第十五話
数日後。リットは特になにをするわけでもなく、仰向けに寝転がり、葉に透ける太陽の影を追っていた。
時折、ミツバチの代わりに花粉を服や靴につけたチルカが飛んでくるだけだ。
チルカは花蜜を運ぶのに何回か往復を繰り返した後、ふいに視線落としてため息をついた。
「別に悪く言うつもりはないけど、アンタって哀れな奴ね」
「今のを良い意味で言ったらどうなるんだ?」
リットは視線も体勢も変えることなく言った。変化があったのは視界の右だけ。目にゴミが入ったように、中途半端に伸びたチルカの足影が黒く映っている。
「恋人はいない、お酒がなければ会話もない。ノーラが問題を起こして、新しい風が吹いてこなければ寝てばかり。人生のどん底で這いつくばるばかりじゃない」
「良い意味ってわかってるか?」
リットが上体を起こして睨みつけるが、チルカはそれを手で制すると、もったいぶった笑みを浮かべた。
「まぁまぁ、落ち着きなさいよ。別にアンタに喧嘩を売るわけじゃないわ。むしろ仲良く会話をしに来たのよ。ずばり妖精の原石ね」
「なんの話をしてんだよ」
リットが上体を起こすと、すかさずチルカは眼前に移動して、人差し指を突きつけた。
「ヨルアカリグサの名前よ。アサアカリグサが妖精の白ユリって呼ばれてるなら、ヨルアカリグサは妖精の原石。名前をどうするか、私に聞いたでしょ?」
「いいや、聞いてねえ」
「じゃあ聞いて。原石は表面を削って、キラキラ光る宝石になるでしょ。ヨルアカリグサも古い葉が落ちて、新葉が光を放つ。だから妖精の原石なのよ! これは世界に残る名前になるわよ」
「そりゃ、よかったな。日記にでも書いとけよ。思い出の一ページにはなるだろ」
「そうじゃなくて……」とチルカがさらにリットの顔に近付いた瞬間、突然の強風に飛ばされてしまった。すぐに鼻をすするリットの顔の前まで戻ると「アンタねぇ……。私が集めてるのは花の蜜よ。鼻水なんか飛ばすんじゃないわよ。きったないわねぇ……」と言って、手にかかったリットの鼻水を払った。
「花粉まみれで近付いてくるから、くしゃみが出んだろ。言っとくけど、すげぇ酷い臭いがしてるぞ……。雨に濡れた犬のほうがまだマシだ」
「こっちだって、雨に濡れた犬にすり寄ってるほうがマシよ。でも、なぜアンタになんかすり寄ってるか――」
チルカは天井まで高く飛び上がると、天井を作っている葉をいじり、地面に一箇所だけ強い光が落ちる場所を作った。
そして光の中心まで降りてくると「答えは簡単」とリットに向かって指をさした。「チルカ・フリフェリーの名を轟かせるためよ。そして、私は世界一有名な妖精になるの」
チルカは言い切ると、スポットライトを浴びる舞台の役者のように華麗にポーズを取った。
「有名になってどうすんだよ。どうせ森に籠もるんだろ?」
「有名になるってわかる? 姿が見えなくても、皆が名前を知ってるってことよ。ほら、裸の絵ばかり描いてる……あの……なんとかって画家の人みたいに」
「そりゃ、すげえな。オレでも知ってるぞ。そのなんとかって画家の奴のことは」
「細かいことはいいのよ。とにかく、私に命名させなさいよ。アンタの名前も、妖精のうわさ話に少しくらい登場させてあげるから」
「うわさになってなにが楽しいんだか……」
「自分がうわさの中心になるなんて名誉なことじゃない。リゼーネで一番うわさされてる妖精って誰か知ってる?」
「何代目かの王を、迷いの森から出した奴だろ。妖精の白ユリって呼ばれるようになったいう昔話の」
「そうよ。その話のインパクトが強すぎて、迷いの森では他のうわさ話がすぐに衰退していくのよ」
「オレについてきてるからって、噂になんかなんねぇだろうよ」
「だから、もっと大きなインパクトを残そうってことよ。話の流れでわかるでしょ。私がヨルアカリグサに名前をつける。アンタは私が名前をつけた植物で闇を晴らす。出だしはこうよ」チルカは「バーン!」と声に出して言うと、少し勿体つけてから続けた。「妖精チルカ・フリフェリー。人間を従えて世界を救う」
言い終えると、チルカは胸いっぱいに空気を吸い込んでから、心地よい空気を堪能するようにゆっくり吐き出した。
「オレを登場させるってのは、従者の人間としてか?」
