第二十四話
朝の日差しを浴びて、景色に浮かび上がるような深い黒色の髪と、景色を霞ませるように輝く金色の髪が、荒れた庭で一つのテーブルを囲んでいた。
「魔法陣とはインクや紙を媒体として描かれるものであり、摩耗する車輪のように経年変化には耐えられぬものだ。インクに紙。そして、魔法陣も人間が作り出したものだ。人間が作り出したものに久遠は存在せぬ。インクは雨に流れるように消え、紙は過去の栄光のように儚く砕ける。当然それを媒体にする魔法陣に永遠というものは存在しない。よいか、人智とは永遠には到達することはできぬのだ。だが、病に効く薬を作るように、頑丈な家を作るように、命にも物にも、寿命を延ばすという仮初の永遠には手を届かすことができる。それが進化ということだ。それは魔法陣にも同じことが言える。魔法陣の寿命を伸ばすのならば、新たなものを使うということだ。それが、宝石を使った魔法陣ということになる」
朝日を背負ったグリザベルは、まだ重く眠い目をゆっくり鋭く細めた。
反対にエミリアは、既に朝の鍛錬を終えた血色の良い顔で頷いた。
「つまり……まとめると、テスカガンドの魔法陣は宝石で作られているということだな」
「そうだ。雲レ日に咲く花の根のように地に埋め込んだか、岩壁の霊鳥の巣のように接着されているかはわからぬが、日射や空気や水や生物などに作用され破壊されないようにしているには間違いないはずだ。そして、今も闇に呑まれているということならば、魔法陣の破壊ではなく、上書きをする必要がある。文字と文字を紡ぎ書かれた親愛なる友から届いた文への返事は、同じような時と思考が必要になる」
「つまり……まとめると……魔法陣は風化されないような場所にあり、それを書き換えるためにグリム水晶が必要だが、それをどう使うか魔法陣を解読するにはまだまだ時間が掛かる。ということでいいな?」
エミリアの言葉に、グリザベルはあくびを噛み殺して、精一杯不敵に笑ってみせた。
「それではわからん。言葉にしてくれ。合っているのか、間違っているのか。大事なことだからな」
エミリアの力強い視線を浴びて、グリザベルはたじろいであくびを飲み込んだ。
「そ、そうだ。合っているぞ。そう伝えてくれると助かるのだ」
「わかった。城にはそう報告してくるとしよう。では、続きはまた夜に話そう」
エミリアはグリザベルがまとめた書類を持って立ち上がると、中庭から廊下へと向かって歩き出したが、ふいに足を止めて視線を落とした。
「寝るのならベッドで寝たらどうだ?」
「ベッドで寝てたぞ。……誰かに起こされるまではな」
リットは通路の石畳の上に寝転がったまま、あくび混じりにこたえた。
「食事の時間になったから起こしたまでだ。その後は自分の意思でここまで来たんだろう」
「部屋まで戻る元気なんて残ってねぇよ……。寝たと同時に起こしやがって……机に積まれた本の山を見なかったのか?」
「見たぞ。開いた形跡がなく、空の酒瓶も積まれていたがな。本で思い出したが、明日には図書庫に入る許可も取れるはずだ」
「なら、今度は許可が取れてから起こしてくれ」
「そうはいかん。ここにいるのなら、明日には食事前に顔も洗わせるからな」
エミリアは力強い瞳で威圧し、無理やりリットに頷かせると、まだ妖精の白ユリが咲いていない中庭を出ていった。
エミリアの足音が遠くに消えて行くと、「意思を通せぬ軟弱者め」というくぐもったグリザベルの声が静かに響いた。
リットが顔だけ上げると、テーブルに項垂れた格好でグリザベルがリットを見ていた。
「独り言なら、鏡の前の自分に言ってやれよ」
「お主に言ったのだ。我はエミリアと実りある会話をしたぞ」
「実りある会話より、庭に花を咲かせたほうが喜ばれるぞ」
