第十九話
「海の機嫌が良くない」船乗りの言葉を借りれば、今の海の状況はそう言うらしい。
妙に磯臭い風が雲を流すせいで、太陽は顔を出したり隠れたりを繰り返し、夜明けと朝を何度も繰り返しているような気分にさせる。
高くも低くもない波は、ただいたずらに船を揺らす。
嵐が近付くというほど荒れているわけではないが、潮も風も船に力を貸すようなこともない。
だから「機嫌が悪い」ではなく「機嫌が良くない」という言い方をするというわけだ。
リット達がペングイン大陸に向かう小舟に乗るのは、そんな海の機嫌が良くない日だった。
東の国灯台の光は固定され、オルカァイの小島を真っ直ぐに通っているが今は真昼。太陽が出ている間はほとんど光は見えることはないが、太陽が雲に隠れている時だけ、急かすような強い光がペングイン大陸へと向かって伸びているのが見えた。
調査隊は急いで小舟に乗り込むわけではなく、エミリアとハスキーは荷物を再度点検し、不備はないか、不足はないかと念入りに最後の用意を始めていた。
グリザベルははやる気持ちを抑えきれずに、岬に立ち、オルカァイから伸びるロープの先にある闇に呑まれたペングイン大陸側の海を見つめ、チルカはしばらく見掛けることはないであろう緑と触れ合うために、オルカァイにある数少ない植物の生えている場所で過ごし、ノーラは食いだめするように両手に食べ物を持ちながら、チルカのそれに付き合っていた。
リットはというと、ペングイン大陸とは逆の方向のオルカァイのはずれの岬に座り、東の国の灯台から届く光を眺めていた。
雲がなければ太陽の光に、雲があれば灯台の光に、リットの顔は影に曇ることはなかった。
その光は海を鮮やかに照らし、煮詰めた藍を一滴水の中に垂らしたような薄い青と、作りたてのガラスのように曇り一つのない海面の反射のきらめきを遠くまで広げている。
まるでこのオルカァイに透明な仕切りがあるかのように、リットとグリザベルの見る海の表情は違って見えていた。
心模様は違い、グリザベルの高揚とは逆に、リットは妙な感傷的な心持ちになっていた。
しかし、涙を流すという感情とは程遠く、なにか心に空白ができたような感じだった。
その空白に入るものは、未練でも、後悔でも、不安でもなく、勇気や自信という自分に似合わない感情でもない。なにをそこに当てはめてもしっくりこない、もやもやとした不快でも快感でもない感情が、オルカァイを染める煙のようにリットの心の中を漂っていた。
それが好奇心というありふれたものだと気付いたのは、ランプを持ち上げてからだった。
このランプはリットが日常的に使っているものではなく、ノーラの父親であるマグダホンが作ったものであり、中には瑠璃色のオイルが入っている。
ランプに火を灯しているわけではないが、火屋を灯台の明かりに透かし、闇に呑まれた中でも光る炎を照らし合わせていた。
噂から始まった『闇に呑まれる』という現象は現実になり、現実から過去の話になろうとしている。
結局は噂というものをほうっておけなかったのは、好奇心で動く冒険者と同じようなものだった。
結局はグリザベルと同じ好奇心に動かされていたリットだが、それが高揚ではなく感傷なのは、頭の片隅にヴィクターの顔が浮かんだからだ。
いつかヴィクターに言われた「オマエはオレに一番似ている」という言葉は、今もう一度聞かされると否定できそうにもなかった。
ふいにリットはランプを持つ手を下ろした。
火屋に映った薄っすらと笑みを浮かべた自分に見つめられているのに気付いたというのもあったが、それよりも大きな理由は遠くから足音が近付いてきたからだ。
聞き慣れた短い間隔の足音の持ち主は、声を聞かずとも、振り返らずとも誰かわかった。
「もう時間か?」
「とっくに時間スよ。旦那が来ないせいで私はあっちへふらふら、こっちへふらふら。もう岩の上を歩き過ぎて疲れましたよぉ……。なにしてんスかァ」
ノーラは大げさに息を吐くと、これ見よがしに疲れたと腰を叩いた。
「オレも同じだ。冒険者ごっこはこれで終わりだ。もう二度とこんな疲れることはしたくねぇと思ってな」
「ずいぶん本格的なごっこ遊びでしたっスもんねェ。リゼーネの迷いの森でチルカと喧嘩してから始まり、ヨルムウトルでオークのお友達を作って、海賊をやって、王様の息子だって驚かされたら、お空に行って光る石をちょろまかして……これ本当に冒険っスか?」
「ごっこだって言っただろ。前人未到の火山にでも登って、ドラゴンでも倒しゃ満足か?」
