第二十五話
起きる気もなく、起こされることもない朝は遅く、リットの目覚めは夕方近くになっていた。
それから低いベッドと低い天井の間に挟まったままボーっとし、目まぐるしく変わる夕方の色が夜色に落ち着いた頃にようやく外へ食事に出掛けるのだが、この時間になると酒場くらいしか開いていない。
そこで食事を済ませ、酒を飲み、ためにならない酔っ払いとの会話をし、半分眠った状態で屋根裏の部屋と戻るのが早朝だ。そして、結局また夕方近くまで眠ってしまう。
そんな生活を五日ほど続けた日。いつもより酒場を出たのが遅く、早朝ではなく朝過ぎになった頃。リットは血色の良い目覚めた街並みを、ダラダラとあくびを滲ませて歩いていた。
住宅街に入り、今寝床に使っている家はどれだったかと見上げた瞬間、「ちょっと待て」と襟を掴まれた。
エミリアの声だと気づいたリットは、逃げられないと悟り、おとなしく足を止めて振り返った。
「相変わらず、朝は早えな。そうだ、朝の挨拶はおはようからだったな」
「おはようと返したいところだが……なんだそれは……」
エミリアはリットの顎を見て、不機嫌に眉をしかめた。
「知らないのか? これは髭ってんだ。男なら大人になれば誰でも生えてくる」
「大人ならば、朝に剃るはずだが」
「気分転換に伸ばそうと思って放っておいてんだ。そりゃ、伸びかけは汚らしく映るかもな」
リットは不精に伸びたあごひげを撫でながら言った。当然伸ばしているわけではなく、酒場と家の往復だけでは指摘する者もいないので、剃るのが面倒くさくなって放置しているだけだ。
「なら……それはなんだ」
エミリアは今度はリットの頭を見た。波を打つように、髪束の先があちこちへ向いている。
「これは……どうやら寝癖と言うらしいぞ。昨日発見されたばかりの現象らしい」
「リットと出会ってから、今までで一番最悪の格好だな……。まったく……来い」
エミリアはリットの手を掴むと、これから向かう城の方角ではなく、踵を返して屋敷の方角へと向かって引っ張った。
「これから、城で仕事じゃないのか? なんでこんなとこを歩いてんだよ」
「そうだ。まったく……通り道で良かった」
エミリアの言葉に、リットは屋根裏の壁を外して見える風景を思い出した。確かに、城が見える位置にある。
「遅刻ってのは、エミリアには似合わないぞ。オレみたいな男にこそ似合うもんだ。悪いことは言わねぇから、今からでもオレを置いて城に向かえよ」
そう言ったリットの歩幅が広くなる。
リットの意思ではなく、エミリアの引っ張る力が強くなったせいだ。
「確かに遅刻は悪だ。だが、国の風紀を乱す者を放っておくわけにもいかないだろう。それにリットには話すこともある」
「屋敷まで連れ帰ったうえに、説教までしてたら時間がいくらあっても足りねぇぞ」
「心配するな。説教は夜にでもできる。話というのは、今歩きながらでもできることだ」
「悪いけどな、見ての通り進展はなしだぞ」
「城の図書庫のことだ。許可が取れると言っておいただろう。それを伝えようとした日から姿を見せなかったせいで、ずいぶん探したんだぞ」
「そんなこと言ってたな……。すっかり忘れてた」
「そんなことだろうと思った……。義理は果たすと思っていたが、ノーラがいないと私生活の荒れで、それどころではないらしいな」
ノーラがいたからといって、リットが規則正しい生活を送っていたわけではないが、ノーラが買ってきたご飯の匂いにつられたり、火を使えないノーラに起こされご飯を作ったりするので、なんだかんだ昼頃には目を覚ましていた。
そう思えば、何日も夕方まで寝ているというのは、たしかに私生活が荒れたと言ってもいいだろう。
ノーラと出会う前までは頻繁にあったことだが、ここ数年は一度もないことだった。
