第二十三話
エミリアの屋敷の一室。
雲一つない夜空に、月だけが一つ浮いているように、キュモロニンバスの天空城の壁石が光る。
髪を闇に溶かしたように、顔だけ浮き上がるように照らされたグリザベルが、テーブルの上にある石を眺めながらおもむろに口を開いた。
「生物という命を紡ぐ者が書き続ける、永劫に続く幾星霜の物語。これはその膨大なる文字に埋もれた歴史に挟むその栞とも言えよう。或いは、暗澹の羽に包まれた世界に鳴らす希望の笛。もしくは、悪鬼なるものに生まれた善の心。はたまた、太陽に溶かされ星に打たれた黄金の刃で切り取られた帳のようでもある」
「……違う。そんな長いもんじゃなくて、ただの闇に光る石だ」
リットは厚手のカーテンを開けて、まだ高い位置にある太陽の光を部屋の中に入れた。
「こら! いきなりなにをする! 眩しいではないか!」
グリザベルは突然のまばゆい光に手で目を覆う。
「なにって、お望みどおり光るナイフで目をえぐり取ってやろうと思ってな」
「そういう意味ではないことくらいわかるだろう! これではなにも見えぬ。よいのか、我の意見を聞きに来たんだろう。だのに機嫌を損ねてよいのかぁ……リットのあほう! あほう……」
グリザベルはテーブルの裏に膝をぶつけながら、駄々っ子のように足をバタバタさせた。
「そうだ。忘れてた」
「そうだ! 謝罪を忘れてるのだ!」
グリザベルはまだ眩む目で、声を頼りにリットを見た。
「最初から部屋が暗くて紹介し忘れてたけどよ。新顔のドリーだ」
リットが右手を出しながら言うと、グリザベルは一度鼻をすすると泣くのをピタリと止めた。
そして、ぼやけるリットの右手の影を頼りに顔を向けると、足を組んで座り直し「我は漆黒の魔女。グリザベル・ヨルム・サーカス。道なき道を歩むものに、道を与える者なり」と威厳の声色に変えて自己紹介をした。
するとリットの左手の方から、ドリーが「僕はこっちですけど……」と困り声で言った。
グリザベルは光に慣れてきた目をゆっくり右から左に移してドリーの姿を確認すると、腕の中に顔をすっぽり埋めてテーブルに突っ伏してしまった。
「もう嫌なのだぁ……。なぜいつも我の口上の邪魔をするのだぁ……」
「いちいち翻訳するのが面倒くさいから、早めに化けの皮を剥いでんだよ。毎度毎度、本から適当に引っ張ってきたような言葉を喋りやがって」
「とにかく! 我はやり直しを要求するぞ!」
グリザベルは少しだけ顔をあげて、腕の隙間からリットの様子を確認すると、肩をすくめて部屋を出ていくのが見えた。
廊下に出たドリーは「僕はどうすれば……」と困った顔でリットを見上げた。
「どっか好きに行ってていいぞ」
「でも、自己紹介がすんでいませんし」
「飯時になったら、しれっと元に戻ってる。だから、その頃には戻ってこい。ここにいると、ただ飯を食えるからな。金なんて持ってねぇだろ」
「それじゃあ、せっかくなんで、自分の家を見てきます」
ドリーは失礼しますと頭を下げると、短い足で歩いていった。
リットは壁により掛かると、頭の中で一から順に三つ数えた。そして、ちょうど三と思い浮かべた時、ドアの金具の擦れる音が聞こえた。
戻ってこないのを不審に思ったグリザベルが、外の様子を確認するためドアを開けたのだが、リットと目が合うと素早くドアを閉めた。
それを見てからリットは部屋の中へと戻った。中では、グリザベルが先程と同じ格好でテーブルに突っ伏していたが、荒い呼吸と一緒に背中が動いていた。
リットは椅子に座り、キュモロニンバスの天空城の壁石を手に取った。
「オレの考えじゃ、風の魔力が影響してると思うんだがよ。持ってきたグリム水晶の酒瓶に、同じように魔力を流したら同じものができるか?」
「そうだな……。って、普通に話を進めるなぁ! ん? 一緒にいた小さいのはどうした?」
「家に帰した。あとでまた来るから、もう一回失敗した自己紹介をやり直せよ」
「それは助かる。我の失敗を――我の失敗か?」
「失敗でも失態でも好きなほうでいいぞ」
「もうよい……お主と問答をしていると、いつまで経っても終わらん」グリザベルは目尻に残った涙を指で拭いてから「お主の推測。一つは合っているが、もう一つは間違っている」と、リットが持っている壁石を取り上げた。
「どっちが間違ってんだ?」
「間違ってるのはこれだ」
グリザベルは意味ありげな笑みを口の端に浮かべると壁石を高く投げた。それをキャッチしようとしたが、高く投げすぎた壁石は手のひらからこぼれて床に落ちてしまった。そして、気まずそうに一つ咳払いをしてから壁石を拾う。
「なんなら、やり直してもいいぞ」
