第二十五話
じんわりとまぶたを温められる感覚に気付くと、世界は崩壊して体が奈落の底へと落ちていった。慌ててリットが何かに掴まろうと手を伸ばすと、大きく打撃音が鳴った。それが合図のように急速に脳は覚醒していく。
朝の日差しは床から壁へと伸びるように窓枠の影を映し出し、オイルで汚れた小皿を強く反射させ、リットの顔を照らしていた。
雨はあがったばかりらしく、纏わり付くような湿気が肌に触れる。
夢か現かを確かめるように、椅子に深く沈みこんだままゆっくり部屋を見渡していると、ようやく手に痛みが広がってきた。手はテーブルに叩きつけられたままで、どうぶつけたのかはわからないが、なぜか手の甲が痛んでいた。
大きな音が鳴ったにもかかわらず、リット以外誰一人起きるものはいない。そのせいで、よけい夢の中にいるような気分だった。
椅子の固さのせいか、無理な体勢で寝ていたせいか、少し体を動かしただけで関節が音を立てる。
両腕をぐっと上にあげて背筋を伸ばし、あくびでぼやける景色の中、リットは窓の外に目を向けた。
和やかな朝の日差しは、起き抜けの顔を燦々と照らす。
リットは立ち上がると、ベッドに近づきランプを持ち上げた。
油壷には心許ないがオイルが残っており、今の配合のままでもギリギリ朝まで持ちそうだ。
調節ネジを回して芯を下げ火を消すと、僅かに部屋に伸びる影が薄くなった。
リットはうっすら汗ばんだ顔の汗を手で拭うと、顔を洗うために部屋を出た。
ドアを開けてすぐのことだった。
部屋から出てくるリットを見かけると、待ち構えていたようにメイドのヘレンが頭を下げた。
「おはようございます。今日は暑くなりそうですね」
「ん……あぁ」
一見無表情にも見えるヘレンだが、わずかに目尻を吊り上げているので、リットは思わず口ごもってしまった。
「どうかしましたか?」
「思い当たるふしがないんだが。どうにかならないのか? その目つき」
「朝日が登る頃に、年頃の女性の部屋から出てくる男性を見るには適した目つきだと思いますが? でも、確かにお客様に対して失礼でしたね」
そう言ったヘレンは、わかりやすいほどの作り笑顔を浮かべる。
「安心しろ。チビ二人も一緒に部屋にいるから。エミリアに手を出す予定は今のところねぇよ」
「お嬢様に魅力がないとでも?」
「そうだな……。女としては、もうちょっと尻が張ってた方が好みだな」
リットが言い終えた瞬間。スコーンと小気味良い音が響く。まだ薄暗い廊下に窓から差し込む光で舞った埃が照らされ、星屑のように輝いた。
ヘレンはまるで剣で斬り込んだ様な体勢で静止していたが、やがてスッと腰に握った箒を添えた。
「メイドにとって箒は剣です。リット様の不埒な発言に粛清させていただきました」
あまりに見事な太刀筋にリットは呆気にとられたが、ライラが率いていたチルカ捕獲のメイド部隊にヘレンが居たことを思い出した。威力はないにしろ、真っすぐ打ち下ろされた箒は、城の兵士が放ったような威圧があった。
「昔からリリシアお嬢様の剣の鍛錬に付き合っていましたから」
リットが疑問を口にする前にヘレンが言った。
ヘレンの傍らには掃除道具一式が置いてあり、リットがそれに目を向けると「新人メイドの拭き残しの点検です。朝になると目立ちますから」と、また間髪入れずに言う。
そして濡れ布巾を振り回すと、自らが舞い上げた埃も取った。
廊下に差し込む日差しの中には、埃一つなくなった。
「いや、すごいけどよ……。メイドにその動きって必要あるのか?」
「いつでも手に掛けることが出来るというアピールです」
「だから、手を出さないって言ってるだろ。どんだけエミリアが大事なんだよ」
「それはもう、手塩にかけて育てたお嬢様ですから。可憐に、凛々しく、それでいて豊満で……」ヘレンはそう言ってうっとり目を細めると、祈りをするように手を組み合わせた「まるでアラスタンの絵画から出てきたような完璧な女性に育ちました」
