわね」
「掃除好きの女が、だらしないんだから。と掃除をしてくれるのを期待してるんだ。男の夢だろ?」
ヴィコットはハスキーを見るが、ハスキーは自分にはわからないと首を傾げた。
「自分はそういうことに疎いのでなんとも……。それよりも、地図を探すのならば、その間に掃除をしておきましょうか?」
「それはいい提案だ。今日はだいぶ歩いたからな。再び歩き出すより、ここで一晩を明かしたほうがいいだろう。それなら部屋は綺麗な方がいい。どうせやることがないんだ。掃除も暇つぶしになる。水は井戸がある。厨房から見える庭だ。案内したほうが早いな」
ヴィコットが手招きして部屋を出ていくと、一同は二つ目のランプを持ってそれに続いた。
そして、しばらく時間が経ち、誰もいない静かな部屋に残されたリットは深い眠りについていた。しかし、静かすぎるため。何かが軋む小さな物音でさえ、目を覚ますには充分だった。
リットは目を開けてすぐさま仰天した。最初に目に映ったものが、無数の顔でそれがすべて自分に視線を向けていたからだ。