「妖精の白ユリか……なぜここでは咲かないのだ?」
「チルカに聞け」
「聞こうにもいないではないか。そういえば、ノーラもおらぬな。まだ一度も見ておらぬ」
グリザベルはのそりと体を起こすと、ノーラを探して辺りを見渡した。
「ノーラは親元に残ってる。チルカは森に帰省中だ」
「そうか……。とうとう見捨てられたか……」
「なに言ってる。家族と一緒にいるなんてごく自然なことだろ」
「今のお主の姿を鏡で見せてやりたい。家族に逃げられ、飲んだくれる男そのものだぞ」
リットは黙って立ち上がると、お尻についた砂を手で払い、グリザベルがいるテーブルまで歩いていった。
グリザベルはなにかされるかと思い手で顔を覆ったが、リットは対面の椅子に腰掛けただけだった。
「今日は妙に棘があるんじゃねぇか。まだ、この前の自己紹介の邪魔されたのを根に持ってるのか?」
「三日前のことなどもう忘れておる。それでも、我が怒ってるように見えるのならば、その三日、お主がなにもやっていないからではないか? それに、不機嫌なのはお主のほうだ。いつもならば、鼻血が出るほど卑劣なことを言うではないか」
「実際やることなんかねぇよ。城の図書館が開けば、妖精の白ユリを見つけた時みたいに本を読み漁る」
「そういえば、妖魔録はリゼーネにあると言っていたな。それは楽しみだ」
父親が持って帰ってくるプレゼントを心待ちにしている子供のように目をこすって、グリザベルは眠気を飛ばそうとした。
「全部手元にあるんじゃねぇのか?」
「正しくは、本になった三つを持っているだけだ。本になってはいない天魔録は持っておらぬ。浮遊大陸での志半ばでの死。天魔録は、お主が見付けてきたような一部がいくつかあるだけだ。『ウィッチーズ・マーケット』に出せば高値がつくぞ。もっとも、そんなもったいないことはさせぬがな」
「なんだ? 根暗のパーティーか」
「魔女による魔女のための魔女の市だ。『魔女の庭』とも呼ばれる。数年に一度、不定期に開かれていてな。こうやって、フクロウかネズミから招待状が届いてな」
グリザベルは丸められた羊皮紙を開いてリットに見せた。
しかし、羊皮紙は汚れた青黒い染みが一つあるだけで、なにも書かれていなかった。
「バカには見えねぇ服の話をしたら、この紙でケツを拭くぞ」
「勝手に推測して、勝手に怒るでない! 魔女による魔女のための魔女の市と言っておるだろう。読むには、魔女とは切って離せぬこれが必要だ」
グリザベルはもう一枚羊皮紙を取り出す。
今度は魔法陣が書かれており、それをリットに見せてから、魔法陣を下にして重ねた。
次いで青黒いインクの染みに人差し指の腹をつけると、ゆっくりと左から右へとなぞった。
すると、青黒い文字で「魔女の庭へご招待」と浮かび上がる。
「こりゃ驚いたな……」
リットのつぶやきに、グリザベルは満足気に口の端を吊り上げて、フハハと高笑いを響かせた。
「そうであろう。魔女の知恵と技術で作られた招待状をとくと見るがよい」
「オレ達以外にも、ちゃんと交遊があったんだな」
「交遊は……。それより、文字が浮かび上がったことに驚け! しっかり見ろ!」
グリザベルは段を下にずらして、また左から右へと指でなぞった。
リットはそれを読み上げた。
「猫月に蛙のこうもり傘の下で開催?」
「満月になる前の月に、蛙のこうもり傘という木の下で開催されるというわけだ。魔女薬の材料を売っていたり、情報交換の場だな。時に使い魔の賢さを競う大会もある。月が猫の瞳の形になるのはまだ先のことだが、行き詰まったら行ってみるのもよかろう」
「そうだな……ドリーに馬車でも出させて行ってみるか」
一度調べた城の図書館よりも、新たな場所のほうが新しいものが見つかる可能性が高い。問題は、リットには聞き慣れない固有名詞が多いことだ。
