第七話
女性はキルオの背中からおりると「どうぞ座ってください」と、地面を指した。
何年も髪を切っていないような長い前髪を真ん中で分けているせいで、目の下のくまが色濃く見える。
足音に反応して立ち上がっていたリットは「わざわざ悪かったな」と言って、地面に座り直した。
「めったに人が来ることはありませんから。それでどういったご用件で?」
「マニア・ストゥッピドゥって植物研究者に会いに来たんだが。オマエさんがそうか?」
リットに聞かれると、女性はキルオと顔を見合わせた。
女性は顔に疑問を滲ませていたが、キルオは次の言葉を見守り黙っている。
リットに向き直った女性は「いえ」と首を横に振ると「私は植物学者の『アリア・スウィーティッド』です」とこたえた。
「マニア・ストゥッピドゥはいねぇのか?」
「いませんよ。ここには私とキルオの二人だけです。今は」
「今は。ってことは、マニア・ストゥッピドゥはどこかに出掛けてるってことか……。いつ頃帰るかわかるか?」
「今はというのは、亡くなった夫のことです。マニア・ストゥッピドゥなんて人はここには存在していません」
そう言ったアリアの瞳にも声色にも嘘が混じっている様子はない。
リットはどういうことかと眉を寄せてキルオを見たが、キルオは縦に首を振ってアリアの言葉に同調した。
「そういうことだ。植物のことならアリアに聞けばわかる」
キルオが少し強い口調で言ったので、リットは疑問を飲み込むしかなかった。
「妖精の白ユリのことを詳しく聞きたいんだけどよ」
「妖精の白ユリ?」
アリアは聞いたことがないと首を傾げた。
「別名……ほら、なんだった」
名前が出ないリットの代わりに、チルカが「サンライト・リリィ」と口添えした。
「名前からユリだと言うことはわかりますが……。繁殖方法は、種子ですか? 球根ですか?」
「種だ。現物を持ってこれねぇから、種を持ってきたんだ」
リットはポケットから妖精の白ユリの種の入った袋を取り出すと、アリアに渡した。
アリアは赤くひしゃげた種を目を細めて見ると、大きさを測ったり、指で潰して硬さを確かめたり、頭の中にある情報と照らし合わせる。
「割ってもいいですか? あっ、どうぞ座ってください」
アリアはナイフを取り出すと、もう片方の手で地面を指した。
「割るのはいいけどよ。これ以上どう座れってんだ?」
というリットの言葉は聞こえていないようで、アリアは種の断面図を眺めている。
「……なんなのこの女?」
チルカは珍しくリットの肩に足を下ろすと、ひそひそと耳元で呟いた。
というのは、アリアは確かめるように口でぶつぶつなにか言っているのだが、時折「うるさい」や「誰だ」など、関係のない言葉が混ざるからだ。
その言葉はキルオでもなく、リット達にも向けられていない。だから、いつものように本人に直接言うのではなく、声をひそめてリットに話しかけたのだった。
リットも不穏な空気を感じ取ったので「徹夜明けなんだろ」と声をひそめた。
すると、アリアは突然顔を上げてチルカを見た。
チルカは「……なによ?」とひるんだ。
「もしかして、そちらの妖精さんからもらった花ですか?」
「もらったわけじゃねぇけど、コイツの住んでたところに咲いてる花だ」
「光ったりしますか?」
「朝日を浴びると光る」
「それなら、おそらく『アカリグサ』の一種ですね。正しくはユリではなく生涯草です」
「生涯草?」
「一年草、二年草、多年草、宿根草とも違う、土とさえ合えば、どんな環境でも、どんな季節でも花が咲く植物のことです。アカリグサは妖精を媒介して受粉を行う珍しい植物ですね。光を浴びる時についた花粉で受粉するんです」
「よく知ってんのね」
チルカは妖精のことも知ってるのだと感心してみせたが、アリアは「植物学者ですから」と微笑んだあと、感情のない瞳で「どうぞ座って」と地面を指した。
あまりに唐突な変化に、チルカは谷を落ちていくようにリットとドリーの間にストンと落ちた。
アリアは声のトーンを変えず、「座って。座って……座って……。座って」と繰り返す。
たまらずドリーが「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「ありがとうございます。少し疲れてるみたいで……。それで、なにを聞きたいんですか?」
何事もないように振る舞うアリアだが、リット達は背中に抜き身の刃を入れられたかのような悪寒が走っていた。
「知ってることならなんでも教えてほしいんだが……」
リットはキルオを見たが、キルオは目を閉じてじっとしているだけだった。
