第四話
マックスが来てから数日経ったある日。
地下の工房で妖精の白ユリのオイルを抽出するリットの代わりに、マックスが店を開ける準備をしていた。
「ノーラ、そこの箱を取ってくれないかい?」
マックスはノーラの足元にある、ロウソクの入った木箱を指した。
「今手が離せないんスよ。ご自分でどうぞ」
ノーラは厚切りのパンに、バターをたっぷり塗り、その上からたっぷりの蜂蜜をかけている。
「ちょっとかけすぎよ。それはうちのミツバチに命令して、赤い花を咲かせる植物からだけ、蜜を集めさせて作った特別な蜂蜜なのよ」
チルカはパンではなく、リットの晩酌用のアーモンドを半分に割って、ランプの炎で炙り、それを蜂蜜にひたして食べている。
「ケチったほうがもったいないっスよ。バターも蜂蜜もたっぷり使うから、満足な朝食になるってもんスよ。この蜂蜜はなかなか複雑な味で美味しいっスねェ」
「ミツバチは一種類の花から蜜を集めるんだけど、さっきも言ったとおりこれは何種類も花の蜜が混ざってるのよ。フラワーブーケって呼ばれて、毎回味が変わるからギャンブル性が高いんだけど、今回のは当たりね。コクのある甘さがアーモンドに合うわ」
チルカはカリッと程よい音を立ててアーモンドをかじると、アーモンドの塩気で引き立つ蜂蜜の甘さに頬を緩ませた。
「あの……なぜ店の中で朝食を……」
結局自分で箱を取り、一人で開店の準備を進めているマックスにとって、蜂蜜の甘い匂いは邪魔でしかなかった。
「仕方ないでしょ。集中したいから邪魔すんなって追い出されたんだから。文句があるなら、自分で言ってきなさいよ」
チルカは鉄串でアーモンドを刺すと、ランプの炎で炙った。
アーモンドの薄皮が焦げる香ばしい匂いが店の中に漂うと、リットが店に顔を出した。
「おい……マックス……オマエには人を説得する力ってもんがねぇのか……。だからちんちくりんのドワーフにも、盗人の妖精にも舐められるんだよ」
「なによ。聞き耳立ててやらしい奴ね」
チルカはリットが来ても、アーモンドを盗ったことを隠すことなく炙り続けている。
「人のアーモンドを食っていやしい奴め。――いいか、マックス。人に命令する時は有無を言わすな。押しを強く、丸め込むんだ。よくオレにやられてるだろ」
「命令する気はないです。お願いをしてるんです」
「マックス……人を使うってのは命令するってことだ。お願いってのは究極の遠回りだ。やらせたいなら、命令、押しを強く、口を挟む暇を与えるな。いいか、見てろ。おい、ノーラ。それを貸せ」
リットが手を出して持っているパンを寄越すように言うと、ノーラは両眉を寄せて、一瞬躊躇ってからパンを差し出した。
「……どうぞ」
「わかったか? マックス。これが有無を言わさない押しの強さだ」リットは得意気な笑みをマックスに見せつけてから、パンにかぶりついた。しかし、すぐにノーラと同じように眉を寄せた。「なんだこれは……」
「ハニートーストですよ。パンはくり抜いて、中に木苺のジャムがたっぷり入ってますけど。旦那甘いの苦手でしょ。だから少し迷ったんスよ。有無を言わせてくれたら、説明できたんっスけどねェ」
ノーラはリットに突き返されたパンを頬張ると、この上なく幸せそうな笑みを浮かべた。
「アンタもバカねぇ。無駄に偉ぶるからそういうことになるのよ。で、わざわざお笑いをやりに顔を出したわけ?」
「忘れてたことを思い出したんだよ。なんかあった時のために、マックスを知り合いに紹介しとこうと思ってな。でもな……」
リットの睨むような視線を受けて、マックスは思わずたじろいだ。
その様子を見て、リットはため息をついた。
もう少し柔軟な対応が身についていると思っていたが、肝心な部分は昔と変わっていない。自分の店に進んで足を向けるような客とマックスは、相性が悪いというのがリットの本音だった。自分のように言い返すか、ノーラのように受け流すことができれば、ある程度はやっていけるだろうと踏んだリットは、無言のまま店を出ていった。
いきなりどうしたんだろうというマックスの不安をよそに、リットはドアを閉めると、またすぐに店の中に入ってきた。
「あいかわらずしけたツラしてるな。どうせ客が来ねえくらいの悩みなんだろ。いまさら気にするような上等な暮らしなんかしてないだろ」
店に入るなり、大げさな手振りを加えて、なじるような言葉をかけてくるリットに、マックスは「はぁ……」とこたえるしかなかった。
その反応は期待していたものではなく、リットは不満をあらわに眉をひそめた。
マックスのほうも、リットのその反応が理解できずに困って眉をひそめる。
