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ランプ売りの青年  作者: ふん
二つの太陽編(上)

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第十一話

 幾日か経ち、ドゥゴングでは季節を深め、風向きが変わっていた。

「驚いた……」

 それがエミリアの開口一番の言葉だった。

 ムーン・ロードの甲板。乗船準備に向けて忙しく響く足音に紛れて、デッキブラシを持つリットの姿を見つけたからだ。

 最初リットは気付いていなかったが、船の外の雰囲気が変わったことに気付いたノーラが、甲板から身を乗り出してエミリアに向かって手を振ると、リットは掃除の手を止めて甲板からエミリアを見下ろした。

 エミリアは少し早歩きで甲板に向かうと、リットがデッキブラシの先を床に向けているのを見て、もう一度「驚いた……」という言葉を感心した様子で口にした。

「なにが驚いただ。誰のせいで、毎日朝から夕方までデッキブラシと手をつないで船を歩いてると思ってんだ。言っとくけどダンスの練習じゃねぇぞ」

 リットはデッキブラシを立てると、柄の先に顎を乗せてエミリアを睨んだ。

「なんだ……いつものリットじゃないか。どんな経緯で掃除をしているかはわからないが、私のせいではないと思うぞ」

「おい、聞いたかノーラ。エミリアのせいじゃねぇとよ」

 リットが吐き捨てるように言うと、いかにも三下のような動きで、ノーラがのそのそと短い脚で闊歩してリットの隣に立った。

「おんやぁ、それは聞き捨てなりませんねェ……。えっと……」ノーラは空を見上げるように顔を上げ、なにかを思い出すと再びエミリアを見た。「旦那ァ、この女ひょっとして世間知らずのお嬢さんってやつじゃないっスかねェ。えぇっと最後は……げへへでしめると。げへへ」

「それなら授業料も兼ねて、出すもの出してもらわねぇとな」

 リットはデッキブラシの先を剣の切っ先のようにエミリアに突きつけるが、使い古されてボサボサになったデッキブラシの先からは、ポタポタと汚れた水をエミリアの足元に落とすだけだ。

「……私は何を見せられているんだ?」

 エミリアはまったく理解できないと眉を寄せた。

「男の怒りに決まってんだろ。鬱憤を口から全部吐き出して、女が涙を流せば終わり。で、男はこっちも言い過ぎたと言いながら、心の中で高く拳を掲げてガッツポーズをする」

「私がその寸劇で涙でも流すと思っているのか?」

「思ってるわけねぇだろ。男ってのは怒るタイミングだけ考えて、着地点を考えてねぇんだから。怒りの矛先がうろうろして、尻込みしてきた頃に痛いところをつつかれて、また頭に血がのぼるの堂々巡りだ。でも――オレはそこらのアホな男連中とは違う。目的がしっかりしてるからな。だから、金をくれ」

 リットの差し出された手のひらを見て、エミリアは首を傾げて思い当たることを考えてみたが、なにも出てこず、訝しげに眉を寄せてリットの顔を見た。

「いつものジョークかなにかか?」

「違う。ランプの金だよ。闇に呑まれた中でも光るランプを作るときの移動費諸々込みの経費だ。国から出るって話だぞ」

 リットがいちゃもんでもつけるように、エミリアの肩を人差し指でつつくと、エミリアは思い出して手を打った。

「なんだその話か」

「なんだとはなんだ。こっちは金がねぇから、朝早く労働して、美味い昼飯を食い、心地よい疲れに包まれて夜は早く寝る。どうしてくれる。これじゃ、まるっきり健康的な一日だ。そう言えば……オレはなんで断ったはずの船の掃除なんかしてんだ?」

 エミリアはため息をついてから「言いたいことは山ほどあるが……私はいったいどれから答えればいいんだ?」と疲れたように言った。

「金に決まってんだろ。全てはそこから始まってんだ。生命の始まりの謎を解けって言ってんじゃねぇんだから簡単だろ」

「明細は出したのか?」

 明細という言葉を聞いて、リットは眼の前に雷が落ちたように目を丸くしたが、その目が泳ぎだす前に、目を睨むように細くして誤魔化した。

「明細? ……出したぞ。今日中にはな」

「それはまだ出していないと言うんだ……。出していないのに、支払われるわけがないだろう。その様子では、まだ書いてもいないな」

「オレが書いても、却下される未来しか見えねぇぞ」

「すべてが終わったらパッチワークに頼むことだな。会計記録官だ。わからないところは教えてくれる」

「じゃあなんだ、オレは金のないままドゥゴングで過ごせってことか?」

「私がドゥゴングに来たということは、もうすぐ船が出るということだ。船の掃除の仕事があるなら問題はないと思うが?」

「ある。見ろ、ノーラなんて疲れ果てて寝ちまってるぞ」

 リットはリットの脚に寄りかかって、よだれを垂らして寝ているノーラを指した。

「それはリットの長い文句に飽きて寝ているだけだと思うが?」

「じゃあ、見ろ。オレのこの顔を。汗はかき、息切れもしてる。どう見ても疲れてる」

「そうだ。掃除とは疲れるものだぞ。だから対価が出るんだ」

「おなじみの正論をありがとよ。でもどうだ。汗をかいて息切れ、ベッドに入ってれば立派な風邪に見える」

「それだとただの仮病になってしまうぞ」

「そうだぞ。オレは仮病だ。仮病ってのは重い病だ。普通の風邪は、今の症状を言えばいいだけだけどな。仮病ってのは数ある症状から、相手を信じさせるために吟味する必要がある。ただ風邪引くより、よっぽど疲れる」

