第九話
胃にあいた小さな穴が、不安というモヤによって広げられ、空腹感にも似た空洞ができる。そして、不安はやがて渦を巻き、孕むように焦燥感でお腹をふくらませ、お腹から肺、喉へと息苦しさを押し上げる。
体の内側から胸骨を突き上げるような心臓の鼓動は、肩から首元を伝って耳奥で音を鳴らす。
気分を紛らわせようと、視線をさまよわせるが、すぐにただ一方向を見ていられないだけだと気付く。耳の鼓動は大きさを増し、耳の奥に膜が張ったように外部の音を遠ざけ、思考と行動が一致しなくなるかのような錯覚に陥る。
体の末端から血の気がなくなり冷たくなるのに気付くと、もう体は自分のものではなくなっている。手は握ることもできず、足は沼にハマったように動かない。まるで悪夢の中の自分と、現実の自分が入れ替わったかのようだ。
「しかし、リット様がつくったランプの光の中だと、まるで母の作ったスープの匂いが漂っているかのような安心感があるのです!」
ハスキーの熱のこもった演説のような大きな声は、潮風が耳元で唸り声を上げて通り抜けていく中でもリットの耳にしっかり届いていた。
「まるで見てきたように言うんだな」
リットはドゥゴングの港に、隙間なくびっしりと並ぶ船から目を離さずに言った。
「自分も一度、楔を打ちにペングイン大陸に行っていますので。それに、グリザベル様の闇に呑まれた環境を作る魔法陣も経験済みです。その時に、リット様がつくったランプの光も浴びました。人によって感想は違いましたが、自分には暖かい目覚めの光のように感じました」
「それには、ありがとうと感謝の言葉を返せばいいのか? それとも、当然だろとふんぞり返ればいいのか? そんなことより、この光景の理由を教えてくれ」
リットは正面の船を顎で指した。
並んだ船は嵐の前の港のように出港する気配がない。荷物を運ぶ姿もなく、ただ暇を持て余す人々の姿がちらほらと窺えるだけだった。まるで猫が日向ぼっこをする休憩場所のように、木箱の上に座り、あくびと談笑だけをしている。
「ペングイン大陸調査のため、大灯台の光を固定しているので、出せる船が少ないのです。もちろんずっとこのままではありませんが、今はちょうど調査時期と重なっているため、今のように船が停泊したままなのです」
「大灯台が壊れていた時でも、普通に船が出てただろ。固定されても変わんねぇんじゃねぇのか?」
「大灯台の明かりが戻ってから、安全な航路が増えましたので、皆安全な航路を選ぶため時期をずらしているとのことです」
「そりゃまた……海賊の良い餌じゃねぇか。肉を焼いて切り分けた上に、酒瓶からコップに酒を注いでやってるようなもんだろ。向こうも灯台が回り出してから、船を出せばいいんだからな」
「それが、一度に固まって船を出すので、むしろ被害は減っているとのこと。自分も一度見ましたが、なかなか壮観ですよ。船が一同に大海原へ向かう光景は」
ハスキーの話では、イサリビィ海賊団との遭遇率は十割になったが、何十もの船の一隻だけが被害に遭うだけで、他の船は安全に海を渡れる。以前のようにバラバラに船を出していた時は、イサリビィ海賊団の気まぐれで二日、三日と続けての被害があったが、今はどちらも船を出す日が決まっているので、全体的に考えると狙われる確率自体は減っているのだという。
「海賊が規則正しく動かなけりゃならなくなるとはな。さぞ鬱憤が溜まってんだろうな。できれば会いたくねぇもんだ」
言いながらリットは、端から順に眺めていた船の一つで視線を止めた。
それは並んだ船の中でも一際目立つ大きな船だった。
「その船こそ。ディアナのリット様のお父上であられる。ディアナの前王。ヴィクター様の命で作られたムーン・ロード号ですよ」
「知ってる。一度……いや、二度見てるからな。だけど……そういえばムーン・ロード号をまじまじと見るのは初めてだな」
リットは前とは違う、作り直された船首像を見ながら言った。
女神はもう満月を抱えてはおらず、正面に向かって勇ましく指をさす姿に変わっていた。
イサリビィ海賊団に入り、女神像から龍の鱗を剥がした時のことを思い出すと、同時にリットの頭には在りし日のヴィクターの姿が浮かんでいた。
あまり眺めていると、まるで女神像がヴィクターの代わりに、前へ進めと言っているような気さえしてきたので、なにかを言い当てられたような気がして心臓が一度高鳴った。すぐに穏やかに鼓動を刻み始めたが、それが妙に気恥ずかしくなったリットは視線を逸らした。
その動作があまりにも不自然だったため、隣りにいたハスキーは不安そうに眉をひそめた。
「どうかしましたか? リット様」