「なに言ってんのよ。人間はエミリアのことよ。ギリギリでグリザベルまでね。アンタは……まぁ、男Aくらいにはしてあげるわよ。壮大な物語には、顔だけで人を笑わせられる三枚目っていうのも必要だしね」
チルカはあれもこれもと自分に都合の良い設定を口に出していくが、いい気分に水を差す、野暮ったいリットのため息に口を閉ざした。
「大層な妄想をしてるようだけどな。手柄は全部リゼーネのもんだぞ」
「……なんでよ。こんなこと言いたくはないけど、今のところアンタが一番苦労してるじゃない」
「世の中は金を出す奴が正義なんだよ。それにな。どこの馬の骨ともわからない奴の名前より、国の名前を出したほうが、事実としてはおさまりがいいんだ」
「なぁーんだ、そんなこと」チルカは心配して損したと腕を伸ばした。「いいのよ、うわさ話なんだから。事実がどうであれ、面白ければそれでいいんだから」
「どうせなら、オレに酒を奢れば幸運なれるって噂でも流してくれよ。そうすりゃ、一生酒代に困んねぇ」
リットは大きくあくびをする。いつもと違って、一滴の酒のにおいも混ざっていなかった。
「言っておくけど、うわさっていうのは嘘のことじゃないわよ。それより――」チルカはリットをまじまじと眺めると、肩をすくめてため息をついた。「アンタなにしにきたのよ」
「来たのはそっちだろ。オレはずっとここにいる」
「そのずっとここにいることを言ってるのよ。得意の悪あがきはやめたの?」
ここ数日の間。リットがヨルアカリグサについてなにも調べていないを知っていたので、チルカはだらだらと過ごすリットに呆れた視線を送った。
「煮て、絞って、腐らせて。全部失敗してんだ。悪あがきを続けようにも、ドリーはお使い中で、アリアはまだ寝込んでる。どうしろってんだよ」
「それをどうにかしに来てるんでしょ。せっかくお酒が入ってないで頭が回るんだから、考えなさいよ。いいかげん砂漠にも飽きてきたところよ」
チルカは木漏れ日を睨みつけた。
砂漠には太陽はあるが季節はない。四季とりどりの植物が枯れることなく咲くこの場所は、チルカにとってあまり愉快なことではなかった。
枯れ、散り、芽吹き、花を咲かせる。森の中では当たり前のことがここにはない。
いつもならオアシスに行って癒やされるのだが、キルオがアリアの看病につきっきりのため、それができないのでストレスが溜まっていた。
「まぁ……たまには健康者らしく、時間を有意義に使うのも悪くねぇな」
リットは立ち上がると、チルカを指でまねいた。
「悪いけど、アンタと違って私はやることがあるのよ。花蜜を集めて瓶にためるの」
「ヨルアカリグサの名前を考えるんだろ。アリアの研究資料を見れば、なにか思い浮かぶかもしれねぇぞ。研究室には勝手に入っていいって言われてるしな」
「おことわり。なにが悲しくて、あの女と顔を合わせないといけないのよ」
チルカはさっさと飛び上がり、次の花蜜を取りに行こうとリットに背を向けた。
「今は寝込んでるからいねぇよ。やまほど資料があんだ、めぼしいのを見つけるのを手伝ってくれよ。名前を調べるのにも、ちょうどいいだろ。もう既に存在してる名前をつけたら、噂どころか笑い話にもなんねぇぞ」
チルカは腕を組むと、雪が落ちるようにゆっくり地面に降り立った。そして、結論が出るとリットの目の前まで再び飛び上がった。
「しょうがないわねぇ……。言っとくけど、資料一枚確認するたびに貸しひとつよ」
今度はチルカがリットを指でまねいた。
「それでいい。返せない借金は、死ぬまでか、じいさんになってボケるまで見なかったことにする主義だからな」
「アホ達を満足させる名前を考えるのも楽じゃないわね。双葉にわかれて割れ目があるし……いっそ奇をてらって、お尻に関する名前をつけようかしら」
「満足させるってのは性的にって意味なのか?」
「アンタ……植物にも興奮するの?」
「見るもの何でも女の裸と結びつける、思春期特有の病気にならかかったことがある」
「アンタが木のうろに向かって腰を振ってても別に驚かないけど、思春期なんて繊細な時期があったのには驚いたわ」
「オレだって驚きだ。できることならヨルアカリグサの汁を飲んで、思春期の頃の記憶だけ忘れてぇよ」
「アンタはじいさんになっても、今の自分を思い出して恥じてるわよ」
