第二十三話
朝食時、スープ鍋の湯気と焚き火の煙の向こうで、エミリアが唐突に語り始めた。
食料も尽き、体力的にも精神的にも疲労していた彼は、とうとう一本の木を背にして地面に腰を下ろすことになった。伸ばした足は力が入らず、糸の切れた人形のように投げ出された。羽のように足が軽く感じられたのも一瞬で、すぐに冷たい地面に体温を奪われ、鉛になったように重く感じ出していた。
うつろな目を閉じれば、幸せな夢が待っていた。温かい布団に柔らかいベッド。出来立てのレンズ豆のスープの匂いは、朝を知らせる合図だ。「豆というものは昔からの人間の重要な栄養源であり、痩せ地であるこの土地でも育つ大事なものだ。だから、一日の始まりに感謝を込めて食べなさい」と口を酸っぱく言われたことを思い出した。
話の途中で、リットはスプーンで皿をカンカンと叩いて鳴らして遮った。
「やめてくれ。ただでさえまずい飯が余計にまずくなる」
「この話には、いくつもの教訓が含まれているんだ。まず、こういった場所では一人にはならないようにする。体力の限界まで歩かない。長旅での敷物の重要性。朝食はしっかり食べる。他にもだな――」
まだ話を続けようとするエミリアだが、リットはまたスプーンで皿を叩いて話を遮った。
「それがまずくなる理由だ。なにが悲しくて、昔の人間の失敗談を聞きながら飯を食わなきゃなんねぇんだよ。そういうのは酒場でするもんだ。それも、女に逃げられたとか、大金を失ったとか、笑える楽しい話だ」
「それって楽しいんスかァ?」
スプーンを咥えたままノーラが聞くと、エミリアに行儀が悪いと注意をされた。
「女をとっかえひっかえで枕を変える暇もねぇとか、大金を稼いで金勘定で寝不足とかの自慢話のが楽しいってのか?」
「私は好きっスよ。他人の美味しいものの話。そして、まだ食べたことのない味に思いを馳せるんス。このお腹がモヤモヤする感じは、きっと恋と似てると思うんスよ」
ノーラはスープを一気に飲み干すと、酒でも飲んだかのように深く息を吐いた。そして、おかわりをさらに注ぐ。
「ただの食いすぎじゃねぇのか」
「いやー食も進むってもんですよ。東の国の海藻って美味しいんっスねェ。海藻っていうのは、臭いだけの存在だと思ってましたよ」ノーラは皿に口をつけてズズッと音を立てながらスープを吸い上げると、ところでと切り出した。「さっきのエミリアの話。どっかで聞いたことがありますねェ」
「妖精の白ユリの伝説だろ」
「そうだ。だが、ただの伝え話というわけではない。兵士に心構えを説く時にも、子供の教育にも良い話だ。だからリゼーネでは廃れることなく、伝え続けられているということだ」
「その伝説の正体ってのがコイツだろ。今じゃもう笑い話だ」
リットにスプーンの先を向けられたチルカは、小動物が威嚇するように歯をむき出しにした。
「本っっ当! 失礼な奴ね。私はそんな婆さんじゃないわよ。あの森の妖精って言ったって、二世代くらい前の話よ。だいたい伝説なのは白ユリで妖精じゃないわよ」
「そういえばそうだったな。……つーか、昔からリゼーネに伝わってる話なんだろ? 今まで誰も花を取りに来なかったのか?」
「踏み荒らされてない土地にしか咲かないって話したでしょ。だから、必然的に人間が来ない場所に咲いてるのよ。それに、大抵の人間は気味悪がって早々に森を抜けるわよ」
「そりゃあ、性根の腐った妖精を見たら誰でも逃げる」
「可愛い妖精にイタズラされるからよ。姿に気付かず、イタズラに後で気付いて、勝手に慌てふためいて、あたふたして、すたこらさっさよ。どっかのバカは目が濁ってるせいで、妖精と蛾を間違えたあげく、突っかかってきたけどね」
チルカはもう既に昔の思い出となった、リットとの出会いを思い出して表情を歪ませた。
ただ不快というのとも違う。リットと出会い、ろくでもない思い出も増えたが、森の外の途方もなく大きな世界に出て、見聞を広めた自分は誇らしくもある。チルカは自分は今どんな顔をしているのかわからなかったが、リットの「ブスって言葉を体現するなら、その顔が正しいな」という言葉で、怒りの表情になったのがわかった。
「アンタに言われたくないわよ。その顔を見てると気分が悪くなるわ」
「なら酒でも飲め。酒ってのは、ブスって言葉も飲み干して消してくれる。で、次の日ションベンと一緒に出てきて、我に返って後悔すんだ」
「アンタそればっかりね……。下品なジョーク。もっとキレイなこと言えないの?」
「綺麗事なら言える。なんなら言ってやろうか?」
「いいわよ……アンタの綺麗事なんて、道端に落ちてるちょっと形の良い小石くらいなもんでしょう」