「いや、急に動悸がしたもんでな」
「大丈夫ですか? なにか不安事が?」
「何年もまともに運動してねぇからだろ。まぁ……不安もないわけじゃない」
ハスキーは目を見開いて驚くと、急に嬉しそうに目を細めた。
「リット様でも不安を感じるんですね。ずっといつもどおり変わらない調子だったので……。なにか急にリット様を身近に感じた気がします」
「そりゃあな。人並みに不安を感じるし、人並みに心配もする。絶世の美女だってクソをすれば屁もこく。それが普通だろ? 本気で楽しんでんのはグリザベルくらいのもんだ」
「グリザベル様は……たしかにこの状況を楽しんでるふしがありますね。いやはや……なんとも頼もしい限りです」
「本当な……羨ましいもんだ。泣くも笑うも全部わかやすい。自分の欲求に素直な奴だからな」
リットが急にこんな事を言いだしたのは、さきほどハスキーの口からも出た「いつもどおり」という言葉が関係していた。ノーラの母親であるアリエッタにも「変わらない人」と言われ、リットは自分のいつもどおりを少し見失っていた。
しばらくおとなしくエミリアの言うことを聞いて、いつもと違うことをしてみたりもしたが、いつもどおりの自分は歪んだ鏡を見ているように、不確かなものになってしまっている。
「なんだかなぁ……ふらふらしてた時期が懐かしいもんだ」
リットはベッドから起き上がったばかりのように両腕を伸ばした。すると不思議なことに、するきもなかったあくびが同時に出てきた。
「悩み事あるなら、自分に言ってください。なにせ自分はエミリア様から荷物持ちを命じられた身。つまりは皆様の力になるのが自分の仕事です!」
ハスキーは両足を揃えると、反るように背筋を伸ばして姿勢を正した。
「そうだな……とりあえず、ノーラとチルカを探してくれ。たぶん食い物を求めてうろついてるだろ。見つけたら宿を取りに行く」
「宿はエミリア様のご両親の宿を使うように言われているはずですが?」
「本人もいねぇのに落ち着けるかよ。オマエは飼い主がいねぇ小屋でいびきがかけるのか?」
「自分はどこでも快眠であります!」
「そりゃ結構。なら別の小屋でもいいわけだな。ほら、行くぞ。首輪に紐をつけて引っ張られたくねぇだろ。オレも引っ張ってるところを見られたくねぇ」
リットはハスキーの背中を叩くと、食べのものの匂いがするほうへ歩き始めた。
「アンタ……ここを宿と言い張るの?」
チルカが不満をあらわに羽を強く光らせた。すると、チルカの周りに漂う埃がキラキラと星屑のように反射した。
「しかたねぇだろ。国からまだ金を貰ってねぇんだからよ。すっかり忘れてた……ランプを作りに行ったときの金を出してもらうのを。だけど見ろ」リットが部屋の真ん中まで歩くと、靴の裏が床につくたびに不安な音を立てて軋んだ。「ベッドもあればテーブルもある。一休みできる椅子もあるぞ。だいたい、店の親父が宿って言ったんだからここは宿だ」
「何年も前になくなった両親の離れ小屋だったら格安で貸してやるって、私には聞こえたんだけど? だいたいベッドは二つだけ、テーブルはあるけどご飯はなし、その脚のない椅子にどうやって座るか見せてもらいたいものだわ」
「ハスキー、空気椅子だ」
リットが言葉にすぐハスキーが「はっ!」と返事をした。
膝を曲げ、腰から頭まで針金を入れたように真っ直ぐ伸ばすと、集中の目つきで壁を睨んだ。
「わかったか? チルカ。こうやって座るんだ」
「わかったわよ。アンタが疲れて一休みしたいって言い出したら、今のハスキーと同じマヌケな格好をさせるわ」
「そんなことより、ご飯が出ないならどうするんスか……」不機嫌なノーラの声が割って入ってきた。「言っときますけど、一食抜いたら私は餓死する自信がありますよ」
ノーラのお腹も空腹だと、音を立てて猛抗議している。
「酒場に行きゃいいだろ」
「アンタねぇ……毎回毎回、そこしか行くところないの? そこらでニャーニャーうるさい猫だって、一日の間にもっと色んなところに行ってるわよ」
「オレは酒が飲みたい。ノーラは飯が食いたい。チルカは野菜で、ハスキーは肉だ。他に場所があるっていうなら、それがどこか言えってんだよ」
「普通に料理の店に行けばいいじゃない!」
チルカが至極当然の意見を出したのは、アバラ通りの三本目にある酒場で、各々の注文を終えてからだった。
「その反論は酒場に入る前にしか通用しねぇよ。だいたいな……料理の店に行ってみろ。こんな状況になっても耐えられるのか? 酒場だから奇異の視線を浴びないですんでんだ」
リットは一人だけ椅子に座らずに立ったままのハスキーを顎で指した。
