第十三話
ヨルアカリグサを持ち帰ったリットは、妖精の白ユリの時と同じ水蒸気蒸留でオイルを抽出するために、蒸留窯の中にヨルアカリグサを入れた。
問題があるとすれば、妖精の白ユリのように花が咲いてるわけではないので、ヨルアカリグサをまるごと蒸留器の中に入れるしかないということだ。
お湯を沸かし水蒸気を発生させて、その熱い蒸気で植物を蒸し、精油の蒸気を冷却水で冷やして蒸気から液体にするというポピュラーな方法だ。
リットは今にも蒸留器から、溶けた金でも出てくるのではないかといった様子で蒸留器を見つめていた。
一滴。また一滴と管の先から滴り落ちる水滴を眺めているうちに、あることに気付いた。
しずくを受けるフラスコの中身を瓶に移し、ランプの明かりのそばに置き、睨みつけるように目を細めて液体を見た。
白濁した液体だけが、乱暴に机に置かれた反動で波打っている。
リットの予想では、蒸留水の上にオイルが浮いているはずだった。量が少ないというわけではなく、水の表面には油の膜さえも広がっていない。
リットが「どうなってんだ……」と呟くと、アリアは自分の仕事をしたまま「冷却が足りてないんじゃないんですか?」とアドバイスをした。
「ガキのおしめを替えるより、頻繁に水を替えてるぞ」
ここの地下水は自宅の井戸水よりも冷たい。リットは問題ないはずだと、強い口調で不平をぶつけた。
その八つ当たりでしかない言葉に気にした様子はなく、アリアは別のことに眉を寄せた。
「私も空いた時間で少し考えてみたんですよ。妖精の白ユリから抽出された液体は、太陽と同じように輝く。それこそが光袋に入っている物質なのではないかと」
アリアはオイルという言葉は使わなかった。それは、リットがオイルだと思って抽出していたものは、別なものだと言っている。
今までの経験を否定されたような気がして、リットは不機嫌に眉をひそめた。
「なんだ。勝手にオイルだと判断して、得意気にランプに使ってるマヌケだとでも言いたいのか? 犬の小便をビールだと思って飲んでりゃ、たしかにマヌケだ。大いに笑ってくれ」
「柔軟なんだと思いますよ。一つ一つの分野に造詣が深いわけではなさそうですが、浅いところを多面的に引っ張ってこられるんだと思うんです」
リットは「なるほどな」とうなずいた。「ようするにだ。浅い知識で語るバカってことを言いたいんだな?」
リットの刺々しい口調をたしなめるように、アリアは「いえ」と優しく否定した。
そして、ペンを置いてから言葉を続けた。
「誰かの知識と、また別の誰かの知識。それを繋げられるという意味ですよ。一つのことをずっと研究していると、自分の中だけで世界が完成してしまいますから。一定方向だけに世界が広がってしまうんです。リットさんのように、魔女の知識や妖精の知識を都合よく取り入れて、視野広く物事を見渡せる人は稀ですよ」
「そんな器用な奴だったらな。今こんなところで管なんて巻いてねぇよ」
リットは横目で蒸留器を見ながら言った。時間が経ってもオイルが浮いてくる様子はなかった。それを見て、自分でもため息なのかあくびなのかわからないものを静かに吐いた。
「イラついていると、いい考えは浮かばないものですよ」
「思いつきの行動は失敗。次の手も思いつかない。気分を変えるための酒もない。実に見事な三拍子だ。ワルツだって踊れる。なんなら一緒に踊るか?」
「遠慮しておきます。急に体を動かすと立ちくらみがしますから。気分転換に名前でも考えてみたらどうですか?」
「穴から出てこねぇんだから、モグラってのはどうだ?」
「私のニックネームじゃなくて、ヨルアカリグサの名前ですよ。ヨルアカリグサは総称ですから」
「名前ねぇ……」
リットは最初なんでそんなことを。と思っていたが、他に気分転換が思い浮かばないせいか、いつの間にか考えを巡らせていた。
このラット・バックに作砂漠ヨルアカリグサは月に反応して光を放ち、妖精を媒介にしない。強い光には弱い。
今の時点でわかっていることを、獲物を探すハゲタカの旋回のようにグルグルと頭の中で繰り返すうちに、いつの間にか思案で作られた円は縮み、一つの言葉の点となっていた。
「月が出るってことは夜ってことだよな?」
「一般的にそういうものだと思いますよ。たまに朝と夕方にも見えますが」
