第二十一話
闇の中に風景はなく、吸い込まれそうな黒の壁に挟まれた道は、空気が粘度を持ったかのように若干の息苦しさを感じさせる。
先の見えない途方もない道を歩いていると、胃の奥に小さな火種を落とされたようなむかつきが呼吸を浅くさせた。
今はまだ地面を這うように伸びるロープと、東の国の灯台から届く光の道を頼りに歩いているので、歩みに支障はないはずなのだが、変わらない景色のせいで重くなり始めた足取り以上に長く感じていた。
変わるものといえば、ロープを結びつける為に鉄杭を地面に打った昔の兵士の足跡くらいだ。そんなものを見ても気が紛れるわけではないが、リットの視線は自然に下へと向かっていた。
すぐ横に闇に呑まれた現象が迫っているが、それに参っているだけではない。
しばらくは無言で歩いていたリットだが、とうとう我慢の限界を迎え、声を発するために口を開けた。
「なんだよ……このでけぇ荷物は。引っ越しでもするつもりか?」
リットの目の前では、ハスキーの背負った大きな鞄が、足取りに合わせて大きく揺れていた。
リットの背負っている鞄の中身のほとんどは飲水と食料。それに、瑠璃色のオイルや修理道具。他にも筒状に丸めた毛布と一人用のテントが、ロープで縛られた状態で乗っかっている。これだけでも重くて厄介なのだが、鞄の横にはランプがぶら下がり、歩くたびに背中でカチャカチャと金具が音を立てるので、リットのイラつきは屋根から滴り落ちる雨だれでできた水たまりのように徐々に溜まっていた。
そして目の間にはハスキーの大きな鞄。他の者の足取りを軽くするために、ほとんどの荷物をハスキーが持っているので、その大きさはリットの背負う鞄よりも数倍大きく、視界を塞ぐほどだ。
視界が塞がれたところで、先にあるのはいつまでも小さく映る闇の壁の行き止まりなので変わりはないのだが、リットにとってハスキーの身の丈を超える大きな鞄は、酒場でひたすら昔話をする老人より鬱陶しく感じていた。
しかし、堪え切れずこぼした嫌味はハスキーにはまったく通じていなかった。
「寝食の為のものが入っているので、引っ越しのようなものですかね。ご不便なく過ごせるよう、用意をしたつもりですから。ご心配はいりませんよ」
ハスキーが任せてくださいと胸を叩くと、その反動で鞄が一層大きく揺れた。
「なら、その辺に落ちてる小枝で家でも建ててくれよ。知ってるか? 不便が嫌だから家ってもんがあんだ」
「そうイラつくな。閉塞感に不安になってるのはリットだけではないんだぞ」
エミリアはたしなめるように言うと、リットより後ろに視線を向けた。ノーラに背中を押されながら、グリザベルがのろのろと歩いてくる。
オルカァイに居たときのような元気はなく、誰よりも項垂れて、何度も短く呼吸を切っていた。
その姿を見て、リットはため息をついた。
「あれは不安になってるんじゃなくて、ただの体力不足だ。チルカの次に荷物が少ねぇくせに、なにをたらたら歩いてんだ」
「そうは言うが……お主も……毛布と……テントを……背負って……歩いてみよ……」
グリザベルは息も絶え絶えに遠くからリットに言葉を返した。
「疲れて下を向いてるから気付かねぇんだよ。顔上げて見てみろよ。全員同じものを背負ってる」
「そうであったな……」
グリザベルはリット達が立ち止まっている場所まで歩くと、目的地についたかのように疲労の息を吐き出した。
「体力がないのは知っていたが、そう疲れるような荷物はグリザベルには持たせていないはずだがな……」
エミリアはこののまだと予定が大幅に狂ってしまうと心配になり、解決策を考えようと全員を集めようとしたが、リットは放っておいて続きを歩くぞと言う代わりに前方を指した。
「寝不足だ。さっきまでの変なテンションを考えりゃわかるだろ。大方ピクニック気分で、ウキウキして眠れなかったんだろうよ」
「今ならまだ引き返せるが……」
エミリアはグリザベルに聞くが、グリザベルではなくリットが答えた。
「今引き返してみろ。寝て起きる頃は夜中だ。また寝不足になるぞ。無理して歩かせろよ。そうすりゃ、朝まで死んだように眠っててくれる。まぁ、朝か夜かわかんねぇような場所だけどよ」
「非情な男め……」
グリザベルが恨みがましくつぶやくが、リットは気にすることなく、また指で先に行くとジェスチャーを送ると、今度はハスキーの後ろではなく前を歩き出した。
少し休んでから追いかけるというエミリアの言葉を聞いて、ハスキーは護衛のためリットの後を続いた。
