第三話
ブラインド村に向かう日になったのだが、未だにリットは気が乗っていなかった。
空は一点の曇もない青で、黄金の陽の光が地上に満ち溢れている。風は背中を押すような追い風。気持ちと裏腹に旅立ち日和だ。
リットは苛立たしそうに足元の小石を蹴ると、飛んでいった小石は通りの出っ張りに当たり、あらぬ方向へと転がっていった。その行方を目で追い終えると、ようやく一歩目を踏み出した。
その後を続くノーラが「まぁだ、怒ってるんスかァ?」と、リットの顔を覗き込むようにして言った。
「別に怒ってるわけじゃねぇよ。……ただ、面倒くさいだけだ」
「まぁ、私も保存食を食べるのはいやっスねェ」
「そのわりにはずいぶん楽しそうじゃねぇか」
タンッ、タンッとリズミカルに土を蹴る足音が聞こえる。リットの視界の端に映る程、ノーラは大きく手を振って歩いていた。
「新しい場所に行くのってワクワクしません?」
「旅行だったらな」
「だったら旅行気分でいきましょう。気分が変われば景色も違って見えますよ」
ノーラは気楽に言うが、リットの背中にのしかかる重みが旅行気分にはさせてくれなかった。
街灯が動き出す原因がなにかわからないので、とりあえず荷物をつめ込むしかない。
ランプをバラしたりするための修理道具もそれなりの重さになった。
リュックの肩紐が食い込む度合いで、金槌が左右どっちに寄っているのかがわかる。
村特有のオイルを使っているせいで異変が起きてるのかもしれないと思い、リュックに詰めた数種類のオイルも背中を丸めさせる原因になっている。
町が見えなくなるまで歩いたところで「キミ達っ……歩くのがっ……早すぎないかいっ……」と、ローレンが息も絶え絶えに言った。リットの倍近くの荷物を持っており、膨らんだリュックの他に両手にも鞄を持っている。
「足の短いノーラより歩くのが遅いってどういうことだよ」
「僕はキミ達みたいに野生的に育っていないんだ。繊細に出来てるから、長距離を歩くのはキツイんだよ」
「だらしないわね。まだ一時間しか歩いてないじゃない」
「キミは飛んでるじゃないか。二本足で歩くのは疲れるんだよ」
「本当、飛べない種族は惨めね」
チルカは羽を見せ付けるように、ローレンの目の前ではためかせると、空を泳ぐようにスイスイ飛び回った。
「羨ましいね。飛ぶのは疲れないのかい?」
「飛ぶのだって疲れるわよ。でも、疲れたらほら」
チルカはノーラの頭の上に止まって見せたが、ノーラは落ち着きなく体全体を使って歩くので、ノーラが一歩踏み出す度にチルカは頭の上で跳ねた。
気の抜けるような声を上げてカラスが飛んでいるので、それを見ようとノーラが首を動かすと、その反動でチルカは転げ落ちた。
「……やっぱり、ノーラは危ないわね」落ちる時にぶつけた頭を手で押さえながらリットの頭の高さまで飛ぶと、辺りを見回すように視線を動かす。
一度リットの頭上に影を作ったが、思い直してリットの背負うリュックの上へと腰を下ろした。
「重い」リットは背中を揺すってチルカを落とそうとしたが、一度で止めた。体にくる負担の方が大きかったからだ。
「重くないわよ! アンタの体重の百分の一も無いわよ」
「そうだよ、リット。それは胸がない女性に対しても失礼だよ。例え重くても、何食わぬ顔をするのが男さ」
「アンタも失礼よ! 重くないって言ってるでしょ!」
チルカがリュックの上でバタバタ足を動かして抗議をすると、雨蓋にチルカの足が触れるのと同時に波を打った。
「暴れんなよ。チル“ガ”」
「なによそれ。悪口のつもり? センスないわね」
「オマエが暴れる度に、肩が痛えんだよ。大人しくチルガは飛んでろ」
「……それムカつくからやめなさいよ」
「チルガには上手い返し方が思いつかないだろうな」
リットは頭の横に人差し指の先端を向けて渦巻きを描いた。
「見てなさいよ!」チルカはリットの後頭部を睨みつけると、うんうんと唸りだした「えっと。リ……リ……。リット……。リットンボ」
リットはそれを鼻で笑うと、そのままなにも言わずに歩き続けた。
「い、今のはアンタがクルクル指を回すのと、それに目を回すマヌケなトンボを――」
「説明するようになったら皮肉屋もお終いだな。オレの勝ちだ」
「別にアンタと皮肉を競ってるわけじゃないわよ。で、いつまで歩くのよ。このまま山を越えるつもりなの?」
