第十五話
長い期間乗っていると単調になりがちな船の上の生活で、楽しみのひとつが食事だ。陸の上とは違い、質の良くない限られた食材で作られるため美味しいものとは言えないが、船員たちの胃袋を満たしていた
夕日が海に溶け込み、遠くの水平線の色を変える頃が夕食の時間で、ランプやロウソクの明かりを必要としないうちに済ませてしまおうという考えだ。
リットは船の上で、この時間が一番好きだった。なぜなら、ディアナの船乗りでもリゼーネの兵士でもないリットは、緊急事態でも起こらない限り、食事が終われば自由に過ごせるからだ。
「わかるか? つまり飯が終わって酒を飲もうとしてるってことは、オレは自由の身ってことだぞ」
リットはまだ酒の入っていない空のコップを持った手の人差し指を立てると、それをエミリアに向けた。
「わかっている。だから食事の後は口うるさく言っていないだろう。今はまだ食事の時間だ」
エミリアはテーブルを見渡して言った。
早く酒が飲みたいと早々に食事を切り上げたリット以外の四人。ノーラとエミリアとチルカとグリザベルはまだ食事をしている最中だった。
「まさか全員が食い終わるのを待てってのか?」
ノーラはいつも食べられるだけ食べるので時間が掛かり、チルカはどちらかと言えば少食だが、ビッフェのようにテーブルを飛び回り、食べたいものだけを集めて食べるので、やはり時間が掛かる。グリザベルも食は細いが、食べるのも遅いため時間が掛かる。
唯一早食いのハスキーは、高波で崩れた荷物の整理のため、ひとり早々に席を外していた。
「ひとつのテーブルを囲むというのはそういうことだ。リットも荷物の整理をするのならば、席を外してもいいぞ」
「誰がするか。いつまでこんな船の生活をしなけりゃなんねぇんだよ……」
「『オルカァイ』には、もう数日もしないで到着する予定だ。そこでペングイン大陸に上陸し、テスカガンドに向かうための最後の準備をする」
オルカァイとはペングイン大陸から少し離れた場所にある離島で、そこから海を渡りペングイン大陸に向かう。ペングイン大陸の入口付近を調査している他の兵士もオルカァイを拠点にしており、オルカァイからペングイン大陸まで、ロープが海の上を通って伸ばされている。
このロープは東の国の灯台の明かりが届く範囲までだが、兵士達が闇に呑まれた中を歩き、時間を掛けて伸ばしたものだ。
そんな苦労を言葉だけで聞いていたリットは、興味なさそうに生返事をした。
その様子を見たエミリアは、ため息と一緒に手に持っていたスプーンを置いた。
「今からそんな調子でどうする……。闇に呑まれた中に入れば、もっと団体行動が重要になってくるんだぞ。オイルの節約のために、食事の時間も寝る時間も一緒だ。それに、寝ている間にランプの火が消えてしまわないように番をする必要もある。足取りを乱せば、全員が闇の中に閉じ込められてしまうんだ」
エミリアはリットの顔をまっすぐ見て、いつもより強い口調で言ったが、言われたリットはいつもの調子ではぐらかすように肩をすくめた。
「まだ起こってもいないことで小言を言うなよ。それで、明日に言う分の小言が減るならいいけどよ」
「起こってからでは困るから言っているんだ。これはグリザベルにも言っているんだぞ」
突然エミリアから矛先を向けられたグリザベルは、ビクッと肩を震わせた。
「わ、我か?」と焦りを見せた後、誤魔化すように咳払いをすると「我は大丈夫だ。リットのように、酒に溺れて和を乱すことはせぬ」と、ワインの入ったグラスを優雅に傾けてみせた。
「そのことは安心している。グリザベルは責任感もある。魔女学に長けたひとかどの人物だ。闇に呑まれた中でも冷静でいられると思い、頼りにしている」
「そうであろう! 我は頼られるべき人物なのだ」