「誰だよ」
「『アラスタン・ダンツィ』を知らないんですか。この屋敷にも飾ってありますよ」
「あぁ……あの裸ばっかり描いてる」
「そうです! 女性はよりしなやかに。男性はより精強に。まさに肉体美の追求者! 神も創造できなかった肉体を描くアラスタン。そして、その肉体を手に入れたリリシアお嬢様! これはもう神を超えたと言ってもいいでしょう」
ヘレンの祈るような格好はより深くなり、まるで教会にでもいるような神聖な空気が漂い始める。今にも片膝をつきそうなほど陶酔していた。
「熱が入ってきたところ悪いんだが、顔を洗いに行きたいんだが」
「先も申しましたが、今日は暑いので水浴びの方がいいですよ」
「タオルなんか用意してねぇよ」
「でしたらこちらを」
ヘレンは手早くリットにタオルを渡す。
いつもなら気にもしないが、屋敷に来てからはシワのあるタオルを見かけることがなかったので、リットはその場でタオルを広げて確認した。
「……なんかタオルが黄色いんだが」
ツンとした匂いが目を刺し、強い酸味が鼻を抜けていった。
「昨晩アーチェがこぼしたであろうマスタードを拭いたものです。アソコが使い物にならなくなればと、念には念を入れてと思いましたが……気付かれましたか」
「おかしいな……いつのまに敵が増えたんだ」
「とりわけリット様に対してだけではありません。リリシアお嬢様に害を成す者は消えて頂く次第です」
「人の世話を焼く前に、自分のことを心配したほうが良いと思うけどな。アンタいい年だろ」
言い終えたところで、リットは目を見開いた。
産毛が逆立つような感覚。背中が寒い。肌が粟立ち始めた。きっとこれが殺気を感じるということなのだろう。
口が滑ったと珍しく自覚したリットは、ヘレンはものすごい形相で睨んでいるのだろうと思ったが、ヘレンは笑顔を浮かべていた。
「リット様……。今の時刻でしたら厨房に行くと、汲んだばかりの井戸水がありますわ。洗顔をなさるのならそちらに」
そう言ってヘレンは廊下の掃除を続けた。
逃げるように厨房へと向かったリットは、冷や汗で濡れたシャツの首もとを指で剥がしながら、水浴びをすればよかったと後悔した。
冷たい井戸水でそそくさと顔を洗ったリットは、再びエミリアの部屋へと戻る。
念のためドアをノックすると、入ってもいいと声が返ってきた。ドアを開けると軽く身支度を整えたエミリアの姿が目に入った。
「おはよう、リット」
起きているのはエミリアだけではなく、ノーラは「ふああ」と寝不足の声を響かせているが、椅子から体を起こしている。チルカも眠たい目を擦りながら、窓際で日差しを浴びていた。
リットは一言「あぁ」と言って部屋の中に入る。
「「あぁ」ではない。朝は「おはよう」だ」
寝起きのままうつらうつらとしている二人とは違い、エミリアはいつも通り毅然としている。
「……おはよう」
「うむ」エミリアは満足気に頷くと「リットは朝が早いんだな」と感心していた。
「今日はたまたまだ。昨日は椅子で寝ちまったからな。変な時間に目が覚めちまった。そっちは無事寝れたようだな」
「久しぶりの目覚めという感じだ。おかげで今日は寝坊してしまった」
エミリアは血色の良い顔で微笑む。リットにとっては初めてのことだった。いつも朝は青白い顔をしていたので、眠れたというのは間違いないだろう。
今のところ問題はない。このままで大丈夫そうだ。と、リットが思っていると、エミリアの眉が薄く八の字を描いた。
「そういえばヘレンが怒っていたぞ。なにかしたのか?」
「ん? ……あぁ、ちょっと朝に会ってな」
リットは朝のヘレンとの会話をかいつまんで話すと「それはリットが悪い」「旦那が悪いっスねェ」「アンタ女の敵ね」と三者同様にリットを批判する。
それからしばらくエミリアの説教が続いたが、朝食の時間を知らせるためのメイドのノックで一旦終りを迎えた。