「む……いや、うーむ……。わ、我は失敗しておらぬ。つまりだな。飛ぶというのは、いずれ落ちるということ。飛ぶと浮かぶ。使う魔力は違うということだ」
グリザベルは持ち直したぞと言わんばかりの得意気な笑みを浮かべた。そこをつつくといつまでも話が進まないと思ったリットは、触れずに話を先に進めることにした。
「つまり、浮かせるために風の魔力も使うけど、維持するために他の魔力も使われてるってことか。あれだろ、ディアナで言ってた、魔力を安定させるための循環と増幅だろ」
グリザベルは先に答えを言われて「つーまらん」と、不貞腐れるようにそっぽを向いたが、突然またリットの方を向いた。勝ち誇ったように口の両端を吊り上げた笑みを浮かべている。
「そこまで言ったのなら、気付くことがあるだろう。さぁ、言うてみよ」
「……わかんねぇから、悪口言われて泣かされる前に教えてほしいもんだ」
グリザベルは「ほんにしょうがないのう、お主は」と満面の笑みを浮かべた。「爪が甘いというか、我の助言なしでは答えと結びつかんか。我がいないとダメダメだな。友がいて良かったな」と言いながら、いそいそと窓際まで行くとカーテンを閉めた。
再び暗くなった部屋で、壁石が光を放つ。
「愚鈍なお主でも、これを見ればわかるだろう」
「わかるぞ。一目瞭然だ。石が光ってる」
「そうではないわ! この石はどういう石かわかるだろう」
グリザベルがカーテンの隙間を埋めるためにカーテンとカーテンの間に立つと、部屋はより暗くなり、壁石の光はより強くなる。
そして、カーテンを勢い良く開けると、壁石の光はより強い外の光に上書きされるように消えた。
「増える闇には、増える光で対抗すればよい。さすれば、闇から光を取り戻すことができよう。――この部屋のようにな」
「なるほど……。でもよ、焚き火を小便で消すみてぇな、そんな単純なことでいいのか?」
「逆だ。光を消してどうする。それに、太陽が昇り、夜が朝に変わる。これは単純なことではないのか? まぁ、断定するには早計だが、答えを出すための式にするにはよいだろう。それには、お主の合っている推測を形にすることだ。同じものを作ってみることから始めぬとな」
「でも、どうすんだ?」
同じ魔力を流すということは、同じ魔法陣を使わなければならない。しかし、大地を浮かび上がらせるというのは、時代の経過とともに消えていった魔法だ。リットにそう教えたのは、誰でもないグリザベルだった。
「グリム水晶が、魔女が大地を浮かび上がらせる過程でできた副産物ならば、失われた魔法の使い方を調べなければならぬ。たしかに時間は掛かるが、そのほうがお主にも都合がよいだろう」
「オレの都合を気にしてくれんなら、一晩酒を飲む時間がありゃいいぞ」
リットの楽観的な態度にグリザベルは呆れて黙り込み、しばし沈黙を保ったあと、深い息をついた。
「ドワーフの技術で加工できるにしてもだ。その時に閉じ込めるフェニックスの炎の代わりはどうする気だ? 魔法関係のことは我が引き受けるしかないにしても、光に関してはお主に任せるしかないぞ」
グリザベルに言われてから、リットは考えていた。
闇に呑まれた中で光るものは、キュモロニンバスの天空城の壁石と、東の国の大灯台の二つだ。どちらもフェニックスが関係しているが、東の国の大灯台の光はフェニックスの抜け羽根の火種から、龍の鱗の反射鏡へと変わっても機能したことから、闇に呑まれた中で光るものは一つではない。
つまり新しい別の光を使うという方法もあるということだ。
リットが酒の入ったコップを持ったままで思案を巡らせていると、急にコップを取り上げられた。思わずコップを目で追うように顔を上げると、糸を張ったように視線を真っ直ぐにぶつけているエミリアの顔が目に入った。
「聞いているのか?」
「グリザベルの長い自己紹介をか?」
「そんなものはとっくに終わっている」
深い思案の海から浮かび上がったリットの耳に入ってきたのは、誇張した自慢話をするグリザベルと、それにバカ正直に相槌を重ねるドリーの声だ。
二人は夕食の席で自己紹介のやり直しをしていたのだが、グリザベルの自己紹介が自分語りを含めて長くなったため、リットは特に聞く必要もないと思案の海に飛び込んだのだった。
声を掛けられ集中力が切れてしまったので、酒を飲み直そうと思ったリットは、奪われたコップに手を伸ばそうとしたが、リットが腕を上げた段階で、エミリアが手の届かないテーブルの端にコップを置いた。
「来るのなら、事前に手紙を書くのが礼儀だと言っていたんだ。私は」
「悪かったよ。次からそうする」
リットは素直に謝った。