エミリアからの表敬に、グリザベルは口元が溶けたようにニンマリと得意気に笑みを浮かべるが「だが――」と、エミリアが続けると空気が変わった。
「グリザベルは情報を自分の中に飲み込む癖がある。よほどの理由がない限りは、気付いたことは報告してほしい」
「だがだ、エミリアよ。ことディアドレに関しては我が一番良く知っている。無論、ウィッチーズカーズによる闇に呑まれた現象についてもだ。まず我が理解し、噛み砕いて伝える必要があるのだ。子に餌を与える親鳥のように」
「もちろん、結論はグリザベルに頼ることは多いだろう。だが、問題の対処は迅速にしなければならない。情報は共有した上で問題を委ねたい。ほう・れん・そうだ」
グリザベルは「ふむ……」とだけ短くこたえた。
納得していないわけではなく、人と深く関わらず生きてきたグリザベルの頭の中には、ほうれんそうと聞き、緑の葉っぱが浮かんでいたからだ。
「ほうれんそうってのは、野菜のことじゃねぇぞ」
リットが小ばかにして言うと、グリザベルが勢いよく振り返った。
「し、知っておるわ! お主の方こそ知らないのであろう?」
「オレは知ってる。豊満な乳をした女を見かけたら、連絡をこまめに、早々に口説き落とせってことだ。ローレンがよく言ってる」
「つまり……我がエミリアを口説けばよいということか?」
「試してみろよ。女を口説いたことがある男から助言をするなら……コツは相手の心を鷲掴みにすることだ」
リットは自分の胸に手を置いて言った。
「リットの口から出た言葉とは思えんな」
「理にかなってる。心を掴もうと手を伸ばしたら、乳を揉む言い訳になるからな」
リットは胸に置いた手を揉みしだくように動かした。
「それだとただの中年のセクハラではないか……」
「女がやりゃただのボディータッチだ。赤ん坊がやれば飯の合図。医者が触りゃ、金を貰って感謝までされる。羨ましいもんだ」
「なら、お主も医者になればよかろう」
「あのなぁ……お医者さんごっこってのは、患者になったもん勝ちだ。特に大人が遊ぶとなりゃな」
エミリアは咳払いをしてリットの下のジョークを止めると、グリザベルのほうを向いておもむろに口を開いた。
「ほうれんそうとは、報告連絡相談のことだ。今のように、わからない時は相談して確認すること。あらぬ方向に道筋がそれることがある。たった今身をもって経験したようにだ」
グリザベルは無知を晒されたとリットを睨みつけるが、リットはわざとらしく作ったしかめ顔で、注意を促すように首を横に振った。
「気を付けろよ。そう言って安心させといて、いざ相談したらこんなこともわからないのかと怒られるぞ。罠だ」
グリザベルは今度は怯えた瞳でエミリアを見る。
「リット……話をややこしくするな。私も魔女のことでわからないことは、グリザベルに聞いただろう。私がグリザベルにしたことを、グリザベルも私にしてくれればいい」
「簡単ではないか、つまり友との会話をせよということだな」
「まぁ、それでもいい。グリザベルが私を友と思っていてくれているのならな。報告も連絡も相談も信頼してこそだからだ。恥ずかしがらず聞いてくれ」
「聞いたか、リット。エミリアは我を友と呼んだぞ」
「聞いたよ。ついでにオレの心の声にも耳を傾けて聞いてくれ。早く皿に残ったものを腹の中にしまってくれ」
リットはずっと空のまま持っていたコップを振った。
既にノーラは食べ終えて膨らんだお腹を擦っており、お喋りに夢中になっていたグリザベルの手だけが止まっていた。
「まったく……少しくらい待てぬのか」
グリザベルは一欠片残っていたチーズを口に入れた。
「そっちは食事中にワインを楽しんでるけどな。こっちは食後じゃねぇと、酒を注いでくれねぇんだよ」
「グリザベルは適量というものをわかっているからいいんだ。次の日に支障が出ることもない。リットは飲みだすと朝まで飲んでいるだろう」
