第五話
言葉にならない叫び声のようなものと、なにかがぶつかる音がリットの鼓膜に鋭く突き刺さった。
反射的にベッドから跳ね起きると、ローレンが窓の外を見下ろしたままの姿で固まっているのが見えた。
「……なんなんスかァ」とあくび混じりにノーラが起き出した。
チルカに至っては、無言でローレンの背中を睨みつけている。
ローレンは蒼白になった顔だけをリット達に向けた。小刻みに体を震わせて、なにかを言おうと、口を魚のようにパクパクさせている。
「……あのなぁ。いくら億劫だと思っても、窓から小便するのはやめとけ」
「バカなことを言ってるんじゃないよ!」
ローレンはリットの元まで早足で向かうと、襟を掴んで引きずった。
細い腕のどこにそんな力があるのか、リットを持ち上げると窓から突き落とすように窓枠へと押し付けた。
「おい、落ち着け! ここから落ちたら、オマエの小便溜まりの上に落ちるだろ!」
「いいから外を見るんだ!」
ローレンに頭を鷲掴みにされたリットは、強引に顔の向きを地面へと変えられた。
リットの視線の先には、あるべきものがなかった。
この二階の窓からは、宿屋の入り口付近に建てられた鉄製の街灯が二本見えるはずだが、草の上に固定台の跡が残っているだけだった。その横には、まだ新しい固定台の跡が残っている。
点々と続く跡を目で追って行くと、上下に揺れる火の玉のようなものが見える。
それは街灯だった。
街灯は人間で言えば膝を曲げるようにして、元の真っ直ぐに戻る時の反動でジャンプをするように移動していた。
家のまわりを取り囲むように密集した街灯は、窓から家の中を覗くような動作を見せていた。
三連灯の真ん中の灯具は顔のように首を傾げ、両端の灯具は手のように動いている。
家の中を覗いていた街灯が、左の灯具で手招きをして他の街灯を呼び隣の家へと移動すると、残りの街灯もそれに続いた。
無機質な街灯がまるで人間のように動いている。寝起きのせいだけではなく、夢を見ているような光景だった。
リットは窓枠に額を付けると長い溜息を吐いた。
その様子を見たローレンは、自分以外も恐怖を体験した安心からか、少し落ち着きを取り戻していた。
「気持ちはわかるよ……。あんな不気味な光景は見たことがない」
ローレンは壁の影に隠れるようにして外の様子を伺いながら、そっと小声で言った。
リットはゆっくり窓枠から額を離すと、宿屋の方に移動してくる街灯を見る。
「これで、原因を解明しなけりゃいけなくなったな……」
「いっそこのまま寝て、これは夢の中の出来事でしたってことにするとかどうっスかね?」
ノーラはまだ窓から街灯を眺めていた。
「ローレンが声を上げなけりゃ、それで通せたかもしれねぇけどよ……。もう無理だろうな」
ローレンの叫び声に起きたのか、徘徊する街灯に気付いて起きたのかはわからないが、下の階から人が活動している音が聞こえてきている。
下にいる宿屋の主人も、リット達が外の様子を伺っていることに気付いているだろう。
「キミ達は怖くないのかい!?」
思いの外冷静なリット達を見て、ローレンが徘徊する街灯を見た時よりも信じられないと言った顔をする。
「別に襲われてるわけじゃないっスからね」
「でも街灯が動いてるんだよ! 話に聞いていたとしても、驚くのが普通じゃないか!」
「鉄製の街灯が曲がったり動きまわったりするのは驚いたが、動きまわる光なら見慣れてるからな」
リットは、眉をひそめたまま微動だにしないチルカを見ながら言った。
テーブルの上にいるチルカは、後頭部を手で押さえて、ゆっくりさすりながらローレンの顔をじっと見ている。
その傍らには、木製のコップが倒れて転がっており、コップに入っていた水がポタポタと血のように床にこぼれていた。
「リット……。その妖精のチルカなんだけど……。僕を睨んでいるように見えるんだけど」
「夜中に起こされて機嫌が悪いんだろ。オレだってムカついてるぞ」
「キミはともかく。……悪かったねチルカ。夜中に起こして」