リットが探しているのはアカリグサの資料ではない。それが存在するなら、それを見つけるのに越したことはないのだが、アリアもキルオも詳しく調べていないと公言しているので望み薄だ。
似たような植物の資料や、自分の知らないオイルの抽出方法が記されたものがあればいいと、チルカと二人で手分けして探していた。
「ちょっとこれ見てよ」
チルカが羽明かりで照らした紙には、根が上にあり葉が下にある植物の絵が描かれていた。
「それがなんだ?」
「湿地帯に生えるが、この植物は過湿に弱く土に根を張らない。空気中の水分を、逆さに伸ばした根から吸う。名前はひねくれ草だって。アンタみたいな植物ね」
「よかったな……」
関係のない植物だとわかったリットは、適当に返事をして自分の手元の資料に視線を移す。
身の回りに生えているような植物から、見たことも聞いたこともない珍しい植物。聞いたことがあっても、見るのもためらう毒性植物など、アリア達が調べた植物の数は膨大なものだった。
自分の住んでいる森以外の植物のことも書かれているので、好奇心の強い妖精のチルカは次々と視線を奪われていっていた。
「ねぇねぇ、フローズン・リーフってなにかわかる?」
「場を凍らせるような、今のオマエのテンションのことか?」
チルカは腕をクロスさせて「ぶっぶー!」と唇を突き出した。「残念でした! 葉っぱにできる塩の結晶が凍った霜のように見えるから、そう呼ばれてるのよ」
「塩なんて葉についてたら、水分を持っていかれて萎れるだろ」
「それもそうね……。えっと……寒い地方の海岸に生息し、見た目から海藻とも間違われるが、ミズナ科の植物である。寒さには弱く、塩生植物ではない。海水を吸い上げ、蒸散と一緒に塩分を葉から出す植物。寒風が吹き始める秋頃に自分で出した塩によって早々に葉を枯らして、冬を超す分の栄養を根に蓄えるのが目的であると考えている。生でも食用可だけど、茹でると青臭さが消えて、なおかつ塩味が引き立って美味。――らしいわよ。元からしょっぱい植物なんて想像できないわね」
「あのなぁ……確かに手伝ってくれとは言ったけどよ。目についた植物の資料を、片っ端から読み上げろとは言ってねぇぞ」
「アンタの頭の中なんて覗けないんだから、目についたのを適当に読み上げるしかないでしょ。あっ! これは? 悪魔の角笛だって。湿地帯に生える角の形をしている食……虫……植物……これはなしね」
チルカは手足をつかて自分の体と同じくらいの大きさに丸めると、小石でも川に投げるようにぽーんと投げ捨てた。
「勝手なことしてると、マニアの研究材料にされるぞ」
「こんな植物を研究して、湿地帯じゃなくても生えるように品種改良されたら困るでしょ。もし、綿毛になって迷いの森に飛んできて生えたら、太陽神に逆らってでも根絶やしにするわよ」
「本当……どうでもいい植物のことばかり目につくんだな。いや、でも……そうか……結晶か……」
リットはウィッチーズ・マーケットで見かけた、魔力の結晶をつける水草を思い出していた。
この水草は鉱物の結晶成長のようなものだが、リットが思い浮かんだ結晶は別のものだ。
一部のオイルは融点の関係で、低温下における結晶化、固形化するものがある。
アカリグサの光袋の中身がオイル――オイルではなく似たものだとしても、結晶化させて取り出すことができるかも知れないという考えだ。
「蒸発は熱がダメだから、やっぱり冷却か。仮に取り出せたとしても、どうやって液体に戻すかだな。常温で溶けりゃいいけど、湯煎が必要になると、また熱に弱い問題が出てくるな」
リットがぶつぶつと口に出して考えをまとめていると、それを邪魔するようにチルカの羽明かりが旋回した。
「アンタのそれって癖なの? 一人で問題提起して、一人で考えをまとめるけど。正直感じ悪いわよ。人に手伝いを頼んでおいて。冷却がどうとか、なにわけのわかんないこと言ってんのよ」
チルカのイラつきに合わせて羽は光を強めている。
「頭を冷やせってことだ。頭に血が上ると、良い考えは糞になって下に落ちちまうからな。糞になったもんには、もうさわれねぇってなもんだ」
「なによそれ」
「知らないのか? 誰もが名前を知ってるなんとかっていう有名な偉人の言葉だ」
「また蒸し返して……本当に感じ悪いわねぇ……」




