第六話
リットが屋敷の一部屋を借りて、エミリアから私生活に口を出されるようになってから三日経った。
その日は埃を固めたような灰色の雲が、空一面に張り付くどんよりとした日だった。
時折雲は裂け目を作り、うっすらと太陽の光を落とすが、西からの風に押し流されてすぐに裂け目を塞いでしまう。
そんな空模様と似た鬱屈とした声色で、グリザベルが部屋の中でため息を落とした。
「リット……お主は友人が多いだろう?」
「いいや、そうでもねぇよ」
リットはグリザベルの部屋にあった魔女学の本をパラパラとめくりながら答えた。自分でも興味があるのかないのかわからず、ただ文字を目で追うだけの行為は暇つぶし以外なんでもなかったが、自分の知らない単語を見つけるだけでも幾分気が晴れた。
「されど一人よりは多いだろう」
「……だったらなんだよ。言っとくけどな……オマエの田舎はどうかしらんけど、こっちには友達を豚に乗せて誰かに紹介を兼ねたパレードをする風習はねぇんだよ。誰か紹介してほしいなら諦めろ」
「我の故郷にだってそんな風習はないわ! お主はエミリアから話を聞いたのではないのか?」
「オレがリゼーネに着いてからエミリアに言われてるのは、起きろ、ヒゲを剃れ、飲み歩くな。その三つだぞ。まさか……ヒゲでも生えたのか?」
「お主と話していると、頭が痛くなる……。そうではない。ペングイン大陸に行くという、これからのことだ」
「聞いた。まだ会議を重ねてんだろ? だからやることがなくて、グリザベルの部屋でカビ臭い本を読むくらいしかやることがねぇんだ」
リットが本を閉じると、古書独特の紙とインクが年月を重ねた妙な甘い匂いが風に乗って鼻先をかすめた。
「ならばだ。我が言わんとすることがわかるだろう」
「わかってたら、もっと上手くからかってやってるよ。なんだよ、問題でも出たのか?」
「そうだ。問題だ。それも大地を揺るがす大問題だ。これを見よ」
そう言うとグリザベルは机に置いてある酒瓶やカップを雑に床に下ろし、一冊の本を机に広げた。
そしてグリザベルに勢いよく指された文字をリットが読み上げた。
「握手とは――握手とは世界共通の友情の確かめ方だ?」
グリザベルはリットの手を取った。血の気の少ない冷たく細い指が握られる。
「そうだ。握手とは、このように手を握り合うことだ。だが、ゴーストとの友情の確認はどうすればいい? 霊体ならば我の手はすり抜けてしまうぞ」
「いいか? 言うことは三つある。まず一つ。握り合うのが握手だ。そっちから一方的に握るってのは握手とは言わねぇ。二つ目。ゴーストと仲良くなりたけりゃ死ぬことだ。そして三つ目。オレはこの話題に一切興味がない」
リットは乱暴にグリザベルの手を払うと、落ちている酒瓶を拾って机に乗せた。ついで、洗っていない汚れたカップに軽く息を吹いて埃を飛ばすと酒を注いだ。
「お主にとっては難しい話でもないだろう。だが、我にとっては生命の起源を解くより難しい話だ」
「まぁ、ベッドの上での営みがいつ終わったか聞かれるよりは答えやすい。答えるなら、大抵はお互いの妥協点を探してるうちに冷めて、そのままなあなあになって終わる。これで答えは満足か?」
「満足するわけがないだろう……。勝手に問いを変えて答えをだすではないわ」
「生命の作り方を知りたいって言っただろ」
「言うてないわ! まったく……ノーラから話は聞いているんだぞ。魔族の地スリー・ピー・アロウでスケルトンと友情を育んだと。スケルトンもゴーストも似たような種族であろう。その方法を我に教えよと言うておるのだ」
「奇妙な友情を育んだのはマックスだ。それもスケルトンじゃなくてゾンビだぞ。オレのスリー・ピー・アロウの思い出は、ヒシンっていう火をつけた酒を飲んで気持ち悪くなったくらいだ」
リットは酒を一口飲むと必要以上に長い息を吐いた。ポーチエッドの部屋から勝手に持ってきたリゼーネ特産の芋を使った蒸留酒は、芋の匂いがキツイためそうしないといつまでも口の中に味が残るからだ。
そうして、もう一口飲むとおもむろに口を開いた。
「だいたいな、ゴーストと友だちになってる余裕なんかねぇだろ。それに、友達を作るならメイドでも執事でもなんでもいるだろ、この屋敷に。その方が手っ取り早えよ」
「それができぬから恥を忍んで、こうしてリットに頼っているのだろう! 察せ!」