ローレンが申し訳無さそうに言うと、チルカはおもむろに口を開いた。
「コロス」
ゆっくりとつぶやいたチルカの声には感情がなく、不思議と部屋に良く響いた。
「えっと……聞き間違いかな?」
「コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル」
チルカはさっきよりもゆっくり口を動かし、一音一音区切って言葉にした。
リットが聞いたなにかがぶつかる音は、チルカがコップに頭をぶつけた音らしい。
リットより一瞬早く、ローレンの叫び声に飛び起きたチルカは、水が入ったコップが倒れる程勢い良く頭をぶつけた。その原因を作ったローレンに、怒りと恨みを込めた視線を送り続けている。
「気を付けろよ、ローレン。チルカは本当に寝込みを襲うぞ。オレの時は植木鉢を落とされた」
「アレは、アンタが私の水浴びを覗いたからでしょ」
「鍋で水浴びしてるのが悪いんだろ。生き物が鍋の中に入る時は、ダシを取る以外はねぇんだよ」
「私にとって鍋はちょうどいい大きさなのよ!」
植木鉢なんてものを落とされてはたまらないと思ったローレンは、両手を上げて降参のポーズをとる。
「チルカ。僕はリットと違ってキミをバカにはしない。まずは話し合いをしようじゃないか」
「……いいわよ。でも――」チルカは部屋の隅にあるクローゼットを指差す。「――でも、話し合いをするには、アレが倒れるまでローレンが頭をぶつけてからよ」
「……アレが倒れるまで頭をぶつけたら、僕は死なないかい?」
「そうね。なにか問題ある?」
それはさすがにと思ったローレンが抗議しようとテーブルに手を着くと、テーブルが傾いたのか、コップが転がり出してチルカの身体を轢いて床に落ちた。
「ぐえっ」とブサイクな声を上げたチルカは、しばらくそのまま倒れていたが、ゆっくりと立ち上がるとパタパタと服の水を落とした。「なるほど……。これがアンタの答えってわけね。上等じゃない」
「ちょっと待ってくれたまえ! 今のは事故で……。とにかく違うんだ!」
二階の喧騒が心配になった宿屋の主人が部屋のドアをノックし、心配そうに「大丈夫ですか?」と声を掛けながら部屋に入ってきた。
「ただの虫と、浮気の虫が騒いでるだけだから心配いらない」
「そうですか」宿の主人は、ほっと胸をなで下ろす。「てっきり、街灯が襲って来たのかと」
「今まで危害を加えられたことはないんだろ?」
「……そうなんですが。毎晩徘徊して家の中を覗かれると、品定めされているような気がしましてね」
宿の主人は、首を伸ばして窓の外の様子をチラッと見ると身震いをした。
「一体家の中のなにを見てんだ?」
「なにを見てるんでしょうね……わかりません。何もしないとはいっても、念のため外には出ないほうがいいですよ。夜が明ける前には、ただの街灯に戻りますから」
街灯は夜の間中動きまわるわけではなく、ある程度徘徊すると収まるようだ。
「なにがしたいんだあいつらは」
リットは窓の外に目を向ける。すると一つの街灯の動きが止まった。すぐにまた動き出したが、一瞬ないはずの目と目があったような気がした。
「気になるようでしたら、窓に板を打ち付けましょうか?」
「いやいい。それより酒をもらえるか?」
「お酒ですか。お待ちください」
宿の主人は恐怖を紛らわすためだろうと、急いで酒を持ってくると念の為に安全に気を配るように言い残して階段を降りていた。
リットは床に落ちていたコップを拾い上げると酒を注いだ。
「旦那ァ。今頃酒を飲むと朝起きれなくなりますぜ」
「良い気分の時は酒を飲むのに限るんだよ」
「なんスか? 良い気分って」
「敵同士が潰し合う姿を肴に――乾杯」
リットは暴れまわるチルカと逃げまわるローレンを見ながら、コップを高々と掲げた。
朝になり、窓から外を見ると、街灯は元の場所に戻っていた。
リットは宿の外に出て街灯に近づいて観察するが、とても昨晩動いていたようには見えない。
鉄のポールにも、灯具を支えるアームにも、不自然に曲がったような形跡はなかった。
「どうだい? なにかわかりそうかい」