「挨拶をされたら、挨拶を返すのが礼儀っスよォ」
パンを口に押し込みながらノーラが言うと、マックスは首を傾げた。
「挨拶?」
「そうっスよ。あいかわらずしけたツラしてるなって言うのは、旦那達の間ではよう元気か? みたいなもんスよ。挨拶は大事ですよォ」
「挨拶って……。挨拶はもっと爽やかなものだと思うけど……」
「旦那がお友達と爽やかに挨拶をしあってるのを想像できますかァ? ひねくれ者にはひねくれ者の言語ってものがあるんスよ。どれ、一つ教えてあげましょうかね」
ノーラは残りのパンも一気に口の中に押し込むと、頬をリスのように膨らませて椅子から飛び降りて床に立った。ついでマックスを自分が今まで座ってた椅子に座らせると、自分は手近な箱を踏み台にしてマックスを見下ろした。
「いいですかァ、額面通り受け取っちゃアいけないっスよ。アホかと言えば、それは天才ってことっスよ。ねっ旦那」
心を見透かしているといった風に得意な顔をするノーラに向かって、リットは首を横に振った。
「いいや、アホだと思ってアホかって言ってるぞ」
「と、まぁこのように言葉の裏の裏を読むってことっスよ。裏の裏は表じゃないんスよ」
「良いことを言ってるようだけど、まったく説得力がない……。そもそも兄さんが素直になればいいだけなのでは?」
「オレだけの問題じゃねぇよ。そういうコミュニケーションの仕方もあるってことだ。だいたいな、さっきの言葉の意味を理解できないってことは飯にありつけねぇってことだ。死活問題だぞ」
リットは無駄に姿勢良く座っているマックスの胸元を念を押すように数回つついた。
「本当にそうなら、僕にもわかるような言語でお願いしたいんですが……」
「しょうがねぇな。いいか、しけたツラとか、ちんけな商売とかって言葉が最初につけば、それは挨拶代わりだ」
「それはさっきノーラから説明されましたけど……。その後も煽られてるだけだったような気が……」
「どうせ客が来ねえくらいの悩みなんだろってのは、悩みがあるから聞いてくれって意味だ。いまさら気にするような上等な暮らしなんかしてないだろってのは、奢ってやるって意味だ。つまり繋げるとだな。よう、元気そうだな。こっちはちょっと悩み事がある。酒場で一杯奢るから話を聞いてくれ。ってことだ。酒を奢られるってことは、一食分浮くってことだぞ」
リットは簡単だろと言う代わりに、マックスの肩に手を置いた。
「……それはどの種族の言語ですか? もう少ししっかり翻訳してもらわないと、まったく文脈が繋がらないんですが……」
「なら、わかるようになるまでだ」
リットは無理やりマックスを立たせると、肩を掴んでそのまま店を出ていった。
「なんなのあれ」
チルカが口についたアーモンドの皮カスを手で拭きながら言う。
「いろいろ教えたいんスよ、マックスに。旦那のパパさんもそうだったでしょ」
「じゃあなに、自分がやられて嫌だったことを繰り返してるわけ? バカの極みね」
「男の家族っていうのはそういうもんなんスよ。きっと」
リットが「あいかわらず、しけたツラしてるな」と言って入っていったのは、いつものカーターの酒場だった。
まだ朝だが、昨夜から一晩中飲み明かした酔っぱらいが二、三人床に転がっていた。
「そっちほどじゃねぇよ。言っとくけど閉店中だぞ」
「まだ客がいるのにか?」
リットがつま先で酔っ払いのお腹をつつくと、酔っぱらいは寝息に苦しそうな声を混ぜた。
「そいつらは捨て犬みたいなもんだ。一度餌をやったらいつまでも居座る。それでなんだ? いまさら家族紹介か?」
カーターはリットの後ろにいるマックスに目をやった。
目が合ったマックスは深く頭を下げて挨拶をした。
「何度か会ってるだろ。マックスだ」
リットはカウンターの椅子に座ると、マックスを指した。
「知ってるよ。希望を胸に抱いてリットに会いに来て、絶望を持ち帰らされた男だろ」
カーターが座れよ。と手で合図すると、マックスは遠慮がちに椅子に腰を下ろした。
「すいません……朝からご迷惑をおかけして」
「迷惑っていうのは、あそこに転がってる連中のことだ。あと……酒場の経営時間なんて気にせず、ズカズカ入ってくる奴とかな」
カーターがリットに目をやると、マックスは恥ずかしそうに目を伏せた。
「今日は朝から飲みに来たわけじゃねぇよ。友達と世間話をしにきたわけだ。問題あるか?」
「いいや、オレは問題ない」
「なんだよ。オレはってのは」
「どうせ、なんかあったら力を貸してやれって言いに来たんだろ。それも含めて問題はない。オレはな」
「だからなんだってんだよ」
「問題があるのは、ローレンだ」