 エミリアはため息を付きながら、下に待たせている部下のことを思うと「わかった……」と切り出した。

「私にいったいどうして欲しいんだ……」

「見舞金をくれ。オレはこんな船の掃除からさっさとおさらばして逃げたい。エミリアは絡んでくるオレからさっさと逃げて、これからの準備をしたい。二つを同時に解決できる妙案だ」

「わかった……。いろいろ問題も起こしているが、助けにもなっているのも事実だ。船を出すまでの滞在費は私個人から出そう。一日ごとに明細を提出しろ。そうすればその日のうちに、その分だけ支払う」

「なんでいちいち明細が必要なんだよ……。嫌がらせか?」

「明細書を書く練習にもなる。それに、私に見せるとなれば無駄遣いもしないだろ」

 エミリアはリットの返事を聞くことなく、足を早めて船を降りていった。

 その響く整然とした足音で目覚めたノーラは、手で拭ったよだれをリットのズボンで拭くと、大きくあくびをした。

「おい、こら」

「やい、なんですか?」

「オレのズボンはガキのよだれかけじゃねぇんだぞ。おぎゃーとでも泣いたか?」

「細かいことは言いっこなしっスよ、旦那ァ。このよだれは旦那のせいでもあるんスから。夜遅くまで変なセリフを覚えさせられて、寝不足なんスよ」

「変なセリフじゃねぇよ。鬱憤溜まった男の怒りだ」

「怒りでも悲しみでもなんでもいいっスけど、今度山賊ごっこをする時はお昼にお願いしますよォ」

 ノーラはもう一度あくびをすると、掃除の続きをしにふらふらっとデッキブラシを甲板に走らせた。


 もう掃除が面倒くさくなったリットが、デッキブラシを肩に担いだところで、「リットは船に乗ると、誰かにからむ癖でもあるの?」という声とともにマストの影からチリチーが顔を出した。

「そっちは船に乗ると、盗み聞きでもする癖があるのか?」

「盗み聞きなんて、そんなそんな。掃除の途中にたまたまだよ」

 チリチーは「ほら」と、手に持った汚れた雑巾を見せた。

「オレの記憶では、とっくの間にそこの掃除は終わってるはずだけどな。ずっと隠れてなにやってんだ?」

「しかたない……興味本位で耳を傾けたのは認めよう。でも、最初から隠れて聞いていたなんて、心外だよ。疑うなら証拠を出してもらいたいね」

 チリチーが人差し指を振って抗議すると、指の炎が線を引いた

「そりゃ、ウィル・オ・ウィスプの誰かがそこにいたら、マストの影が肌火に照らされて消えるからな」

 チリチーが移動して、再び濃い影を作ったマストにリットが指を向けると、チリチーは観念した様子でおもむろに口を開いた。

「最初はリゼーネの王女様かなぁーと思って、堅苦しい挨拶はめんどくさいなぁーと思って隠れた。でも、雰囲気は違うし、それならリットの恋人かなぁーと思ったら、興味がふつふつと、火を消し忘れた鍋のように沸いてきちゃったなぁーって」

「なにが、なぁーだ。普通王女はってのはフラフラ出歩かねぇし、あれが恋人だったらな。オレは今頃真面目って体に入れ墨して、全裸で街を練り歩いてる」

「まったく意味がわからないんだけど……」

「おかしくなってるってことだ。マックスは真面目でも扱いやすいからいいけどな。あっちは一歩も譲らねぇ堅物だぞ。こっちがゴネてゴネて譲ったと思ったら半歩だ。で、しょうがねぇから肩をぶつけて歩いたらまた怒り出す。どうしろってんだ」

「普通はこっちも半歩譲るから、肩はぶつかり合わないけどね」

「いいか? 良いことを教えてやる。半歩譲った相手には、一生半歩譲って生きていかなきゃいけねぇけどな。こっちが譲らなけりゃ、向こうだけが半歩譲って生きていくことになる。どっちが得か考えればわかるだろ」