悪いとは微塵にも思っていなかったが、さっさと謝っておけば長い説教をされずに済むと思ったからだ。
しかし思惑は外れ、聞く耳を持ったと判断したエミリアの言葉が止まることはなかった。
「馬車のこともだ。玄関の前に停めたままにしていただろう。馬に食べられ、芝生が荒らされて困るとメイドが言っていたぞ」
「雑草だろ。手間が省けていいじゃねぇか」
「芝というのは、植えてあるから芝というんだ。それに、なんだあの馬車は。どう乗ったらあぁボロボロになるんだ」
「なに言ってんだ。たしかに泥道を走って多少は汚れたけど、ほとんど新品同様だろ。ちゃんと確認して言ってんのか?」
ホニー・サイドの厩舎に預けた時に、他の客へ貸し出しを許可する代わりに修理を頼んだので、目立つ傷は全て綺麗に修理されている。修理がきかないほど破損した箇所は、新品と交換までしている。
「しっかりこの目で確認してきたぞ。新品同様どころか、新品になっているところまであった。多少汚れた程度なら部品は交換しないと思うが?」
リットは「あれだ……」と、少し悩んだあと「ちゃんと直したぞ。昔のオレなら、見て見ぬふりで押し通すところだ」と言って再びコップに手を伸ばしたが、エミリアはさらにコップを遠くに置き直した。
「たしかに、少しは成長したようだ。だが、しっかり言ってもらわないと困るんだ。幌は特注品なのでな。私の体質に合わせて、陽光が入りやすいようになっているんだ。もし、知らずに仕事で使うことがあっては支障をきたす」
「そうだな。それも、悪かった。だから、いいかげん酒くらい飲ませろ」
「私も意地悪をしているわけではない。酒が入る前に話しておきたいことがあるんだ」
「今のところわかってることは、全部夕食前に話しただろ。情報を出し惜しみにしてるわけじゃねぇぞ」
エミリアは遠くのコップを見るリットの顔を掴んで、自分の顔を見るように向かせると、話し始めた。
「光る石のことも、グリム水晶のことも聞いた上での話だ。まず、テスカガンドの現状を話しておきたい。ウィッチーズカーズの影響のことだ」
「テスカガンドの調査隊に加われって言ってたじゃねぇか。なら、ウィッチーズカーズはおさまってるってことだろ」
「調査隊が踏み入れたところまではな。奥がどうなっているかはまだわからない。杭を打ち、ロープで繋ぎ、それを手探りに進めるよう少しずつ距離を伸ばしているのだが、なにぶん黒一色の世界だ。どれだけ進んでいるのかもわからない」
「あの中でまともな仕事するってだけで難しいからな。よく杭なんて打てたもんだ」
リットは浮遊大陸で闇の柱にぶつかったことを思い出していた。
死人の冷たい手に首を絞められたかのような息苦しさ。目隠しをして海中に身を投げ出したかのような不安感。浮遊大陸では数分間の出来事だったからよかったものの、正気を保っていられそうにない。
「杭を打ったといっても、東の国の灯台の光が届く箇所までだ。その協力を請う為に、あの大灯台を直しに行ったんだ」
「オレの仕事は交渉の材料にされたってわけだ。言っとくけどな、灯台の光を伸ばせってんならムリだぞ。龍の鱗より反射するもんなんて知らねぇよ」
「たしかにそれも考えた。そして、代わりのものがないかも研究しているが、成果が乏しいらしくてな……。そう停滞している時に、ランプ屋のリットが戻ってきたというわけだ」
エミリアは力強い瞳でリットを真っ直ぐ見た。
しかし、リットが同じような瞳でエミリアを見返すことはなかった。
「言いたいことはわかった……。奥まで進むためのランプを作れってことだろ?」
「そうだ。それに、どうやらリットが一番闇に呑まれるという現象に関わっている」
「偶然にも、行く先々で闇とディアドレが関わってくるからな」
「そうなるように、自分で足を向けているからではないのか?」
「……わざわざ文頭に偶然ってつけてる意味がわかるか?」
「わかっているから、訂正したつもりなんだが」
リットは「まぁ、いい……」と自分に不都合な話題を打ち切った。「グリザベルと話してたことが可能なら、闇に呑まれた中でも光るランプを作ることも可能だ。だけどよ、この前提こそがまだ可能かわかんねぇんだよ」
「わかっている。こちらも、なんでも協力するつもりだ」
リットが考え、視線を彷徨わせていると、ドリーの顔が目に入った。
「そうだ……。明日パッチワークを呼び出してくれ」
「パッチワークをか? それはかまわないが……」エミリアはリットとパッチワークの組み合わせに怪しんで眉をひそめると、「理由を聞いてもいいか?」と確認した。
「三つの言葉から連想しろ。猫、ハサミ、丸坊主だ」
「会わせて大丈夫なんだろうな……」