リットが黙って考えを巡らせている間に、アリアの視線は再び自分の手元に戻っていた。
「夜ってのは寒いもんだよな。特にこの砂漠じゃ」
リットは蒸留器の蓋を開けると、中のヨルアカリグサを確認した。そこには蒸されて萎びたヨルアカリグサではなく、最初から枯れ草を入れたかのような黒とも茶とも言えないようなものになっていた。
「そうですね。サボテンなんかが育つにはこの寒暖差が大事なんですよ」
相槌と適当な返しをしていたアリアだが、突然書き留める手を止めて「あぁ」と納得した顔をリットに向けた。「中の新芽が熱に弱いことは充分にありえると思います。蒸気の熱によって、光袋が壊れて枯れてしまったのかもしれません」
アリアはリットの肩越しから、蒸留器の中のヨルアカリグサを覗いて言った。
「熱を使えないとなると、圧搾か……。いっそ魔宝石で凍らせてみるか……」
「それもいいかもしれないですね。普通じゃないものは、普通じゃない方法を使うことも大事ですよ。でも、魔宝石はお高いですよ」
リットはアリアが言い終える前から立ち上がっていた。
「ところがそうでもねぇ。小突けば涙と一緒に落ちるか、褒めて調子に乗らせれば、大言壮語を吐き出す唾と一緒に飛んでくる」
そう言うと、作業途中の蒸留器をそのままに部屋から出ていった。
「リゼーネに戻るんですか? 僕一人で」
ドリーは馬のたてがみをとかしていた手を止めると、リットに振り返った。
「そうだ。グリザベルから魔宝石を受け取って戻ってくるだけだ」
「行って戻ってくるだけでも時間がかかりますよ。リットさんも一緒に来たほうがいいんじゃないですか?」
「ヨルアカリグサを持ち帰れるならそうしてる」
ドリーは「そうですか……」と言って考え込む。
しばらくして顔上げるが、また考え込む様子を見せた。何度も繰り返し、まるで死にかけの虫のように動きが不自然に途切れている。
「不満は言葉にしろよ。でも、希望は口に出すな。どうせ却下するからな」
リットに言われると、まだ難しい顔したままドリーは顔を上げた。
「魔宝石を運ぶのは危険なことなんじゃないかと思ったんです。僕は仕組みがわからないので、なにかのはずみで発動してしまうんじゃないかと……」
「安心しろ。ちゃんとグリザベルが魔法陣で封印して渡してくれる。アイツはその道のプロだぞ。赤ん坊の使用済みのおしめを運ぶほうがよっぽど危険だ」
「それを聞いて安心しました」
ドリーはほっと胸をなでおろした。
「まぁ、でも……。別なものも一緒に渡されたら危険を感じろ」
不穏なことを言われたドリーは、不満を言おうとリットに人差し指を向けたが、なにかを理解したかのように口元を緩め、うなずく代わりに人差し指を振ってみせた。
「あぁ……そういうことですね。もう慣れましたよ。寄り道をせずに戻ってこいという。いつもの遠回しな言い方ですよね?」
魔宝石はつい先程リットが思いついたもので、これも必要になるものだが、本当はグリザベルから届けられるものがあった。
グリザベルが出してくる手紙を燃やせば、手紙に混ぜられた香草の煙を嗅ぎつけ、使い魔のフクロウがくるはずなのだが、このラット・バック砂漠まで来られないらしく、連絡が取れないでいた。
そのグリザベルから届けられる予定だったものは、リットが言葉にしたとおり危険なものなのだが、わざわざ何度も念を押して緊張させるよりいいかもしれないと思った。
だから、リットは「そういうことだ。ついでに酒も買って戻ってきてくれ」といつもの調子で言った。
「心配しなくても大丈夫ですよ。もう地図の読み方も、手綱さばきも完璧ですから」
ドリーは慣れた手付きで馬の体を撫でようとしたが、背が小さいため脚にしか手が届かない。咳払いをして気を取り直すと、台の上に乗って馬の背中を撫でた。
「頼もしいもんだ……。ついでに、エミリアに状況報告しといてくれ。本当はグリザベルに出す手紙に混ぜて、こまめに連絡するはずだったからな」
「なんて伝えておけばいいですか?」
「船は暗礁に乗り上げ。背後に嵐の気配あり。雲の切れ間から見える僅かな月明かりを頼りに、針路だけ確認してる。ってな」
「それって、状況は芳しくないって意味ですよね?」
「もっと詩的に解釈すれば、これから道が開ける直前って意味だ」