「大丈夫ですか? 自分は一度歩いた道ですが、リット様は初見のはず。自分が先頭を歩いたほうが確実ですが」
「一本道で迷うような奴なんかいねぇよ。いたらとっくに野垂れ死んでるからな」
「それもそうですね。それにしても、和気あいあいとしてて良いですね。前に他の兵士とここに来た時はピリピリとした空気が流れていましたから。やはり、エミリア様の人選は間違っていませんでした」
「あのなぁ……。犬の鼻ってのは、周囲の空気を嗅ぎ分けるってことができねぇのか?」
「そういえば……」とハスキーは顔をしかめて鼻を鳴らした。「ここはニオイが薄いですね。先程までは焚き火の臭いで気付きませんでしたが、普通は最低でも植物のニオイがすると思うのですが」
ハスキーは足元を見ながら言った。
枯れ朽ちた植物や、死骸の腐った臭いはなく、体臭を除けば土の臭いだけ。
ラット・バック砂漠でさえも、遠くから風がニオイを運んできたが、ここにはそれもなかった。
リットも嗅いだところで、またため息をついた。
「たしかに……エミリアの人選は間違ってねぇな。すっかり毒気が抜かれちまった」
リットのイライラはすっかり消え失せ、嫌味が通じない呆れに変わっていた。
「自分にはよくわかりませんが……。リット様のお心が良くなったのならば、嬉しい限りです!」
ハスキーは遠吠えのように力強い返事をする。
「肩の力の抜き方ってのを知らねぇのか?」
「鞄を下ろす時には、肩の力も抜きます」
「そうじゃなくてだな。酒に溺れるとか、女に溺れるとか、金に溺れるとか色々あるだろ」
リットの言っていることを理解したハスキーは「そうですね……」と少し考えてから「大きな訓練が終わったあとですと、自然に力が抜けますね。そうして、油断は禁物と一層身を引き締めるのです!」とまたまた力強く言った。
「一生懸命ってのはな。言葉通りに。一生を懸命に生きることじゃねぇぞ。もっと打算的なもんだ。オレも酒を飲みてぇから、エミリアに一生懸命食い下がる。自分の為にするもんだ」
「自分もリット様と同じです。自分の為の一生懸命です! そうして人生の糧にしていくんです。いやー、共通点があるというのは良いことですね」
「確かに……糧も欲も同じことだな。オレも胸を張ってエミリアに酒をねだることにするよ。その前に馬車でもねだりてぇところだけどな」
リットは振り返り、遠くに小さく見えるグリザベルの姿を見た。
「移動手段については、特に深く話し合ったのですが。やはり自分の足で歩くのが一番という結論に。馬がパニックを起こせば、飛び降りる間もなく闇の中ですから。それとランプの光の範囲の問題もあるので」
「言ってみただけだ。最初に躓きゃ、文句の一つも言いたくなる」
しばらく歩くと、灯台の明かりが途切れる突き当りに到着した。先の見えない禍々とした完璧な闇を前にすると、漆桶に落ちた小虫のように絶望が押し寄せる気さえする。少なくとも、夜の深いところだけを抜き出した黒色に、希望の色は映っていなかった。
太陽が砕けたような闇が、リットには無限に続いているように見えていた。
「まじまじ見るようなもんじゃねぇな」
「歩いているとそうでもないのですが、止まっていると一方的に飲み込まれそうな気がしてきますね。後ろの光の道を見て待ってたほうがいいと思います」
ハスキーは自分の言葉通りに振り返る。リットも振り返ると、目の前はまたハスキーの大きなカバンによって視線が塞がれた。
今更また文句を言う気にもなれず、仮にまたイライラとした感情が湧き上がっても、ハスキーが持っているのは闇に呑まれた中で生活するのに必要なものだ。芸術的な文句が百個出たとしても、鞄が小さくなるわけではないし、なってしまっては困る。
それならここで唯一の息抜きの酒のことでも考えていたほうがマシだと、リットはハスキーの鞄を眺め、中に入っている酒のことを考え始めた。
好物の安いウイスキーか、海の波に揺られた極上のラム酒か、リゼーネ特産のイモの蒸留酒か、ドゥゴングの港で仕入れた異国の酒の可能性もある。
リットがそんなことを考えていると、思っていたよりもかなり早くグリザベル達が追いついてきた。
視界が鞄に塞がれたリットがなぜ気付いたかというと、「フハハ!」というグリザベルの高笑いが響いたからだ。
濾したように、声に疲労の色はなく元気そのもの。心も足取りも軽やかに地面を蹴って歩いてくる。
リットの元にたどり着くと、余裕の笑みを浮かべて「待たせたな。我、参着ぞ」と高笑いを響かせた。
「……酒でも飲ませたのか?」
リットはグリザベルの後ろにいるエミリアに言った。