「一人が何歩歩いたかではなく、我々全員で何歩歩いたが大事になります。つまりは結束を強めるべきということ。こうして共に食事をし、歓談をし、人生に交わりを持つことで、一人ひとりの細い糸が絡み合いロープのように強くなること。これをリゼーネの兵士達は絆と呼びます――」
ハスキーは水の入ったコップを持ち、乾杯の言葉まで長く掛かりそうなスピーチをしていた。
「いつまで聞いてればいいのよ……」
「知るか。絆でできたばかりのロープで首でもくくらせろ」
「どうにかしなさいよ。アンタ、得意じゃないのよ。話に水を差して言葉を止めさせるのが」
「さっきも言っただろ。金がねぇんだよ。誰の支払いで飯が食えると思ってんだ。そうじゃなけりゃ、とっくの前に店先の柱に首輪をつないでる」
「まぁまぁ、まだ料理も来てませんし、ハスキーの話に耳を傾けるのも一興ってもんですよ」
そう言ったノーラだが、ご飯をご馳走になるという手前そういうポーズを取っているだけで、ハスキーの言葉は右から左へと流れていた。
「シラフでこれだけ戯言を言えれば立派なもんだ」
「シラフじゃないわよ。自分の言葉に酔ってるのよ」
チルカはうんざりとした様子でテーブルの上で足を伸ばした。足をパタパタさせて踵でテーブル叩き音を立てる。それはハスキーに話をやめろという合図なのは誰から見ても明らかだったが、ハスキーだけは気付かずスピーチを続けていた。
先にリットの頼んだお酒がきて、次にチルカの頼んだサラダ。最後にノーラとハスキーの頼んだ料理がくると、ようやくハスキーのスピーチは終わりに向かった。
ハスキーの「乾杯」という言葉に続いたのはノーラだけで、リットはただ軽くコップをあげるだけ、チルカに至っては何も反応をせずキャベツをちぎった。
ウイスキーを一口飲んだリットの口からはため息と一緒に「明日もこうなら金を借りるか……」という言葉が疲れた声で漏れた。
「ドゥゴングに、旦那にお金を貸してくれるような知り合いがいましたっけ?」
ノーラが焼いたエビの殻を剝きながら考えた。ドゥゴングにいるエミリアの両親はリットとは直接関係がないし、スリー・ピー・アロウに行く時にお世話になったチャコールという猫の獣人もお金を貸し借りするような関係ではない。一番深い関係にあるイサリビィ海賊団は海の向こうだ。
「ムーン・ロード号が停まってんだ。ディアナの兵士に借りればいい。ここぞとばかりにヴィクターの名前を出してやる」
「まぁ、旦那がそれでいいならいいんスけど……」
「けど、なんだってんだよ」
「『太陽の種火』の物語にはちょびィーっと合わない、情けない話だなァと思いましてですねェ」
「なんだ? 太陽の種火ってのは」
チルカは「ふふん」と得意気に笑うと、食べかけの細くなったキャベツの芯でリットを指した。
「私が流す噂話の題名よ。闇だけの真っ暗な世界で、火という種が芽吹き、太陽という花が咲き世界を照らすの。だから太陽の種火なのよ」
「そりゃすげえな、たいしたもんだ。恐れ入る。で、いつの間に解決したんだ? 闇に呑まれる現象ってのは。てっきりこれから解決するもんだと思ってた」
「本当……嫌味がすぐに口から出てくるわね。流すのは解決にしてからに決まってるでしょ」
「だいたい太陽の種火なんて遠回しな言い方をしなくても、太陽のランプでいいだろ」
「バカねぇ……。アンタはいつも安直すぎるのよ。ランプって名称を使わないで、想像させるのがいいんじゃない」
「たしかにそういうプレイもある。けどな、そういうのは何年もベットを一緒にしてない夫婦がやるようなことだ」
「妖精の噂話もその夫婦と一緒みたいなものよ。マンネリなの。平穏な森で、単調な暮らし。何年も続けば飽きるに決まってるじゃない。だから前から言ってるように、妖精は噂話で楽しむのよ。何年も昔の妖精の噂話が、人間の想像によって改変されて新しい話になって戻ってくるの。最高の噂話は、世代を超えて楽しめるものなのよ」
「そういうもんか? まったく理解できねぇな」
リットが呆れたように言うと、今まで貝のスープを音を立てて飲んでいたノーラが皿から口を離した。
「でも旦那だって、闇に呑まれる現象を噂話にしか思ってなかったじゃないっスか。それが今じゃすっかり中心になって動いちゃってますよ。冒険者だったパパさんの血っスかねェ」
「だとしたら、冒険が終わりゃオレも王様ってことだな。よし、チルカ。王様の命令だ。オマエは死刑だ」
「酔っ払いは急にこうなるから嫌いなのよね……」
チルカは上機嫌に笑いを響かせるリットに呆れた視線を送ると、後は無視するようにサラダの続きを食べ始めた。