「状況報告って、そんな曖昧なものでいいんですか?」
「根拠のない大丈夫よりは、心配になんなくていいだろ」
リットはドリーを指して言った。
「僕はちゃんと根拠があって言っているんです。いままでダメだったことはありますか? 必ず最後には成功しています」
「これからもそう願いたいもんだな」
リットは肩をすくめた。
「まだ疑うんなら。これからパッと行ってパッと帰ってきて、証拠を見せますよ」
ドリーは台から飛び降りると、勇み足で自分のカバンの元まで歩いていった。
「なら、今すぐ行け。――と言いてぇところだけど。砂漠だしな。用意ができてからでいいぞ。ここは草原みたいに過ごしやすいけどよ。外は地獄だぞ」
リットとドリーは同時に天井を見上げた。砂漠の暴力的な日差しは重なった葉に守られて、春の木漏れ日のように柔らかく降り注いでいる。
「そうします……」
「そうしとけ」
「リットさんはどうするんです?」
「どうするかな。やることはありすぎる。チルカから身を守ったり、マニアと顔を合わせないようにしたり。……物忘れのせいで、してもいない約束を押し付けられたりだな」
リットが耳を澄ませると、ドリーも同じように耳を済ませた。ここに来てだいぶ聞き慣れた足音が近付いてくる。
「おい、どうしたんだ? もう時間だぞ」
キルオが慌ただしく横穴に入ってきた。
「そりゃ、悪かったな。で、どんな約束をしてたんだ? そん時のオレは」
「行商人が来るんだ。買うものがあるなら、ここで買わないともう半年は来ないぞ」
「是非とも聞いておきたかった話だな。たしか……」リットは額に手を当てて、わざと思い出す素振りを見せてから「たしか、そっちが全部金を出してくれるんだったな」と聞いた。
キルオは「そんな約束は……」と悩んでから、ゆっくり顔を上げた。「もしかして、また言い忘れたか?」
「そういうことだ。でも、オレは怒ってないぞ。なぜかわかるか? そうだ、やっとこれで酒が飲めるからだ」
ハイタッチをするかのようにキルオの硬い頭を叩くと、リットは意気揚々と横穴から出ていった。
「おい……話が違うじゃねぇか」
リットは並べられた商品をじっくり眺めてから、キルオに向かって言った。
「言う前に、出ていったのはリットだろう。ラット・バック砂漠には他に人はない。自分達のためだけに来てくれる行商人だからな。飲まない酒は持ってきていない。でも、干し肉とかはあるぞ。植物ばかりで久しく食べていないだろう?」
キルオは紙や瓶など研究に必要なものや、足りない日常品などを買っているが、目的の酒がないことがわかったリットはすっかりどうでもよくなっていた。
「おい、ドリー。ついでに旅支度に必要なものでも買えよ。金は出すからよ」
「いいんですか?」
「頼みの綱はオマエだけだからな」
リットはドリーにお金の入った袋を渡すと、入り口から見える砂漠の景色と空をボーッと眺めていた。
砂が混じったように乾いた風は遮るものがなく、自由に吹き入れてリットの髪を乱した。なぜかそれが心地良く感じ、いつのまにか目を閉じていた。
次に目を開いたのは「それじゃあ行ってきます」というドリーの声を聞いた時だ。
リットが「どこ行くんだ?」と目を開くと、ドリーは行商人が連れるラクダの背中に乗っていた。
「聞いてなかったんですか? このまま砂漠を越えて街まで戻るというので乗せてもらうんですよ。もらったこのお金は移動資金に使うことにします」
ドリーはお金の入った袋を胸元に掲げると、反対の手をリットに向かって大きく振った。
それが合図かのように、行商人とドリーを乗せたラクダはゆっくりと歩いていった。
「オレはあの金を全部やるっていったか? ありゃ全財産だぞ」
「オレに聞かれても困る」
キルオは肩をすくめた。
その時抱えてた腕の中にある瓶。見慣れた透明な液体が瓶の中で波打つのがリットの目に入った。
「なんだ、酒も売ってんじゃねぇかよ」
「これは消毒用アルコールだ。蒸留水でよく割れば飲めないこともないが……こんなのを飲むと悪い酔い方をするぞ」
「それは飲んでから後悔することにする。これで、あの蒸留器も役に立ちそうだ」
リットはキルオの肩を抱くと、「さぁ行くぞ」と下へと降りていった。