そんなことをぼけーっと考えているリットに、エミリアは「少しはドリーを見習ったらどうだ?」とため息を漏らした。
「小さくなれってのか? どう考えても無理な話だ。男ってのは大きくはなれるけど、小さくはなれねぇもんなんだよ」
「容姿のことではなく、心のことを言っている。あれほどの働き者はなかなかいないぞ」
ドリーに対するエミリアのイメージと、リットのイメージは違っていた。
たしかに働き者ではあるのだが、エミリアが褒めるほど働き者というイメージはリットにはなかった。ドリーは意固地でマイペースなので、尻を叩いてやればムキになって力を発揮するが、エミリアがそんなことをするとも思えない。
「そんなに働くか? あいつは」
「手伝いもしてくれているし、朝の鍛錬にも付き合ってくれているぞ。いつも無理はしなくていいと言っているんだがな。二言目にはやりますと返ってくる」
「なるほどな……そりゃ相性が良さそうだ」
エミリアに引きづられて屋敷につくなり、リットは椅子に座らされていた。
エミリアは「頼んだぞ、ヘレン」と、リットの後ろに立つメイドに声をかける。
ヘレンは「わかりました」と、剃刀の刃をちらつかせた。
「オレは寝たきりのじいさんか? 髭くらい自分で剃れるぞ」
「引っ張られないと歩けないほど酔ってる男に、刃物を持たせるわけがないだろう」
エミリアの言葉に、ヘレンは「そういうことです」と同調する。
「図書庫には、私か義兄上の名を出せば入れる。ダラダラ過ごしていると、あっという間に本当におじいさんになってしまうぞ」
エミリアはリットに念を押すと、走って屋敷を出ていった。
「おせっかいってのは、何を考えて生きてるかわかんねぇな」
そう言ったリットの首元に、つららのような冷たい剃刀の刃が当たる。
「口を滑らせると、危ないですよ」
「オレは刃物を滑らせるほうが危ねえと思うがな……」
「大丈夫です、慣れていますから。酔っぱらいの髭剃りには慣れていませんが」
ヘレンは穏やかな口調で、力強く言い切った。
「嫌われる覚えはあるけど、殺される覚えはねぇんだけどな」
やけに肌に冷たく触れるひげそりを終えると、ヘレンが「さっぱりはしましたね」と淡々と言った。
「は、ってのはなんだよ。他にあるのか?」
「普通は小汚い髭を剃ると、多少なりとも男前になるものですよ。むしろ髭を剃って劣化したと言ってもいいでしょう」
リットは「髭を剃ったのはオマエだろ」と言おうとしたが、その途中に頭から水をかけられたことによって、言葉を遮られてしまった。
「喧嘩なら買うぞ……」
「そのひどい寝癖は濡らさないと直りそうにないですから。ついでに汗臭い服も洗うので脱いでください」
「水をぶっかける必要はあったのか?」
「床の汚れも掃除するのでついでです」
「なんだ。も、ってのは」
「床も――もですよ」
ヘレンはリットの汚れた格好をしっかり見てから、タオルを渡した。
「全部脱いでください」
「ほらよ……」
リットは服を脱いでヘレンに押し付けると、腰にタオルを巻いたままの姿でその場をあとにした。
なにか口にしようと思い、厨房へ向かおうと廊下を曲がったところで、「リットさんって、ヘレンさんに嫌われてるんですか?」とドリーがひょっこりと現れた。
「黙って見てたのか?」
「ヘレンさんから、静かに怒りのオーラが出てたので近寄れなかったんです……」
「まぁ、嫌われてるだろうな」
「普段は優しい人ですよ。なにをしたんですか?」
「歳のこととか、歳のこととか、他にも歳のこととかをからかったからな」
「僕も他の種族からは若く見られますね。たしかに子供に見られるのは嫌ですけど、そこまで根に持つことでもない気がするんですけどね……」