「隣町までだ。そこまで行かないことには、馬車がないからな」
リットの住んでる町にある馬車はロバが引くもので、行商などの大荷物を運ぶ時には役立つが、馬に比べてロバの足は遅いため、移動するのに使うには向かなかった。
「不便な村に住んでるのね」
「不便なことには同意するけど、妖精に馬車なんて必要ないだろ」
「ほとんどの妖精は森から出ないから必要ないもの。世界広しといえど、馬車に乗った妖精なんて私くらいのものね」
チルカは鼻歌でも歌い出しそうな口調で言った。怒りに任せてバタバタ動かしていた足もリズミカルになっている。
「世界にまで視野を広げるなら他にもいっぱいるだろ」
「……良い気分に浸ってんだから水差さないでよね」
「旦那達元気っスねェ……」
先程までの歩き方とは違い、ノーラは肩を落としながら重そうに足を前に出している。心なしか視線も下に落ちていた。
「オマエはついさっきまで一番元気だったじゃねぇか」
「ちょっち疲れたなァって思った途端、沼にハマったように足が重くなってきたんスよ。荷物入れ過ぎじゃないっスか?」
「オマエのリュックには食料しか入れてないだろ」
「食料……。あーっと……旦那ァ、お腹空きません? そろそろご飯にしましょうか?」
ノーラは背中のリュックを揺らして、重さを確認しながら言った。
「別にいいけど、リュックの中身が減ったらオレの荷物をそっちに移動するぞ」
「旦那ァ……」ノーラの声には「そりゃないっスよ」と言いたげな響きが含まれていた。
「せめてコイツが荷物持てるなら楽になるんだけどな」
リットはリュックを背負い直すように動かすと、その反動でチルカは跳ね上がり、転げ落ちないようにリットの髪を束にして掴んでいた。
「いきなり危ないわね! 舌噛みそうになったじゃない」
「荷物を持つどころか、荷物になりやがって」
「私だって荷物は持ってるわよ」
チルカはリットの目の前まで飛ぶと、肩がけのポーチを見せた。開いたポーチの中には、ナッツが三つ程入っている。
「そりゃ、オマエのおやつだろ」
「そうよ。だって、私がアンタの荷物を持つ道理も理由もないじゃない」
「そりゃ、オレの酒のツマミだろ」
「さぁ。アンタの名前でも書いてあるの?」
チルカは小さな鼻の穴を膨らませると、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「……今度から食器棚にしまう前にツバでもつけといてやる」
「ちょっと! それは本当にやめなさいよ! 私が間違って食べたら変な病気になるじゃない!」
「病気になっても看病はしてやらんからな。勝手に治せよ」
「だーかーらー! アンタが変なことをしなけりゃ済むのよ」
チルカは両手を使ってリットの頬を引っ張った。
「痛えからやめろよ。虫刺されみたく、赤くなるじゃねぇか」
「虫に例えるのやめなさいよ!」と言いながらチルカは頬を強く引っ張る。手で追い払おうにも、重いリュックを背負っている状態では、チルカに翻弄されるばかりだった。
隣町で馬車を借りると、御者が山脈を迂回しようと提案を出した。
山越えよりも大幅に距離が伸びるので却下すると、今度は馬車で山頂まで上って、途中から船で川を下るという提案を出してきた。
荷物を持っているので馬車で山を越えたいと伝えると、馬車が行けるのは山のふもとまでで、ブラインド村まではいけない。
どうしても村には近寄りたくないらしく、割り引きをするからふもとまでで勘弁して欲しいと言われた。
何がそんなに嫌なのかを聞いても教えてくれず、おかげでふもとに着くまでの四日間は、リットの心中に不安が渦巻いていた。
心の整理がつかぬままふもとまで着くと、馬車は急ぐように今下りてきた山道を上って行った。山のふもとには、幅広く深い川が流れている。見えるところには舗装された道がなく、しばらくは川沿いを歩いた方がよさそうだった。
リット達は岩屑を踏んで川の側まで歩いて行った。
ジャリジャリと鳴る音の大きさと長さで、疲れている具合がわかるようだった。
リット達は川べりで一時の休憩をとり始めた。
ローレンは「は」と「ふ」の中間のような言葉を息多めに長く吐き出すと、足を伸ばして座り込んだ。
「まったく……疲れるよ」