まずエミリアが部屋を出て、その後をノーラが続く。リットも部屋を出ようとしたところで服の袖を数回引っ張られた。振り返っても誰もいなく、視線を落とすとチルカが腰辺りを飛んでいるのが見えた。リットが「なんだ?」と言う前に、チルカは指紋を見せ付けるようにグッと親指をリットに向けると「アンタ、よくやったわ」と満面の笑みを浮かべる。
「いきなり懐いてくんなよ。気持ちわりぃ……」
「別に懐いてるわけじゃないわよ。ヘレンって、あのメイド長でしょ? アイツは悪魔よ。容赦無く箒を振り下ろしてくるんだもん」
「本当に容赦がなかったら、今頃オマエは虫かごに入れられてるだろ」
「洒落にならないこと言わないでよね……」
朝食を食べ終え、エミリアとポーチエッドはいつもの様に城へと向かった。
ライラもお茶会があると言って屋敷を出て行った。
リット達はやることもなくなったので、廊下に飾られた美術品を眺めながらゆっくりと部屋に向かって歩いていた。
「久しぶりに羽を伸ばせますねェ」
「オマエはいつも羽根を伸ばすどころか、羽目を外してるだろ」
「ついでに旦那の羽振りが良ければ、言うことなしなんすけどねェ」
「こんな絵を買う余裕があれば、贅沢すんだけどな」
リットはひとつの絵画の前で足を止めた。
垂れた枝が地面に届きそうなほど伸びており、その木陰で休憩を取るように裸の女性が寄りかかっている。景色が緑ばかりなので、女性の肌の色が凄く強調されているように見えた。女性の伸びた足先に、綴り字で『アラスタン・ダンツィ』とサインが書いてある。
「綺麗な絵ね……。でも、この屋敷に飾ってあるからいいけど、アンタの家に飾ってあったら美術品には見えないわね。男の欲望のはけ口に使われてそう」
「そりゃいいな。この画家に会うことがあったらチルカの絵でも書いてもらおう。トマトをぶつけりゃストレスのはけ口にはなるだろ」
「本っっっ当、考えることが嫌味ったらしいわね」
額縁の下に『森の妖精』という題名が書いてあったので、リットはチルカを見た。
「森の妖精ね……」
「なによ、変な目で見ないでよ」チルカは体を隠すように身じろいで、リットに背中を向けると「私が人間と同じサイズなら、胸もお尻ももっと出るはずなんだから」と、気にした様子を見せた。
「その理屈だと腹も出るはずなんだけどな」
「妖精は、お腹なんか出ないわよ!」
「ずいぶん都合の良い体してんだな。その分だと脳みそのサイズも小さいままなんだろうな」
「そうだとしても、私より脳が大きいアンタでその程度だし、支障はなさそうね」
リットがチルカを睨むと、チルカも睨み返す。
「まぁた、二人で喧嘩して。美術品はそんな荒々しく見るもんじゃないっスよ」
「ノーラに言われるとはな……」
「喧嘩は売っても買っても、良いことないっスから。それよりみんな裸の女の子ばっかっスね」
アラスタンの絵画は二枚三枚と続いたが、ノーラの言う通りどれも裸婦画だった。
「男の裸を堂々と飾るような家には入りたくねぇけどな」
リットは絵画から視線を外すと、少し足を早めた。
「どうしたんすか? 旦那」
「夜はまたしばらく起きてなきゃいけないから、今のうち寝とくことにする」
「朝から不健康っスよ」
「寝るっつーのは健康な証拠なんだよ。夜になっても部屋から出てこなかったら起こしてくれ」
「あーい」と適当に返事をするノーラに一抹の不安を感じたが、リットはベッドに横になるとそんなことも忘れて眠りに入った。
その夜から数日掛けてエミリアに合うオイルを作り上げると、次の日にリットは帰り支度を始めていた。
「もう少しゆっくりしていけばいいと思うが。まだ、お礼もちゃんとしていない」
「風来坊ってわけじゃねぇからな。帰る家があるんだから家に帰る。それに、礼も金を貰えれば問題ない」
リットは、お金が入った袋をエミリアに見せ付けるように持ち上げると、その袋の上にチルカが腰を下ろした。
「そうそう、コイツにお礼なんてしても勿体無いだけよ」