「ここだけの話。ドラゴンのお肉ってのも興味あるんスけどねェ。もし食べてみて、美味しくなかったらがっかり具合も半端ないってなもんですよ。夢は夢のままが一番ってこともありますしねェ」
ノーラはリットを集合場所の海岸へ急かせるわけでもなく、ただただリットと同じ方角を見ながら言った。
「ここまで来て、ただの夢だったら寝覚めが悪いだろ。余計な気を使ってねぇで、さっさと行くぞ」
リットが歩き出すと、ノーラは頭の後ろに手を組んで後を続いた。
「私がなかなか姿を現さない旦那を呼びに来たっていうのに、私のほうが急かされるってのはおかしな話だと思いません?」
「おかしな話ってのはな。人魚が空を飛んだり、ゴブリンが穴を掘るのに飽きることを言うんだよ。オレが偉ぶるのなんて、子供が鼻くそをほじるくらい当たり前のことだ。もしその鼻くそが爆発でもしたらおかしな話だな」
「爆発でも、手足が生えてどっかに行くんでも、なんでもいいっスよ。変に思い悩む旦那よりは、おかしな話じゃないっスから」
「だからさっきも言っただろ。変に気を回すなってよ」
少し足を速めるリットに、ノーラは立ち止まって声を掛けた。
「旦那ァ……」
「まだなんかあんのか? ぼーっと海を眺めてる奴全員に声をかけてたら、日が暮れるぞ」
「そっちは道が違いますぜェ」
「……そういうのは、オレがイキって歩き出す前に言えってんだ」
上がり下がりの激しい道なりの岩石海岸の先では、チルカとグリザベルとハスキーは既に小舟に乗り込んでおり、エミリアだけが岩の上に立ち、腕を組んでリットが来るのを睨むような鋭い目付きで待っていた。
視線に映るリットはたらたらと歩いている。こっちからリットの姿が見えるということは、向こうからも自分の姿が見えているはず。それなのに、リットは足を急がせようとしないので、エミリアの目付きはますます鋭くなった。
苛立ちから、エミリアはリットが充分に近付いてくる前に「遅いぞ」と声をかけた。
「物思いに耽ってたんだ。なのに、いきなり走ってくるような奴はいねぇだろ」
リットは正直に言ったものの、普段の行いのせいでエミリアは全く信じていなかった。
「本当は飲んでいたのではないだろうな」
エミリアはつま先で立つと、リットの口元に顔近づけてアルコールの匂いがしないか確認したが、リットは飲んでいないので当然匂いはしなかった。
「安心しろ。こっから見る限り鼻毛は出てねぇぞ」
「私のチェックではない。リットのチェックをしていたんだ。酒の匂いはしない。顔色も良さそうだな。安心したぞ」
「なんだ、オレが物思いに耽ってちゃダメってのか?」
リットが肩をすくめると、小舟にいるチルカが思いっきりバカにして鼻で笑った。
「ダメに決まってるでしょ。アンタ、自分のキャラクターってもんを考えなさいよ。ノーラがお腹いっぱいでもう食べられない。とか言ったら問題でしょうが」
「たしかに、そりゃ大問題だ。ノーラ、腹がいっぱいか?」
「旦那を探しに行ったおかげで、もうお腹空いてますよ。いいですかァ? 私の短い足だと、旦那の五割増しで歩くことになるんスからね。そりゃあもうヌーヌーお腹が鳴ってますってなもんですよ」
「だとよ。問題なし。オールオッケーだ。どうする? まだ時間を無駄に使うなら手伝うぞ」
リットはいつもの調子で軽く言うと、エミリアの肩を一度叩いてから小舟へと乗り込んだ。
「まったく……。そういつもどおりだと、頼もしいのだか、心配になるのかわからんな……」
「いつもどおりってのはな、そこでマヌケヅラを晒してる妖精のことをいうんだよ」
リットは自分に向かって舌を出しているチルカを顎でしゃくって指した。
「なによ、私が鈍感だとでも言いたいわけ?」
「そう悪く取るなよ。哀れだって意味だ」
「それって、哀愁が漂う美人とでも言いたいんでしょ」
「いいや、かみさんにもう飲まないから家に入れてくれ。って玄関先で哀願するおっさんみたいに哀れって意味だ。わかったら、さっさとその舌を口の中に入れるか、噛み切って一生黙っててくれ」
「なーんだ。少しは元気出たのね。ならさっさと座んなさいよ。こっちは待ちくたびれて退屈してたんだから」
チルカはあくび混じりに言うと、グリザベルのスカートに包まれた太ももをソファー代わりに寝転がった。
「どいつもこいつも……オレの励まし会じゃねぇんだぞ。……誰だ画策したのは?」
「皆、お主の些細な変化を機敏に感じ取ったわけだ。そう邪推するものではないぞ」
「グリザベル」
「我らはこれから闇へと立ち向かう。そこに一つの油断もあってはいけない。故にだ……」
「グリザベル」
リットは語気を強めると、グリザベルはあっさり白状した。