エミリアはリットから隠すように傍らに置いていた酒瓶を持つと、きっちりコップ一杯分だけ注いで、また隠すように傍らに置いた。
「朝まで飲んでるわけじゃねぇよ。酔いつぶれて起きたら朝になってるだけだ」
「それがダメだと言っているんだ。適量を飲むのなら、私もいちいち小言など言わない。だが最近は前のように、もう一杯とゴネなくなってきたな。船に揺られ、気変わりでもしたのか?」
「毎晩の美人の酌に文句を言ったら、バチが当たるって気付いただけだ」
「アンタと同じ人間でも、月とスッポンなんだから文句を言う事自体おかしいのよ」
チルカは鼻で笑うように言った。
「妖精のオマエとエミリアを比べたら、月と丸めた鼻くそだな」
「なによ。文句があるなら聞くわよ」
チルカがリットの目の前まで飛んでいくと、エミリアが立ち上がり「喧嘩もいいが、ほどほどにな」と言い残して、残りの仕事を片付けるため、注ぎ終わった酒瓶を手に持って部屋を出ていった。
エミリアの退室に毒気を抜かれたというわけではないが、リットチルカはそれ以上なにか言い合うわけでもなく、時間を置いてから別々に部屋を出ていった。
夕日という火種は海に消されるように消え、辺りは暗くなり、今は月が昇る夜。リットとチルカはマストの下にある部屋にいた。
ロウソク一本の薄暗い部屋で、リットは壁により掛かる格好で一口酒を飲み、アルコールで温まった息を吐いた。
「あのなぁ……せめてエミリアが消えてからサインを出せよ。集まるのも夜中のほうが安全だろ」
リットが声を潜めて言うと、チルカはさらに声を潜めていった。
「しょうがないでしょ。アンタが無駄話をしてるせいで、食事の時間が長くなったんだから。船の上じゃ野菜って言っても塩漬けばっかりで、食後に甘いものが食べたくなるのよ」
チルカは枝に紐をつけ、その先に釣り針を結ぶと、釣りでもするように、口の大きい瓶に向けて投げ入れた。
ぽちゃんという静かな水音が響くと、すぐにお手製の釣り竿を引き上げる。釣り上げたのはラム酒に漬けたクルミだった。
瓶の中にはクルミの他にも、クコの実や松の実、黒豆などのナッツ類に加え、チェリーや半分に切ったライムなどの果実も入っていた。
「その酒すげぇ味がしそうだな……。なんでも漬け込みやいいってもんでもねぇぞ」
「酸味と甘さそして香ばしさ。すべてが合わさった最高の味よ。言っとくけど、お酒も木の実もあげないわよ」
「いらねぇよ。だいたいそのでかい瓶のせいで、オレの酒瓶は一本しか入らなくなったんだぞ」
「本当に空き瓶が転がっててよかったわ。腐っても国が作った船よね。さぁ、次はどれを食べようかしら」
チルカは瓶を覗き込むと、お酒の中で宝石のように光る木の実を楽しそうに見つめた。
当初の予定では、酒瓶の中に木の実や果物を保存する予定だったが、美術品のように瓶が棚に飾られているのを見つけたチルカは、瓶口の狭い酒瓶よりも、保存用の大瓶のほうが果実を入れられるのでいいと思い、勝手に持ち出して使っていた。
しかし、酒瓶より一回り大きいせいで、底深くに木の実が溜まってしまった。重さも増えてしまったので、一人で瓶を傾けることもできず、食べる時はいちいち釣り針に引っ掛けて引き上げる必要があった。
「オマエは人生を全力で楽しんでんな」
「楽しいわよ。普段釣りなんてしないもの。魚なんて食べないから」
「植物しか食わねぇから、妖精っては体が小せえんだよ。そういや、闇に呑まれた中では植物はどうなってんだ」
「枯れてるに決まってるでしょ。太陽の光も届かないから、闇に呑まれるって言われてるんだから。なに今更わかりきったことを聞いてきてんのよ」
「思い出したんだよ、リゼーネで――」
リットが言いかけたところで部屋のドアが勢いよく開けられた。