ドリーはヘレンだけの擁護をするわけでもなく、リットだけの擁護をするわけでもなく、間を取るようになだめた。
「あの年齢の女は微妙なんだ。若く見られたいけど、大人の女の扱いをしないと怒る」
「疑問なんですけど、人間の言う若いっていうのは何十代のことなんですか?」
「そんなの、その女の年齢によって変わるに決まってんだろ。女の若さってのはな、年をとるに連れて引き上げられんだよ」
リットが手を上げて年齢の上げ下げを表そうとすると、タオルが緩んだのでドリーが慌ててタオルを掴んだ。
しかし、リットは気にした様子がなくそのまま足を進めたので、ドリーもそのままの格好で歩くしかなかった。
「それって、正解がないってことですよね」
「そうだ。女と長く付き合うってことは、一生いじわるな問題を出されて生きるってことだ。まっ、男の下半身事情と一緒だ。若く見られたいが、熟練のテクも欲しい」
話しながらまた角を曲がると、人影が見えた。影の先には、影と同じ色の靴、また同じ色のドレス。そして、同じ色の髪をなびかせたグリザベルが立っていた。
「嘆かわしいことだ……。歳とは知識の積み重ねにより増えるもの。よいか、知識は生きるだけで蓄えられるが、知恵とはその知識を活用して生まれるものだ。つまり本物の老いとは、知恵のあるものにしか訪れぬ。知恵なきものは老いではなく、人生の劣化となるわけだ」
「わりいな。今はマヌケの話を聞いてる余裕がねぇんだ」
「今のお主には言われたくないぞ……。一度病院に行ったらどうだ?」
グリザベルはタオル一枚の格好のリットと、その横でタオルを押さえているドリーを、なんとも言えない表情で見つめた。
「治せねぇとよ。オレの病気も、オマエの病気も。で、待ち伏せてた理由はなんだ?」
リットは廊下に似つかわしくなくセッティングされているテーブルと椅子を見ながら言った。
「待ち伏せていたわけではない。我の朝食後のティータイム中に、お主がたまたま通りかかっただけだ。が、ちょうど良い。これを見よ」
グリザベルは用意していた二冊の本を、なにも置かれていないテーブルに置いた。
「ティータイムなのに、茶はねぇんだな」
「……これから用意してもらうところだ」
「床を引きずったあとがある。後で怒られんぞ」
「そうだ! お主がエミリアに引きづられている時から見ていたのだ! ヘレンに手玉に取られていたのも見ていたぞ。フハハ! それは見事に情けない姿だったぞ! でも、あとで一緒に謝ってくれると助かる……。いいから座れ!」
「情緒不安定過ぎてこええよ……」
リットが椅子に座り足を組むと、グリザベルは視線を落としたが、すぐに視線を天井に逸らした。
「やはり立て……」
「なんなんだよ……」
「座ると、我の位置から見えるのだ……」
「面倒くせえな……。立ったぞ、話があるなら早くしろ。こっちは飯をたかりに行く途中なんだ」
リットが立ち上がったのを見ると、グリザベルは咳払いをして調子を整えた。
「こっちが我の持っている妖魔録。それで、こっちがこの国にあった妖魔録だ。違いがわかるか?」
テーブルに並べられた妖魔録は、表紙を見るに同じものだった。
リットが開いて中を確認しようとすると、グリザベルは「お主らにはわからぬだろうな。なんなら、先に答えを言うてもよいが」とウズウズした様子で言った。
グリザベルは既に答えを言う態勢に入っていたのだが、「いえ、わかります!」というドリーの反論に、「ん?」と目を丸くした。
「まぁ、待て。心意気は良い。だが、これは知恵あるもにしかわからぬことでな……。だから、ゴブリンのドリーには……」
「大丈夫です! 見比べれば違いがわかるはずですから」
「無理をするな。わからぬことは恥ではないぞ。心配しなくとも、我がわかりやすく教えてやる」
