第十六話
節くれ立った巨人の拳のような形をした孤島。それがオルカァイだった。
その殆どが岩でできた島には植物は少なく、剃り残した顎髭のようにまばらだが、色薄い岩肌の広がる中で、緑は色濃く映えていた。
元々無人島ということもあり、建築物の類はひとつもなく、仮設テントが冷たい風に吹かれうるさくはためいていた。
「酷い臭いだ……。煙と血生臭さ……ここは死のニオイがする……」
グリザベルは眉を寄せて目つきを鋭くすると、鼻を手で覆った。
「焚き火の臭いだ。今は食事時だから魚をさばいている。私も生まれてから一度もこの魚の臭いに慣れたことはない」
エミリアは魚や肉の臭いが苦手だが、周りに気を遣わせないよう表情を変えることはなかった。
「黒き雨を落とす戦火の煙は、黒き記憶の衣のように纏わりついてくる」
「それも焚き火だ。北の海は寒いから、皆焚き火で暖を取っている。煙が苦手ならば、防寒具もあるから言ってくれ」
淡々としたエミリアの返しに、グリザベルは沈黙を一度飲み込んだ後「漆黒なり雲上の――」と続けようとしたが、リットの軽い蹴りがお尻に当たったので、言葉を止めて振り返った。
「そういうマヌケなことばっかり言ってるせいで、周りから奇異の目で見られてるじゃねぇか」
リットは不機嫌に言うと、足元に散らばる岩くずを蹴ってどかした。
岩くずはとにかく歩きにくかった。泥がはさまると滑り、靴裏で擦れると砂利がキーキーと不快な音まで立てる。その上鋭利に尖っているので、転ぶと間違いなく怪我をしてしまう。なにより、踏まれて細かくなった岩くずが、強風に煽られ飛んでくると、服越しにも肌を痛めつけてきた。
だが、リットが不機嫌な理由はこれではなかった。
「であってもだ! 蹴ることなかろう。尻を蹴られて転んでみろ。それこそマヌケではないか! 用があるのならば肩でも叩けばよかろう」
「この手でどうやって肩を叩くのか教えてくれたら、今度からそうしてやるよ」
リットは両手を少し上に上げた。手首が合わさるように結ばれた縄の先は、エミリアの手元まで伸びていた。
二人の姿は遠目でも近目でも、囚人とそれを移送する兵士だった。
「奇異の目を向けられているのは、お主ではないのか?」
「どこをどう見たらそう見えるんだよ。縄で繋がれて引っ張られてるのなんてのは、どこでもよく見る光景だ。犬を散歩させてるのを見たことねぇのか?」
「仮にお主が犬であったとしてもだ。前足をくくられて散歩してる犬は見たことないぞ……。少なくとも我の人生の中ではな」
「婆さんになるまでには、何回か見る機会もあるだろよ。それともなんだ? 全身縛られてねぇと納得しねぇのか? なら、エミリアに言え」
リットが苛立ちのまま声を大きくして言うと、ノーラが耳打ちをするポーズでリットの腰辺りに向かって声を潜めて言った。
「旦那ァ……大きい声を出すとよけいに見られますよォ。おとなしくしてないと」
チラチラとジロジロの両方の視線はリットだけではなく、その周りにいるノーラ達にも向けられていた。
「それもエミリアに言え。趣味を持つのはいいことだが、こういうのは堂々と見せびらかすような崇高な趣味でもねぇぞってな」
「聞こえている……」とエミリアはため息まじりに言った。「リットが船の掃除から逃げなければ、縄をつけて引っ張り歩いたりはしない」
「逃げたわけじゃない。後回しにしただけだ」
「やる予定がないことは、後回しとは言わん」
「やる予定はある。でもな、後回しに後回しを重ねていくうちに、不思議な事が起こる。誰かがオレの仕事を取るんだ。こっちは今やろうと思ってたのにだ。知ってるか? 取るってのは泥棒だぞ。泥棒ってのは罪だ。つまりオレの仕事を取って掃除したエミリアこそ、この縄で結ばれるべきってことだ。わかるか?」
「ならば……罪滅ぼしに、端から順番にテントの掃除をする権利を与えるが」
エミリアはテントを横目に言った。
部屋の役割だけではなく、倉庫の役割も果たしているテントは、坂の下にあるムーン・ロード号が停められている入り江まで、道を作るように並んでいる。
このオルカァイという小さな孤島の三分の一は、テントに埋められているような状況だった。
「気にすんな。長い付き合いだ、罪のひとつやふたつくらい忘れてやる。だから、そっちもひとつかふたつ目をつぶって、酒くらい自由に飲ませてくれ」
「もともとオルカァイに着いたら自由にさせるつもりだった。息抜きも必要だからな。これは船の上で仕事をサボらせないための縄だ」エミリアはリットの手首から縄を外すと、近くの兵士を呼び、「すまないが、テントまで案内を頼む。私は到着の報告に行かねばならない」と後のことを頼み、早足で道を歩いていった。