「すまぬ。遅くなったが、我も月夜の秘密の会合に来たぞ! 我! 今! 参着ぞ!」
グリザベルはフハハと盛大に高笑いを響かせると、楽しげな足音まで響かせて部屋に入ってきた。
「いいか……秘密ってはバレてないから秘密なんだ。オマエにバレた時点でもう秘密じゃねぇんだよ」
リットは静寂を破る騒がしい来訪者に落胆のため息をついた。
「ならば我ら三人の秘密にすればよい」
「なんでグリザベルに声をかけなかったかくらい、少し考えればわかるでしょ……。変にウキウキして騒ぐからよ」
チルカが自分の唇に人差し指を当てて、しーっとグリザベルに声を潜めるように注意するが、グリザベルは気持ちが高ぶったのを我慢できず、鼻息荒く満面の笑みを浮かべた。
「秘密の暗号、秘密の部屋、秘密会合。これが騒がずにいられるか! 子供の頃から一度はやってみたかったのだ。友との秘密基地ごっこを!」
グリザベルが「さぁ――」と意気込んだところで、リットがグリザベルの口を鼻の穴ごと手で塞いだ。
グリザベルの生暖かい興奮の荒い鼻息が、リットの指の隙間から漏れる。
「自分の意志で声を小さくするか、このまま息の根を止められるののどっちがいいか。今すぐに決めろ」
グリザベルがわかったと首を縦に振ると、リットはもう一度念を押してから手を離した。
「……ただ来ただけで、なぜ我が殺されそうになるのだ……」
「そのただ来るってのが罪だからに決まってんだろ。だいたいだ。なんでこの時間に集まるのがわかったんだよ」
リットが聞くと、グリザベルは自慢気に高笑いを響かせようと口を大きく開けたが、リットが一歩を踏み出すのを見て、慌てて自分の口に手を当てた。
そして、口を塞いだまま声を小さくした。
「食事の最中、チルカがお主に絡んだからだ。月とスッポン。チルカにしてはおとなしい言葉だ。普段のチルカならば、もっと卑しめる言葉を投げつけていたはずだからな。そして、リットの返した言葉の中にチルカと同じ言葉があった。そう、月という言葉だ。いつもならば口喧嘩は長く続くが、今日はそこで終わり。つまり同じ言葉を言い合うことが合図なのだ。長く口喧嘩をしたら言葉数が多くなり、合図がわからなくなるからな。そして、月とはまさに今。月が一番美しく光る時間だ」
グリザベルの言う通り、月や星など、どちらかが夜空に関するワードを出し、同じワードを含んだ言葉で返すのが、隠し戸の部屋に集まる合図だった。
「オマエのせいじゃねぇか!」
リットが睨むと、チルカは少したじろいだ。
「別に……アンタの返し方だって素直すぎるのよ。だいたい、時間がわかっても場所まで普通はわからないでしょ。私のせいじゃないわよ」
「それも簡単なことだ。フナノリ島でリットに酒を買わされた前後のことを思い出しただけだ。エミリアに黙って買った酒は、必ず隠れて飲むに決まっておる。そして、買わされる前に、リットがいたのがこの部屋だっただけのこと」
「アンタのせいじゃないのよ!」
今度はチルカがリットを睨んだ。
「……場所がバレたからって、時間がわからなけりゃ、普通は誰も来ねぇよ」
「来てるじゃないのよ! アンタが場所をバレるような失態をしなければやり過ごせたわよ! バーカ!」
「光る羽でうろちょろしてるんだから、どうせ遅かれ早かれ誰かに後をつけられるに決まってる」
「私がいなければ、アンタは天井の隠し戸なんて見つけられなかったのよ。私一人で使えばよかったのに、わざわざ間借りさせてあげたのよ」
「オレが瓶の蓋を開けてやらなけりゃ、今頃全部ネズミに食われてたぞ」
リットとチルカの両方が声を荒らげて言い合っていると、部屋にはいつの間にか影が一つ増えていた。
「一気に解決する方法がある……。私が両方管理すればいい」
そう静かに言うエミリアの横では、グリザベルが弁明するように手を振った。
「我のせいではないぞ……この事態は」