「オマエは森に帰れよ」
「そのうちね。人間社会に飽きたら帰るわ」
チルカは森に戻るわけでもなく、リゼーネに残るわけでもなく、リット達についていくと決めていた。
娯楽が少ない妖精社会に飽きていたのと、妖精が好きなお伽話もリット達について行った方が色々聞けそうだと考えたからだ。
今回のように、妖精の間では『サンライト・リリィ』と呼ばれていたものが、人間の間では『妖精の白ユリ』と呼ばれていたなど、森の中で暮らしていた時は思いもしなかった。このまま森に帰るより、色んな地方の話を森に持ち帰った方が、その話を妖精仲間に聞かせることで、退屈気味になっていた暮らしに刺激が出来る。そう思っていた。
「この屋敷にいてもいいのだぞ」とエミリアがチルカに提案した。
「ライラがいるのにゆっくり居られるわけないじゃない。それに、こっちならなにかあったら殺せるから」と言って、チルカはリットを指した。
リットはシッシッとチルカを手で払うと、中庭の方角を見た。
「それよりいいのか? せっかくの庭だろ」
「私がなにか言う前に、姉上が既に実行していたからな」
エミリアの屋敷では、妖精の白ユリを植えるために全ての花が抜かれ、中庭は立入禁止になっていた。
「本人が好きでやってんだからいいか、あの庭の花もエミリアの為に育ててたようなもんだしな」
「姉上には昔から心配をかけていたからな………私も気が楽になった。改めて礼を言う。ありがとう、リット」
リットは片手を上げて返事を返すと、エミリアが用意してくれた馬車に乗り込む。
「もう行くのか?」
「あんまり帰るのが遅くなると、今度はイミルの婆さんに怒られるからな「こんな長いこと離れるなんて聞いてやしないよ。オイルが切れたおかげで、暗い中でご飯を食べるハメになっちまったよ」ってな」
「そうか。明かりのない生活のストレスで。あの美味いパン屋の味が落ちては大変だな」と、エミリアは口に手を当ててクスクスと笑った。
リットが別れの挨拶代わりに手を振ると、ちょうどよく馬車は走り始めた。
天気は晴れ。風は北から吹き、名残惜しそうにリゼーネの匂いを連れてきた。
それも森道へと入ると消えてしまった。
それから一つの季節が巡り。ツバメが青空を切り刻むように飛び、ヒマワリが太陽を眺め、季節の景色は春から夏へと変わっていた。
風通しを良くする為に庭へと続く扉は開けっ放しにしており、風が吹く度に夏の匂いが通り抜けていく。
「いいかげん私の部屋を用意しなさいよ!」
「庭に作ってやっただろ」
「あれは鳥小屋じゃない! あそこで寝ると鳥と寝床の取り合いが始まって、おちおち寝れやしないわ!」
「シャレか?」
「違うわよ! バーカ!」
チルカは、リットの右頬を叩くと手で払われる前に左頬に回りこんで。もう一度頬を叩いた。
「相変わらず騒がしいな」
持参した紅茶を淹れたエミリアは、居間の椅子に腰掛けてのんびりティータイムを楽しんでいる。
「そっちも相変わらず、休暇を無駄に使うのが好きなんだな」
「無駄ではないさ。あてのない旅とは違って、友人に会いに来ているのだからな」
「オレは、わざわざ何日もかけて別の町に行きたいと思わないけどな。ほれ、オイルだ」
リットは小瓶ではなく、しっかりとした瓶に入れたオイルを取り出す。昼の日差しの中では、瓶の中になにも入っていないように見える。
テーブルの上に置かれると、下から気泡を押し上げるのが見えた。
「ありがとう。それにしても、予約しておいたのは正解だったな」
エミリアは開けられたままの扉の向こうを見て言った。
「こんなすぐ使うなら、貸出料でも取ればよかったな」
「必要ならば、当然払うぞ。いくらだ?」
「冗談だよ。ほっとけば勝手に育つんだから楽なもんだ」
「……まったく。またそれか」
リットの家の手入れされていない庭の花壇には、雑草に混じって妖精の白ユリが咲いていた。
一章の「妖精の白ユリ編」はこれで終わりです。