チルカが呆れて肩を落とすと、「あっ! 思い出しました!」とハスキーが唐突に大声を上げた。
あまりに急なことだったので、チルカは座っていたコップのフチから転げ落ちてしまった。
急いで起き上がると、勢いよく飛び上がり、ハスキーの耳元で「うっさいわね!」と叫んだ。「我でも忘れたみたいに大声出してなんなのよ」
ハスキーは一瞬ビクリと体を硬直させたが、起こるわけでもなく続きを話し始めた。
「忘れてたのは、妖精の白ユリの伝説ですよ。妖精の白ユリの伝説にもいくつか種類はあるのですが、その中の一つに妖精と心を通わせた者しか、妖精の白ユリを見付けることができないという。お二人の仲の良い姿を見て、今のその伝説を思い出しました」
ハスキーは悪気なく晴れやかな笑みを浮かべたが、反対にチルカの表情はどんどんと曇っていた。
「それはつまり……この……バカが服を着てかろうじて人間の姿を保ってるけど、本当はバカそのものな男と、私の仲が良いって言いたいわけ?」
「いえ、バカではなく、リット様とチルカ様の話ですよ。リゼーネの迷いの森と呼ばれる森は、薄暗い上にどこを見ても同じ景色で、妖精の案内がないと同じ場所に辿り着くのは困難です。妖精はあまり多種族との交流がないと聞いていますので、何度も妖精の白ユリの生えている場所へ行ったリット様と、その案内をされたチルカ様は仲が良いのかと」
「わかってないわねぇ……。妖精のお供っていったら、美人か美男って決まってるのよ。絵本でも、昔話でもみんなそうでしょ。これのどこに美って文字があるっていうのよ」
チルカはリットの眼前まで飛んでいくと、目と鼻と口を指して欠点をあげつらったが、リットは気にせず鼻でふくみ笑うだけだ。
「さすが美少女は言うことが違ぇな」
「なによその奥歯に物が挟まったような言い方は。そこの川でうがいでもしてきなさいよ」
「美が少ねえ女で美少女だろとか、無粋なことは言わねぇよ。ぶすぶすとくすぶる焚き火の煙のせいだ。なんならナッツでも燻すか?」
「それ以上ブスブス言うと、背中からブスッといくわよ……」
「ならそっちで結論が出るまで言い合っててくれ、いくら眠いっていったって永眠するほどの眠気じゃねぇからな」
リットが大きくあくびをして皿を地面に置くと、エミリアが「眠れなかったのか?」と少し心配した様子で訪ねた。
「いや、ぐっすりだ。誰かに起こされるまではな」
リットは陸で盛大に船を漕いで、うつらうつらと頭を揺らしているグリザベルを横目で見た。
「グリザベルも疲れているんだ。そう文句を言ってやるな。見張りの順番は事前に決めておいただろう。私もリットに起こされ、朝早くから起きてる」
「そこだ。夜更かしが好きなグリザベルは夕食後から深夜まで、早起きが趣味のエミリアは早朝。その間に起こされて、見張るオレの身にもなってみろってんだ」
「たしかに一番大変だと思うが、リットが自分で言ったんだろう。寝たい時に寝たい。早起きはしたくない。途中で起きるのは得意だから、自分がその時間を担当すると」
「言ったな。たしかに言った。でもな、行けたら行くって言われて、本気で来ると思ってる奴がいるか? もっと行間を読めよ。飯時に女がやたらと褒めてくる時は、飯をおごってくれって意味だし。女の相談に乗った男が、それは相手が悪いって言った時は、その話はもう終わりにしてくれって意味だ」
「まったく意味がわからないぞ……。結局なにが言いたいんだ」
エミリアはまた屁理屈で返されるとわかっていたが、とりあえずリットに最後まで喋らせて鬱憤を晴らしてもらおうと、続きを話すように促した。
「得意なのは酒を飲んだときだけだ。トイレに起きるからな。飲みたい時は私に言えって言っただろ。だから言ったのに、酒を出さないのが悪い」
「酔ったまま見張りをされたら困るからだ。至極まっとうな理由だと思うが?」
「そうだ、これ以上無い完璧な理由だ。だから納得いかねぇんだ。可愛げのある女ってのは、男が付け入るすきを残しておいてくれる女のことだぞ」
「なにを言いたいのかはわからんが……。話をすり替えようとしているのはわかるぞ。すり替えたところで、なにがどうなるわけでもないと思うが?」
「せめてせせこましい優越感にくらい浸りたいわけだ。男ってのはな、女のプライドをちょっと傷つけるだけで、高らかに勝利を宣誓して、拳を掲げられる生き物なんだよ。で、掲げた拳でガードが緩くなったところで、女は急所を狙って的確に攻撃してくる。ポケットナイフみたいな小せえ刺し傷なのに、じわじわ効いてくる。あれって毒でも塗ってんのか?」
「さぁな。それで、満足はしたか?」