案内されたテントの中は狭く、板を簡単に打ち付けて作られた簡易ベッドがひとつ。それだけで他になにも置けなくなる広さだ。雨風をしのげるだけマシといった出来だ。
リットは空いている僅かなスペースに鞄を置くと、ベッドに腰掛けた。
古い木の板はギィギィっと小動物の苦しみの鳴き声のような不安な音を響かせた。毛布はあるが、この硬い木の板でいくら睡眠をとったところで、疲れはあまり取れそうにはなかった。
リットが暗くなる前にランプを出しておこうと、ベッドから腰を浮かせた時、テントの外から「リット様」という兵士の声が聞こえた。
「なんだ? 酒の押し売りなら歓迎するぞ」
「いえ、敷物をお持ちしました」
そう言って若い兵士が出したのは鹿の毛皮だった。
「これで金持ちの真似事でもしろってのか? なら、ついでに鹿の頭でも持ってこいよ。壁に飾って、角に服でも掛ける」
「底冷え防止ですよ。夜は今以上に冷えるので、ベッドに敷いたほうがいいですよ。というより。敷いておかないとこうなりますよ」
兵士は袖をまくるとリットに腕を見せた。何日も硬い木の板で寝ていたせいで痣ができてしまっている。
「なら、これはアンタが使ったほうがいいんじゃないのか? その痣を大事に育ててるなら話は別だけどな。大きく育てても、痣から花が咲くわけじゃねぇぞ」
「鹿の敷物は兵士全員分あるのでご心配なく。自分は……その……寝相が悪いものですから、寝てる間に敷物がどっかへいってしまうんですよ。酷い痣はベッドから転げ落ちて、下の岩床にぶつけた時にできたものですので。いやー……初日にベッドから転げ落ちた時は、あまりの痛さに一生寝ないか、体をベッドに縛り付けるか本気で悩んだものです」
兵士は恥じるように笑いながら頭をかいた。
その時、腕にできた色の薄い痣と色の濃い痣が見えた。そのいくつかに加え、出血の跡があるのも、ベッドから落ちて岩肌に体をぶつけたからだった。
「いい選択肢だな。一生寝ないか体にベッドを縛り付けるか。でも、オレなら敷物は床に敷いとく」
兵士は大きく目を見開くと、いいアイディアだと手をぽんっと打った。
「なるほど……それは気付きませんでした」
「気にすんな。敷物なんてわかりにくい名前のせいだ。普通は壁に飾るものだからな。で、それを眺めて思う。これはいったいなんなんだと。抽象絵画を見るのと一緒だ。なんならテントに落書きでもしてやろうか?」
リットはなかなか出ていかない兵士を追い出そうと、肩を掴んで押しやろうとするが、「いえ、大丈夫です。コップ半分お酒を飲めば、痛みも忘れてぐっすりです」という言葉を聞いて、今度は肩を強く引いてテントの中へ連れ戻した。
「おいおい、大事なことはしっかり伝えろ。ほうれんそうって知ってるか?」
「報告、連絡、相談のことですよね。入隊して一番最初に言われました。それぞれは独立した言葉ではなく――」
「違う違う、大事なのはそこじゃねぇよ。今、今晩酒を飲みに来ないかって誘っただろ」
「いえ、誘っていません」
「いいか……世の中に無償のアドバイスなんてもんは存在しねぇ。一家言を持って偉そうにするか、単純に対価を求める。オレがどっちを求めてるかくらいはわかるだろ。以上を踏まえて、もう一回聞くぞ。飲みに誘ったよな?」
「……誘ったような気がします」
強引に丸め込まれた兵士は、それからリットと二、三談笑をすると、テントから出ていった。
今夜の酒の当てができ、やることもないので夜まで少し横になろうかと、リットはベッドに背中を付けたが、テントの布に見知った猫背の影が映ったのを見て起き上がった。
テントから出ると、グリザベルの長く黒い髪が一房、風に吹かれてリットの顔にかかった。
振り払おうにも、乱れた髪は風の力で蜘蛛の巣のように顔にまとわりつきなかなか離れない。
やっとのことで髪を振り払ったリットを見て、グリザベルは他人事のような視線を向けていた。ついで、唇に鉄の重しを縫い付けられているかのように、ゆっくりと口を開いた。
「言うておくが、知らぬ誰かと会話をするお主を見て、嫉妬をしてるわけではないぞ」
「まだなにも言ってねぇよ」
グリザベルは「そうか……」と一言発すると、わずかに沈黙を響かせてからまた口を開いた。「なぜ皆我に関心が薄いのかがわかった。人は欠点のある者にしか興味を持たない。つまり、一分の隙もない我には欠点が必要だということだ」
「そりゃ難しいな。なんせグリザベルは完璧だ。非の打ち所もなく、聡明で、観察力もある。欠点を探すにはゆっくり考える必要があるな。三秒くらい時間をくれるか?」
リットは話は済んだと言わんばかりに背中を向けてテントに戻ると、アヒルの子のようにグリザベルも後をついてテントの中に入ってきた。
