第十二話
「冗談じゃないわよ!」
叫ぶのと同時に、チルカがお尻を乗せている、天井から吊り下がった火の消えているランプが大きく揺れた。
羽を怒りに強く光らせて、蜂のようにせわしなく羽を動かしている。
「答えではない。我の一つの見解だ。チルカが妖精の白ユリ妖精と共に生きているように、妖精とはある種類の花が咲くところに住んでいる」
グリザベルは机に肘をついたまま言った。揺れる椅子に身をゆだね、その肘を中心に体もゆっくりと寄せては返す波のように揺れている。
「だからなんなのよ……」
「虫の羽というのは一枚一枚が花びらのようなものだ。蝶の羽、蜂の羽、羽にも種類があるが無地とは存在せぬ。そして、羽模様を並べると花を描く」
グリザベルは空中に指で円を書くと、その中に何枚もの羽の形を一周分書き足した。
「それで? 悪口は終わったの?」
チルカはムスッとした顔のままで聞いた。
「悪口ではない。チルカは美しく光る花を持っているということだ。アカリグサあるところに妖精はいる。我はアカリグサと妖精の羽に、なにか密接な関係があると睨んでおるのだ」
「へー……頭いいのね。それだけ頭がいいなら、私の言いたいこともわかるでしょ? 私はこの宝石のように輝く羽を、なんで虫の羽と例えたか聞いてるのよ」
チルカはグリザベルの顔前まで飛んでいくと、拳を鼻に押し付けてグリグリと力を入れた。
グリザベルは「別によいではないか……」と、声を上げるほどではないが、無視もできない絶妙な痛さに顔をしかめながら言う。「虫とは世界に必要な存在だ」
「別に虫の存在は否定しないわよ。それどころか、森にはとてもとても大事な存在よ――でも、一緒にされるのとは別問題。アンタは黒い服ばかり着てるけど、影みたいに薄い存在か? って言われても平気なの?」
「……それとこれとは話が違う」
「私からすれば同じことなのよ。まったく……どっかのバカと同じ意見は嫌だけど、魔女ってのはろくな奴がいないわね」
「だが、魔女と妖精というのはなかなかに結びつきが深いのだぞ。妖魔録はもちろんのこと、双子の妖精の羽根が重なった時の羽模様からヒントを得た魔法陣もあるのだ。言うまでもなく前者はディアドレのこと。後者もグーチパーという魔女学に名を残すほどの高名な魔女だ」
「安心しなさいよ。グリザベルも名前を残せるわ。妖精との関係に亀裂を生んだ魔女ってね」
「そういうことを言っているのではない。よいか? 耳を傾け、相手の言葉を咀嚼し、意味を味わう。返す言葉は吟味し、造形を作り、色をつける。というのが会話というものよ」
「いちいちそんなことしてるから、冗長だって言われるのよ」
「理由もなく、憤りを人にぶつけるのはチルカの悪い癖だな」
「じゃあ理由を説明してあげるわよ! 私の羽根を虫で例えたこと、これはよくはないけどひとまず置いておいてあげるわ。問題はその後よ。なんでも魔女の話に結びつけるところにうんざりしてるの。結局は魔女学がどうたら、魔法陣がどうたらと、講釈を垂れ流したいだけじゃないのよ」
指で鼻をつままれるように、グリザベルの鼻は両端からチルカの拳で潰された。
この痛さにはグリザベルも涙目になり、顔を背けた。
「そのとおりだ! なにか文句でもあるか! 我は話がしたいのだぁ……我ができる話題は魔女のことしかないもん……」
鼻をすすりだしたグリザベルに、思わずチルカはひるんでしまった。怒りに強く光っていた羽は、すっかり穏やかな明かりに落ち着いている。
「なによ……なにも泣くことないでしょう。魔女に興味ある人だって、この中にはいっぱいいるじゃない」
「エミリアも他の兵士もやることがある……ノーラは掃除だ。つまり、今現時点で役に立っていないチルカくらいしか、我の話を聞いてくれる者がおらんのだぁ……。もう知らぬ……」