カーターが言うのと同時に、リットとカーターは同時にマックスに目をやった。
あどけなさの残る端正な顔立ち、シャツの上からでもわかる筋肉、清潔な身なり。マックスはこの酒場には似つかわしくなかった。
「たしかに……その問題があったな」
「その視線は僕に問題があるってことですか? 一応ローレンさんには友達だと言われているんですが……」
「乳がでかい女に言い寄られてるのを見たら、そんな言葉なかったことにされるぞ。世の巨乳は皆自分の女だと思ってる奴だからな」
「……そんな不誠実な人が存在するんですか?」
「女を顔で差別しないから、ある意味誠実とも言えるぞ。まぁ、頼るならカーターかイミル婆さんだ。どっちも人がいいから、飯の面倒くらいなら見てくれるぞ」
「おいおい、勝手なことを言うなよ。だいたいだな……こんなチンケな酒場を頼るより、実家に泣きついたほうがいいだろ。マックスの場合は。どっかの捻くれ王子とは違うだろ」
マックスはゆっくり首を横に振ってから、カーターに真っ直ぐな瞳をぶつけた。
「国に頼ると癖になりそうなので……。せっかく独り立ちできるチャンスなので、できるだけ自分の力でやってみたいんです。ですが、慣れるまではご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
「おい、聞いたか?」
「聞いたぞ。まだ耳が遠くなるような歳じゃねぇからな」
「これだよ、こういう謙虚さがあるから助けてやりたくなるってもんだろう。アドバイスの一つもしたくなるってもんだ」
「アドバイスね……」リットは少し考えてから、マックスのほうを向いた。「いいか? 男の嘘は最後の手段。女の嘘は最初の一手。どっちも、最後まで嘘がバレなかった奴が正直者って呼ばれんだ」
「それは……なんのアドバイスですか?」
「男の嘘ってのは、門を打ち破られても最後の砦を守ろうとするみっともない嘘だ。ボロが出てからつくからすぐにばれる。女の嘘ってのは、門を打ち破るため計画を練った上での最初の攻撃だってことだ。恋人がいないって言ってすり寄ってくる女は、オマエの門を打ち破ろうとしてるってことだ。打ち破られたら大変だぞ。他の恋人、女友達、果ては彼女の両親まで、皆なだれ込んでくる。で、存分に荒らしてから勝利宣言をするわけだ。あなたって、思ってたよりもつまらない人ね。ってな」
「ますます意味がわかりませんよ……」
「男の最後の砦は脆いってことだ。だから若いうちに騙されとけ。最初は鋼鉄でできた城壁でもな、直し方を知らねぇと泥を固めて城壁代わりにするようになる。そうなると、ちょっと攻撃されるだけで泥沼だ。で、あれが成れの果てだ」
リットは未だに眠り続ける酔っ払い達を顎で指した。
「よくわかったな。昨夜は置き手紙一つでいなくなったって、テーブルに乗って、涙ながらに叫んで大変だったんだぞ」
カーターはまだ疲れが残ってると、自分の肩を叩いて長いため息をついた。
「わかるもなにも、アイツはかみさんと別れてから、ずっと同じことの繰り返しじゃねぇか。少しはローレンを見習えってんだ」
「ローレンを見習うってのもどうかと思うけどな……。別れ際の女からのビンタを勲章代わりにしてる奴だからな」
「虫歯で頬が腫れてるのかと思ったら、一日で五人の女に平手打ちされてたくらいだからな」リットはカーターとひとしきり笑いあった後で、「で、なんの話をしてたんだか」とマックスを見た。
「……ためになる話ではないことは確かです」
「じゃあ、続きを話すことでもねぇな。早いとこ戻って店を開けとけ。オレは一杯飲んでから帰る」
リットはマックスをさっさと追い出すと、カーターにいつもの酒を注文した。
「今日は飲みに来たわけじゃないって言ってなかったか?」
そう言いながらカーターは酒をコップに注ぐ。
「酒場に来て飲まないってのもおかしな話だろ」
「まぁ、いいけどよ。で、いなくなったから聞くけどよ。なんでマックスなんだ? リットの知り合いなら、ちゃんと商売に慣れてる奴もいるだろ」
「ゴウゴを知ってるだろ」
「おう、あれも弟だってな。リゼーネの行き帰りは必ずここで飲んでくぜ」
「マックスとゴウゴの歳は殆ど変わらねぇ。かたや外交官という目標を叶えて真っ直ぐ道を進み、かたややっと目標を見つけたものの道がわからずくすぶってる。まっ兄心ってやつだな」
「あったのか……リットにそんなものが……」
「母性本能が出るよりは可能性があるだろ。自分からは助けを求めに来ねぇだろうから、たまに様子でも見に行ってやってくれ」
リットは一気に酒を飲み干すと、別れの挨拶代わりに片手を上げ、一度も振り返らないまま酒場を出ていった。