「で、蛙のこうもり傘ってのはどこにあんだ?」
「……教えぬ」
グリザベルはあからさまに不機嫌に眉をひそめると、下唇を突き出してリットから顔を背けた。しかし、指はこれみよがしに招待状を突いている。
リットはなにかヒントが隠されているのかと思い、もう一度招待状に目を通したが、それらしきものはなにも書かれていなかった。
「なんだよ。オレに見せたってことは、隠すようなことでもねぇんだろ」
「お主は不思議が好きなのであろう? 自分で考えて自分で行けばよいのだ」
「しゃーねぇな……」と頭をかくリットを、グリザベルは期待に満ちた目で見たが、リットから次に出た言葉は期待を裏切るものだった。
「魔宝石屋の婆さんにでも聞くか。チルカの鱗粉でもやれば口を割るだろ」
「……そんな者がここにおるのか?」
「妖精の白ユリの時に世話になったからな」
一眠りして忘れる前に用事を済ませてしまおうと立ち上がるリットの腕をグリザベルが掴んだ。
「なんだよ。一緒に行きてぇのか?」
「行きたいぞ! 我はまだ一度も行ったことがないのだ! 招待状は我が見せたのだぞぉ。それを、なぁにがドリーに馬車でも出させてだ。なぁにが魔宝石屋の婆さんだ。我に懇願して頼むくらいしてもよいではないかぁ……」
グリザベルはテーブルを両手で叩いて不服を申し立てる。
「それでもいいと思ったけどやめた。一度も行ったことのねぇ奴を連れて行っても役に立たねぇだろ。婆さんなら何度か行って、場所を知ってるだろうからな」
グリザベルは出かかった涙を鼻水と一緒に吸い上げると、「毎回地図とにらめっこして、場所を確認してたから大丈夫だもん……」とつぶやくように言った。
「何回も届いてるなら、一回くらい行っときゃよかっただろ」
「魔女ばかりいるのだぞ! もし行って、そこでも一人ぼっちだったなら、我は絶望の海に身を投げて二度と浮かんで来ぬわ! 誘えぇ……我を誘えぇ……誘うのだぁ……」
招待状が届いているのなら、それがなければ入れないのでグリザベルを誘うしかないのだが、馬車を出すのはドリーということもあり、リットはなかなか頷けずにいた。
ウィッチーズ・マーケットに行ったことがないグリザベルを乗せて、ドリーが馬車の手綱を握るとなると、道に迷う可能性が高くなる。到着する頃にウィッチーズ・マーケットが終わってしまったら、招待状を持っていても意味がない。
リットはいつもの「別にいいじゃないっスかァ」という根拠のない後押しを待っていたのだが、その声を出す小さい頭が隣にいないことを思い出した。
一度ため息を付き、「……道案内はできんのか?」とリットが聞くと、グリザベルは天から垂れ下がる蜘蛛の糸を見つけたかのような表情で顔を上げた。
「当然だ! もし友ができて誘われたら、どういうルートで行くかちゃんと妄想していたからな。五人分までは、ウキウキワクワクの旅のしおりまで作っておるぞ」
「本当に友達いねぇんだな……」
「いいから、もったいぶらず誘うのだ。早くせぬと、我の気が変わるかもしれぬぞ」
グリザベルはリットの様子を見ながら、ゆっくりと招待状を丸め出した。
「そんじゃ、その猫の目の月とやらに近付いたら声を掛けてくれ」
「そこまで言うならしょうがない。我に任せておけ。完璧なプランを立てておくからな。お主が飲み明かして遅れることまで入れておくわ。それで、エミリアに怒られる時間もな! ここにいる限り、お主も我のように朝起こされるのだ。もちろんそのことも踏まえるぞ」
高笑いを響かせ計画を練り始めるグリザベルに、「……なるほどな」と一言だけ残してリットは庭を後にした。
リットは一眠りしたあと、住宅街にある一軒の屋根裏に来ていた。