リットに声を掛けたのはコニーだ。近づいてくると、確認するように街灯のポールをさすった。
「わかることはないな。でも、試したいことは一つある」
「それは良いことを聞いた。どうだい? 朝食はまだだろ? 一緒に食べながら話を聞かせてくれないか」
「そうだな」
リットがコニーの家へと向かおうとすると、コニーはリットを止めた。
「……妻もいるんだ。着替えてから来てくれ」
リットは上半身裸だった。
「酒を飲んで熱くなったから脱いだんだったな……」
「先に帰って妻にリットが来ることを知らせておくよ」
リットは宿に戻るとクローゼットを開けた。中には死体のように横たわって寝ているローレンがいた。
「どこで寝てんだよ、オマエは」
つま先で小突くと、ローレンは呻きながら目を開け「チルカは?」とリットに聞いた。
「チルカ?」リットは部屋の中を見渡すと、ベッドの枕の上で寝ているチルカを見つけた。「寝てるぞ」
「そうか、良かった……。キミが酔いつぶれて寝てからも大変だったんだよ。おかげで一晩クローゼットの中で籠城する羽目に……」
クローゼットから這い出てきたローレンは、シワを伸ばすように服を払った。
「妖精相手に下手に出るからそうなんだよ。因縁つけてきたらデコピンでもしとけ」
「絶対間違ってるハズなのに、キミの言うことが正しい気がしてきたよ……」
リットはクローゼットからシャツを取り出して着る。
「出掛けるのかい?」
「あぁ、村長のところで飯だ」
「悪いけど僕は行かないよ。この町で宝石を売る準備をしなくちゃいけないからね」
「誘ってねぇよ。朝っぱらから男と二人で仲良く歩く趣味はねぇからな」
そう言うと、リットは部屋から出て行った。
コニーの家に着くと「話の前に、ご飯にしようか」と、コニーが提案をしてきた。
「食べる前でいい。短い話しかしないからな。取り敢えず街灯のオイルを変えてみて、少し様子を見ようと思っている」
リットはポケットからオイルを出してテーブルに置いた。オリーブのオイルと、妖精の白ユリのオイルと、ヒハキトカゲのオイル。
ヒハキトカゲは体内に火袋という器官があり、そこに燃焼性の高い油を蓄えている生物だ。
外敵から身を守る時にこの油を喉奥から霧状にして吹き出し、火打ち石のようになっている前歯をこすり合わせて発火させる。空気が乾燥し始める秋になると、このヒハキトカゲのせいでよく山火事が起きたりしている。町でもぼやの原因になったりしているので、場所によっては害獣指定されていた。
油は火のつきやすさから、薪に数滴垂らして焚き付けに使われることが多い。ヒハキトカゲの唾液は口内が火傷しないように粘着性の強いものになっており、この唾液と火袋の中の油を合わせると、火のつきは多少悪くなるが、その分火が長持ちするのでランプのオイルとしても使われている。
「……本当に短いね。心配になるよ」
「心配するなよ」
「そうかい? 頼もしい言葉だね」
「どうせ役に立たないんだから、心配するだけ無駄だ」
「それじゃダメじゃないか……」
それから二日経ったが、変化といえば妖精の白ユリのオイルを使った街灯の下に、生きのいい新芽が生えたくらいだった。
その日の夕方。カップル二組に指輪を売って嬉しそうなローレンと違い、リットの表情は暗かった。
「旦那ァ、なにやってんスか」
ノーラはテーブルに向かってなにか書いてるリットに話し掛けた。
「無駄になった金を計算してんだよ。ヒハキトカゲのオイル自体はそうでもねぇけど、混ぜる唾液が高えんだよなぁ……」
リットが酒に手を伸ばすと同時に、音を立てて勢い良くドアが開かれた。
振り向くと、何かに隠れて腰を抜かした宿屋の主人の姿が見えた。
そのまま視線を上げていくと、ランタンを持ったカボチャが立っていた。正確に言うと足は無いので浮いている。夏だというのに襟付きの黒いコートを着て、手には白い手袋をはめている。
「ジャック・オ・ランタンですねェ。酒好きですから、旦那を仲間だと思って迷い込んで来たんじゃないっスか?」