ローレンは水筒の水を喉を鳴らして飲むと、靴を脱いで外気に晒した。足を靴の締め付けから開放するだけで、それだけでも疲れが取れた気がした。
「ローレンは、旦那よりもあちこちの街に行って物売りをしてますよね? 旅には慣れてると思ってましたけど、違うんスか?」
「一つ売れれば、それなりの儲けになるからね。僕は行きも帰りも立派な馬車さ」ローレンは水筒の蓋を閉めると、大事そうに二つの手持ち鞄を目の前に置いた。「ブラインド村でも、ブリエラに持って行かれた分は稼がないと」
「その鞄、二つとも宝石っスか?」
「そうだよ。ブラインド村に新婚さんやカップルがいると助かるんだけどね。僕の今後を思ってか、ブリエラはダイヤやサファイアは持って行かないでくれたから。その辺をターゲットにしないと」
ローレンが鞄を開くと片方には宝石。もう片方にはアクセサリーが並べられていた。
「よく前向きに考えられますねェ。騙されたばっかりだっていうのに」
「騙されても許せると思える程、素敵な女性だったからね」
「お金のかかる恋をしてますねェ」
「大きな胸を支えるには、お金を積み重ねて台を作ることも必要なのさ」
「それがなけりゃ、少しはまともに見えるんスけどねェ……。――まさか旦那は、お尻に敷くための台を作るとか言わないっスよね?」
ノーラは、川の水を水筒に汲んでるリットに心配そうに聞いた。
「アホか。騙すような女に金を使うわけないだろ」
「……なんか期待していた答えとは違うんで心配になるっスよ」
「なんにせよ。宝石と違ってランプを盗むような奴はいないだろ」
「確かに。私も盗むなら宝石を盗みますねェ」
「だろ? ローレンを見とけ。アイツは隙だらけだから、盗るチャンスなんていくらでもあるぞ」
「物騒な話をしてるんじゃないよ!」
ローレンは慌てて鞄を閉めると、上から麻ひもで縛った。ぐっと固結びにすると、背中と岩の間に鞄を隠す。
「大丈夫っスよ。今はダイヤモンドやルビーより、ジャムとバターっスから。この二つが合わさると宝石よりも綺麗に輝くんスよねェ」
「……宝石の価値が下がる発言は謹んでくれたまえ」
しばしの休憩をとった一同は、そのまま川沿いを歩いていた。
地図を見ると、このまましばらく歩いて行くと、今歩いている『ランオウ川』とは別の川。ザラメ山脈から伸びる『モーモー川』がある。二つの川は途中で合わさり、ガレット地方を象徴する『カスティ大河』となる。
二つの川が合わさる場所から、少しモーモー川寄りに行ったところにブラインド村がある。
ブラインド村に近づくにつれ、徐々に暗くなるのは気のせいではない。厚く黒い雲は、雨粒の代わりに影を落としているようだった。
しかし、闇に呑まれると形容するには物足りない感じがする。目を閉じても瞼には光を感じる程だった。
ちょうどモーモー川の水面がうっすら見えた時、バケツの中の水をぶちまけたみたいな音が盛大に響いた。
突如鳴った大きな水しぶきの音に皆反応したが、瞳が捉えたのは水に広がる波紋だけ。
ただ一人、正体を見たノーラだけが騒いでいた。
「魚っス! 大きな魚!」
ノーラは両腕をめいっぱいに広げて、今見た魚の大きさを表現しているが、その大きさが正確なら人間程の大きさがあることになる。
海ならまだしも、川にそんな大きな魚がいるとは信じられなかった。
リットは「おお、すげぇすげぇ。きっと川の主だろうな」と言うと、シャツの襟に指を引っ掛けて、空気を取り込むようにパタパタと扇いだ。
「旦那、信じてないでしょ」
「本当にいるならチルカを餌にすりゃ釣れるかもな」
リットはもう一度川へ視線を向けるが、遠くでまばらに生えた草が、風に吹かれて姿を現したり消したりしているだけだった。
「さっきは本当に魚だったんスよォ。尾ひれをパーンと見たんスから」
「尾ひれはオマエが付けたんだろ」
「信じてくれないと、はひれも付けて旦那の悪口を広げますよォ」
「わかったわかった。帰りにもう一回確認してやるから」
「絶対っスよ。もし大きな魚がいたら贅沢させてもらいます。しばらく朝のパンには、ジャムとバターを付けるのが条件っス」
「オマエの贅沢ってそんなもんか?」
「だって、ジャムとバターが揃う時なんて、めったにないでしょう?」
リットとノーラの会話を聞いていたローレンは、不思議そうに顔をしかめた。
「リット……。一体キミは普段なにを食べてるんだい」