エミリアは食べ終えた食器を重ねながら聞いた。
「このスープの味よりは満足だ。同じ食材ばかりで飽き飽きだからな。たまには返しも味も別なものが欲しくなる」
エミリアはリットに皿に残ったスープ飲み干すように言い、飲み終えると自分の食器と一緒に重ねた。「あと十日も歩けば、川沿いの町に出る。それまでは我慢するんだな」と言いながら、食器を洗いにすぐ横を流れる川に向かった。
「そりゃいいな」とリットは鼻で笑った。「料理屋でも酒場でもいい。豪遊するか? 金は払う必要はねぇな。なんたって人がいねぇんだからな」
「誰も食事をする場所を探すとは言っていないだろう。もしかしたら、畑に野生化した作物が残ってるかもしれない」
「たしかにヨルムウトルには、太陽が差さないのにカボチャやらなんやら生えてたけどな。ここにもあるとは限らねぇぞ」
「そうかもしれないが、運が良ければ保存食でも残っているかもしれない。太陽とは無縁の地になってしまったからな……可能性はある」
エミリアは洗った食器を布で拭くと、その濡れた布を焚き火で乾かした。そして、乾かしている間にテントを片付けるようにと皆に言った。
川沿いを流れに逆らって歩くだけなので迷う心配はなく、エミリアの予想通り十日後に川沿いの街へと着いた。
この日はテントを張らず、暖炉のある小さな家で過ごすことに決まった。中は広くないが、ランプの明かりの下で、全員で暖炉を囲むにはこの狭さがちょうどよかった。
「落ち着く前にまず掃除だ」というエミリアの一言に、一番張り切ったのはハスキーではなくグリザベルだった。
「よいか、リット。埃を拭く時は、こう半円を描くようにし、まず一箇所に埃を集めるのだ」
グリザベルは楽しげな声を出しながら、濡れた布で埃まみれのテーブルを拭いている。
「吹いて飛んでくような誇りを持った魔女は言うことが違う。そんなに掃除が好きなら、オレの分もやっていいぞ」
「掃除というのは全員でやるから意味があるのだ。よいか、こう半円をだな――」
「何度も言わなくてもいい。その拭きかたはイミルの婆さんのだ。さんざん聞かされてる。だいたいなにを浮かれてんだよ」
「我はこういうお泊まり会が夢だったのだ。一つの暖炉を囲み、同じものを食べ、夜通し話に花を咲かせる。それが近い未来の話題の種となるのだ」
「そりゃまた……火種にならけりゃいいな」
リットは布をテーブルに置くと、まだ埃まみれの椅子に腰を下ろした。
エミリアは「まったく……」と呆れると、リットにランプを渡した。「掃除が嫌ならば、畑でも見てきてくれ。くれぐれも一人では行かないように」
「そのほうがマシだな。おい、ハスキー。散歩の時間だ」
リットはハスキーを連れて、闇の中を歩く。畑を見に行くといってもどこにあるのかはわからず、取り合えす真っすぐ歩いてなにもなければ、一旦皆がいる家に戻り、また別の方角へ向けて真っ直ぐ歩く。そうして歩けば迷う心配はないからだ。
それを何度か繰り返している途中。ふいにハスキーがリットに話しかけた。
「リット様に選ばれるとは、嬉しいものですね。ですが、本当に自分で良かったのですか?」
「説教をしない。ふらふら歩かない。この二つを考慮して、他に誰かいるか? 行きつけの酒場の酔っぱらいくらいのくだけた会話ができりゃ、オマエはオレの友人になれる。まぁ、どうせ暇な闇の中だ。練習でもしてろ」
ハスキーは「はっ!」と気合の入れた短い声を出す。「粉骨砕身の思いで精進します!」
「聞いてたのか? 砕くのは会話だ」
「そうとも限らない。砕くのか、削るのか、その線引きが大事なんだ。あるいは足して、膨らますこともある」
「女みてぇだな。ウエストは削り、胸は膨らまし、男のプライドを砕く」
「誰にも砕かれない。確固たるプライドを持ちたいものですね」
ハスキーはまだ努力が足りないと、自分に言い聞かすように言った。
「そうしとけ。一度砕かれると、簡単に捨てるようになる。ジャラジャラと邪魔だからな。その辺の小石と一緒に落ちてる」
「だが、女はそれに弱い。砕けたプライドを道なりに落としておけば、それを辿って着いてくる」
「着いてくるのは、血痕と一緒だからだ。弱った獲物がいるならとどめを刺しに来るのが道理だからな」
「それが結婚だな。上手いことを言う。何度恋にとどめを刺され、愛に変わったか……。ところでなにを探してるんだ?」
「畑だよ。結婚相手を探しにこんなところに来ると思うのか?」
「川沿いにある小さな村の畑はな。少しの水害では影響のない。しかし、水の汲みやすい場所にある。まったくの逆方向だ。常識だぞ」
「そういうのはな……歩き回る前に言え。常識だぞ」