「心配しないでください! きっと……いえ、絶対に答えを見つけてみせます!」
ドリーは椅子に座ると、テーブルに張り付くような姿勢で二冊の妖魔録を見比べ始めた。
グリザベルはその背中から顔出して、「わかるか? 文体はほぼ同じだが、隠喩の使い方がな」と話しかけるが、集中しているドリーの耳に届くことはなかった。
「グリザベルはドリーと相性が悪いな……。こうなったらテコでも動かねぇよ」
リットはあくびを一つすると歩き出した。
「こらまて! お主は気にならんのか!」
「どうせ写本家が違うとかそんなんだろ。よくあることだ。ディアドレの本なんてのは、こぞって魔女が筆写したがるだろうよ。どうせ、オマエも独自解釈を付け加えた本を書いてんだろ」
「……そのとおりだ。我とリットの相性も悪いと思うぞ……」
「なになに、相性はばっちりだ。浅い考えは手に取るようにわかる。深いことはわからねぇけどな」
「そうであろう。我の器は深く大きいからな。底はやすやすと覗けはせん」
「身の丈にあった器じゃねぇから、家から持ち出せねぇんだよ。オレみたいに小さい器を持ち歩け」
リットはまだ話したがるグリザベルの声を背中に受けて、厨房に向かって歩いていった。
食事を済ませ、変に目が覚めてしまったリットは図書館に来ていた。
城にある図書館は時間が止められたかのように静かで、人々はただ黙って本と語り合っていた。
静寂がうるさく響く中、法律で決められているかのように、皆一様に姿勢よく座っているが、リットだけは足を机にのせて、靴底を見せていた。
足の右横には読み終えた本。左横にはこれから読む予定の本が重ねられており、比率としては左の本の山のほうが多く積み重なっている。
リットは童話から伝承を書き連ねた本に、図鑑や戯曲や詩集に至るまで、光に関するものが出ている本を片っ端から集めて読んでいるのだが、どれも次に繋がる情報がない。
ほぼ仰向けの状態で椅子により掛かるリットだが、机にのせていた足を誰かに正されてしまったせいで、姿勢がもとに戻った。
上げた顔に映ったのはエミリアの顔だった。
「一応はやる気があるみたいだな。姿勢は感心せんが……」
「監視はいらねぇぞ。かえってやる気がなくなる」
「昼食のついでに、様子を見に来たんだ。家で寝ているとも思ったが、信じてよかったようだ。それで、なにかわかったか?」
「エミリアとグリザベルとドリーの関係性はな」
「人間関係を調べてどうする」
「グリザベルに言わせると、人間関係ってのは星の巡りに関係するらしいぞ。わかるか? 星ってのは光だ」
「つまり進展はないということだな」
「一日で変わるわけねぇだろ。まぁ、この調子じゃ一年経っても同じだろうけどな。ウィッチーズ・マーケットに期待したほうが良さそうだ」リットは左に積んであった本をすべて右に寄せると、「太陽の光でもグリム水晶に閉じ込められりゃ、なんとかなりそうなんだけどな」と机に肘をついてつぶやいた。
すると、エミリアが笑い声を漏らしたが、図書館だということを思い出し口を抑えた。しかし、指の隙間からクスクスという笑い声がまだ漏れている。
リットは「なんだよ」と機嫌悪く言った。
「思い出したんだ。リットとあった日のことをな。自分でなんと言ったか覚えているか?」
「覚えてるぞ。今も同じ言葉を返してやるよ。――余計なお世話だ」
「その言葉を覚えているということは、『太陽でもガラスの中に閉じ込めろとでも言うのか? 魔法使いか呪術師にでも頼むんだな』という言葉も覚えてるということだな。私は今でもランプ屋に頼んで良かったと思っているぞ」
エミリアは信頼しているぞと言わんばかりの笑みを残して立ち去った。
残されたリットは、右に寄せた本を左に戻すと、肘をついたままの姿勢で一頁目をめくった。