「なにが恥を忍んでだ。今までどんだけ晒してきてんだよ。もうクソを漏らすくらいしか隠す恥はねぇぞ――といつもなら、からかい倒してるけどな。運がいいぞ、オレは今暇だ。なにせ酒場に行く途中に、リゼーネの兵士に見つかったらエミリアに告げ口されるからな。ふらふら出掛けられないわけだ。だからグリザベルで遊ぶのも悪くない」
「既に散々遊び倒しておるだろう……が――我は不満を飲み込むぞ。お主も自らの口で言うたからには責任をとってもらう」
「すぐに知識をひけらかして、陳腐な言葉で威嚇してくる奴の友だちになれる奴ねぇ……。魔宝石屋のばあさんはどうだ? 同じ魔女だし話も合うだろ」
「……嫌だ」
グリザベルは頬でも叩かれたかのようにすばやくそっぽを向いた。
「おい、そこそこ真面目に考えてやったんだぞ」
「もう年寄りは嫌なのじゃぁ……どうせ皆我より早く死ぬではないかぁ……。もって数年の友情は儚すぎるのだぁ……」
「結構辛辣なことを言うのな……。なら別の種族でいいだろ。八割方は人間より寿命がなげぇし、ここは多種族国家だ。右を向いても左を向いてもいるんだから、声をかけりゃ一人くらいほだされて仲良しごっこをしてくれるだろ。そうやって俯いてさえいなけりゃな。小銭でも落としたのか?」
グリザベルは視線を下に向けたまま不満げに下唇を尖らせている。
「……もん……できないもん」とつぶやいてから、机を勢いよく叩いた。「気安く声をかけられるくらいならば! 今頃友人でピラミッドを作ってその上に君臨しとるわ!」
「そりゃまた……見たくはねぇ光景だな。だいたいエミリアと関係を築いてんだろ。ならいいじゃねぇか。なんでそんなにぽんぽん友達が欲しいんだよ。鶏だってそんなぽんぽん卵を産まねぇぞ」
「お主がこれみよがしに、我に友人を見せにくるからだ……」
グリザベルは鼻をすすり、出しかけた涙を懸命に飲み込んでいるが、リットにはグリザベルが言っていることの見当がつかなかった。
「そんなことあったか?」
「ありすぎるわ! ディアナではアリゲイルやテイラー! この間はドリー! 毎度毎度どこかに行くたびに友人を引き連れてきおって! もう我に嫌がらせをするためにしてるとしか思えないのだぁ!」
グリザベルが机を何度も叩いて子供のように不満を爆発させるので、リットは酒瓶を持って避難させた。
「んな子供みたいなことするかよ。やるならもっと酷いことをしてる。オレの友達だけを呼んだ酒盛りに招待して放っておくとかな。居心地が悪いぞ。友達の友達ばっかりの空間は」
リットが飲むか? とグリザベルに向けて軽く酒瓶を傾けるが、グリザベルは喉を塞ぐ熱いかたまりを飲み下すと、首を横に振った。
「今回のことで名声が広がれば、我らが死んだ後にも吟遊詩人の詩として残るかもしれんのだぞ。友人のいるお主らはいい。だが、我の名は誰に広げてもらうのだ? 誰にも語られず……我の名前だけが消える可能性もあるわけだ。嫌だぞ! 死んだ後も仲間はずれにされるのはぁ! 我も名前を広めてくれる存在が欲しいのだぁ!」
「一度友達って単語を辞書で引いてこいよ。友達をつくる気があるならな」一気に面倒くさくなったリットは、誰かに押し付けようと考えた。「それだ、チルカにでも頼め。妖精の噂話で広げるだろ」
「妖精の噂話?」
「このリゼーネにもあるだろ? 妖精の白ユリの伝説が。そういう妖精絡みの話を、カツラを被ったおっさんよりも盛って、噂話にするのが好きなんだとよ」
「つまり、チルカに頼めば。お主らの名前だけ残って、我の名前だけが歴史から消えることはないのだな」
リットが「そもそも、個人名なんか残んねぇよ」と言って酒瓶に少し目を移している間に、グリザベルは立ち上がり、すばやく部屋を出ていった。
その日の夜。月明かりが差し込む屋敷の一室で、チルカの偉そうな咳払いが響いていた。
机に積まれた本。さらにその上に置かれたワインに栓をしているコルクに腰掛け、足を組み、膝に肘をついて、手の甲に顎を乗せて、グリザベルを見下ろしている。左手には自分の体がちょうど隠れるくらいの大きさの紙を持ち、右手には小鳥の羽根で作ったペンを持っている。
小鳥の羽根ペンといっても、チルカからしたら大きすぎるといってもいいサイズで、なにかを書き込む時はノーラに紙を張るように持たせて、自分は手を動かすではなく、飛びながら体全部を使って文字を書くしかない。
「動機が弱すぎるわね……。グリザベルがディアドレのことを知っていようがいまいが、別にどうでもいいのよ。そんなのは人間が勝手に伝えるでしょ。私が伝えるのは妖精の噂話よ。好奇心を煽り、空想に働きかけ、不足を味わわさせ確かめたくなるようなお話なのよ」