「そうですね……特徴と言えば。あっ、どうぞ座ってください」アリアは地面を指すのと同時に「――うるさい!」と声を荒げた。そして、リットに向かって微笑み「どうぞ、座って」とまた繰り返す。
突然天井を見上げてケタケタと笑いだしかと思うと、今度は地面を見て低い唸り声を上げる。再び顔を上げたときは、真ん中で分けていた前髪は反動でぼさぼさになっていた。
そのぼさぼさの前髪の隙間からリットを睨みつけている。
睨みつけたと言っても左右の目の両方とも焦点が合っていないので、リットは自分の周りに透明な人間がいるような気がしていた。
ドリーは怯えた瞳で「アリアさん?」と声を掛ける。
アリアは「はい……マニアれす。どうぞ座っれ」と地面を指す。
そこでようやくキルオが動いた。
「うーむ……今日は調子がいいと思ったんだが……。すまないな。今日は帰ってくれ」
「帰れって言うけどな……」
正直リットは気味の悪いもの見せられて帰りたかったが、有用な情報を聞けそうなところだったため食い下がった。
「これと話せるのか?」
キルオは尻尾でアリアを拾い上げながら言う。
リットが黙ったので心情を理解すると、アリアを下まで送りに行った。
「どうすんの? 帰る? 賛成よ」
チルカはキルオが残していった足跡を追い、その先にいるアリアを見るようにして、不快に眉を寄せた。
「帰りてぇけど、帰ったらここに来た意味がねぇ」
「馬も数日休ませろと言われましたしね。また忘れてるんでしょうか」
ドリーは立ったまま眠る馬を見ながら言った。
「とりあえず、少なくともサソリのほうは話ができそうだ。待ってみる」
しばらく時間が経ったところで、ドリーが「わかりました!」と声を上げた。
恐怖を紛らわすために、珍しく一緒に酒を飲んでいたリットとチルカが同時に振り向いた。
「なにも聞いてないんだから、なにもこたえなくていいわよ。いきなり声をだすから、あの女が戻ってきたのかと思ったじゃない」
チルカは手近な花の蜜を酒に絞りながら言う。
「馬ですよ。馬は立ったまま寝るんです。だから、アリアさんの座って。は、馬に対して言っていたんですよ」
「それで恐怖が紛れるならいいんじゃない。でも、私は馬に同じことを繰り返す女も不気味でしょうがないわよ。あぁ……夢に出てきそう」
チルカは身震いすると、さっさと忘れるため花蜜をもう一絞りしてから酒を飲んだ。
「飲んで酔っ払ったからって、都合よくなんか忘れねぇぞ。嫌なことほど覚えてるってもんだ」
リットが酒瓶を傾けると、チルカは水筒の蓋で乾杯した。
「なら、酔った勢いで、あの女の息の根止めてきなさいよ。なんか……どこからか見られてるみたいで落ち着かないのよ……」
チルカは天井を見上げる。
葉から溢れる空の色は、いつの間にかオレンジ色に染まっていた。
「ありゃ、二重人格なのか?」というリットの言葉に、「いや、二重人格ではない」とキルオがこたえる。
リットが振り返ると、キルオは「まだいたのか」とため息をついた。そして、「あまり見せたい姿ではなかったんだが……」と尻尾を曲げて頭をかいた。「毒のせいだ。マニア様の研究は毒草を扱うからな。人体に有毒な植物は山ほどある。それで、少しやられてしまっている」
キルオは尻尾の針で自分の頭を叩いて、コツコツと鈍い音を響かせた。
リットも「少し……ね」と人差し指で自分の頭をつついて言った。
「よくわからないんですけど……アリアさんと、マニアさんは同一人物ということですか?」
二重人格ではないと断言されたにもかかわらず、ドリーがわからないと言ったのは、キルオが『アリア』と『マニア様』の二つを呼び方を使い分けているのに気付いていたからだ。
「精神が不安定の状態の時は、舌の痺れの症状も出る。アリア・スウィーティッドという自分の名前をうまく発音できなくなるんだ。毒性作用が表に出た時のアリアのことを、マニア様と呼んでいる。アリアの時は植物学者の顔が色濃く。マニアの時は植物研究者の顔が色濃い」
「人に知られたくなかったんじゃないのか?」
リットに言われ、キルオはしまったという顔をしたが、すぐに自分を納得させるように首を縦に数回振った。
「忘れてた。あと、思い出した」
「どっちだよ」
「知られたくないと言ったのを忘れてて、リットという名を思い出したんだ。まだここにいてくれてよかった」
「さっきは、まだいたのかって言ってたぞ」
「それも忘れてた……。オレも少し毒にやられてしまってな。記憶力が低下してるんだ。そうだ、入り口に黒い花が植えてある通路は進まないほうがいい。毒草の畑が広がっているからな。それで……なんだったか……」
「オレの名前を思い出したんだろ。オレは知らねぇぞ。ボケたサソリも、頭がいっちまった未亡人も」