天井は低く、リットの背では腰をかがめないと歩けない。そこにベッドと椅子とテーブルをおくのが精一杯の狭さだった。
「絶対騙されてるぞ」
「そうですかね? 僕は天井に手が届くので掃除がしやすくていいんですけど」
ドリーがテーブルに置いていたランプを屋根の梁にぶら下げると、部屋全体が明るくなった。それほど狭い部屋だ。
「まぁ、一回の売上金で家を買えるほど稼げたら、妬みでいじめるけどな」
リットは一番天上の高い三角屋根の中心の真下を歩くと、低いベッドの上に腰掛けた。
「雨漏りが酷いのが悩みですけど、眺めはいいんですよ。お城も見えますし」
ドリーが壊れた壁の板を一枚剥がすと、その隙間から夕日から逃げるように長く影を伸ばしていく街が見えた。
「いちいち誰かの家を経由しなけりゃいけねぇのは、自分の家と呼べるのか?」
この屋根裏の下は二階建ての家で、ドリーとはまったく関係のない獣人の家族が暮らしている。
「右の壁の板も外れるので、そこからも出入りできますよ。人様の屋根の上を移動しないといけないですけど……」
「パッチを見つけたら、ついでに文句を言ってやるから安心しろ。この家も、リゼーネを出たらもう使わねぇんだろ」
「そうですね。助かります。僕のためにわざわざありがとうございます」
「ついでだ。ウィッチーズ・マーケットで金を使うかもしれねぇからな。取り返しておけば先立つものにはなる」
「一応僕。というより、バーロホールのお金なんですが……」
「金ってのはな、一度使ったらもう自分のものじゃねぇんだよ。そうじゃなけりゃ、世の中皆金持ちだ。道中の飯代くらい出してやるよ。ノーラほど食わねぇだろ」
リットが仰向けに寝転がると、接ぎ木で作られたベッドが軋んだ。
「道中……ですか?」
「ウィッチーズ・マーケットに行くって言っただろ」
「いえ、聞いてませんけど」
「オレがウィッチーズ・マーケットに行くと伝えるだろ。するとオマエは理由を聞く。オレが長い説明をして断られたら面倒だ。だから、そこの間をすっ飛ばして、オマエは行くことに決定した。どうせ行かないって言っても、はぐらかして煙に巻いて連れて行かれるんだ。結果は同じことだろ」
リットは一度ベッドから体を起こすと、持ってきた酒瓶と本を床に並べだした。全て床に置くと、晩ごはん代わりに買ってきたリゼーネ名産の芋を蒸したものをドリーに一つ投げ渡す。
受け取ったドリーは、言おうとしていた文句を上書きされてしまい「ありがとうございます」と頭を下げた。
「行くまでの時間は暇だろ。パッチを探しといてくれ」
「こんなに多種多様な種族がいる国で、僕一人で猫の獣人を捜すんですか?」
「一人で無理なら、チルカが帰ってきたら手伝ってもらえ。どうせ無理だと思うけどな」
「大丈夫です! 一人でもできます!」
「そう言うと思った。本当扱いやすいな……。こんな家を買わされるはずだ」
そう言ってリットは自分のランプに火をつけると、ドリーの荷物をまとめて一箇所に追いやった。
「僕のことより、さっきからなにをしてるんですか?」
狭い部屋がリット色に染められていくのを見たドリーは、心配そうにまとめられた自分の荷物を見た。
「パッチを見付けるには、一日中歩き回るだろ。オレがここで寝るから、代わりにエミリアの屋敷の部屋を使っていいぞ。そのほうが疲れも取れる」
「そんな、悪いですよ……」
「メイドには話を通してある。飯もついてるから心配すんな。悪いと思うなら、約束を違えた猫を見付けてくれ」
「わかりました! 絶対に見付けてみせます!」
ドリーは今から見付けに行くと言わんばかりに、意気込んで荷物を持って屋根裏を出ていった。
エミリアに起こされ早朝から怒られる心配がなくなったリットはさっそく酒瓶の蓋を開けて、赤から黒へと染まり始める街を見下ろした。