 リットが肩をすくめると、チリチーも同じように肩をすくめてみせた。

「別の方法を考えるのが、得をする第一歩だと思うけど」

「なら今度は地べたに仰向けに寝そべって、向こうが通り終わるまでスカートの中でも覗くことにする」

「それは向こうが避けて通るよ……」

「そうすりゃ、オレは一歩も譲らなくて済むわけだな。頭いいな、リッチー」

「勝手に人の意見にしないでよ……。それで、一歩も譲らない心の狭いお兄さんは、船の掃除の仕事はやめるの?」

「当然やめる。でも、その前に一言言っておきたい。なんでオレは掃除してんだ?」

 リットが心底不思議そうに言うと、チリチーは心配に顔を歪ませて「……大丈夫? これ何本に見える?」と指を二本立てて、リットの目の前で振った。

「三本」

「ダメだこりゃ……」

「一本はオレが心の中で立てた中指の数だ。オレはしっかり断り、きっぱりとも断ったはずだぞ」

「そりゃ、うっかりしたね。聞いたらがっかりするよ」

「いいから……ざっくり説明しろよ」

 チリチーの宿へと移動した日。酔ってソファーに横になったリットは、睡魔の中で「明日船を紹介するね」というチリチーの言葉に、適当に「わかった」とこたえてしまった。

 ディアナの婚約周年祭の時と同様、チリチーに朝早くから無理やり連れ出されたリットは、最初はあくび混じりに適当に船の説明を聞き流していたが、ヴィクターがこだわって作らせたムーン・ロード号の話を聞いてるうちに興味が湧いてきてしまった。

 船の説明は船首像の話になり、満月を失った船首像だが、その代わりにペンダントが三日月の形をしていることを教えられた。

 これは満月が欠けた三日月ではなく、これから満月へと向かう時の三日月だという。

 これは鏡に使われる銀とよく似た性質を持つ『銀鏡石』という宝石で作られており、銀よりも強く光を反射するが曇りやすいため、こまめに拭く必要がある。曇りのない夜。月に向かって航行すると、胸元のペンダントが月明かりを反射させ、前に向かって指をさす船首像の指先に光が灯るという。

 これは月明りだけが特別というわけではなく、太陽でもランプの明かりでも反射する。夜という周囲が暗い状況だと、反射が目立つというだけだ。

 チリチーの「やってみそ」という軽い言葉とともに、雑巾を渡されたリット。チリチーの言う通り、ペンダントを拭いてランプの明かりを近づけたら、船首像の指先は光ったのだが、この自然に渡された雑巾一枚が、リットが船を掃除する原因となった。

 一つのランプやロウソクで広範囲を照らせるように、似たような仕組みは船室内にもあり、それを一つ一つ拭いているうちに、雑巾でなにかを拭くという行為に抵抗はなくなっていた。

 雑巾が箒に変わり、箒がデッキブラシに変わるにつれて、掃除をする範囲が広がっていったのだが、リットは掃除させられるということにも抵抗がなくなっていた。

 チリチーからそのことを聞き終えた頃には、リットはぐったりとしていた。

「……それじゃあ、気付かず掃除させられてたオレはおおマヌケってことか?」

「そこまではいかないんじゃない? まっ、おマヌケさんってことで。どう? 聞いて、すっきりした? なんなら、もっとみっちり説明しようか?」

「どんな説明をされてもしっくりこねぇよ……。もう、うんざりだ……」

「もっとみっちりバッチリ説明してもいいんだけど、リットが理解する頃にはとっぷり日も暮れてるよ」

「もういいんだよ、それは。これは返すぞ。もうこれで自由の身だ」

 リットが乱暴にデッキブラシを放り投げると、チリチーは見事に片手でキャッチした。

「いいの? やめちゃって」

「聞いてただろ。滞在費は出るんだ。雑巾という手枷もデッキブラシという手枷も必要ねぇ。自由を表現してる像は皆拳を握ってる理由がわかるか? あれはデッキブラシを握ってるんじゃなくて、酒瓶を握ってる手だ」

「手が開いてる像もあるよ」

「それは、これから酒瓶を握る手だ。……ピースサインしてるのはねぇよな? 屁理屈が思いつかねぇぞ」

「個人が趣味で造ってる像にはあるかもね。そんなことより、リットが無駄遣いしないとは思えないんだけどなぁ……」

「なに言ってんだ……無駄遣いするに決まってんだろ。今まで金がないという縄に縛られて、抑圧されてた分だけ豪遊する」

「明細を書けって言われてたじゃん。どう考えても酒代にオッケーが出るとは思えないけど。どうするの?」

「そんなもんはな――……飲んで、食って、充分に満足してから考えるに決まってんだろ。糞と一緒だ。とりあえず満たされれば、何かしら出てくるもんだ」

「それって後のことを何も考えてないってことだよね」

「いいや、後のことを考えて考えて、逃げ道はねぇってことを悟ったから、諦めたってことだ。リッチーも奢ってほしけりゃ、いつもの酒場に来い」

 リットは吹っ切れたと、起き抜けのように両手を高く上げて、気持ちよく体を伸ばすと、まるで残りの仕事を押し付けるように、一人の兵士に「頑張れよ」と背中を叩いて活を入れると船を降りていった。






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