グリザベルは拗ねた泣き顔を隠すように、顔を机についた腕の中にうずめた。
「勝手に役立たずに巻き込まないでよ。もう……しょうがないわねぇ……」とチルカは少し悩んでから「テスカガンドってどんなどころなのよ」とグリザベルが食いつきそうな話題を振った。
効果はてきめんで、食いつくどころか丸呑みする勢いでグリザベルは顔を上げた。
「テスカガンドはディアドレの第二の実験の場だ。一つ目はヨルムウトル。実験は二つとも失敗。二つの国を滅ぼしたからこそ、破滅の魔女と呼ばれておる」
急に泣き止んだグリザベルだが、チルカはそれに突っ込むと疲れるので、そこには触れずに話を進めた。
「そうじゃなくて……テスカガンドがどういう場所かっていうのを聞いてるのよ。グリザベルが大好きなディアドレの縁の地なんでしょ」
グリザベルは「知らぬ」ときっぱり言い切った。「我が生まれた頃には、既にテスカガンドは闇に呑まれていたからな。ディアドレは浮遊大陸に行く前に一度、弟子のガルベラを連れてテスカガンドに戻ったのは知っているが、闇に呑まれた中で、いったいどうやって、テスカガンドまでたどり着いたのかは、後世になにも残されていない。だからこそ、リットが作るランプが必要になったのだ」
「よくそれで脳天気にウキウキしてられるわね……。なにもわかってないっていうのに」
「中身がわからないからこそ、面白きものということもある。我からすれば、誕生日プレゼントの箱を開けるようなものだ。中になにが入っているかはわからないが、必ず喜ぶものが入っておる」
「グリザベルは友達が少なくて、わからないと思うから教えてあげるけど、誕生日プレゼントを開けるっていう行為は、中身ががっかりでも喜んだ顔を練習するためのものよ」
チルカが小さくため息をつくと、ベッドでリットが苦しそうに寝返りを打った。
「あのよぉ……頼むから、世間話はどっかよそでやってくれねぇか? 例えば、来世とか」
「アンタが早く来世に行ってくれれば、私はこんなところにいなくて済むんだけど? なんか文句ある?」
チルカは苦しさに顔を歪めているリットに向かって、先程より大きくため息をついた。
「我もエミリアに頼まれたのだ。この部屋を出ていくわけにはいかぬ」
グリザベルが足を組み替えると、机に置いてあった本がひとりでに床に落ちた。膝が机の裏にあたったわけでもなく、つま先を机の脚にぶつけたわけでもない。波に揺られて落ちたせいだ。
ここは既にムーン・ロード号の中。
リットは二日酔いでベッドに横になっていた。
リットはエミリアに出す明細に、テスカガンドに向かう前に兵士達の奮起を促すため。と書いて酒代を誤魔化すために、ドゥゴングで出会う兵士を誘っては酒場に行って酒を振る舞っていた。
最初はそこにリゼーネの兵士もおり、奮起という言葉に偽りはなかったのだが、その兵士達はもうすぐ船が出ることがわかっていたので、次第にリットの誘いには乗らなくなった。しかし、その頃にはリットは酔いと二日酔いの繰り返しで気付くことはなく、最後は船に乗らないディアナの兵士達と出港前日まで飲んでいた。
万全の体制で船に乗ったディアナの船乗り達と、リゼーネの兵士達。リットだけが体調不良でベッドに寝かされていた。
エミリアは指揮をし、ノーラは動けないリットの代わりに船の雑用をし、体力のないグリザベルと、体の小さくすることのないチルカが、リットの看病をするために船室に残っていた。
「看病つったって、ただ見てるだけじゃねぇか」
「酔っぱらいの看病なんてそんなもんよ。言っとくけど、吐いたら自分で拭いてよね」
チルカは天井から吊り下がったランプに座り直すと、揺り椅子にでも座ってるように、揺れるランプに身を預けた。
ランプに火は灯っていなくとも、チルカの羽明かりが船室の銀鏡石に反射して、夜のはじめ頃のような薄暗さを保っていた。