「ヴィクター王から聞いたんだ。自分の子供のリットかチリチーがここに来るかもしれない。と言っていたのをな」
リットが口を開こうとすると、薄暗い夜明け色をした液体が入った小瓶を渡された。
「解毒薬だ。間に合わなかったが。ここには必要のないもの。君が持っていたほうが良いだろう」
「解毒薬?」
「有毒植物による超遅効性の毒だ。極めてゆっくり進行するが、弱るとあっという間に広がる。ヴィクター王が冒険者だった頃に受けたはずだ。依頼を受けて城に行ったが、サンプルもなにもなくてな。完成したのはつい最近だ」
「親父の死因は植物性の毒だったのか?」
リットの驚いた顔を見て、またやってしまったとキルオが表情を歪ませた。
「庭造りはカモフラージュだったのを忘れていた……。治す手立てがないなら、誰にも言うなと言われていたのを忘れていた」
「そこまで話したんだから、もう全部話せよ」
キルオは仕方がないといったふうに長いため息を付いた。
「最初の紹介の時に言ったように、オレは医者だ。植物学者のアリアの夫のヒムと一緒に共同研究をしながら働いてた。今までの話だけだと、毒は悪いようなものに聞こえるが、良い効果のほうが多い。耐性の許容量の問題だ。水も飲みすぎれば毒になる。それで、オレは毒を利用した医療の専門なんだが」
キルオは尻尾の針先から毒を滲ませると、リットに見せてから地面に突き刺した。そうして毒を砂で拭き取ってから続きを話し始めた。
「毒を扱う研究というのはあまりいい顔をされないし、城や団体で働くとなると制約ができてしまう。個人以上の自由なんてものはないからな。だから、人が入らないこの砂漠を研究所に選んだ。ヴィクター王に初めて会ったのは、地下水脈の正確な位置を知るためだ。植物を育てるのには、水は必要不可欠だからな。水で湿度も調整でき、光を遮る葉で日光も調整できる。水と光。植物を育てるのには、もう一つ大事なものがある」
「土だろ。妖精の白ユリで学んだよ。聞きてぇのは植物の育て方じゃなくて、親父の死因だ」
「そうだったな。また忘れてた……。いつだったか……そうだ。ヒムが死んで数年経った時だ。ヴィクター王から手紙が届いたんだ。用事があるからディアナまで来てくれと。一通目は出張はできないと断ったんだが、二通目に庭造りの依頼と話を聞くだけで土をやると言われた。ディアナには春になると湖になる大穴があるだろ? あそこの土は手に入れておきたかった。水が貯まる保水性と、水がはける通気性の土の仕組みが知りたかったからな。あの湖には珍しい植物も咲くだろ? ほら、なんていったか……」
「オーケストラベルだろ。いいから続けてくれ」
「それだ。植物を育てるには色々な種類の土が必要になるからな。それで、オレはマニア様の庭造りを手伝っていたんだが、ある日別にヴィクター王に呼ばれたんだ。医者としてな。目が見えなくなる日があると相談を受けた。診察で冒険者時代の毒ということはすぐわかったんだが、なにせヴィクター王は冒険者時代に世界を飛び回りすぎていたからな。いつどこでというのがわからなかった。毒の複合だと気付いた時には、かなり進行していた。同時に一つだけ薬ができた。超遅効性の毒をさらに遅効させる薬だ。副作用として記憶の欠如が起こるのだが、それをヴィクター王は拒否した。忘れて生きるより、覚えたままでいたいとな。人柄からか心が動かされてな。それからも、ヴィクター王が死んだと聞いても薬を作り続けた」
キルオが言い終えるのと同時に、リットとキルオは薬に視線を移した。
リットは薬の色を、ヴィクターが死んだ日の早朝の空の色と重ね合わせると、いつものように乱暴に投げるのではなく、そっとキルオに手渡した。
「これはいらねぇよ」
「いいのか?」
「これを墓にかけたって、生き返るわけじゃねぇし、あの時これがあれば。なんていう後悔を手元に置いときたくもねぇんでな。向こうが覚えたまま死んだように、オレも覚えてるならそれでいい」
「そうだな……それがいい。マニア様のようにはなるな」
「そっちに後悔の念があるなら、しばらく居座らせてもらうぞ。アリアでもマニアでも、聞きたいこは山程あるからな」
「……部屋はない、ここを使え。水もある。ヴィクター王の息子なら大丈夫だろう。アリアともマニア様とも上手く付き合っていたからな」
キルオは見回りに行くため出ようとするが、最後にリットに振り返った。
「ヴィクター王とは短い付き合いだったが、良い友人だったと思ってる」
「ありがとよ」
「気を使ったわけじゃない。良い友人は自慢したくなるものだ」
「それもだけどよ。――記憶のこともだ。ありがとよ」
リットが自分の頭を人差し指でつつくと、キルオも自分の頭を尻尾の先でつついて、気にするなと笑みを浮かべた