チルカは肩をすくめると、羽根ペンの先でキイチゴを引っ掛けるように刺して拾い上げると、今度は羽根ペンの羽毛部分で埃を払った。
するとキイチゴは、チルカの羽明かりで宝石のように光った。
「我ならば、闇について深く話すことができるぞ」
チルカは「だからぁ……」と呆れたため息を吐き出す。「正解を探させるための噂話なのよ。いらないのよ、正しすぎる情報は。それに、大事なのは問題の闇じゃなくて、解決の光よ。太陽神の加護を受けている妖精が、どろどろとした闇を語ってどうしろって言うのよ。まぁ……今のままだと、グリザベルはリットと同じ扱いね。荷物持ち兼お笑い担当」
「まぁまぁ」とノーラが口を挟んだ。「お友達ってことでいいじゃないっスか。旦那と一緒の扱いじゃ、あんまりっスよ」
「友達ねぇ……。だいたいこんな夜中に呼び出しておいて、手土産の一つもないっていうのはどういうことよ」チルカは見なさいと羽根ペンの先で机に置かれた果物を指した。「新鮮な果物に野菜。全部エミリアが用意させたものよ。私の友達を名乗るなら、それ相応のものを献上しないと」
「はたして、友達料が必要なのは友達と言えるんスかねェ……」
ノーラはチルカが指したカゴの中から、適当な果物を一つ手に取るとかじりついた。
「友達にはそれぞれの付き合い方っていうのがあるのよ。反対にノーラには私の食べ物を取られてばかりじゃない」
チルカがペンと紙の両方を手放すのと同時に部屋のドアが開いた。
ドアからリットの顔が見えると「アンタのことは誰も呼んでないわよ」と、チルカが手を払って追い出す仕草をした。
「いいや、呼ばれた。こいつにな」リットはチルカを手で払うと、お尻の下にあったワインの瓶を掴んだ。「ポーチエッドと飲んでたんだけどよ。酒がなくなってな。二人で手分けして探してる最中だった。ちょうどここを通ると、私を飲み干してぇって欲求不満の声が、この部屋の中から聞こえてきたってわけだ。そう言われると、後先考えずに飲み干すのが男ってもんだ。二日酔いの後悔と一緒だ。飲んで、一晩経ってから後悔する」
言うだけ言ってワインを持って部屋を出ようとするリットの背中に、チルカが蹴りを入れた。
「人をはたき落としておいて、言うことはそれってどうなのよ! 自分の都合ばかり喋ってないで、せめて私を軸に話をしなさいよ!」
「わかった。オマエはアホだ」
「そういうことじゃないでしょう!」
「ちゃんとオマエを軸にした話だろ。オマエという起で始まり、アホという結で終わる見事な短編の物語だ。物分りの悪い奴にもわかる物語ってやつだな」
そう言うと、リットは妙に機嫌の良い笑い声を響かせた。
「アンタ……酔ってるわね……」
「だから、ポーチエッドと飲んでるって言っただろ。妖精の羽はなぜ光るのかで盛り上がってたところだ」
「なにって太陽神の加護を受けて――」
チルカが言葉を、リットは目の前に手をかざして遮った。
「後ろが光ってれば、前についてるブサイクな顔が影で隠れるからだろ」
「はぁ?」
「まぁ性格の悪さは隠せねぇけどな」
リットはまたも上機嫌に笑うと、チルカの反応を待たずに部屋を出ていった。
チルカはリットに向かってキイチゴを一つ思いっきり投げつけたが、キイチゴはリットではなく、閉められたドアにぶつかった。
「なんなのよアレ!」
「まぁまぁ、酔うのはいつものことじゃないですか。どうせ何を言っても聞いてませんて。それより先にグリザベルのことを解決しませんと」
チルカは「そうね……前言撤回よ!」とグリザベル眼前に人差し指を突きつけた。「グリザベルはアイツよりいい扱いにしてあげるわよ。こうなったらアイツの名前なんて一文字も出さないで、ランプだけの存在にしてやるわ!」
グリザベルは手を打ったように顔を明るくすると、フハハハとらしい高笑いを響かせた。
「そうであろう、そうであろう! 我がいなければ話は始まらないのだ!」
「いいんですか? それで」
ノーラの心配をよそに、グリザベルは体のうちから滲み出る高揚をそのまま口に出した。
「良いであろう。妖精の噂話に名前が出る目的は果たされたのだ。このグリザベル・ヨルム・サーカス! 死しても名を残すことになるであろう! フハハハ!」
「旦那にたらい回しにされて忘れてますけど、本来の目的は妖精の噂話に名前が出ることじゃなくて、友達を増やすことじゃなかったんスかァ?」というノーラの言葉は、上機嫌に響かせるグリザベルの高笑いにかき消されて、本人の耳に届くことはなかった。