「もう口から出るもんなんか残ってねぇよ……」
「嘘おっしゃい。今も文句が出てるじゃない。だいたい船が出るのがわかってるのに、なにやってんのよ。完全に自業自得でしょ。自分で巻いた種から伸びてきた蔓で、自分で自分の首を絞めてるだけじゃない」
「いいか? 船が出る前ってのはエミリアは忙しいわけだ。疲れて眠る直前に明細を見せると、チェックが甘くなるわけだ。飲み放題のこんなチャンスを逃すバカがいるか?」
「毎度のことながら、お主は瞬間瞬間を生きておるの……。たまには腰を据えて考えるべきだと思うが? 我のようにだ。故人の過去を辿り、振り返りった先で、未来への針路を得ることも大事だということだ」
リットがベッドから動けないのを知って、グリザベルは得意げな顔で強気に言った。
「過去をたどり、皆に使い古されたものだけど、この状況にぴったりの言葉がある。――後で覚えてろ」
「二日酔いの辛さを紛らわすジョークというやつだ。好きであろう? お主はジョークが……」
「好きだぞ。相手を泣かすまでの悪口もな」
そこまで言うと、リットは寒気がする肩まで毛布にくるまった。オマエらとは関係はないとでも言うように、寝返りで背中を見せるリットに、チルカがまたため息をぶつけた。
「アンタねぇ……。そうやって好き勝手やってるけど、チリチーが心配してたわよ。こんな状態で船に乗って大丈夫かって」
チルカは酒場から船までリットを運んだのはチリチーだと教えた。
「船に乗って看病するとまで言っておったわ。お主と違って優しき妹だ」
「その言葉には裏があんだよ。まさか……乗せてねぇだろうな」
「エミリアが丁重に断っていたぞ。我は帯同に賛成したのだがな。チリチーの故郷はペングイン大陸だ。テスカガンドとは離れているといえ、なにかしら助けになると思ったのだがな」
「リッチーの故郷はディアナだ。言うならメラニーの故郷が、ペングイン大陸のキャラセット沼だ」
「そう妹を邪険にすることもあるまい」
「テスカガンドに行くのはほとんど女だぞ。これ以上増えてどうする」
「どうなるのだ?」
「男は群れると、なにも考えないアホになるけどな。女は群れると、頭を使いだして強くなるからな。二人いれば三人分。三人集まりゃ十人分。十人で群れれば、全世界の女が集まったくらいの強さだ」
「まーったく、なにを言ってるのかわからないわよ……」
チルカはこの上ないアホを見るような目つきでリットを見た。
「オレもわかんねぇよ。ひどい頭痛の中、適当に言葉を並べてるだけだからな……」
「アンタ……もう、寝れば?」
「……そうする」
リットはまだ波が穏やかで、ゆりかごのように揺れるうちに寝てしまおうと目を閉じた。
リットが再び目を開けたのは、暖かな陽光にまぶたを温められたからだ。沈んだ水の中から引き上げられたばかりのように、自分の名前を呼ぶ声が遠くから聞こえている。
「まだ朝だろ……寝かせてくれ……」
「もう夜だ。自分の作ったオイルの明かりもわからないのか」
エミリアの呆れ声を聞いて、リットはベッドから体を起こした。
天井からぶら下がったランプには火が灯っており、妖精の白ユリのオイルの炎は、街が活気付き始める朝の終わりのような暖かな光を放っている。
「なんだ、夜かよ……。じゃあ、なおのこと寝ててもいいじゃねぇか。そっちは長いこと夜更かし娘だったせいで忘れてるかも知れねぇが、夜ってのは寝るもんだ。周りを見ろ、全員寝てる」
リットは辺りを見回しながら言った。リットがベッドを占領しているせいで、グリザベルは椅子に座ったまま机に頭をあずけ、チルカはタオルを棚と棚の間につなげてハンモック代わりにして、ノーラはリットの毛布と枕を剥ぎ取り、リットの替えの服を敷布団代わりにして床で寝ていた。
「リットは昼も寝ているだろう」