「アンタが死んだ後は、あーなるのかしら」
「その時は、ランタンの中にオマエを詰めて彷徨ってやるよ」
「アンタと二人きりで彷徨うとか地獄でしかないわね。ていうか、あのカボチャ頭、アンタに用事じゃないの? ずっと見てるわよ」
ジャック・オ・ランタンは、リットの目の前まで飛んできたが、それっきり動くことはなく、カボチャに開けられた穴で出来た顔で表情を変えることなくリットの顔を見ていた。
「なんだよ。用があるなら喋れよ」
「無理っスよ、旦那ァ。ジャック・オ・ランタンは喋れませんって」
動かないジャック・オ・ランタンに、リットは苛立たしげにテーブルを指で叩いた。
音が強くなると、ジャック・オ・ランタンは、なにか思い付いたように顔を上げた。
手袋を外し、枝で作られてた手を出す。そして、ランタンの中に枝の指を突っ込み火をつけると、すぐに手を振って火を消した。
そして、炭になった指先を使ってテーブルに置かれた紙に文字を書き始める。
リットはかすれた文字を読み上げた。
「「主がお呼びです」だ?」
ジャック・オ・ランタンは、コクコクと頷いた。
「どこにいんだよ。その主は」
リットが聞くと、ジャック・オ・ランタンは再び指先で文字を書いた。
『主は城でお待ちです。私は貴方様を連れてくるように頼まれました』
「行かねぇよ。理由がないだろ」
『主は貴方様に大変興味をお持ちです』
「用があるなら、そっちから来いって言っとけ」
リットは、ジャック・オ・ランタンに向かって帰れと手を払った。
『主は体が弱い女性ですので、この村まで来るのには一苦労なのです』
「よし、行こう!」
声を上げたのはローレンだ。瞳を輝かせて拳を握っている。
「行かねぇって言ってんだろ」
「リット……。僕がなんの為にキミについてきたのか忘れたのかい? 女性と出会うためだよ。キミがどうしても行かないと言うなら、こうだ!」
ローレンはリットの手元の紙に指を差した。指先には先程までリットが計算していた、オイル代諸々が書かれている。
「……このお金は僕が出そう」
ローレンは絞りだすような声で言った。
「それじゃ、無理だな……。街灯が徘徊する問題を片付けるには、まだ金が掛かるはずだ。その分も出すなら考えてやってもいい」
「くっ……。しかし、この問題が解決すれば謝礼が出るんだろう? 全額負担というのはちょっと……」
あーでもないこーでもないと、しばらく二人の問答は続いた。
ジャック・オ・ランタンが心配そうに見守る中、リットがパンっと手を叩いた。
「じゃあ、会いに行く女が美人だったら全額負担ってのはどうだ? 普通の顔だったら七割負担」
「よし! それでいい。その代わり、女性の顔が悪い、もしくは胸が小さかったら半額までしか出さないよ」
交渉がまとまると、リットとローレンは握手を交わした。
チルカはゴミを見るような目つきで、二人を見ている。
「……あんたら最低の賭けしてるわね」
「来たくなかったら来なくていいんだぞ、半額」
「ちょっと! それってブサイクってことじゃないでしょうね!」
「おい、カボチャ。まさか歩いて行くなんてことはないだろうな」
『表に馬車を停めてあります』
「用意がいいもんだ。ノーラ、支度しろ」
リットはコップに残っている酒を飲み干すと椅子から立ち上がった。
「無視しないで、答えなさいってば!」
「性格なら、半額どころかただ同然だな」
「アンタ人のこと言えないでしょ!」
『あの……。出来るだけ、お早く』
ジャック・オ・ランタンの指は文字を書きすぎて短くなっていた。
宿の前にはダークウッドで作られた黒い馬車が停めてある。いかにも年代物の馬車といった風で、今では見かけないようなタイプだが、車輪は新しく、今でも整備して使っているのが見て取れた。
「カボチャの馬車じゃないんスねェ。なんかつまんないっス」
『無理言わないでください』
ジャック・オ・ランタンは、リット達を馬車の中に押し込むと、御者台に座り手綱を握った。
リット達を乗せた馬車は、ザラメ山脈の中腹を目指して走った。