「茶化し事ではなく、真面目な話だ。観察に観察を重ねて思案した答えだ。エミリアと共に過ごし、見ていて思ったのだ。エミリアのように完璧すぎる者には近寄りがたい雰囲気がある。お主のように、欠点が丸出しの者には人が集まってくると」
「オレの元に集まってるわけじゃねぇよ。皆酒の元に集まってんだ。目的が一緒なんだから、知らねぇ奴とも会話が弾むだろうよ」
横になるのを諦めたリットは、グリザベルを置いてテントの外へ出た。
「まだ我の話は終わっていないぞ」とグリザベルもリットの後に続いてテントの外に出た。
「終わりだ。何回似たような相談に乗りゃいいんだよ。こっちは暇じゃねぇんだ」
「暇そうにしておったではないか」
「残念だったな。やることを見つけたから、もう暇じゃねぇ」
リットは近くの兵士に岬の場所を聞くと、その方角へ向けて歩き出した。
岬には腕のように太いロープが一本。深く刺した鉄杭から真っ直ぐと、空の薄雲を映し、濁った色をした海に向かって伸びていた。
「なるほど。これがエミリアの言っておった。ペングイン大陸まで続いているロープだな」
グリザベルはリットの横に立ち、海の向こうを眺めていた。
「一緒に来いって誘った覚えはねぇぞ……」
「誘われなくてもここには来る予定だった。我も一度見ておきたかったからな。なかなかに壮観ではないか」
グリザベルの声はこらえきれない愉楽の感情にうわずっていた。
リットはグリザベルと同じように、口元に笑みを浮かべることはできなかった。
「よくそんな顔できんな……。あれを見てそんな顔をができるのは、よっぽど神経が図太いか、よっぽどのアホだぞ」
二人の目の前。海の向こうでは、黒い壁が空の最果てまで高く伸びていた。
「まるで緞帳のようではないか。言うなれば、テスカガンドはディアドレの人生の舞台だ。その幕を我がこれから開くと思うと、心の臓の高鳴りを覚える」
「頼もしい限りだ。暴走して、第二の破滅の魔女になるなよ。割に合わねぇ人助けはこれっきりだ」
「心配いらぬ。我はディアドレにはなれぬ」
グリザベルはならないではなく、なれないとはっきり口にした。その声には、遠い昔に遊んだ玩具を思い出すような寂しさの色がこもっていた。
そして、その声のまま続きを話し始めた。
「ディアドレだから、闇に呑まれる現象が起こったのだ。我が同じことをしても、広範囲に影響がでる程の魔力はない。我だけではない。現代に生きる魔女全てに同じことが言えよう。強大な魔力を求める時代は疾うの昔に終わったのだ。今は僅かな魔力の効率を求める時代だ」
「なるほど」とリットはゆっくり一度だけ頷いた。
「なにが、なるほどだ。どうせ我の気持ちなどわからぬのだろう」
「グリザベルが憧れていた魔女の時代が、闇に呑まれる現象という中に閉じ込められてるってことだろ。そりゃ、恐怖より興味が出るのも当たり前だ」
「まさかお主から同意を得られると思わなんだ……」
グリザベルは目を丸くしてリットを見た。
「そりゃ、オレが童貞を捨てた時の気分と一緒だからな。憧れの女体。恐怖より興味が勝る。男ならだいたいは経験するもんだ。先の見えない暗がりに突っ込んでいく。たしかに……言われてみれば、闇に呑まれるって現象は女体みてぇなもんだな」
「我はそうは言うておらんわ!」
「いつもの冗長で辞書を引かないとわかんねぇような言葉より、よっぽど意義深いってなもんだ。いっそ自分の言葉にしたらどうだ?」
「勝手に解釈された言葉は好かぬ。言葉を発した者の存在が消えてしまうからな。その者の人生、人となりが滲み出てこそ、言葉は意味を持つ。勝手な解釈をされてしまっては、それはもう其奴の言葉となってしまう」
「もったいねぇ。話題の中心になりてぇんだろ? 下品な言い回しは酒場で盛り上がるぞ」
「我は下品な言い回しはせぬ。言葉の造形というものを大事にしているからな」
グリザベルは心外とでも言うように鼻息を荒しくして言った。
「言葉ってのは、曖昧でいいんだよ。右に左にきっちり振り分けられるような言葉は疲れる。その辺に散らかしておいて、たまに拾うくらいがちょうどいいってもんだ」
「深いのか、深そうに見せているだけなのか、いまいちわからぬ言葉だな……」
「それが曖昧だからな。んなことより、オレはもうテントに戻るぞ。闇に呑まれたペングイン大陸を眺めてても、道が開けるわけじゃねぇからな」
リットは冷たい潮風に身震いすると、返事も聞かずに歩き出した。
グリザベルもリットの少し後ろを歩く。しばらく歩いたところで「それにしても」と切り出した。
「なんだよ」
「曖昧だなんだと言っているわりには、自発的に、しっかりと眼前の現状の確認をしに来ておるわけだ。エミリアに言われたら、めんどくさいと口にして来なかったはず。お主は本当にひねくれておると言うか、素直じゃないというか……面倒くさい性格をしているな」
「……ほっとけ」