エミリアは椅子に座ると、心底疲れたように、重い息を吐いた。珍しく姿勢を正したままではなく、背中を丸めているので、その疲れは自分のせいだけではないことにリットは気付いていた。
「あのよぉ……なにも起こってないうちから切羽詰まるなよ。その性格じゃ物事を軽く考えることは無理かもしれねぇけどよ、必要以上に物事を重く考える必要もねぇだろ。その立派な乳が垂れる前に、考えが重すぎて頭が垂れるぞ。下を見ても、道に落ちてるのなんて犬猫の糞くらいだ。たまに小銭もあるけどな。オレと違って、金には困ってねぇだろ?」
「労をねぎらってくれるのは嬉しいが、ずいぶんと乱暴な言葉だな」
「ねぎらっちゃねぇよ。考えすぎだって言ってんだ。だいたい不測事態に備えるってのは、経験を元にしてやるもんだ。これから行くのは未知の世界だぞ。不測の事態に備えるには、国をまるごと引っ張ってくるしかねぇよ。それを人が担げる荷物と会議だけで済まそうってんだから、どだい無理な話だ」
「……私には責任がある。その未知の世界に足を踏み入れ、命を預けてくれる皆のためにもな」
「責任ってのは何か合った時に背負い込むもので、何も起こってねぇ前に勝手に背負い込むのは空回りっつーんだ。たまには人のせいにしろ。ランプに火がつかなかったらノーラのせいだし、テスカガンドにたどり着いて、なにも解決できなかったらグリザベルのせいだ。闇の中でランプが光らなかったらオレのせいだし、オレが道中に飲む分の酒が足りなくなったら、荷物持ちのハスキーのせいだ。まぁ、一番いいのは、勝手についてきてるのに、なんの役にも立たねぇチルカのせいにすることだな」
「リットに慰められるとはな……。たしかに自分でも無理をしているかもしれないと感じていたところだ」
エミリアは汗をかいて、うねって額に張り付いた前髪を手で整えながら言った。
「これを慰めに感じるなら、そうとう参ってるってことだ。どうだ? たまには一杯やるか? 弱音はゲロと一緒だ。一度吐くとすっきりするぞ」
リットがからかいの笑みを口元に浮かべて、ベッドの脇に転がっていた酒瓶を持つと、エミリアは机に置いてあるコップの水を飲み干して、空のコップを差し出した。
リットは不審に思いながらもコップに酒を注ぐと、エミリアは水と同じように一気に飲み干した。
その一連の動作を黙って見守っていたリットに、「どうした? 黙って見て」と聞いたエミリアの頬は、既に酒気で頬は紅くなりはじめていた。
「まさか飲むとは思わなかったからな」
「リットの言うとおり、最近は考え過ぎの節があったからな。たまには酒の力を借りてなにも考えずに眠るのもいいだろうと思ったまでだ」
「そりゃまた……ダメ人間の世界へようこそ。なんならもう一杯飲んで醜態でも晒すか?」
リットが肩をすくめてから酒瓶を傾けると、エミリアは黙って首を横に振った。
「いや、遠慮しておく。飲みすぎると、余計に考えてしまうこともある。当初の予定どおり、少数精鋭の六人でテスカガンドに向かうと伝えに来ただけだからな。もう、寝ることにする」
エミリアは酔って少し重くなった体を気だるそうに、ゆっくりとした動作で椅子から立ちあがるとドアまで向かった。
そして、熱くなった息を悩ましげに吐くと、ドアの前で立ち止まると、顔だけをリットに向けた。
「そうだリット。弱音は酒を飲んで吐くのと一緒と言っていたな。リットがよく酒場に行くのは、弱音を吐きに行っているのか?」
エミリアは普段見せないニマっとした笑みを浮かべると、ドアを閉めて部屋を出ていった。
しばらく呆気にとられていたリットだが、ふいにまだ名前を知らなかった頃のエミリアと出会ったときのことを思い出した。
「そういや、あの時も切羽詰まってうちの店に来たんだったな」と、リットはひとりこぼすと、大きくあくびをして、酒瓶を抱えたままもう一度眠りについた。