「わかった! 我なのだ! 励まし合い目覚める友情を体験してみたかったのだ! 悪いか!」
グリザベルが座ったまま地団駄を踏むと、太ももにいたチルカは反動で上に飛ばされた。しかし、チルカは羽を動かし飛び続けると、グリザベルの太ももにいたそのままの体勢で空中に寝転がり、めんどくさそうに口を開いた。
「言っとくけど、私はそこまでアンタはまいってないって教えたのよ。せいぜい落ち着かないくらいだって。なのに一人で盛り上がってあーだこーだと……いい迷惑よ」
チルカに軽く睨まれたグリザベルは、寒さから身を守るように肩を縮めてうなだれてしまった。
エミリアは「まぁ……」と遠慮がちに割って入ると「何事もないならいい。リットはこれを頼む」とリットに櫂を渡した。
「ハスキーにやらせろよ」
「ハスキーは海に出てからやることがあるんだ。リットは海賊暮らしで慣れたものだろう」
エミリアは笑みを浮かべると、自らも櫂を持って漕ぎ始めた。
小舟を島の岩肌に沿って漕いで岬の下まで行くと、ロープの影の真下をペングイン大陸に向かって進めようとするが、小舟は右へ左へと波に遊ばれるように揺らされる。
櫂を使って僅かな距離を時間をかけて前へ前へ進めると、オルカァイの岬からペングイン大陸の地面まで斜めに伸びるロープが、徐々に船に近付くように下がってきた。
ハスキーは短く気合の入れた声を発すると、ロープを両手でしっかり掴んだ。
陸へと向かう波に一度大きく揺らされたが、それ以降小舟は徐々に安定を見せ始め、ロープに沿って真っ直ぐ進み出した。
ハスキーが腰を落としてどっしり構えてロープを握っているせいで、ペングイン大陸に近付くにつれて、まるでハスキーが闇を引き寄せているように見えた。
やがて闇に空いた光の穴がくっきりと見えるようになると、弱火で炒められてるかのように、じっくりと熱いものがリットの腹の奥から湧き上がってきた。
名前の知らないその感情は、緊張と不安と好奇心が合わさったものだ。
全員が無言となったまま闇ではなくロープを見つめていた。
ロープは徐々に低くなり、船のへりより低く、海面スレスレを伸び始めたところで「お疲れ様です」と、既に別船で先に到着していた兵士に声を掛けられた。
荷解きの最中の兵士達も並び、それぞれがリット達に挨拶をする。
もう既にここは闇に呑まれた中だが、ここはまだ灯台の明かりが届いてるおかげで、地面の色から枯れ木まではっきりと目に映すことができた。
小舟から降りたリットはぐるりと辺りを見渡し「まるで洞窟だな」と呟いた。
振り返れば真昼の海の風景が広がるが、東の国の灯台から長く伸びている光の道は、景色の一つも見えない真っ黒の壁に囲われており、地中に向かって掘られた穴に向かって進むような不穏な空気が漂っていた。
「言い得て妙だな。明かりに照らされてはいるが、幾分息苦しさを感じる」
エミリアはリットに自分用の荷物の入った鞄を渡すと、まずは潮風に冷えた体を温めるよう、焚き火に当たるように促した。
リットは鞄を地面に下ろすと、焚き火に手を伸ばした。
火に当たるわけではなく、焚き火の中から薪を一本手に取って、闇に呑まれた中へと投げ入れた。
火のついた薪は灯台の明かりの範囲から外れるとすぐに光を消し、底のない穴へと落ちたように地面に当たる音さえも響かさなかった。
「なにを驚いておる」とグリザベルは口元にニンマリと得意気な笑みを浮かべた。「前もって教えておいただろう。闇の中では存在が消えると。燃えた薪は確かにそこにあるが、我らは感じることができぬ。だが――こうしてランプに火をつけるとだ――」
グリザベルはマッチを擦ってランプに火をつけようとするが、ジュッという情けない音が僅かに響きマッチの火は消えてしまった。
それから何度も試すが、マッチの火がランプの芯に燃え移ることはなかった。
「む……むむむ……むぅ……。むぅ! むぅぅ!」と、眉を寄せてうめきのような声を上げるグリザベルを見て、リットはため息をついた。
「……それはノーラじゃねぇと火がつかねぇんだよ。前もって教えておいただろ。それにな、こっちはそっちと違って言われたことは覚えてる。だから実際に試してみたんだろうが」
「我も……我も試してみただけだ」
「それならいいけどよ。もう話は終わりで、焚き火で温まっていいか? そっちは焚き火で体を温める前に、もう少し潮風で頭を冷やして来たほうがいいと思うけどよ」
グリザベルは「とりあえずは構わぬ……」と小さな声でいうと、変にテンションが上がった頭を冷やしに行くわけではなく、ノーラを探しに小舟の方へと歩いていった。