エミリアは少し眉を寄せて、悩む顔を見せた。そして少し間を置いてから「私は飲ませていない。だが自分で小瓶を取り出して中の液体を飲んでいた。それから少しすると、急に元気になったんだ」
心配の視線を送るエミリアに向かって、グリザベルは「これが魔女薬の力だ!」と必要以上に力を込めて返した。
「魔女薬ってのは、力の前借りって聞いたぞ」
リットはウィッチーズ・マーケットで魔女から教えてもらったことを覚えていた。
疲労回復、眠気解消など効果は様々だが、それは一時的なものであり、その間の疲労や眠気は後になって一気に襲ってくる。というのが魔女薬だ。
「よう覚えておったな。如何にも魔女薬とはかく言うものだ。万が一の為に一つ作っておいたのだ。つまり、今の我には疲労という二文字は存在せぬ」
「万が一ってのは出だしで使う言葉じゃねぇぞ。だいたい魔女薬を作るのは苦手なんだろ? 大丈夫なのか?」
「我も使う気はなかったが、お主が急げと言ったのであろう。だから、我は明日の朝まで死ぬと決めたのだ」
「自棄になったわけだ……。急いだほうがいいぞ。いつ効力がきれて死ぬかわからねぇからな。元気なうちに歩いてもらわねぇと」
リットが言うより早く、エミリアはランプの用意をしていた。
「ここまで来て立ち止まる理由はない。リットも用意を頼む」
エミリアは固まって歩けば二つあれば充分だろうと判断し、同じくランプの用意をしようとしていたハスキーを手で制した。
ランプの炎を覆う火屋の両脇に、取手のようなパイプがついているこのランプは、ノーラの父親であるマグダホンが作ったものだ。
これを使うということは、いよいよ未踏となってしまった地へと足を踏み入れることになる。
感慨深く思うこともなく、ノーラは夕食時にテーブルにあるロウソクに火をつけるようにランプに火を灯した。火柱は一瞬。瞬きよりも早く火がおさまると、あたりの雰囲気が少し変わった。
灯台からの光の道と、明るさは変わらない。しかし、目の前に立ちふさがる闇の壁に穴を開け、ランプの光の膨らみに合わせて道を広げた。
リットのランプにも火をつけると、さらにわずかばかりだが道が広がった。
エミリアは地図に視線を落とすと「よし、こっちだ」と、進むべき方向を指し示した。
「もっと確認してから指示しなくていいのか?」
リットはランプを手に持ち、念のためにと辺りの闇を退けながら聞いた。
「心配するな。迷う心配があるなら、この光の道から出てからだ。灯台からの光は真っ直ぐに伸びているからな。ここで間違いは起こらない」
「誰かの性格とは逆ね。ひねくれて、間違いっぱなし」
エミリアの鞄のポケットから顔だけを出したチルカの表情は、元気とは言い難いものだった。
「なんだ? もうへばったのか」
「へばっちゃいないわよ。憂鬱だっただけ。いくら灯台の明かりがあるっていっても、私にとっては所詮ただの火の明かりなのよ。それが……アンタのランプで気分が良くなるんだから……複雑な気分だわ」
チルカは巣穴から出るリスのように、エミリアの鞄から出てくると、リットが持つランプの近くまで飛んできた。
そして目覚めに朝日を浴びるように、両手をいっぱいに伸ばした。
「幸先がいいとは言えないが……とりあえずは皆元気になったようだな」エミリアは一つ咳払いをすると、真剣な顔になり、周りにいるリット達一人ずつと視線を合わせてから、再び口を開けた。「いいか、ランプの炎は小さく灯ろうが、私達にとっては大いなる希望の灯台として――」
エミリアの言葉の途中で、リットはハエを払うように手を顔の横で振ってそれを遮った。
「あぁ、いらんいらん。そういう鼓舞するお言葉はリゼーネの城でさんざん聞いた」
「このメンバーなら必要はないとは思ったんだが、リーダーとしては形式上こういう言葉も考えておかないといけないんだ。だが、先を急ぐのに越したことはない。言葉をいらないというのは、頼もしいことだと受け取ることにしよう」
エミリアは再び固まるように言い隊列を組ませると、自ら先頭を歩き闇の中への第一歩を踏み出した。
先を照らすのはエミリア。後ろを照らすのはリットだ。
灯台のように伸びる明かりではなく、ランプの周囲を照らす明かりの中を歩いていると、距離の縮まらない行き止まりに向かって、ひたすらに歩いているような気分だった。
いくらか歩いたところでリットが不意に振り返ると、光の道は元々存在してなかったかのように消えていた。
代わりにランプから漏れる薄い光の煙が、軌跡をたどっていた。




